(その七)それでも話すことをやめてはいけません
「何故そういう発想が生まれる。逆だ。矢沢が別の男に乗り換えればいい。幸いなことにここは学校だ。同年代の男子がよりどりみどりだ。私から見ても優良物件なのもいる」
「例えば誰ですか?」
思わぬ質問に、涼は楽譜を整理する手を止めた。
「誰?」
「先生が、優良物件だと思う生徒」
涼は目を見張った。そう訊ねる天下の顔が五限目に見たようなものだったからだ。傲慢さは鳴りを潜め、不安を帯びている。
「例えば――」
目の前にいるこいつとか。顔はいいし、誰もが認める優等生だ。涼からしてみれば大人を小馬鹿にした生意気生徒だが、同年代から見れば頼りがいのある男の子だ。激しい二面性も魅力として映るだろう。
「例えば?」
「まあ、君も悪くないと思う」
「……俺?」
呆けたように天下は自身を指差した。みるみる内に頬が紅潮する。
「本当ですか?」
「君に世辞を言ってどうする」
「先生から見て、俺が? 佐久間よりも?」
「仮にも教師を呼び捨てにするな。生徒に手を出す教師に比べれば誰でも少しはマシだ」
言いつつ、涼は己の失態を呪った。天下をたきつけて、もし遙香が彼を振ったりなどしたら、非常に後味が悪くなる。まさかこんなに喜ぶとは思わなかったのだ。
(青春だな)
若さゆえの特権だ。両肩を掴まれながら涼はそう思った。
「でも早まるなよ。世の中タイミングが肝心だ。いきなりの告白はマズい。だから、まずは器楽室にいる時間を全て二年三組に行く時間に変えるのが得策だ。少しずつ、その、親しくしていけばいいんじゃないのか? そんなに焦ることはない」
精一杯のアドバイス。が、天下は肩を落とした。さっきまでの高揚はどこへやら、眉を寄せて不快を露わにする。
「あんた、なんか勘違いしてないか?」
「……矢沢が好きなんじゃないのか」
「なんでそうなるんだよ」
天下は心底呆れた顔をした。
「あいつは佐久間とデキてんだろうが。どこがいいのか、全然理解できねえけどな。佐久間も矢沢も」
酷い言いようだ。照れ隠しとは思えないくらい。
「つーかあいつら隠す気あんのか? 今日も五限の終わりに二人で会ってるしよ。外から丸見えだし、節操のねえ奴らだ」
思いの他天下の口は悪かった。これが普通科が誇る優等生か。涼は疲労感を覚え、しかしどこかで安心している自分に気づいた。
「じゃあ」
どうしてあんな顔をした。言いかけて涼は口をつぐんだ。
「こんな所で油を売っていないで、真実の恋でも愛でも探しに行け」
「先生も一緒にどうですか?」
「楽譜整理があるんで遠慮します」
作業を再開。天下が訪れるようになってから、明らかにペースが落ちている。遅れを取り戻すように速度を上げた。
「センセー」
天下はコントラバス用の椅子に腰かける。既にそこは彼の指定席と化していた。
「センセーは、どうしていつもネクタイ締めているんですか?」
「就職祝いに大量にもらったからです」
「スカートは穿かないんですか?」
「正直に言おう。伝線する度にストッキングを買うより楽だと思ったんだ。歩きやすいし」
さすがにこういう作業中はネクタイが邪魔になる。涼は首元を緩めた。
「先生は」
打って変わってやや遠慮がちな声。
「教師と生徒の恋愛には反対なんですか?」