(その八)姉の心、弟知らずなのです
「鬼島先輩と仲いいんですね」
何故天下が出てくるのか。そんな至極当然の疑問よりも安堵が先立った。正直、天下が話題に上ってここまで安心したことはなかった。
「突然だね」
「俺、今更だけど思い出したんです。入学式の時に先生を見かけたこと。鬼島先輩と話していました。休み時間でも時々、二人でいますよね」
遙香のみならず直樹までもがそう思うということは、あながち香織の思い込みとは言えないのかもしれない。端から見たら天下と自分は親密な、少なくとも一般的な科を隔てた生徒と教師よりは親しいようだ。音楽科準備室に足繁く通う天下のせい、ではもちろんあるが、なんだかんだ言って許容してしまう涼自身にも責任の一端はあるように思えた。
「すれ違ったら挨拶ついでに雑談を交わす程度には親しい。でもそんなに仲がいいとは……」
言い訳めいているとは思いつつ、涼は言葉を濁した。
「鬼島君は元々、教師陣に好評の優等生だから」
「すっごい先輩だとは聞いてます。なんでも全国模試四十何位だとか」
三十三位だ。涼は敢えて指摘しなかった。
「でも渡辺先生は、あまりそういうのは気にしない人だと」
「成績で判断しない、と?」
直樹は臆面もなく頷いた。涼は苦笑した。
「買い被るねえ」
「音楽以外には興味がなさそうで」
「何か含みを感じるけど、誉め言葉として受け取っておこう」
涼はパンフレットを閉じた。
「鬼島先輩もそうです」
似ている、と恭一郎も言っていた。具体的にどこがどう似ているのかは聞けなかったが。
「俺、短い間でしたけど同じ部活入ってたからわかります。後輩が困ってたら助けてくれますけど、自分から積極的に近づくタイプじゃないですよ」
だから気になるんです、と直樹は呟いた。
「この前の校内演奏会にも先輩来てたし、普段は来てませんよね?」
おいおい似非優等生よ、猫はしっかり被っておくれ。天下の軽率な行動の言い訳を自分がすることに、涼は釈然としないものを覚えた。
「それは私がどうこうというよりも、弟に用があったんじゃないかな」
口にしてから失言に気づいた。が、既に遅い。
「統に?」
直樹は目を瞬かせた。
「兄弟ですよね? 興味のない演奏会にわざわざ足を運ばなくても」
「私よりも本人に訊くのが一番手っ取り早いと思うよ」
強引に会話を終了させて、涼は封筒をゴミ箱へ投入した。スケジュール帳の8月の欄に「オペラ定期公演」と記入。入学案内パンフレットと共に音楽科クラスへ宣伝するつもりだった。例年通りならば、何名かは行くだろう。
「気を悪くしたのなら謝ります」直樹は慌てて言った「ただ、俺の知ってる鬼島先輩とはイメージが違うというか、違和感があるというか」
しどろもどろに弁明する直樹を微笑ましく思うと同時に、ひねた考えが涼の中に浮かぶ。意図こそ違えども直樹は香織と同じことを言っていた。イメージが違う。違和感がある。つまり渡辺涼と親しくする鬼島天下は本来のあるべき姿ではない、という意味ではないのか。
「謝る必要はないよ」
とはいえ、素直に頭を下げられてしまえば、涼とて厳しくは言えなかった。
「でも、二つ上の先輩をどうしてそこまで意識しているのか、とは思う」
直樹は眉を寄せて考え込んだ。幼さの残る顔に浮かぶ深刻な表情。何もそんなに一生懸命考えなくても、と涼は思った。
「対抗心、かもしれません。なんか先輩って、スポーツ万能で成績もよくてカッコイイから、なんでも持っているような気がして」
そんなことはないよ。声には出さずに呟いた。天下には『母』がいない。それは涼とて同じことだ。実の親に育てられた直樹には一生わからないことだった。
「当人の苦労は当人にしかわからないからね」
とりあえず当たり障りのないことを言って取り繕う。壁の時計を見れば結構な時間が経過していた。
「あ、俺もそろそろ行かないと」直樹は鞄を背負い直した。「統の次に面談なんです」
三者面談。つまり、直樹の親が来るのだ。
「そうか」
感慨もなく涼は呟いた。自分でも驚くほどに心は動かなかった。




