壊滅東京バトル
「だからつまりいつだって革命やら革新を起こすのは天才と馬鹿なんですぅ‼‼」
と、女が言った。
蜜月糖梨という甘ったるい名前の女だ。名前の通り甘ったるい声で啼く感じの悪い不遜な女だ。彼女はしかし彼女の言う天才などではない。革命やら革新を巻き起こす人間ではない、極々歪曲し尽くしただけの変人だ。
しかし地殻変動の如き革新の中で、その荒波の中で、その突然の大旋風の中で、そんな狂ったような凶悪さの中で果を得るのは決まって彼女のような変人たちなのだ。
「うるっせぇんだよ馬鹿糞阿呆がよぉ、ですぅッッ‼」
「うぼげぇっっ」
蜜月糖梨の容赦ない蹴りに男の体が体液を巻き散らかして宙に舞う。
「うぇっ! おくちチャックは蹴り飛ばされる時のマナーだろうですがよぉ汚物野郎‼」
蜜月糖梨は横転した車の上に仁王立ちして男を毒のような目つきで見下す。
蜜月糖梨がいるのは東京都新宿。現在人類を存亡の岐路へ立たせている騒動のみっつの爆心地のうちのひとつだ。現在人間が生活できる環境ではないはずだが、蜜月糖梨やその男は身体欠損もなく、蜜月糖梨に限って言えば小さな擦過傷のひとつでさえないのだ。
瓦礫と割れたガラスに満ちたこの街ならば移動するだけであっても傷くらいつきそうなものなのだがその様子はない。蜜月糖梨は壊滅した東京に相応しくないラフな格好であるから、なおさら不自然だ。
しかし蜜月糖梨が片手に構える異形のバトルアックスを目に捕らえると、不思議と、彼女が無傷であることも納得できてしまうようだ。バトルアックスは小さな子供ほどの身の丈を持つ黒く重い凶悪なものだ。およそ人が戦いのために担ぐものではない。
「だっせぇなですぅよ。女子供に足蹴にされて生きてて恥ずかしくないのかなんですぅけど?」
「滅茶苦茶言いやがって。俺はお前みたいな気狂いとは組みたくなかったんだよ! 魔物に殺される前にペアに殺されちまう」
「はぁ?? なにそれ言い分勝手すぎないですぅ? とーりちゃんも手前ぇみたいな加齢臭と組みたくなんざなかったんですぅけどぉ?」
蜜月糖梨に蹴られた腹の痛みも相まって堪忍袋の緒がちぎれ始めた男はついに武器を抜く。コンパクトな仕込みナイフだ。蜜月糖梨を攻撃する気はなかったが、武器を振り払って八つ当たりでもしなければ気が済まなかった。
男の血管は千切れそうなほど額へ浮かび上がってきていた。
「とーりちゃんが手加減してあげてるのも感じられないほど不感症なんですぅ? マジ哀れ」
「手加減とか以前にペアに攻撃すんなだし、そもそも加齢臭ってなんだよクソメスガキ‼」
男は仕込みナイフで蜜月糖梨が足蹴にしている車へと斬りかかる。小ぶりなナイフが車の底面に引っかき傷のような小さな傷をつける。
「俺はまだ二十三だッ‼」
蜜月糖梨は男の行動に一瞬だけ焦りを見せ、三メートルも飛び上がる。それを追うように車につけられた小さな傷は膨張し、車そのものを粉々に爆裂させた。飛び散る破片に当たっただけでも傷を負いかねない。
バトルアックスを背負ったまま空中でうまく破片を回避した蜜月糖梨は猫のような着地をして男を睨みつける。
「正気かよ!? 『武器』使うのはタブーだろうがなんですぅけどぉ‼!?」
「あ? 大人の手加減も分からねえのか。ヤりすぎで不感症になったのはお前の方なんじゃねーの!?」
「あぁん? 童貞にあれこれ言われたくないんですぅ‼」
「一回痛い目見せたらわかるかこのクズビッチ?」
蜜月糖梨と男は武器を構える。「って言うか――」と嚙み砕くような口で言葉を漏らす。二人の間でだけは東京の壊滅も嘘であるかのような荒くれた生気が迸る。
「俺は童貞じゃねえよ‼‼」
「とーりちゃんはビッチじゃないんですぅ‼‼」
空間が歪むような勢いで二人の十メートルもあった距離が無くなっていく。
しかし二人が接敵するよりも早く、二人の間の空間へと人間大の瓦礫が票のように降り注いで止まる。両者が瓦礫を飛ばしてきた方を見るとビルを突き破って異形の怪物が現れていた。人間を殺してきたのだと思しい血油に汚れた牙がビルの屋上のような高さに見える。
異形の怪物は生物だとしても人工物だとしても異質な肉体だ。黒く硬質だが、金属以上に柔らかく、生き物の肌のような軟らかさはない。そして何よりも大きかった。立ち上がっているとまるでビルのような体躯で、おおよそ十二メートル以上もあるのではないだろうか。骨格は熊のようだったけれど、熊ではないことは一目するまでもなく瞭然だ。
