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   (その四)兄の心、妹知らずなのです


「気をつけてお帰り」

 穏やかだが有無を言わせない口調で恭一郎は香織をバスへと押し込んだ。

「ずいぶん強引だね」

 バスを見送ってから涼が抗議しようとも後の祭り。恭一郎は悪びれることなく次のバスの発車時刻を調べた。ついでに周囲に人気がないことも確認してから、咳払いを一つ。

「突然なのは謝るよ。自分でも変なのはわかってる」

 前置きをしてから本題に入るのかと思いきや、恭一郎は「あー」だの「えー」だの唸るばかりで一向に始まらない。

「何? プラシド=ドミンゴ来日が決定した?」

「それはないね」

 キッパリと否定し、恭一郎は意を決したように真っ直ぐに涼を見据えた。

「驚くなとは言わない。でも、なるべく早く冷静になってほしい」

「は?」

「僕だって動揺しているんだ。しかし二人で仲良く取り乱していては事態を解決に導くことは到底できないだろう。とにかく落ち着いて、冷静に対処することが大切なんだ」

「前置きが長い。オペラじゃないんだから早く本題に入って」

「端的に言えば、だ」

 恭一郎の眉間に皺が寄る。天下を彷彿とさせる仕草に場違いだとわかってはいたが涼は吹き出しそうになった。

「君の弟が、」

「よりにもよって私が勤めている高校の普通科に入学してたって?」

 恭一郎は口を半開きの状態で固まった。

「……知っていたのか」

「今日だよ。本人から聞いた。同姓同名も考えたけどそうでもないみたいだね。ちなみあんたは興信所?」

「いや、手間暇かけただけだよ。結構簡単だったな。運が良かったのもあると思うけど」

「狭い業界だからね」

 インターネットで名を検索すれば個人情報などあっさり手に入る時代だ。さらに玉木千夏はコンクールでの入賞経験がある。進学した大学はコンクールの入賞者経歴を読めば一目瞭然。大学が割れれば進路だって教授や講師伝でたやすくわかるだろう。

 家庭に入って姓が変わっても音楽家は音楽家だ。アマチュアオケの参加、音楽教室の先生、足跡は至る所に残る。音楽にしがみついている限り。

 調べようと思えばすぐにわかる場所に玉木千夏はいた。にもかかわらず、関心を示さなかったのは涼自身だ。会いたいとも恋しいとも思わなかった。ただ、遠くて。

「本人に会ったこともある。同じ舞台に立ったこともあったよ。僕はソリスト、彼女は伴奏オケ」

 へえ、と涼は曖昧な相槌を打った。いつ、どうやって、といった疑問が遅れて浮上する。恭一郎があまりにもあっさりと告げたせいもあって、いまだに実感がわかなかった。

「向こうも僕のことは知ってる。でもまさか『息子の高校の演奏会でエキストラをなさるそうですね』なんてメールが来るとは思わなかったよ」

 それはこっちも同じことだ。教え子が弟だの、一体誰が想像しえただろうか。

「向こうだってまさか捨てた娘が高校で音楽教師やってるとは夢にも思わないだろうさ」

 涼の脳裏に直樹の顔が浮かんだ。感情的ではあるが、自分の非を認めて改める素直さを持った少年──あれが、自分の弟なのだ。

「……で、どうするんだい」

「どうもしないよ。彼は生徒、私は教師。ただそれだけ」

 涼は目を眇めた。

「それとも私に名乗り出て感動の姉弟再会でもやれと? オペラと現実の区別はつけておいた方がいい」

「僕だって直樹君に名乗り出るのはどうかと思うよ。でも、いずれは千夏さんだって君に気づくんじゃないかな。直樹君は合唱部なんだろ?」

 千夏さん、直樹君、という呼び方が涼には意外だった。苗字で呼べば二人共「上原」なのだから、恭一郎に他意はない。それをわかっていながらも、下の名前で呼ばれる千夏や直樹が恭一郎にとって近しい存在であるような気がした。直樹だけならばまだしも、自分を捨てた女までもが。

「だから」

 涼は棘を意識しつつも険のある声音で言った。

「あちらのご家庭に波風が立たないよう、私に努力しろと?」

 怒気を感じ取ったのか恭一郎は口を噤んだ。その目に悲しげな色が浮かぶのを見て、涼は苦いものが込み上げてきた。

「心配しなくても、今更二十四年前のことを蒸し返す気はない」

「違う。僕が言いたいのはそういうことじゃない。君が恨みに任せて他人の家庭をめちゃくちゃにするような子じゃないってことは、僕が一番良く知っている。ましてや何も知らない弟を動揺させることを、君がするはずがない。僕が言いたいのは、いずれ知られるのなら先に意思表示をしておいたらどうだ、ってことだよ」

「意志表示?」

「君が二十四年前のことを言うつもりはないこと、上原家に関わるつもりもないことを、あらかじめ千夏さんに言っておくんだ」

 と、提案する恭一郎の顔はいつぞやの『彼女』の面影を色濃く残していた。あの時の『彼女』もまた、一方的な要求を押し付けてきた連中に決然と立ち向かった。

「君の存在を知ったら、千夏さんは動揺する。そして必ず君と接触しようするはずだ。彼女の都合で、彼女なりの方法で」

「今度はいくら積んでくるだろうね。せめて三百万以上であることを願うよ」

「涼」

「大丈夫だよ」

 仮に今、千夏が口止め料として三百万円を差し出してきたとしても、涼は突き返せる自信があった。六年前とは違う。もう自分を守ってくれる『彼女』はいないが、涼はもはや無力な子供でもない。尊厳を金で売るような真似は二度とすまい。『彼女』とそう約束した。

「帰ろう、神崎」

 バスのヘッドライトが視界に入る。涼は苦笑した。仕事終わりに深刻な話などするものではない。疲れが溜まる一方だし、何よりも。

「お腹すいたよ」


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