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5.息抜き

 体育祭が終わった数日後。徹から放課後にバスケ部に顔を出す様に誘われた。


「翼、今日、部の連中だけで練習試合をするんだ。入らないか?」

「え?全然部活に参加していないのに試合?良いのかな?」

「この前の体育の授業で実力は見せてもらったよ。その辺の奴より格段に上手いじゃないか。今日は俺と組んでバンバンシュート決めようぜ!」

「そうだな。練習試合だけなら良いかな」


「おーい。みんな!これから翼も入ってバスケ部の練習試合をやるぜ!」

「え?翼君が試合?それは見ないと!」

「キャー!シャッターチャンスよ!」

「ちょっと誰か!充電!充電頂戴!」

 クラスは大騒ぎになり、皆が一斉に体育館へ向かった。


 僕は予備のユニフォームを借りて出場した。相手はレギュラー組で、こちらは一、二年生の混成チームだ。


「相手はレギュラーなんだろう?流石に勝てないかな?」

「いや、俺と翼が居れば大丈夫さ。レギュラーとは言っても、いつも大会では一回戦負けだったらしいからね」

「そんな、失礼な・・・」

「兎に角さ、俺が翼にボールを回すからさ、シュート決めちゃってくれよ!」

「簡単に言ってくれるな!」


 練習試合は始まった。体育館は二階席まで女子で一杯だ。隣のコートには女子バスケの部員が勢揃いで観戦している。


 さっき徹は、わざとらしく練習試合を宣伝していたな。これは一体何のたくらみなのだろう?


 試合が始まると、確かに相手の動きは隙だらけだ。徹が上手く立ち回り、ボールを奪っては僕にパスして来る。徹の実力も素晴らしい。


 家で散々やっていたから、スリーポイントは得意だ。次々とシュートを決め、何回かはダンクシュートも決まった。


 その度に女子の黄色い歓声が体育館に響き渡った。あぁ、そうか、この黄色い歓声を浴びながら試合をしたかったのかな?でも自分が主役でなくても良いのかな・・・


 ダンクを決め、走りながら観客を見た時、新奈と結衣が並んで立っていた。

新奈は僕に笑顔で手を振り、結衣は笑顔で僕を見ていた。僕は二人に向かって右手を差し出し、親指を立てた。


 その仕草に観客は一段と色めき立ち、更に大きな歓声が上がった。


 そして試合は僕らが勝った。顧問の先生から今日のMVPは僕だと言われた。

「結城、全国大会に連れてってくれよ!」

「いや、僕は目立ちたくないので・・・」

「えーっ!そんなこと言わずに!」

「今日だって十分に目立っていたじゃないか!」

「そりゃぁ、学校内くらいなら構いませんけど・・・全国大会は駄目です」


「あー、勿体ない!徹!何とかしてくれよ!」

「いや、こればっかりはな・・・翼に無理強いはしたくないんだよ」

「駄目なのか~」


「こうして女子が見に来てくれるだけでもめっけもんだろ!」

「まぁなー、俺ら弱小チームだからな・・・でも確かに今日は気持ち良かったよ」

「そうだろ?それで良いじゃないか!」

 つまり、男子バスケ部の慰労会みたいなものだったのかな・・・


 体育館の出口に向かうと二人の女子が現れた。二人共見覚えがない。上級生だろうか。


 右の子が主役なのだろう。髪がツインテールでくるんくるんにロールしている。新奈と同じくらいの背丈の可愛い女の子だ。もう一人の子も可愛い感じだ。


 そして、二人共に変な衣装を着ている。やたらと短いスカートに派手なTシャツ。化粧もしているみたいだ。目のやり場に困る。


「あなたが、結城 翼君なの?」

「はい。そうですが・・・」

「私は、一之瀬望いちのせのぞみよ!」

「はぁ。初めまして。結城 翼です」


「あなたのお父さま、結城 繁さんは私のお父さまの会社、一ノ瀬電機の取締役よね?」

「一ノ瀬電機?あ!あぁ・・・そうでしたか。一ノ瀬電機の社長令嬢・・・」


 繁お父さんは、海洋プラスチック除去のプロジェクトで大成功を収めた結果、今では一ノ瀬電機の部長で取締役まで付いているのだ。


「翼君がこんなに素敵な人だったなんて・・・」

「あの・・・僕に何か用事があるのでしょうか?」

「翼君って、ご両親と全然似ていないのね」

 む。これは何か探りを入れに来たのか?


