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   (その八)黙っていても察します

 本日のエキストラ「神崎恭一郎」

 音大の声楽科出身。元はバリトンだったが、大学生時代にテノールへ転向。その判断は正しかったようだ。ここ数年は国内外問わずいくつかのコンクールで入賞している。何人か高名と思しき師事した音楽家の名が挙げられているが、三大テノールの名前を知っている程度の天下では、その凄さは全くわからなかった。とりあえず、涼と同じ大学出身の先輩だと結論付けた。だからわざわざ迎えに行ったのだろう。それで納得――は、できなかった。残念ながら。

 天下は略歴の書かれたパンフレットを閉じた。問題なのは神崎恭一郎ではなく、涼だ。

(何か、変だ)

 具体的には挙げられないが、涼の態度に煮え切らないものを覚えた。逡巡、と言うべきか。適切な距離感を計っている。生徒と教師のあるべき距離を保とうとしているような気がした。それも、さり気なく。

 最初は石川香織が余計なことを言ったせいかと思ったが、一概にそれだけとも言えなかった。涼ならば、生徒の恋路に協力するかはともかくとして、アプローチに対しては明確に断わりの意思表示をする。誤解を招くことがないようにはっきりと。

 うやむやにするというのは、一番涼らしからぬ行動だった。

 一曲終わり、観客から拍手。その際に天下は会場である音楽室へ入室した。部活が終わってからでは最後のエキストラの演目しか聴けないことはわかっていた。だが、涼が歌うと耳にするなりあっさりと校内演奏会に行ってしまう自分が恨めしかった。

 音楽室は珍しく満席だった。統と直樹が前方の席に座っているのを視界の端で確認しつつ、天下は立ち見よろしく壁に背中を預けた。

 舞台上ではピアノを伴奏に本日のエキストラが美声を披露。間近で見る神崎恭一郎は一言でいえば優男だった。美形ではあるが、一体あの細身のどこから大音声が出るのか不思議になるような男だった。

 だが、そこはやはり涼の先輩なだけはあって、選曲センスは良かった。オペラでは『トゥーランドット』より『誰も寝てはならぬ』を歌い、その後は『ふるさと』等の民謡から数曲を選んで歌い上げた。これならば声楽に明るくない一般人でも楽しめるだろう。観客の拍手も盛大なものだった。

「ではアンコールとして合唱曲を」

 プログラムには記載されない曲。恭一郎は『さびしいカシの木』だと紹介した。ご丁寧に作詞者と作曲者まで。作詞者の名前に聞き覚えがあって天下は眉を寄せた。

 舞台上に涼と理恵、そして音楽科主任が現れたのは、作詞者が某絵本の作者であることを天下が思い出した時とほぼ同時だった。なるほど四部合唱ならば涼とて断れなかったろう。その涼の立ち位置は恭一郎の隣――アルトだった。それが天下には意外だった。ソプラノではなかったのか。

先陣を切って歌い出したのは当然ながら、エキストラの恭一郎だった。

 のびのびと通るテノールの独唱。折り重なるように加わった理恵のソプラノが旋律を引き継ぎ、澄んだ歌声を響かせる。支えるのは重厚なバス。そして肝心要の涼は、完全に脇役だった。ソプラノを支え、奔放なテノールとの間に立ち調和を成していた。ともすれば一つのハーモニーの中に溶けて消え入りそうな、引き立て役だった。

 カシの木の歌。童謡に分類されるのだろうか、作詞がやなせたかしであるだけに歌詞自体は単純で明快な言葉ばかりだった。

 独りにならない居場所。一緒にいてくれるもの。寂しいカシの木は雲や風に求め、探し続ける。しかし何一つとして果たされない。どれだけ悩み苦しみ切実に求めても、結局は山の上でたったひとり。

哀愁漂うソプラノの旋律を他パートの声が彩る。穏やかで、丁寧に織り込むような和声なだけに胸に染み入るものがあった。


 ――さびしいことになれてしまった


 結びの歌詞に天下は目を眇めた。

 慣れる。一緒に暮らしてほしいと願った風がどこかへ消えてしまったことも。母親に忘れ去られて、最初からいなかったことにされたことも、ただの「さびしさ」で片付けられることなのだろうか。慣れてしまえば、どうということではないのか。月日の経過で解決するのか。とてもそうは思えなかった。

 舞台上の涼が、何故か天下には遠く感じた。


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