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   (その七)教師の心、生徒知らずなのです



 もうそんな季節か。

 薄い水色の封筒を目にして、涼は夏の到来を感じた。裏に書かれた送り主は大学のオペラ研究会。学校宛に送られてきたそれは定期公演の案内だった。今年も『カルメン』をやるらしい。またか。好きだな『カルメン』。自分のことは棚に上げて涼は思った。

 三者面談のため、今週は部活も早目に終わっている。音楽科の同僚は各担当クラスの面談中。音楽科準備室にはコピー機を使う生徒が何人か出入りする以外、涼一人だった。

「マジかったるい。今更親と教師が相談したって意味ないと思うんですけど?」

 訂正、もう一人いた。来客用のイスを陣取る遙香は、盛大に悪態を吐いた。

「ね、先生もそう思うでしょ?」

「先生は音楽科準備室で時間を潰すのはご遠慮いただきたいと思います」

「ここ涼しいんだもん」

「快適さを求めるのなら図書室にでも行きなさい」

 言外に出ていけと言われても遙香は動じる様子もない。

「だって図書室はケータイ使用禁止なんだもん」

「校内はどこでも基本的にケータイ使用禁止です」

 遙香の手からケータイを取り上げ、即座に電源を切る。文句を言われるよりも先にケータイを返し、涼は仕事を再開した。

「今日、鬼島君も三者面談ですよ」

 どっちの鬼島だ、と涼は内心突っ込んだ。三年の遙香が言っているのだから同じクラスの天下(兄)の方だとわかっているが、口には出せなかった。

 思い出すのは去年の三者面談。天下とその父親にばったりと出くわしたのが、鬼島家に違和感を持ちはじめたきっかけだった。完璧な優等生を取り繕う天下に、涼は自分と同種の匂いを嗅ぎ取った――間違いはそこからだったのかもしれない。

「そろそろ行かなくちゃ」

 好き勝手お喋りして満足したのか、遙香はおもむろに立ち上がった。見計らったかのようなタイミングでドアがノックされる。

「どうぞ」

 失礼します、と断ってから入室したのは上原直樹だった。見かけない一年生の登場に遙香は小首を傾げ、涼はあやうくパンフレットを落としそうになった。

「先日お借りしたCDを返しに来たんですけど……」

 なんだ。涼は密かに胸を撫で下ろした。

 秋の文化祭で歌う曲決めの日は来週に迫っている。それまで声楽には興味を持っていなかった直樹に少しでも知識を増やしていただくために、主だった合唱曲を聴くよう貸したのが先週のことだった。

「気に入る曲はあった?」

 直樹は快活に肯定し、いくつか曲名を挙げた。『大地讃頌』のような有名どころから『ブナの森にて』といったマイナーなものまで。中には涼の好きな曲もあった。

「『カルメン』とかはないんですね」

「あれはオペラだ。全国高校合唱コンクールでは歌わない」

「でも文化祭ならオペラをやっても、別にいいんじゃないんですか?」

 僅かな類似点にさえ意味を見い出そうとする自分を律する意味も込めて、涼は素っ気なく言った。

「フランス語の歌を喜んで聴いてくれる一般客がたくさんいると思うなら、どうぞ」

「でも大学ではオペラやってるじゃないですか」パンフレットを目ざとく見つけた遙香が横やりを入れた「しかも『カルメン』」

「仮にも音大ですから」

「これ、みんなで行くんですか?」

「貴重な夏休みの一日をオペラに費やしたい方だけで、行くつもりです」

 遙香は何度か頷き、パンフレットを鞄にしまった。

「一部、貰っていきますね」

 涼の了承も待たずに退室。その足取りは何故か軽やかで、不穏なものを涼は感じ取った。まかり間違ってそのパンフレットが天下の手に渡った日には――想像するだに恐ろしい。

「いや、待ちなさい。一体それをどうす」

 無論、遙香は待ってはくれなかった。無情にも閉まる扉。慌てて追いかけるのも傍らにいる直樹の存在が涼を躊躇させた。

「カルメン?」

 何も知らない直樹は呑気にパンフレットを手に取る。涼は半ばなげやりに言った。

「良かったら持っていくといい」

「音楽科で行くんですか?」

「限定はしてない。参加は自由だ」涼は自分用に取っておいたパンフレットを広げた「まあ、ほとんどは音楽科生徒だけど」

 出演者の名前――自分の後輩にあたる面々をざっと眺めても覚えのあるものはなかった。年月の経過を感じずにはいられない。もともと面倒見のいい先輩ではなかったのもあるが。

(三年、か)

「普通科の学生はあんまりこういうのには興味持たないですよね。この前の校内演奏会も、」

 言いかけた直樹が口を噤んだ。打って変わって顔を曇らせて物思いにふける。

「どうかしたか?」

 訊ねてから、涼は自分が置かれた状況に気付いた。

 放課後人気のない音楽科準備室で男子生徒と二人っきり。しかも当人は気付いていないが弟と。今更ながら芽生えた危機感は急速に際限なく成長した。

 嫌な予感を裏付けるように直樹は顔を上げた。

「あの、先生は──」

 真剣味を帯びた眼差しに涼は不安を覚えた。まさか、もう。いやそんなはずは。


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