(その六)先輩の心、後輩知らずなのです
面談時刻まであと一時間。
天下はケータイを鞄に戻した。時間潰しを兼ねての受験勉強も、内容が頭に入らなければ意味がない。平常よりも少し早い放課後の図書館は、三者面談を待つ生徒の姿がちらほらと見受けられた。
(涼の時はどうしたんだろう)
校内演奏会以来、顔を見ていない。彼女が養護施設出身だと明かされた時から。
おそらくこうした三者面談一つにかけても、親のいない孤独感を味わっていたのだろう。悲壮感の欠片も見せずに語る涼を、天下は強いと思った。そして納得した。苦労して生きてきたからこそ、彼女はあんなにも慄然としているのだと。生活に困ったこともなく、将来に悩んだこともない高校生には到底得られない強さだった。
(大したことじゃねえ)
母親一人に忘れ去られたことぐらい。故意に天下を記憶から抹殺したわけでもないし、現に自分の母親は歩み寄ろうとしてくれている。家族に戻ろうとしている。生まれた時から一方的に断ち切られた涼の不幸や苦悩に比べれば、今から自分がやることなど子供騙しだ。
本人が聞いたら怒るかもしれないが、天下は涼に劣等感を覚えていた。苦労を知らないが故の劣等感――年齢差以上の、人間としての差を感じていた。
「鬼島先輩」
突如呼ばれ、思考が中断される。
「先輩も面談待ちですか?」
上原直樹は天下の隣の席に座った。「今日は部活もなくて、手持無沙汰で」と人懐っこく話しかける。
「統も今日面談だし……ま、親にしてみれば一日で終わりにしたいですよね」
直樹の勘違いを訂正する気にはならない。今日、統の面談に出席するのは母の美加子であり、自分は父の弘之――になるはずだった。少なくとも、昨日まではその予定だった。
「そういえば統から聞いたんですけど、先輩も音楽を履修してたとか」
話題、と言っても直樹が一方的に喋っているだけなのだが――は選択授業の音楽へと移行する。相も変わらず涼はきっちり授業をしているらしい。つい数ヶ月前まで当然のように受けていた音楽の授業が、今では懐かしかった。
「ところで、渡辺先生って、下の名前はリョウなんですよね?」
何気なさを装ってはいたが念押しするような物言いに天下は違和感を覚えた。そもそも質問の意図がわからない。ただの副顧問の名をどうして確認するのか。過剰反応と断じるには直樹の質問はあまりにも唐突だった。
天下は無言で直樹を見返した。
「いや、深い意味はないんですけど、男みたいな名前だなーって」
沈黙と視線に耐えきれなくなったのか、しどろもどろに弁明する直樹。疑わしさは増すばかりだった。
「他に、呼び方あんのか?」
ようやく得られた反応に直樹はあからさまに安堵の表情を浮かべる。意外に小心者らしい。
「たとえば……スズとか」
「本人に訊いた方が早いんじゃねえのか」
動揺を悟られないよう、素っ気なく答えた。深い意味がないのなら副顧問の名前に興味を示すな。不可解な質問は天下の不快感を煽った。
直樹の思惑が読めない。何故涼の名を確かめたがるのか。そして何故自分に訊くのか。ただの偶然とは思えなかった。合唱部の先輩にでも訊くのが自然だし確実だ。
胡乱な眼差しを注がれても、直樹はあっけらかんと言った。
「あ、鬼島先輩でも知らないんですか?」
知らないわけねえだろうが。怒気を誤魔化し、天下は席を立った。
「先輩?」
「科も違うし今は担当でもねえからな」
ありもしない急用を言い訳に天下は図書館を出た。後輩相手にこの余裕のなさ。自分の未熟さを痛感させられる。だから涼には相手にもされないのだろう。
直樹に悪意はない。それが余計に腹立たしかった。誰が本当の名を教えてやるものか。自分でさえ二年の秋頃にようやく、しかも偶然知ったというのに。
ああやって素直に、周囲の目を気にせず涼について訊ねられる直樹が、天下には妬ましかった。
名前どころか、住んでいる場所も知ってる。伊達巻が好きなことも、肉球クッションの置き場所も、プラシド=ドミンゴのDVDを集めていることも、寝ぼけて他人の頭を意味もなく撫でる変な癖があることも、長く関わっている内に天下自身が見つけた『涼』だった。ポッと出のガキが気安く触れていいものではなかった。それを労さずに手に入れようとする直樹が天下には許し難かった。まるで一つ一つ丁寧に拾い集めた石を無造作にわしづかみされたような不快感。
不意に、天下は涼に会いたくなった。言葉を交わせなくてもいい。ただ顔が見たかった。
この時間ならばおそらく音楽科準備室にいることも知っていた。しかし、天下の足は動かなかった。直樹や石川らが気になるのもあったし、何よりこの状態では会えない。つまらない意地とは知りつつも譲れない。察しのいい涼に、今日の面談のことを知らせるわけにはいかなかった。
(……遠くなっちまったな)
いつからこうなったのだろう。天下は涼との距離を感じていた。元々生徒と教師という隔たりがあったのだが、それでも度々会いにいき、他愛もないやり取りを楽しんでいた。苦しいと思うことなど一度もなかった。でも、今は――天下には不思議でならなかった。
ただ好きなだけだったのに、どうしてか言えないことが増えていく。