(その五)思い描けることなら叶えられます
「あんまり褒められた態度じゃないわね」
と、琴音が柔らかく苦言を口にしたのは、天下が帰った後だった。解説書に目をやったまま涼は「何が」と気のない返事をした。
「突如襲撃してきた連中に茶を出してスパゲッティをご馳走してやったこと?」
「違うわよ」
「調子に乗った生徒が帰り際に『また来ます』なんて言うのを容認しろってことか。残念ながら立場上、それはできない」
「違うって」
「君のおかげで私の居住所がバレた。もしかしたら、もう一度引っ越しをしなければならないかもしれないね。人目を避けて、こそこそと」
「鬼島君はそんな馬鹿なことはしないわよ」
薄く浮かべた笑みを琴音はすぐさま引っ込めた。涼が解説書をちゃぶ台に叩きつけたからだ。無造作に、しかし明確な意思を込めて。
「教師に向かって好きだと言ったり交際迫ったり、休日に家まで押し掛けてくるのは馬鹿げてないのか」
打って変わって神妙な顔になる琴音を、涼は睥睨した。苛立っているのは何も天下にだけではない。琴音が、子どもの暴走を止める立場にあるはずの大人が、一緒になって調子に乗っていることが許せなかった。
「……ちょっとはしゃいだのは認めるわ。ごめん」
琴音は素直に頭を下げた――が「でも」と言葉をつづけた。
「涼の態度もいけなかったと思うよ」
「だから私は」
「立場はわかってるよ。涼が自分の職に対して真剣に向き合っていることも、鬼島君のアプローチにほいほい応じられないことも、わかってるよ。でも、それにしても酷いと思う。期待させるだけさせておいて、いざとなったら一線を引くなんて」
「私はちゃんと断っているつもりだけど?」
どこぞの身勝手バカップルと同じ轍を踏む気はなかった。だから天下に何度も何度も、それこそ言っている涼の耳にもタコができるくらい言った。自分は教師で、彼は生徒。そして生徒は対象外だと。
「今日だってあいつを家に上げるつもりなんてなかった。それを邪魔した張本人がどうして私を責めるんだ」
「そうね。私が間に入りさえしなければ、今日は絶対に鬼島君を入れなかったでしょうね」
琴音は伏目がちだった顔を上げて真っ直ぐにこちらを見た。
「でも来年だったら、どうしてた?」
咄嗟に涼は答えることができなかった。それが唐突な質問だったからか、答えにくい質問だったからか――おそらく両方だ。一ヶ月先のことすら思いやられるのに、一年先のことなんて、気の遠くなる遙か彼方。涼にできたことは馬鹿みたいに訊ね返すだけだ。
「来年?」
「今、高校三年生なんですってね。来年の今頃は立派な大学生よ。もう高校生でもなければ庇護すべき生徒でもなくなる。それで同じようにここにやってきたら、涼はどうするの? もう対象外じゃなくなるのよ」
教師と生徒ではなくなる。考えたこともなかった。いや、あまりにも当然の結末だと涼が思い込んでいた為に、その先にまで考えが至らなかった。天下が卒業したら、もう高校に来なくなる。顔を合わせることもなくなる。自然にこの関係も断ち切られて終わると思って疑っていなかった。
「私が酷いって言ってるのはそういうことよ。自分の立場を盾にして、ていよくあしらうことが残酷以外の何だって言うの? 涼がそうだから、鬼島君は期待しちゃうんじゃない。実際に生徒と教師じゃなくなった時、あなたなんて言うの?」
無論、涼の中に応じるという選択肢はなかった。仮に、天下が涼と同い年で同じ教職に就く者だったとしても変わらないだろう。天下に落ち度がなくとも、涼にはどうしようもないくらいの負い目があるからだ。
仕方のないことだった。天下には曲がりなりにも家族がいて、帰りを待つ人がいることも、対する涼には何もないことも。仕方のないことだと知っていても、虚無感や劣等感は広がるばかりだ。無理だった。どう考えても。
誰かの唯一になる自分が涼には思い描けなかった。
「さあね」
涼に限らず教師にとって、卒業は生徒との別れと終わりを意味する。だが、天下にとっては違ったのだ。近頃彼の態度が変わっていたのは受験生になったからでも自分の誕生日が近づいていたからでもない、短期決戦から長期戦へと切り替えたからだ。
涼は二月の出来事を思い出した。改めて交際の申し込みを断った時の天下。不敵で少しあくどい笑み――これから勝負を挑むかのように「諦めねえ」と言った時の表情を。
あの時から彼は腹を括っていたのかもしれない。