(その八)でないと、手遅れになります。
「賛成はできない」
涼は即答した。自分の中でその答えは変わらないと確信している。
「恋愛は個人の自由だ。でも公私はわけるべきだと思う。その点、教師と生徒は最悪だ。試験の際、成績を付ける際、普段の授業の時でさえ、可能な限り公平でなければならないのが教師だ。教師は一人の生徒を特別扱いすることは許されないし、特別扱いしていると思われてもいけない。それができないのなら辞めるしかない」
変われるはずがなかった。教師になって一年経過しようと。
「犯罪じゃあるまいし、絶対に駄目ではないんだ。でも、ものすごく面倒なんだよ。本人も周囲も。その面倒さを全部背負って最後まで通し切れるのなら構わない。できない奴がほとんどなのに、絶対に駄目なことではないから火遊びに走る馬鹿は後を絶たないんだ」
「そんな軽い気持ちで好きになる奴ばかりじゃないと思いますけど」
「人の気持ちの重さや軽さなんて私にはわからない。どれだけ本人たちが真剣でも周囲は理解できないし、理解してやる筋合もない。個人的なことだからな」
そう、今でも涼は理解できなかった。佐久間も遙香も。そして、父も母も。
「でも私は思うよ。本当に好きなら、たかだか数年どうして待ってやれないんだってね」
そんなことが言えるのは、きっとまともに恋愛をしていないからだろう。矢沢遙香の言っていたことは正解だった。彼女のふりなんて馬鹿げた真似ができるのは、恋愛に対して冷めた感情を持っているからだ。
「卒業してしまえば後ろ指さされることはない。心おきなく会うことだってできる。今でなくてはならない必要なんかないはずだ。どうしてわざわざ自分と、相手にリスクを負わせようとするのかが理解できない」
「好きだからこそ、待ち切れないことだってあります」
「二、三年待ったら消えてしまうような想いなんて、そもそも恋と呼ぶに値しない」
天下は顔を強張らせて足を組んだ。
「要するに、生徒は対象外ですか」
「対象にするには相応以上の覚悟が必要だと言っている」
佐久間と遙香にその覚悟があるとは思えないが。
「……あんたは、立派な先生だよ」
褒め言葉にしては、天下は憮然としていた。その後に「でも」が続くのだろう。後先を考え、体面を重んじ、危ない橋は絶対に渡らない。立派な先生。
でも、人間味には欠けている。
「そろそろ時間だな」
キリのいいところで涼は作業を中断した。
「もう? まだ四時だぜ」
「用事があるんだよ」
「……佐久間先生とデートですか」
揶揄にしては苦々しさを帯びた、責めるような口調。涼はネクタイを締め直した。
「試験問題だったらサンカクだな。半分は合ってるけど、それじゃあマルはやれない」
「半分?」
「デートは正解。でも行くのは佐久間先生じゃなくて百瀬先生だ。チケットが手に入ってね。これから管弦楽部の三役を引き連れてコンサートへ行くんだ」
「先生も行くんですか?」
「最初は、そのつもりだった」
涼は苦笑した。
「残念ながらチケットは四枚しかない。醜い争いが勃発する前に潔く引いたよ。どうしても聴きたい演目でもなかったし、合唱部の指導も代行しなきゃならない」
後半はやせ我慢だ。聴きたかった。サンサーンスの『交響曲第三番』。しかし、三役の一人を除け者にするわけにもいかず、先輩である百瀬を差し置いて引率するわけにもいかなかった。泣く泣く留守番役を引き受けたのだ。
「ほれ、閉めるぞ」
「先生って嘘吐くの下手ですね」
何やら考え込んでいた天下は顔を上げた。仕方ない、と言わんばかりに少し困ったように微笑み、涼の胸元を指差した。
「似合ってますよ、そのネクタイ」
当然だ。今朝まで演奏会に行けると思っていたんだ。多少、服に気合が入っていたとて誰が責められよう。
言い訳がましい反論は喉の奥に消えた。涼を見つめる天下の眼差しが、かつてないほど優しく穏やかで、それでいて熱っぽかったからだ。微かに潤んだ黒目。例えるなら、埋み火が熾っているような。
涼は自分の手がじっとりと汗ばむのを感じた。何故だ。天下の顔が正視できない。何故だ。おまけに心拍数が跳ね上がっているような気がする。何故だ。一体なんだというのだ。
わからないことだらけだが、一つだけ確かなことがある。
彼の眼は間違っても、生徒が教師を見るものではない。
これで二章は終了です。恋愛要素の要素の要素がようやく入ってきたかと思います。現在、当小説における恋愛偏差値は小学生レベルとなっております。十五禁はどこへ行ったのでしょう。
読んでくださった方、お気に入り登録してくださった方、本当にありがとうございます。執筆の糧です。
三章では教師と生徒の(お馬鹿な)攻防が繰り広げられる予定です。なんとか恋愛偏差値を中学生レベルにまで上げたい所存です。