(その二)腰を抜かす暇もありません
涼がようやく正常な思考を取り戻したのは『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の三幕も終盤――歌合戦が始まった時だった。恋路を邪魔するベックメッサーは笑い物にされ、見事勝利を収めたヴァルターは愛するエヴァと結ばれる。そして主役のハンス=ザックスは二人を祝福してめでたしめでたし。
残念ながらプラシド=ドミンゴは出演していないが、主役のテオ=アダムがそれを補って余りある。腹に響くバリトンがいい。何故死んだテオ=アダム――ってそうじゃなくて。
「先生って大変ですね。こんな遅くまでオペラ鑑賞ですか」
言葉の割には嫌味な響きの伴う声に、涼は反射的に振り向いた。少し日に焼けた健康的な肌。制服のスカートから覗く、すらりと伸びた足。勝気な瞳。
「……いし、川……さん」
石川香織は眉を顰めた。何をわかりきったことを、と言わんばかりの表情。途端、全てが現実味を帯びて涼の前に飛び込んできた。ここはドイツでも歌合戦の場でもなく、日本の公立高校だ。
「どうかしたんですか?」
涼は自分の額に手を当てて、二、三回深く呼吸した。
「心配には及ばない。少し、考え事をしてただけ」
「そうですか」
「石川さんこそ、こんな時間まで練習を?」
「部活の後に図書室で勉強してました。一応、受験生ですから」
断りもなく香織は来客用のイスに腰掛けた。涼のデスクのすぐ傍、天下がよく座るイスだった。
「鬼島君もよく図書室で勉強してますね。ご存知かと思いますけど」
「初耳だよ」
涼はテレビの電源を切った。十中八九そうだと思っていたが、やはり天下絡みのようだ。
「先週も言ったと思うけど、君は喧嘩を売る相手を間違えている。鬼島君が好きならば、彼に戦いを挑めばいい。私は邪魔をするつもりはない」
「協力もしてくださいませんけどね」
「学科が違う上に、唯一の接点だった音楽の授業は三年にはない。この状況で私ができる協力といえば縁結びのお守りを買ってくるぐらいだ」
香織は軽蔑を隠そうともせずに睨みつけてきた。
「邪魔はしないけど応援もしない。好きだと言わないけど嫌いだとも言わない。そういう優柔不断な態度が一番卑怯です」
いや、ちゃんと毎回断っているのですが。反論の言葉は胸中に止めておいた。何を言っても恋する乙女には通用するまい。遙香だって佐久間と恋愛をしていた頃は、涼が宥めても諭しても聞く耳を持ってくれなかった。恋はどこまでも盲目だった。
なおも物言いたげな香織を音楽科準備室から追い出し、しっかりと施錠。そのまま昇降口へ二人で仲良く向かい、これまた一緒に校門まで歩く羽目になる。聞けば何の因果か香織も電車通学。駅までの道のりが酷く遠いもののように感じた。
「ところで、鬼島君がその……私に気があるなんて発想は一体どこから」
「今度はとぼけるおつもりですか? 見ていればわかります」
と、香織は邪推するが、実のところそれは涼の純然とした疑問だった。
二人っきりの時はハッキリと想いを告げたり迫ったりする直情的な一面もあるが、普段の天下は場の空気に敏感な方だった。察しもよく、周囲の目もはばかる。だからこそ絵に描いたような優等生としてまかり通っているのだ。
そんな似非優等生がどんな隙を見せたのかは、興味があった。
「近くを通る度に鑑賞室の方を見てます」
「防音とはいえ多少音も漏れているからね。気になるのかもしれない」
「物想いにふけったり、ため息吐いたり」
「高校生の中で一番悩む時期。それが受験生」
「音符が右下に描かれた青いメモを眺めている時もあります。同じものを、さっき先生の机の上で見つけました」
正確には音符ではなくト音記号なのだが、涼は指摘しなかった。いつメモを天下に渡したのか――すぐに思い起こされた。天下の誕生日直前まで競り合ったマイカップ。返す度にメモを残したせいで文通紛いなやりとりをする羽目になった。
あのメモをまだ持っていたのか。
「確かに、青いメモなら私の机の上にある。それだけじゃない。音楽科の生徒も教師もみんな同じメモを持ってるのを私は知ってる。あれ、先月の全国高校生音楽祭の時に配られたものだから」
「そんなメモをどうして普通科の鬼島君が持っているんですか」
「さあ。本人はなんて?」
香織は答えなかった。口を引き結ぶその様は、悔しがっているように見えなくもない。
「まさかとは思うけど」
涼は自分の頬がひきつるのを感じた。
「石川さん、あなたまさか確証もないのに自分の主観だけで鬼島君の想い人は私だと判断したのか?」