「両親と面識があるのですね?」

「えぇ、数回、お会いしています」


『あぁ、何て美しい人なのでしょう!私、翼君と結婚したーい!』


 いきなり結婚?どういうこと?それにしても両親と似ていないと言われてしまったか・・・これは仕方がないな・・・


「僕は両親の実の子ではないですからね・・・」

「そうなの・・・ねぇ、翼君。今度家に遊びに来てくれる?」

「いや、僕には遊ぶ暇はありませんので・・・残念ですが・・・」

「えーっ!そんな冷たいこと言わないで!ね!いいでしょう?」

 見た目通りのぶりっ子でへつらってきた。実際のところ可愛いんだけど・・・


「い、いや・・・では、お父さんと相談してからということで・・・」

「そう。今日は翼君の素敵な姿が見られて良かったわ。これからよろしくね!」

「あ、あの・・・一ノ瀬さんは先輩・・・なのですか?」

「あ!ごめんね!言ってなかったのね!私は二年一組の一ノ瀬 望よ!」


「そ、それで・・・その衣装は?」

「これ?ダンス部の衣装よ。今度の大会用なの?どう?」

「どうって・・・それは・・・可愛いと思いますけど・・・」

「まぁ!可愛いって!美樹、聞いた?」

「えぇ!良かったわね、望」

「ふふっ、では、またね。翼君」

「は、はぁ・・・」


 望先輩が立ち去ると、入れ替わりに新奈と結衣が走り寄って来た。


「ちょっと!翼。今のはなんなの?」

「あぁ、新奈。僕にも分からないけど、どうやら僕のお父さんの会社の社長令嬢らしいね」

「一ノ瀬電機と言っていたわね」

「うん。僕のお父さんはその会社の取締役なんだよ」


「そうだったのね。でもあれは間違いなく翼を狙っているわね」

「狙う?どういう意味で?」

「勿論、婿むこでしょう」

「婿?」


「確か、一ノ瀬電機は跡継ぎの息子が居ないはずだから」

「え?今の日本の企業で世襲せしゅうなんてあるの?」

「うちみたいな元財閥系では脈々と続いているわ。一ノ瀬電機もそうだったと思う」


「え?僕が跡取りとして狙われたの?」

「恐らく」

「あの人は僕と結婚したいってこと?」

「そうね」

「・・・」


「翼。今の日本で親が決めたまま結婚が決まる訳はないわ。それはあくまでも自分の意思で決めることでしょう?」

「それは・・・そうだよね」

「それならそんなに怯えることはないでしょう?」

「それもそうだね。だって、凄い勢いだったから・・・なんか飲まれちゃって・・・」


「ちょっと翼。しっかりしてよ。私が居るでしょう?」

「え?それ、どういう意味?」

「あ!そ、それは・・・その・・・な、なんでもないわ・・・」

 熱くなっていた新奈は、一瞬、周囲を見渡すと、急に真っ赤な顔になって黙ってしまった。


『きゃーっ、こんなに人が一杯見ている中で、なんてことを言ってしまったのかしら。でも、あの先輩には翼を渡せないわ』


 体育館に集まった大勢のギャラリーが見守る中、美しい女生徒二人に言い寄られる様が、何だか滑稽こっけいで他人事の様に思えてしまった。


 それよりも、結衣が表情のない静かな目で僕を見ていたことが僕の心をざわつかせた。


 この気持ちは何なのだろうか・・・僕ってやっぱり結衣のことを?


