四限目(その一)霹靂とは雷のことです
「大学の先輩?」
直樹は椅子を並べる手を止めて複唱した。
合唱部の練習も終わった放課後のことだった。鑑賞室に残るのは後片付けに勤しむ一年生と、練習予定を組む三役他パートリーダー達、そして責任者である涼。手を動かしながらの雑談中に、昨日の校内演奏会が話題に上った。すなわち、ゲストである神崎恭一郎が。
「大学の先輩です」
楽譜を揃えつつ、涼は肯定した。
「ただの?」
「普通の先輩後輩よりは親しい、とは思う。幼馴染でもあるわけだし、音楽の趣味も合う」
「てっきり彼氏かと思いましたよ」
あっけらかんと会話に乱入したのは声楽部部長だった。ミーティングは早くも終わり、解散したらしい。
「それはない。だいたいあいつ、彼女いるから」
部長は残念そうに肩を竦めた。
「なんだあ。お似合いだと思ったのに」
お似合い。初めて言われる言葉だった。物珍しい気持ちも相まって涼は部長の顔をまじまじと眺めた。嘘を吐いている様子はない
「知らないんですか。音楽科じゃあ噂になってますよ」
「昨日だけで?」
「二人で仲良く食事したら十分です。女子高生の恋愛レーダーをなめちゃいけません。感度すっごくいいんですから」
「その様子だと、違うものにも反応しているようだけどね」
「まあ、多少そういう話題に飢えているせいもあります。受験生ですから、一応」
それにしても意外だった。大学生の時も涼と恭一郎の仲を男女の恋愛と勘違いする者は大勢いたが、大抵は『不釣合い』と断じていた。自分は昔からこんな性格だし、対する恭一郎は表向き温厚な性格だし、顔も悪くない。何よりも彼は将来有望な大学生だった。合唱部引退前の定期公演会でプリモ・ウォーモに選ばれるくらい。
「でも本当にいいなって思ったんですよ? 同じ声楽なら話も合うし、一緒に歌うことだってできるじゃないですか。音楽科なら憧れますよ、そういうの」
「二人で愛のハーモニーでも奏でろと?」
涼の皮肉にしかし、部長は「そうそう」と嬉しそうに同意した。
「あー、でも俺もなんとなくわかりますよ、それ」
直樹までもが話に乗ってくる。
「専門的にやっている人じゃないとわからない、っていう雰囲気がありますよね。特にクラシックとか。俺もお袋が昔ヴァイオリンやってて、今でもクラシック以外は音楽じゃないみたいな感じなんですよ。だからつい反発して」
その気持ちは涼も多少理解できた。母親の心情も直樹の反発も。ちまたのアイドルグループはなにゆえ十分以上に頭数が揃っているのに始終全員で同じ旋律を歌い続けているのだろうか、と今でも時々思う。かといって自分の専門であるクラシックが音楽ではないと否定されれば反発もするだろう。それで試験の答案用紙を白紙で提出するかはまた別の問題だが。
「音大生時代はどっかのコンクールで入賞したこともあるって本人は自慢してましたけど、玉木千夏なんてヴァイオリニスト、聞いたことないでしょう?」
『百年に一度の逸材』と呼ばれる者が三年に一人の頻度で現れるような業界だ。生き残るにはそれこそ百年に一度の才能と強運がなければ。
現に玉木千夏というヴァイオリニストなんて、名は、聞いた、こと、も――
たまき ちなつ
どこかで、聞いたことがあるような。首を捻った直後、涼は愕然とした。玉木千夏。いつの間にか落ちていたボールペンを拾う自分の手には感覚がなく、まるで遠い出来事のように思えた。身体の芯が冷える。そのくせ心臓の鼓動はやけに大きく聞こえた。
今となっては、すぐに気付かなかったことが不思議でならなかった。忘れるはずがない。七年前、三百万と一緒に押し付けられた事実。二人は高校の同級生で、故に十七で子供を生むなどという無責任なことをしでかした。その挙句、丸投げした女の名。
「うーん、聞いたことはないねえ」
「でしょ? どーせ地元のちっこいコンクールですよ」
部長と直樹によるのどかな会話は頭を素通りする。涼は楽譜を掴むと挨拶もそこそこに、おぼつかない足取りでなんとか準備室へと逃げ込んだ。
幸か不幸か、音楽科準備室には誰もいなかった。主任は出張。他の教師達も今日はそれぞれの用で既に学校から出ている――いや、そんなことはどうでもいい。
玉木千夏と、直樹は言った。
自分の母だと。
結婚して性が変わったのだろう。だから今までも気づかなかった。考えさえ、しなかった。そもそも誰が想像し得ただろう。まさか二十四年前に自分を捨てた女が、一方的に涼との縁を断ち切った母親が、こんなに近くにいたなんて。その息子が同じ高校に生徒として入ってくるなんて。玉木千夏の息子が、上原直樹だったなんて。
ということは、直樹は――掠れた声が漏れる。
「……おとうと?」
『彼女』や恭一郎のような「家族みたいなもの」ではなく、血の繋がった肉親。
涼の手から楽譜が滑り落ちた。
身体が、熱いのに、寒い。鉛のように重くて腕一つ動かせないのに浮遊感を覚える。足元がおぼつかないのに踏みしめた床は明確に感じられる。矛盾する感覚は思考のせいか、それすら判断がつかなかった。
わからない。どうして玉木千夏が。なんで直樹が。今になって。一体何故、何故。疑問ばかりが際限なく浮かび収拾がつかない。
下校時間が過ぎ、日が落ちてもなお、涼はただ、立ち尽くした。
都合により、次回の更新は7月1日以降を予定しております。