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   (その十三)否定しなければ呑まれてしまいます。



「あーあ、さっきの札束から二、三枚くらい諭吉抜いとけばよかった」

 冗談とも本気ともつかない口調で、彼女はぼやいた。

 再び駅へ向かう途中で立ち寄った公園。帰路につく子供を遠目にブランコに座った。いい歳した大人と泣きはらした目をした高校生が並んで遊具に座る様は、周囲からすれば奇妙に映っただろう。涼は始終、足元を見ていた。

 縦長に伸びる二つの影。隣の影は鞄から煙草を取り出しくわえた。カチッという火打ちの音がやけに耳に響く。

「涼、あんた大学行きな。金ならあたしが出すから」

 しばし煙草をくゆらせていた彼女が、唐突に言った。

「ただし、貸すだけだからね。あんたが社会人になったらきっちり返済すること。一文だって負けないから」

 思い出したようにネクタイを緩める。本業は営業とはいえ、女性にしては珍しいネクタイにスーツは彼女曰く「戦闘服」だそうだ。言い得て妙な表現だった。

「返事は?」

 涼は答えることができなかった。完全武装の相手に対しこちらは完全無防備だ。戦う気力すらなかった。先ほどからずっとそうだ。彼女が啖呵を切るのを当の涼は茫然と見ていただけ。

「涼、私はね、世の中には受け取っていいものと受け取っちゃいけないものがあると思ってる。私からの援助は前者。さっき突っ返した金は後者」

 彼女は煙と一緒にため息をついた。

「あんたもわかってんでしょ? あのお金は決して謝罪のつもりで渡したんじゃない。連中は十八年前のことを謝る気なんかこれっぽっちもない。それどころか悪いとさえ思っていないかもしれない。あれは、言い訳のために用意した金だよ。自分を正当化して身を守るためだけに用意したんだ」

 ややつり気味の瞳が意地悪く眇められる。彼女は鼻を鳴らした。

「もし、あのまま代表のところにまで押し掛けて問い質したら、きっとぺらぺら言い訳を並べ立てるだろうね。あの時息子は若かった。何も知らなかった。そんなつもりじゃなかった。自分もこの十八年間苦しんできた。秘密を抱えることになった自分達こそ被害者だと」

 短くなった煙草を苛立ちに任せて地面に捨て――ようとして、懐から携帯灰皿を取り出して入れる。こなれた仕草だった。

「その際限のない言い訳の塊があの金だ。たとえあんたが欲しがっても、受け取らせるわけにはいかない。何度でも連中に突っ返す。絶対に、決して、断じて、あたしは受け入れない。あいつらの言い分なんか死んでも認めない。それは――」

 彼女は涼に人差し指を突きつけた。

「それは、あんたを貶めることに等しい」

 淡々とした口調には、先ほど会社で見せた啖呵とは打って変わって冷静さがあった。涼は唐突に悟った。彼女が金を渡して事なきを得ようとした連中に対して抱いたのは、生理的な嫌悪ではなかった。感情的な激怒とも違う。揺るぎない意思が生み出す憎悪だった。

 間違ってもこんな連中と同種の人間にはなるまいという意志だ。

「……正直、あたしは音楽に関してはさっぱりだし、音大行かせるくらいだったら専門学校にでも行かせたいんだけど」

 そういえば恭一郎が音大に進学する際も彼女は反対していた。費用がかかる割に音大の就職率は一般大学のそれに比べて低い。将来のことを考えているのかと恭一郎にしつこく問い、諭そうともした。

 育ちがそうさせるのだろう。世間の厳しさを彼女は十分知っている。夢だけで食べていけるほどこの世の中は甘くない。それでも夢を追うのなら相応以上のものを賭けなくてはならない。何も持っていないところからスタートする者なら尚更だ。

 だが最終的には、彼女は苦笑した。

「あんたに投資するよ。少なくとも三百万ごときで買えるような人間じゃないってことは、あたしが知ってる」

 彼女の困ったような微笑みは、以前恭一郎に向けたものと全く同じだった。何故だろう。涼の目頭が再び熱を持ちはじめた。甥ならばまだしも、どうして血の繋がりもない他人をそこまで信じられるのだろう。

 感傷的な雰囲気を振り払うように彼女は突然明るく訊ねた。

「ねえ涼、大学卒業して就職して全部返し終わったら、あたしのお願いきいてくれる?」

「今でもいいよ」

「いや、今はちょっと……」彼女にしては珍しく口ごもる「たぶん、あんたが稼げる頃になればハッキリすることだと思うから、ね?」

 何が「ね?」なのかはよくわからなかったが、とりあえず涼は頷いた。

「そういえば恭一郎、今日はバイト休みだっけ?」

「夕方には練習も終わるって言ってた」

 そっか、と彼女は小さく呟いた。勢いよくブランコから立ち上がり、涼の方を向く。

「じゃあ三人でどっか行こう。何食べたい?」

 何でも良かった。

 嘘なんかじゃなく、本当に涼は何でも良かったのだ。彼女と、一緒なら。


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