「おい、翼。何だか、大変なことに巻き込まれていないか?」

「え?あ、あぁ・・・突然のことで僕にも良く分からないよ」

「いい男は苦労するな・・・」

「誰かに代わってもらいたいよ」

「一ノ瀬先輩も神代さんも美人じゃないか!しかも社長令嬢だしな。でも神代さんに決めたのだろ?」


「いや、彼女とか結婚とか・・・考えたことがないんだよ!」

「そりゃまぁ、俺らの年齢で結婚を考える訳がないよ。結婚はまだ先のことさ」

「そうだよね・・・」


 社長令嬢との結婚は目立ち過ぎるから、きっと駄目だろうな・・・




 今日は英語の授業があった。


 僕は語学もほとんど習得しているし、主要な検定にも合格している。英語は母国語の様なものだ。


 先生には申し訳ないが、授業には出ているが授業は聞かずに読書の時間と決めている。今日も堂々と読書をしていたら流石に先生に見つかってしまった。


「結城君。その本は何ですか?」

「え?あ。ちょっと読書を・・・」

「結城君は英語で学ぶものはもう無いということかしら?それは何を読んでいるの?」

「これは“Mathematical Foundations of Quantum Mechanics”ですが・・・」

「い、一応、英語の本なのね・・・」


「翼!それ、日本語で何て言う題名なんだ?」

 フォローしてくれるつもりなのだろう。徹が聞いてきた。

「量子力学の数学的基礎・・・だけど?」

「りょ、量子力学?」

「そ、それを英語で?」

 先生の顔が引きつっている。


「本は読めれば、何語だって構わないでしょう?」

「す、凄い・・・」

「翼、あなた、何か国語を話せるの?」

 新奈が間髪を入れずに聞いてくる。


「地球の言語は、秘境の部族だけが使う様な言語でなければ全て話せるよ」

「先生!翼に英語の授業を普通に受けさせるのは酷ですよ」

 巧があきれ顔で先生にさとすように言った。


「そ、そうね・・・結城君は既にTOEICとTOEFLは満点だったわね。英検も一級だし。まぁ、授業の邪魔をしている訳ではないのだから・・・いいわ。でも授業は出席して頂戴ね。それに試験は受けること。でないと単位があげられないから・・・」

「分りました。先生、ありがとうございます」


 昼の休憩時間が終わる頃、徹が小声で聞いて来た。

「翼、今日も放課後は図書館か?」

「そのつもりだけど?」

「翼、カラオケって行ったことある?」

「カラオケ?存在は知っているよ。防音された部屋で機械の演奏に合わせて歌うのだろ?」


「そうだよ。翼は歌ったことあるのか?」

「妹が好きなんだ。家でなら歌ったことはあるよ」


「今日の放課後、カラオケに行かないか?」

「え?二人で?」

「そんな訳あるか!神代さんがスポンサーなんだ」

「スポンサー?」


「要するに彼女が行きたいんだよ。でも自分が誘っても翼は来ないだろうからって」

「それで徹が一肌脱いだってこと?」

「そう。翼を誘ってくれたらカラオケ代は彼女が払うってさ」

「他には誰が行くんだい?」


「校外ゼミのメンバーだよ」

「ところで、何でこんなひそひそ話なのかな?」

「翼がカラオケに行く、って分かったら女子たちが色めき立つだろう?」

「そういうことか・・・毎度、気遣いすまないね。今日か・・・それって何時間くらい?」


「二時間とか?一時間だけでも良いんだ」

「分かったよ。でもさ・・・結衣は本当に行きたがっているの?無理に誘っては駄目だよ?」

「それは神代さんに言っておくよ。それにしても翼は九十九さんも好きなんだな」

「え?それなに?」

「あぁ、良いんだよ・・・鈍感なんだから・・・」

「え?なんだって?」

 徹が最後にボソッと言った。鈍感?


