(その四)話し合いで解決しましょう
涼の危惧をよそに日々は穏やかに過ぎた。怪文が送られてくることがなければ、教師と生徒が付き合っている噂が流れることもない。そして、恋に盲目カップルが自分たちの立場をわきまえることもなかった。
が、多少なりとも変化はある。
一つは音楽科教師でも新任にあたる涼に新たなる雑用が押し付けられたことだ。器楽室で楽譜整理。千を超す膨大な楽譜を演奏形態と使用楽器で分別し、作曲家順に並べ直し、目録を作成するという気が遠くなるような作業だ。しかし、涼はクラスを受け持っていないので、これは致し方ないと自分を納得させた。
問題は別にあった。
「センセー、もう昼休みですよ」
涼は背中にかかる声に構わず楽譜の分別を続けた。ヨハン=パッヘルベル作曲弦楽四重奏『カノン』。いくらポピュラーな曲とはいえコピーし過ぎだ。全パート合わせて三十枚以上楽譜が存在している。ファイルに入れて「量産(大量コピー)禁止」と記入しておいた。
「まだそれやっているんですか? 昨日も同じ曲発見してましたよね」
ああ、そうだよ。どこぞの整理能力に欠けた奴が『カノン』の楽譜ファイルを三つも作っていたおかげで。全部まとめ直しだ。
八つ当たりだとわかっているので、涼は黙って『カノン』のファイルを一つにした。大して長い曲でもないのに随分と分厚くなったものだ。
「とろくせえな」
ぼそりと呟かれた言葉は、涼の耳にしっかり届いていた。明確な怒りを込めて来訪者を睨みつける。
「生徒の無断入室は禁止だと昨日も一昨日も言ったと思うんだけど」
「じゃあ鍵締めておけよ、って俺は昨日も一昨日も言ったぜ?」
涼しい顔で鬼島天下は言ってのけた。
こいつが曲者だったのだ。本性を現してからというもの、天下はどういうわけか涼に構うようになった。廊下ですれ違う時でも授業中でも。性質が悪いのは、傍から見たら普通科きっての優等生が教師と談笑しているようにしか思えないことだ。鬼島天下の猫かぶりは完璧だった。
そして、涼が空き時間に器楽室で一人楽譜整理に追われていることを知ってからは、好都合とばかりに足繁く通ってくるようになった。
「……内鍵が壊れたんだよ」
「直せば?」
「外から鍵がかけられるのなら問題ないってさ」
大アリだ。この侵入者をどうにかしてくれ、とは言えなかった。あえなく涼の案は却下され、予算は新しいホルンの購入と弦楽器のメンテナンス費に充てられることになった。
「貧乏学科は辛いよな。ただでさえ音楽ってのはやたら金がかかるのに」
「そうだ。貧困が諸悪の根源だ。わかったら安定した収入が得られる職に就けるように教室に戻って勉強しろ」
「だから今は昼休みだって」
断りもなくコントラバス用椅子に座る天下。完全に居座るつもりだ。