(その六)ややこしくなることもあります
鬼島天下の行動の意味を涼なりに見出したのは、五限の授業が終わりに迫った頃だった。
ないと思われていたフォーレのレクイエム。その楽譜が新たに発掘されたのだ。しかも大量に。調べてみれば四年前の音楽祭で歌ったらしい。人数を考えずに大量コピーされ、結局使わなかったのだろう。鉛筆の入っていないものばかりだった。
パート別に分けて急ぎ鑑賞室へ。たしか合唱の授業は六限だったはず。涼が器楽室の扉を背中で押そうとしたら、通りすがりの佐久間が開けてくれた。
「これはどうも」
「先生っ!」
甲高い声が乱入。なんというタイミング。体操着姿の遙香が外の渡り廊下からこちらを睨みつけていた。女子は今テニスをしているらしい。ラケットを持ったまま、ついでに靴も履いたまま廊下に上がり込む。
「どうしたんだ、矢沢」
気圧され気味の佐久間。お前それでも教師か。
「どうしたもこうしたも、二人で何やっているんですか!」
「何って、僕はただ……」
助けを求めるようにこちらを見る。涼は溜息と共に言葉を吐き出した。
「付き合っているふり」
「誰に見せるためですか。二人っきりになる必要がどこにあるんです?」
「まずは靴を脱げ。土足で校舎に上がるな」
さすがに楽譜を抱えているのも辛くなった。一旦どこかに置こうと視線を走らせていたら、急に重みが消えた。佐久間が気を利かせて持ったのだ。しかし、この状況では賢い行動とは言えなかった。遙香の目がさらに険しくなった。
「先生、どういうことです?」
「矢沢さん、外に戻って靴を脱ぎなさい」
「説明してください」
「四度目はないと思え。私は、土足で上がるなと言っている」
唇を噛みしめて遙香は渡り廊下に戻った。ラケットを置いて靴を脱いでいる。その隙に涼は佐久間の手から楽譜を奪還した。
「後はご自分でどうぞ」
「え、ちょ、待ってください。リョウ先生っ」
佐久間の悲鳴を背に角を曲がる。その際にふと渡り廊下を振り向けば、そこには再び校舎に上がり込む遙香の姿と――それを数歩離れた場所から見つめる天下の姿があった。普通科の三クラスは体育も合同だ。通りかかったとてなんら不思議ではない。
しかし天下は何故、途方に暮れたような、複雑な顔しているのだろうか。涼は首をかしげ、唐突に思い至った。
(あ……なるほど)
今時珍しくもないことだ。三角関係なんて。
天下が遙香と佐久間の関係に気づいたのも、元は彼女を見ていたからなのだろう。思えば彼は涼にやたらと佐久間のことを訊いていた。気になって当然だ。恋敵なのだから。
そう考えれば、情報収集のためにわざわざ器楽室に通う熱心さにも可愛げがある。恋愛に協力してやる義理はないが、邪険に扱うこともない。むしろ遙香が同学年の男子生徒に興味を持てば、問題は一気に解決するのではないだろうか。
ありとあらゆる打算の結果、放課後再び器楽室に訪れた天下を、涼はおざなりにだが歓迎した。
「よう、毎日毎日御苦労さん」
天下は軽く目を見開いた。
「あ、ああ……あんたも、お疲れ様」
よほど意外だったのか口調が素に戻っている。鞄を窓の傍に置いて、手元を覗き込んできた。
「何かあったんですか?」
涼の手には楽譜と目録しかないことを確認して天下は訊ねてきた。さすがにあからさま過ぎたか。涼はひときわ分厚い交響曲の袋を取り出した。
「解決策を見出した」
オーケストラの楽譜は量が半端ではない。一つ一つパートを確認して記入していく。
「そもそも、教師と生徒の恋愛が諸悪の根源だ。この不毛な状態を乗り切るためには、そこを改善するのが一番であると私は思う」
天下の眉間に皺が寄る。やけに深刻な顔で考え込んだかと思えば、重々しく口を開いた。
「まさか、先生が佐久間先生と本当に交際するんですか?」