 そして放課後になり、ひとりずつ、そーっと教室から出た。校門を出てその先まで行ったところで落ち合った。五人揃ったところでカラオケへ向かった。


 大体、放課後に制服姿のまま、カラオケに行って良い訳がないのだからね。お忍びなのだ。


「翼!来てくれないと思ってたわ!」

「僕も遊びたくない訳ではないんだ。遊び方を知らないだけだよ」

「それなら、誘えば一緒に遊びに行ってくれるのね?」

「まぁ、息抜きとしてたまにならね・・・」


「それにしても結衣が来るとはね・・・」

「あ。わ、私・・・やっぱり・・・帰ります!」

 結衣は立ち止まり、うつむいて顔を真っ赤にしている。


「ちょ、ちょっと!そういう意味じゃないんだよ!ごめん!」

「結衣。翼がそんな意味で言う訳ないでしょう?誰だって結衣はカラオケとか苦手そうって思うのよ。無理に連れて来られたと思ったのよね?翼」


「う、うん。苦手そうだな・・・って思ったんだ」

「そ、それは確かに・・・私は歌えないので・・・でも歌を聞くのは好きだから」

「そうか。聞くのが好きなら良かった。一緒に行こうよ!」

「いいの?」

「当たり前じゃないか!」


「それにそうだよね。新奈の歌が聞けるのは楽しみだね」

「え!ホントに?よーし!頑張っちゃおうっと!」

 ふふっ、新奈は歳相応の元気さと明るさが可愛いよな。


「巧、科学者は歌うのか?」

「科学者は歌うさ」

「え?そうなの!そりゃ、楽しみだ!」


 カラオケ店に入ると五人にしては広めでゴージャスな部屋に案内された。

「おいおい、こんな高級カラオケ店、来たことないよ!」

「流石、神代重工のご令嬢だな」

「パパの会社は関係ないわ。モデル仲間と来る店なのよ」


「はぁーっ!モ、モデル仲間!こ、今度、そのモデル仲間と一緒に来ようよ!」

「嫌よ!皆、翼に夢中になっちゃうもの。絶対に会わせないわ!」

「あぁ、残念!」


「さて、飲み物を注文しようか」

「俺、コーラ」

「俺は、ウーロン茶」

「私はこのノンアルコールカクテルにしようかしら」

「僕は、オレンジジュースで」

「わ、私・・・お水で良いです」


「結衣。お金は私が出すんだから、私と同じで良いわよね?」

「え?で、でも・・・」

「いいから、いいから!この中で仕事を持っていて、お金を稼いでいるのは私だけでしょう?」

 あれ?結衣ってお金に問題あるのかな・・・


「よっ!太っ腹!」

「ちょっと、お腹なんて出てないわよ!」

「姉さん、ゴチになりやす!」

「新奈。今度何かでお返しするよ」

「え!翼!ホント?楽しみだわ!」


 飲み物が揃ったところで、各自、曲を入れていった。トップバッターは徹だ。

大人気の男性ダンス&ヴォーカルグループの歌だ。歌って踊ってノリが良い。歌も慣れていて凄く上手かった。


 そのダンサブルな音楽に新奈はノリノリで楽しんでいた。巧も嫌いじゃないらしく、手拍子を入れてノッていた。曲が終わり、僕は思わず立ち上がった。


「徹!凄いな!」

「パンッ!」

 ふたりでハイタッチした。

「あぁ!気分が上がるね!」


「私も!」

「パンッ!」

 今度は新奈とハイタッチした。


「じゃぁ、結衣も!」

「え?わ、私も?」

「パンッ!」

 結衣は突然のことにジタバタしている。


「巧!」

「おう!」

「パンッ!」

「さぁ、次の曲だ。これは誰だ?」

「私よ!」


 次は新奈の番だ。歌姫と言われる女性アーティストの歌だ。音域が広く難しいと葉留が言っていた。歌い始めのワンコーラスを聞いて皆が目を丸くした。


「う、上手い!マジか!」

「ス、スゲー!なにこれ!プロじゃん!」

「おぉ!これは・・・」

「新奈、凄い・・・」


 新奈の声量と音域の広さに驚き、感動してしまい、皆、手拍子も忘れて黙って聞き込んでしまった。


 歌い終わった瞬間。皆、スタンディングオベーションだ。

「うぉー!スゲー!これは本物だ!」

「本当に歌姫だった!感動だ!俺、ちょっと涙でちゃったよ」

「凄いわ!こんなに上手いなんて・・・」


「本当に上手いね。新奈はアーティストになるんだね・・・」

「皆、褒め過ぎよ!嬉しいけど!」

 新奈は自信たっぷりな表情で笑みを浮かべた。


「新奈、ヴォイストレーニングなんかも受けているの?」

「えぇ、週四日通っているわ」

