(その十一)生半可な覚悟ではいけないということです
オペラを語るならせめて『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を観てからにしろ。歌手の若者だって、靴を作りながら詩を作る。皮をなめしながら母音と子音を覚え、糸を紡ぎながら韻の踏み方を理解する。ニュルンベルグの職人皆がそうやって仕事しながらマイスタージンガー〈職匠歌手〉を虎視眈々と狙ってるんだその忍耐力と覚悟がお前にあるかこんちくしょう。
あーオペラ観たい。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』なんて贅沢は言わない。あれ長いし。短いオペラでいい。プラシド=ドミンゴならばもっといい。
「――辺先生、渡辺リョウ先生」
「はい?」
気の抜けた返答をしてしまった涼を、美幸は軽く睨んだ。何のためにあんたを呼んだと思っているんだ。さっさと諭せ。言葉にすればさしずめそんな感じだろう。
(阿呆らしい)
涼は向かいに座る上原直樹を改めて見た。やや長い前髪はコンサートの際に映えるからか。ボーカル(志望)なだけはあって美男子の部類には入るかもしれない。天下と比べればとっつきやすそうな生徒だ。だが全て、この場の第一印象でしかない。
「渡辺先生はどう思いますか?」
と訊ねられても涼には答えようがなかった。顔を見ただけで歌唱力がわかるのなら音楽科の入学試験は半分の時間で終わる。ましてや、この男子生徒の将来性などわかるはずもなかった。涼も美幸も母親も、本人でさえも。
ただ一つだけ、今までのやりとりでわかったことがある。
(仮にこの場で歌えと言ったら)
賭けてもいい、この生徒は絶対に歌わないと涼には確信ができた。両親の理解、今後の学生生活、専門学校、全て環境の話ばかり。裏を返せば、環境が整っていなければ歌えないということだ。靴を作りながら詩を作る並みの根性はあるまい。
「少々分野は違いますが、同じ歌を専門とする方として、どうですかね?」
無理だよ諦めて勉学に励め。どう言葉を取り繕っても結論はそこへ行きつく。ニュルンベルクが誇る詩人ハンス=ザックスだって彼を育てることはできまい。
「正直に申し上げて、彼の才能有無に関しては判断がつきません。聴いたことすらありませんし、仮に聴かせていただけたとしても私では難しいでしょう。オペラならばともかく彼が歌うのはポップスですよね?」
「ポップスじゃなくてロックです」
本人が訂正。違いがよくわからなかったが、涼は「ロック」と言い直した。既に気分はベックメッサーだ。歌試合にてライバルのヴァルターを乏す不公正な判定人。だがベックメッサーとは違い、涼には彼に恨みも何もなかった。ロックでもバンドでも好きにやればいい。
「そもそも今話すべき事は才能有無ではないかと思います」
ザックスじゃあるまいし、歌手の才能なんてどうせわからないのだから。
「つまるところ上原君はボーカリストになりたい。そのためには専門的に学びたい。専門学校に行きたい。勉強をするくらいなら歌っていたい、というわけだ」
「まあ……そうです」
言い方が不服のようだが、直樹は僅かに頷いた。
「なるほど」
涼は額に片手を当てた。もっと良い言葉はないかと考える。適当な。はぐらかすだけでもいい、この場を上手く収めてとっとと逃げ出してしまえるような、耳触りのいい言葉。そんなものはいくら探してもなかった。
「――それで?」




