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   (その十二)慣れというのは恐ろしいものです


 音楽科主任に挨拶して早々に恭一郎は解放された。対する涼といえば、録音のチェックも終われば本日の業務は終了。一緒に帰ろうという恭一郎の誘いを断る理由はない。

「お腹すいたねえ」

 校門を出るなり恭一郎が呟く。涼も同感だった。歌に限らず演奏は体力を消耗する。駅近辺の牛丼チェーン店に入り、それぞれ注文してから一息ついた。

 涼は上着を脱いでネクタイを緩めた。同じく上着を椅子に掛けた恭一郎が首元を指す。

「ネクタイ、まだ捨ててないの?」

「おかげ様で毎朝着替えには苦労しないよ」

 数えたことはないが、涼のクローゼットには、毎日替えても一ヵ月は優に過ごせる程の大量のネクタイが収められている。その大半が彼女から貰ったものだ。

 ネクタイは形見だった。彼女の、ではない。彼女と自分が一緒にいた形見だった。

 有言実行を信条とする彼女だったが、最後に一つだけ果たせなかったものがあった。手紙に書いた土曜日に彼女は帰って来なかった。金曜の夕方、出張先から戻る途中に駅で倒れて、病院に運ばれてすぐに亡くなったらしい。元々、身体はあまり丈夫な方ではなかったから、不思議なことではなかった。

 夏だったので葬儀は翌日。彼女が勤めていた会社でしめやかに行われ、遺品や身辺整理は訃報を受けて急遽帰国した恭一郎に一任された。何の問題もなく、つつがなく彼女は弔われた。涼を置き去りにして。

 恭一郎はお冷を口にしつつ、しみじみと呟いた。

「もう三年かぁ……」

 三年だ。涼の預かり知らない時に彼女が勝手に死んでから、三年の月日が経った。それでもなお彼女の死は涼の中に暗い陰を落としている。

「あの日も牛丼食べたよね」

「鳥丼」涼は目の前に置かれた丼に箸を伸ばして訂正した「私は牛丼なんて食べてない」

 弁当は用意されていなかった。渡辺涼は頭数に入っていなかったのだから、当然のことだった。一人あぶれた涼を連れ出して牛丼屋で昼飯を食べたのは、他ならない喪主であるはずの恭一郎だった。

「相変わらず君は細かいね。変なところで気を遣うし」

「変なところ?」

 恭一郎は行儀悪くも箸の先を涼の丼に向けた。

「牛丼屋に入って牛丼以外の物を頼むところ。せいぜい百円くらいしか金額は変わらないってのに」

「牛肉はあんまり好きじゃない」

「あんまり食べなかったから慣れてないと言うべきじゃないかな」

 恭一郎はこれ見よがしに大きく口を開けて牛肉を口に入れた。

 涼には不味そうには見えなかったが、積極的に食べようとも思わなかった。自分にとってどうでもいいことならば安い方を選ぶ。それが普通だ。『他人』に奢られる場合ならば尚更。

 あの時も安い鳥丼を機械的に選んで口に入れただけだ。味なんか覚えていない――そもそも味がわからなかった。彼女が死んだという事実だけが頭の中をぐるぐる巡って、収拾がつかなかった。

「そこまで困窮していた覚えはない。裕福でもなかったけどね」

悲しかったのは彼女を喪ったこと。絶望したのは、失うようなものなど自分には最初からなかったことだ。

 彼女と涼は他人だった。一緒に住んでいようと、親同然に慕っていたとしても、どれだけ愛していようとも、二人は、他人だった。

 吹聴するようなことでもないので、彼女は同居人のことを誰にも言っていなかった。結果、涼が訃報を知ったのは彼女が火葬場に運ばれた時だった。知らなかった。彼女が金曜に死んだことも。その財布に大学の定期公演のチケットが入っていたことも、恭一郎から連絡が入るまで涼は全く知らなかったのだ。

「つまりは習慣だろう?」恭一郎は紙ナプキンで口元をぬぐった「貧乏根性が染みついているんだよ。カシの木と一緒さ。寂しいことにも慣れてしまった」

 三年前を思い起こす仕草に涼は薄く笑った。

 音楽家は親の死に目には逢えないと言うが、葬式にすら出席できないとは。笑ってしまうような話だった。

「ついてるよ」

 涼が自身の右頬を指すと、恭一郎は左頬を拭った。逆だ。涼はナプキンを恭一郎の右頬に当てて、拭いてやった。

「あんたは相変わらず抜けてるね」

「涼みたいに四六時中気を張っていないからね。肩凝らない? リラックスこそが舞台で成功する鍵だよ」

「貴重なアドバイスどーも」

 涼はなげやりに言った。変わる要素がなければそうそう人間はかわらない。彼女が死んだ時でさえそうだったのだ。

『他人』が死んでも涼の生活が変わるわけではなかった。バイトに大学の講義、論文の提出とに忙殺され、それでもなんとか教員免許を取って、県立高校の音楽教師として就職が決まって、周囲にも気づかれない程、今まで通りに過ごしたのだ。

 まるで二人で暮らした日々など最初からなかったかのような平常振りだった。

 倒れそうな程苦しくても口は課題曲を高らかに歌い、泣きそうなくらい悲しくても涙は流せなかった。

 喪失感があるはずがない。彼女は『他人』だ。『他人』の死を悲しむのはおかしい。最初から、何もなかったのだから。


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