(その二)だから見かけで判断してはいけません
「当然だ。スタンウェイだぞ? 洗ってもいない手で触るなんて――」
言いかけて涼は気付いた。認めているようなものではないか。
「つまり、一部始終を見た、と」
「何を」
「誰かにそのことを言ったり喋ったり書いたり伝えたりはした?」
「だから、何をだよ」
わかっているくせに。意地悪く訊ねてくるその楽しげな顔に、拳を叩きこんでやりたいのを堪えて、涼は慎重に言葉を選んだ。
「だから……佐久間先生が、その……生徒と、二人きりでいたこととか」
「安心しろよ。佐久間と矢沢が付き合ってることなんて誰にも言ってねえ」
やっぱり知っているじゃないか。
「まあ、見たものは仕方がない。確かに目撃したのは不運だが、ここは黒猫に目の前を横切られたと思って諦めることをお勧めする。大丈夫。私も正直関わってしまったことを一日十回は後悔してるけど、君ならまだ傷は浅い」
涼の言葉を反復するように天下は数回首を捻った。
「何言ってんだかよくわかんねえけど、要するに『忘れろ』ってことか?」
「直訳するとそうなる」
「嫌だって言ったら?」
三白眼が細まる。面白がっているのは明白だ。
「あれを青春の一ページに入れるなんてお世辞にも趣味がいいとは言えない。せめて自分の恋愛体験を入れたらどうだ?」
文武両道。容姿端麗。彼なら引く手数多だ。優等生面に隠された不良の一面も年頃の女子には魅力として映るだろう。
「そう言うあんたも趣味悪ぃよな。佐久間のどこがいいんだか」
「人聞きの悪いことを言うな。仮に奴が秋川雅史並の歌唱力を持って目の前で愛の賛歌を熱唱しようとも、私はCDに録音されたプラシド=ドミンゴの美声を選ぶ」
我ながら意味不明な例え方だ。しかしどういうわけか鬼島天下は目を輝かせた。
「つまり嫌いってことか」
「嫌悪を抱くほど付き合っちゃいない。できれば今後も関わりたくない」
「でも、交際宣言はしたんだろ?」
「奴が校長にな。私も驚いたよ。まあ一応礼は受け取ったから、ほとぼりが冷めるまでは彼女のふりをしてやるさ」
涼はほんの少し憐れみを込めて告げた。
「だから君は脅す相手を間違えている」
天下の口元の笑みが消えた。図星にせよ、そうでないにせよ、触れるべき話題ではなかったのだろう。が、涼は構わず続けた。
「二人の間がバラされようと私はたいして困らない。情報を盾に交渉したいんだったら、校長でも教頭でも私でもなく、真っ先に佐久間先生の所に行くべきだ。それが一番効果的だし手間もない」
機嫌を著しく損ねてしまったらしい。天下の眉間に皺が寄った。
「あんたまさか、俺がそんなことのために準備室まで来たと思ってんのかよ」
「好意的に解釈しても応援してくれてるようには見えないね」
「当たり前だろ。俺は、」
言いかけて天下は口をつぐんだ。言葉の代わりに溜息を吐き出す。
「……もういい。面倒くせえ」
拗ねたようにそっぽを向いた横顔は年相応に幼かった。