「あぁ、そういうことか・・・努力しての結果なんだね。素晴らしいよ」

「翼・・・ありがとう!」


「そして見つめ合う二人・・・」

 巧がボソッと解説を入れる。

「おいおい!そこでふたりの世界を作らないでくれよ!」

 徹がヤジる。

「俺たちも居るぞーっ!」

「あら、ごめんなさい!」


 ふざけていたら次の曲が始まった。

「あー俺のだ。神代さんの後は歌いづらいな・・・」

「気にするな!相手はセミプロだ!」

「そうだな・・・」


 巧は人気ドラマの主題歌を歌った。意外なことに徹と同様に歌い慣れていた。

真面目な感じで原曲に忠実に歌おうという姿勢に好感が持てた。


 秀才でありながら変に構えたり形を作ろうとしていないところが、やはりこの学校の生徒なのかな・・・対応力というのだろうか。皆、何かしら持っているのだな。


 そして曲が終わってハイタッチだ。

「巧。良いセンスだ!」

「パンッ!」

「上手かったわ!」

「パンッ!」


「良かったです!」

「パンッ!」

「巧。君は素晴らしいよ!」

「パンッ!」

「へっ、何だか照れるな・・・」


 やはり結衣は歌わなかった。こういうことは無理強いしてはいけない。そして僕の番になった。僕は以前、葉留に歌って欲しいと言われて練習した歌を歌った。


 結城邸は全ての部屋が防音設計だ。サロンではダンスもできるし、通信カラオケの設備も後から追加した。葉留は姉たちと一緒に本気で歌を練習していた。その葉留や姉たちにも上手だと太鼓判を押されている。


 歌い始め、ワンコーラスで皆が黙り込んだ。新奈は胸の前で手を組んでうっとりしている。徹と巧は口パクで歌いながら曲にノッている。


 サビから後半に入ると・・・え?結衣が号泣ごうきゅうしている。ど、どうしよう・・・


 この曲は家族がテーマの曲だ。ハッピーエンドの暖かい歌だと思う。それが結衣の琴線きんせんに触れてしまったのだろうか。歌い終わると皆、スタンディングオベーションで迎えてくれて、ハイタッチをしていった。


「翼!あなたアーティストにもなれるわ!」

「パンッ!」

「あぁ、本当だ。こんなに上手いなんて!感動だった!」

「パンッ!」


「感動した!びっくりだよ!カラオケデビューでこれか!」

「パンッ!」


 僕は座ったまま泣いている結衣のかたわらに座った。皆は空気を読み、何事も無かったかのように次の曲へと興味を移した。


「結衣。どうしたの?」

「あ!ごめんなさい・・・なんでもないの・・・翼君、歌、上手ね」

 なんでもないことはないだろうに・・・でもこの場で聞き出して良い内容ではないのだろうな。


 その後も順番に歌い、僕は結衣の隣で皆の歌を楽しんだ。そして二時間で終了となった。

皆で地下鉄の駅まで一緒に歩き、地下に降りるとそれぞれの路線の改札口へと別れた。


 僕と結衣は方向が一緒だった。一緒に電車に乗り、ドアの脇に立った。電車が走り出しても結衣は一言も話そうとしなかった。


 結衣はいつものように背中を丸め、うつむいて窓の外に視線を固定している。地下鉄の暗闇を見つめたまま、いくつもの駅をふたりは無言のまま通り過ぎた。


 僕は意図的に結衣の心を読まずにいた。今の結衣の心に土足でずかずかと入り込む様なことをしてはいけない。そう感じたからだ。でも放っても置けない。僕は意を決して口を開いた。


「結衣。僕に話したいことはある?」

「え?翼君に?・・・でも・・・」

「結衣の過去に何があったのかは分からないけど、僕で良ければいつでも話を聞くよ」

「あ、あの・・・」

 結衣は何かを言い掛けたが次の言葉が出ない。


 その時、電車のアナウンスが次の停車駅を告げた。

「あ!私、降りないと・・・またね。翼君」

「うん。また・・・」


 電車が駅に停車し、結衣は開いたドアから逃げる様に降りて行き、こちらへ振り返ることもなかった。僕はホームを歩くその寂しそうな後ろ姿を見送った。


 でもそのまま放っておいてはいけないという気になり、結衣の後ろ姿から彼女の意識に入った。そこから視線を共有し、帰り道を辿った。


 そして辿り着いた結衣の家は、駅からかなり離れた小さく古いアパートだった。

お読みいただきまして、ありがとうございました!

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