(その十二)腹を括りましょう。
質問を投げかけておいて、涼は面倒になった。上手くまとめようとした数秒前の自分が馬鹿馬鹿しい。夢見がちな小僧と音楽科の生徒を一緒にするのが間違っている。
額から離した手で自身の左腕を掴む。座り心地の悪い椅子に座り直す。涼が一連の動作を終えてもボーカリスト志望学生は何も言わなかった。不愉快げに眉根を寄せるだけ。
「君は要望を言った。勉強はしない。専門学校へ行きたい。貧乏でもいいからボーカリストになりたい。それは全て君の希望だ。しかし君の大切な将来を決めるには、もっと具体的に話をしなければならないと思う」
「具体的?」
「希望を言うだけなら小学生にだってできる。具体的な案を提示して初めて交渉になる。養育費と生活費、専門学校の学費――後から返すにしても親には大金を出させるわけだから、それ相応の努力をする義務がある。君はそのボーカリストになるためにどれだけのことをし、どれだけのものを差し出すつもりなんだ?」
返答は最初から期待していなかったので、涼はたたみかけた。
「私はロックバンドについては良く知らないが、声楽科では毎日発声から始めて練習を重ねている。試験期間中だろうと夏休みだろうと年末年始だろうと練習は続ける。場所がなければ朝の五時から学校にやってきて音楽室で練習する生徒だっている。君は勉強する時間なんてないと言うが、部活動をしたりテレビを観たり友人と遊ぶ時間はあるはずだ。どうしてそれらの時間を減らさないで真っ先に勉強する時間をなくそうとするんだ? 今の君は学生としてやるべきことは放り投げて、やりたいことをやりたいだけやっているだけだ。遊び呆けているのと変わりない」
「バンドを馬鹿にすんなよ!」
いきり立つ直樹。涼の言葉は彼のプライドをいたく傷つけたようだ。涼は腕を組んだ。
「オーディションを受けたことは?」
直樹は不貞腐れたように口をつぐんだ。呆れた奴だ。一体何を根拠に「今を逃したらボーカルになれなくなる」だの主張していたのか。
しきりに肩を叩く美幸の手を振り払い、涼は質問を重ねた。
「何回受けたんだ?」
「……まだ、受けてねえよ」
「どうして受けない? 少し都心へ足を運べばオーディションをしている所なんていくらでもある」
「あ、あのー、渡辺せん、」
「まだ、だって言ってるだろ? まずちゃんと実力をつけてから」
「でも君がデビューするためにはまず、オーディションに合格するかレコード会社に売り込むしかないんじゃないのか? ボーカリストの登竜門に一度も行かないで、とりあえず専門学校に行こうなんて軽率過ぎやしないか。視察もしないで未知の世界に飛び込むのは、ただの身投げだ」
そしてまた直樹はだんまりを決め込んだ。涼は呆れて、呆れて――心底馬鹿馬鹿しくなった。こんなことに割いている時間が惜しくなる。決めた。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を観よう。長大だろうと知ったことか。今のこのくだらないにも程がある時間よりも遥かにマシだ。
「君の一生を賭けるものなのに、どうして吟味しようとしないんだ。それでは短慮と言われても当然。親の無理解を責めることはできない。君自身が自分の将来について真面目に考えようとしていないのだから」
涼は席を立った。
「部活の練習がありますので失礼します。参考にならなくてすみません」
捨て台詞よろしく美幸に告げて退室。中央廊下を通って特別棟――音楽科の領域に入ってしまえば疲れがどっと押し寄せてきた。
琴音の言う通りだ。やはり自分は教師に向いていない。
今回でようやく二章は終了です。だらだら更新&展開にお付き合いくださって本当にありがとうございます。
次は長らく放置されている番外編の更新……を考えておりますが、諸事情により次回更新は最短でも7月9日以降を予定しております。




