(試合終了)善悪をわきまえましょう。
あの日のことは、きっと一生忘れない。
高校三年の夏だった。周囲は進学に向けて受験勉強をしている中で、就職を考える生徒は僅かだ。その少数派の内に入る涼は、学校に寄せられる数少ない求人情報を吟味する日々を送っていた。
「何これ」
病院に通うために有給休暇を取っていた彼女と遭遇したのは偶然か運命か。いずれにせよ、涼のただならぬ気配を察した彼女は自宅に招き入れて問い質した。
「渡された」
「誰に?」
細く整った指が白い封筒を指差す。一万円札が三百枚。生まれて初めて見る大金だった。
「知らない人」
「見ず知らずの他人がいきなりあんたの手に三百万握らせたわけ?」彼女は鼻で笑った「拾ったって言った方がよっぽど説得力あるね」
「でも向こうは、私のことを知ってた」
抑揚のない一言に、彼女は笑みを消した。
「……ご両親?」
「私の、父方の祖父は大地主なんだって。会社も経営していて、父さんもその会社に勤めてて、結構偉い地位で、いわゆる役職なんだって。海外に転勤してたんだけど、帰国が決定したらしくて」
あとは言うまでもない。ドラマでもお決まりのパターンだ。息子が凱旋帰国する前に周囲を整えておく。見苦しい過去を清算し、息子の身なりを整えておく。十数年前の『不祥事』も含めて、全て。
困るんですよね、とその秘書だか弁護士だかは言った。十八年間バレなかったといってもこれから先もそうあるとは限らない。もちろん、過去は消すことはできないし、完全に覆い隠すこともできない。でも、限りなくバレる可能性を低くすることはできる。
例えば――遠くの、互いに全く関係のない場所で生きるとか。
「それで、三百万ねえ……」
彼女は懐からタバコを取り出して火を点けた。目を細めてこちらを見やる。涼は俯いた。顔を上げることができなかった。
他人を馬鹿にした話だ。十八年近くも放置しておいて、いきなり現れたかと思えば今度は「消えてくれ」だ。金まで渡して恥ずかしくないのか。
罵倒の言葉はいくらでも吐けたが、涼がその金を受け取ったのも事実だった。三百万円。どこまでも相手は狡猾だった。三百万あれば大学へ行ける。都会の音大に通える。棚から牡丹餅の如く降ってきたお金を受け止めるだけ。ただ、それだけで。
何がいけない、と涼は胸中で反論した。最初から選択肢のなかった人生で唯一手にした機会だった。音大に行きたい。他の、何不自由なく生きる人たちと同じものを手にするためにどうして、自分はここまで苦労しなければならない。少しくらい幸運にすがってもいいじゃないか。
「いけない?」挑発的に涼は言い放った「向こうは私にいなくなってほしい。私は大学に行きたい。利害は一致しているよ」
「涼」
「当人同士が納得しているのにどうして責められなきゃいけないの?」
「そうだね、あんたの言う通りだ。あんたの親でも家族でもないあたしが口を挟めることじゃない」
あっさりと彼女は肯定した。勢いを削がれた涼に睨みつけられても、彼女は臆することなく真正面から受け止めた。
「でもね涼、あたしは最初から一言もあんたを責めてないよ」