(編成確認)でも大概は取り越し苦労です
(どうかしてる)
上原直樹が、ではなく自分が。たかが部員と副顧問ではないか。何故いちいち気にしなければならない。
(身がもたねえよ)
だいたい、音楽科の生徒はどうなる。彼らの方が涼と関わる時間は長い。音楽という共通事項があるだけ他学科の生徒と教師よりも結びつきは強いと言える。話だって合うはずだ。
今さら、普通科の一年のガキが現れたところで何が変わる、とは思うものの、足は特別棟に向かうのだから救いようがなかった。
中央廊下を渡った頃になってふと、ここにわざわざ足を運ぶ言い訳を考えていなかったことに気づく。音楽の授業でもないのに普通科が音楽科準備室に訪れる理由──新入生じゃあるまいし迷ったとは言えない。どこまで余裕を失っているのだろうか。
特に上手い言い訳を思いつく前に目的の場所へ到着した。音楽科準備室。タイミング良く開かれた扉から現れたのは涼だった。楽譜と思しき薄い製本をぱらぱらとめくって、天下には気づいていない。
「合唱曲か?」
ページをめくる手が止まった。警戒に満ちた視線とかち合う。何もそんなあからさまに苦い顔をしなくても、と思った。これでは普通の生徒以下だ。
「何の用だ」
「用がなかったら来ちゃなんねえのかよ」
口にしてから天下は内心舌打ちした。これでは拗ねているみたいではないか。何事も無い風を装って楽譜を覗き込む。
「部活で使うのか?」
「違うよ。これは……」
言いかけて涼は口を噤んだ。次いで楽譜を自分の背に隠す。
「何だよ」
「生徒が見る必要はないものです。気にせず教室に帰りなさい」
「見られちゃマズいもんなんか?」
たかが楽譜が。しかし頑として涼は見せようとしなかった。「見せる必要がない」のではなく「見られては困る」ものであるのは明白だ。本人に全く自覚がないようだが、涼は誤魔化す時、急に丁寧語になる。
身を固くしている涼はともすれば怯えているようにも見えて、天下はなんだか楽しくなった。獲物を追いつめる高揚感に似ていて非なるものだ。
この前、自宅にまで押し掛けた時もそうだった。教師という体裁。普段は完璧に取り繕っているものを、少しずつ剥がしていく。琴音にたしなめられて拗ねる顔も、フォークを置く際に利き腕を気にするマメさだとか。僅かな綻びから零れ落ちる涼らしさの一つ一つが愛しかった。
隠そうとするなよ、頼むから。天下は一歩踏み込んだ。
「なあ、先生」
取り繕おうとするのもいけない。非常にいただけない。そんなことをされたら、暴きたくなる。
「また行ってもいい?」
「どこに?」
「先生の家」
一瞬浮かんだ動揺はすぐさま覆い隠される。小さくため息を吐き、冷やかな一言。
「冗談も大概に、」
「生憎本気だ。今度は一人で行きてえな」
返答の代わりに手にしていた楽譜で叩かれた。隠さなくていいのかよ、という指摘は心の中に止めておく。曲名まではわからなかったが、混声四部と記載してあるのが見えた。
「授業が始まる。行きなさい」
きっぱりと涼が言ったところで、音楽科準備室から理恵が顔を出した。
「渡辺先生、お電話ですよ――あら鬼島君、お久しぶり」
天下は軽く会釈した。引き際は心得ているつもりだ。「授業があるので失礼します」と断り、お望み通り自分の教室に戻ることにした。
「何の話をしていたんですか?」
「いえ、別に、大したことでは」
「へーえ? その割には込み入った様子でしたけどね」
「ただ擦れ違い際に挨拶と雑談をしていただけです」
理恵の追及と、それを誤魔化している涼の会話を背後で聞きながら天下はその場を離れた。笑い出しそうになるのを堪える。
肝心のことは聞き出せないままだったが、天下の不安は払拭されていた。あの鉄仮面がそう簡単に破れるものか。大丈夫。教師面から不意に零れ落ちる女性の顔なんて、きっと誰も気づかない。自分以外は。




