三限目(その一)断固たる態度で臨みましょう
その後の行動は早かった。彼女は立ち上がったかと思うと洗面所へ直行。洗顔後に一通りのメイクを施してスーツに袖を通し、いつもの営業スタイルになって戻ってきた。
「どっちがいいと思う?」
両手に持ったネクタイを上げて涼に訊ねる。黒のストライプの入った赤いのか、青を基調とした模様入りか。
「早く」
急かされるまま、涼は自分から見て左を指差した。正直、赤でも青でもどちらでもよかった。ネクタイ一つに左右されるほど彼女は凡庸ではない。
「よし」
彼女は美しかった。立ちはだかるもの全てに挑むような、不敵そのものの面構えさえしていなければ、あるいは今頃家庭に入っていたかもしれない。
メモに「旅に出ます。探さないでください」と書き、その裏に「夜には帰ります」と付け足してテーブルに置く。宛名のないメモ書きは一人息子への伝言だ。ネクタイをきっちりと結び、パンプスを履いて準備完了。
「……今から仕事?」
「メモ見なかったの?」
完全武装をした彼女は呆れ顔で言った。
「旅に出るのよ。あんたも早く。金、忘れないでね」
涼は慌てて学校指定鞄に三百万円を押し込んで、擦り切れた靴を履いた。スーツを着こなした大人に制服姿の女子高生。散財の旅行にしては奇妙な格好だった。
「どこ行くの?」
最寄り駅から電車に乗って、三駅程先で降りて改札を抜けても、彼女は行き先を教えてくれなかった。
駅周辺の繁華街の一角にオフィスを構える会社。ビルの入り口に記された社名を見てようやく、涼は彼女の目的地を察した。
「い、いいよ。無駄だって」
スーツの袖を掴むが、彼女は足を止めなかった。むしろ涼を引きずるようにしてビルに突入。自動ドア前に控える守衛に軽く会釈して、受付へと進んだ。
「代表をお願いできますか?」
「ねえ、やめよう」
制止する涼は片手であしらい、彼女は受付嬢に再度取次を頼んだ。
「あの、失礼ですが、アポイントは……」
「ありません」
受付嬢は顔を曇らせた。その目にはアポイントもなく代表を出せと言う得体の知れない輩に対する警戒さえ浮かぶ。
「……もういいよ」
惨めだった。訝しむような目で見られる自分が。たった三百万円のお金で身を引くと思われたことが。たかが三百万。そのたかが三百万円の前に萎縮してしまう自分が、たまらなく惨めだった。
彼女は煙草を取り出しくわえた。慣れた仕草でライターを取り出す。
「私どもはただ、これをお返しに上がっただけです」
断りもなく涼の鞄から封筒を取り出し、中に詰められた三百万円をカウンターに置く。
「代表はどうやら渡す相手を間違えていらっしゃるようですね。お返しします」
受付嬢は目の前に積まれた大金と彼女の顔を交互に見る。
「これは一体、」
「あ、もう必要ないものですか。では致し方ありません」
彼女はおもむろにライターの火を札束に押し付けた。音もなく煙がたなびき、やがて一万円札自体が燃え上がった。突然の暴挙に一瞬、涼と同じく周囲は呆気に取られる。
「な、何を……っ!」
ようやく事態を飲み込み慌てふためく受付嬢に向かって、彼女は艶然と微笑んだ。
「代表にお伝え願えますか?」
言うが否や、右腕の一振りが燃えかけの札束を払った。纏められていたはずの札束は床に散乱。張本人はカウンターに片膝を乗せて、至って平然と、先ほどの笑みを維持したままで一言告げた。
「くたばれ、カスが」
ドスの利いた、底冷えするような声だった。表情と声が全く伴っていない。
青ざめる周囲を余所に彼女は来たときと同様に礼儀正しく「お忙しい折に大変失礼致しました」と挨拶して颯爽と去った。その際、立ち竦む涼の手を引くのを忘れない。
「帰ろう」
されるがままついていくので精一杯だった当時は気づかなかったが、彼女はきっと微笑んでいたと思う。今まで一番優しい声だったから想像に難くない。見なくたってわかる。ずっと一緒だったから。
だから余計に、あの時涙で滲んだ自分の視界が恨めしかった。
もう一生、その笑顔を見ることができないのを知っている、今は。