【番外編】恋せよ妹、密やかに(承1)
眉の一つでも寄せるかと思いきや、涼は「ふーん」の一言で特に反対も賛成もしなかった。自分に興味がなくなったのかと一瞬不安に駆られたが天下は深く考えないことにした。
そうして迎えた火曜日の放課後、カジュアルでいいとのお言葉に甘えてタートルネックのシャツに黒のシャープのパンツ。ショートブーツを履けば体裁は整うと天下は判断した。涼や自分を誘った手前、よもや高級レストランになんぞ行ったりしないだろう。
待ち合わせ場所は都内の駅構内。指定はそれだけだった。琴音曰く「駅の改札口を通ればすぐにわかる」。やたらと自信たっぷりに断言するのでとりあえず言う通りにした。
本当に一目でわかった。
実物で見る吉良醒時の迫力は段違いだったのだ。
百八十を優に超えた背にすらりと伸びた手足。人通りの激しい駅構内であっても頭一つ分は出ている上に、彼の周囲は水を引いたかのように誰もいなかった。あまりにも美しいものを前にすると人は敬遠してしまうのだと天下は学んだ。
道行く人々の十人に八人は振り向いている。残りの二人は目を閉じているに違いない。視界の端にでも入れば嫌でも目をやってしまう。周囲の視線をくぎ付けにする張本人は、もう慣れているらしく平然と堂々と腕を組んでいた。
しばし惚けていると吉良醒時の傍らにいた涼がこちらに気づき、手招きした。
「迷わなかったか?」
「無理だろ」
天下は醒時を盗み見た。硬く引き結んだ唇も絶妙なバランスを描いている。無造作に立っているだけで絵になる男は、確かに絶好の目印になった。
顔が売れているのだから話しかけてくる者がいてもおかしくはないが、吉良醒時に限っては孤高である方が自然に思えた。おいそれと傍に寄れば切られてしまうかのような張りつめた空気が彼にはあった。相も変わらず視線は感じるものの、近づいてくる者は皆無。ケータイを向ける猛者を時折見かけたが、醒時が一瞥しただけで委縮し、写メを諦める。
自分よりも頭三つ分は低い小柄な女性、もしかしなくとも妻だろう――と言葉を交わしていた醒時は視線に気づいたのか、天下の方を向いた。無意識のうちに天下は顔が強張るのを感じた。彼の眼光は心の奥底を射抜くほど鋭かった。
「彼が、さっき話してた鬼島君かい?」
助け船を出したのは隣にいた奥様、つまり琴音の義理の姉だった。女性にしてはやや低めの声で、口調も相まって少年のようだと思った。三十過ぎにはとても見えない。高校生、どんなに頑張っても大学生だ。
涼に背を軽く叩かれ、天下は慌てて頭を下げた。
「鬼島天下です」
「吉良零だ。学校きっての優等生なんだって?」
零の言葉に嫌味な響きはしなかった。天下は頬が緩んだ。涼が自分のことを他人の前で褒めたことが気恥ずかしくも嬉しかった。
「忙しいのにごめんな。あ、これが琴音ちゃんの兄でオレの――」
言いかけて零は口をつぐんだ。伺うように醒時を見上げる。彼は諦めたように半眼になった。目は口ほどにものを言うとはよくぞ言ったものだ。
「ワタクシの旦那の吉良醒時でございます」
「無理に直さなくても」
涼がフォローを入れた。
どうやらこの小さな奥様はずいぶんと勇ましい方らしい。一人称がオレ。それを旦那様はお気に召していない模様。たったこれだけのやりとりで天下はおおよそを察した。
醒時は切れ長の目を眇めた。
「琴音がいつも世話になっている」
と、これまた低いが玲瓏たる声音で言ったのであった。
その隣でにこやかに微笑む奥様、零は涼やかで中性的な顔をしていた。しかし間近で見るとやはり女性だ。どことなく女性特有の儚さがあった。自分とは十五も年上だというのに可愛いと天下は思った。弟が二人いるせいか、天下は小さいものを見ると庇護欲を掻き立てられる。
しかし「きらせいじ」に「きらぜろ」――夫婦揃ってなんとも威圧感のある名前だ。口にこそ出さなかったが、天下は自分の名前は棚に上げてそんなことを考えた。
「おまたせしました」
小走りに寄ってきた琴音を、零は満面の笑顔で迎えた。
「久しぶり、琴音ちゃん。大きくなったなあ」
「お久しぶりです。お変わりないですね」
如才なく応じる琴音。が、どことなくぎこちなさを感じた。部外者に等しい天下が感じたのだから気付かないはずがないのだが、零も醒時も、涼でさえも何も言わなかった。
長くなりましたので、本日の昼頃にもう一話挙げます。