これこそが、人類存亡の岐路そのものである魔物だ。
「熊型ですぅか……脊椎二類の大型魔物ってのはまたこれ、面倒臭いことになってる臭いプンプンなんですぅけどぉ?」
「おい! 喧嘩してる暇じゃねえぞ、協力して戦るぞ」
「加齢童貞に言われなくても分かってますぅ」
二人ともが武器を構え直す。睨み合っていた時のような敵意を剝き出しにした構えではなくもっと保守的な構えだ。死んでもおかしくない相手だと分かっているからだ。
一方で熊型魔物にそのような知性はないらしく、容赦も躊躇もなく爪を振り下ろす。工事用重機のような破壊的フォルムがトラックの激突にも似た勢いで二人に迫る。
熊型悪魔が腕を振るった後には巨大な瓦礫たちが粉々に吹き飛ばされるばかりか、アスファルトが柔肌の様に無残に引き裂かれていた。しかしそこに人間の血肉の色はない。熊型悪魔が人間の姿を探そうとするよりも早く、熊型悪魔の右脚に激痛が走る。
蜜月糖梨が前方向に攻撃を回避して、その勢いのままにバトルアックスでの攻撃に転じたのだ。蜜月糖梨のバトルアックスはその見た目の重量感に反さず、巨大建築の柱のような太い足にも確かなダメージを与えた。
「っんもういっちょぉう‼」
蜜月糖梨は再びバトルアックスを大振りに振るって足を攻撃しようとしたが、熊型魔物は兎の様に飛び上がってそれを回避する。
熊型魔物は行動のアスファルトの上に不格好に着地する。地盤が抜けるのではないかという地響きが熊型魔物の大きさという凶悪さを雄弁に語っていた。しかしそれに恐怖する様子はなく蜜月糖梨は硬く武器を構え直す。
いつの間にか隣に立っていた男も同じように武器を構える。
「おい加齢童貞、攻撃したか?」
「したよ。だがまだ斬撃開放は発動させてない」
「よし、偉いね加齢童貞ですぅ。加齢童貞から凡顔童貞に昇格ですぅねぇ」
「まず童貞ってのを止めろよ派手ビッチ」
二人の罵り合いも先程のような勢いはない。蜜月糖梨の甘ったるい口調もこんなときは糖分控えめだ。二人が見ているのは互いではなく、殺したい相手だからだ。
「頃合いでばっしゅーんしてぇ、とーりちゃんがトリですぅ」
「頃合いで斬撃開放な。分かった」
熊型魔物は体勢を整えて二人の方へと向き直る。熊らしく四足歩行になっていた。地鳴りのような低いうなり声を漏らしながら蜜月糖梨へと照準を整える。熊型魔物が殺したい相手としてとらえたのは蜜月糖梨の方だったようだ。
「斬撃開放するまでは死んじゃダメですぅからねぇ?」
「言われなくても分かってるよ。お前も死ぬなよ」
「はぁっ? それこそ凡顔童貞に言われるまでもないですぅ」
短いやり取りで男は跳躍しその場を離れる。熊型魔物が突進してきていたからだ。
熊型魔物は頭を低く構えて頭突きで蜜月糖梨を殺そうとしていたようだが、蜜月糖梨はスライディングですれすれに熊型魔物の下に潜り込む。一センチのずれで死にかねない行為だが、蜜月糖梨に怯みはない。
怯んだ方が死ぬからだ。
「獣らしく這いつくばっちゃって、足が痛くてたまんないですぅかぁ‼? 撫でてやりますぅっ‼」
蜜月糖梨の重たい攻撃が熊型魔物の右脚に襲い掛かる。熊型魔物の筋肉は分厚く強靭だが、蜜月糖梨の二回の攻撃はすねの方からだった。確実に骨にまでダメージが入っているはずだ。蜜月糖梨は確実にへし折ってやろうと再び攻撃を試みるが、熊型魔物は跳ね上がるように後ろに避ける。しかし前足を使っておかしな避け方をしたため熊型魔物はアスファルトの上に尻餅をつく。
体をはね上げてビビった人間のように尻餅をつく姿はビルのような体躯をもってしても不格好なものだ。蜜月糖梨は惨めで不格好なものを見るのが楽しいと語るように好戦的な表情を浮かべて前傾に武器を構える。熊型魔物が姿勢を整えるのに手間取っているのを走り出しながら確認して、更なら加速をかけていく。
「あんよも上手にできないなら卵子からやりなおすべきじゃないですぅう‼⁉」
熊型魔物は迫る蜜月糖梨に向かって手についた瓦礫をつかみ投げつける。
蜜月糖梨はその様子に目を剥き驚いたが、直線的に飛んでくる瓦礫に直撃するような間抜けは犯さない。地面を軽やかに踏み抜き、飛び上がって飛んでくる瓦礫を回避した。蜜月糖梨の体は翼をもっているかと見まがうほどに高く飛び上がる。
高く高く、立ち上がった熊型魔物を凌駕するほどの高さにまでに蜜月糖梨は至る。
「とーりちゃんジャンプゥゥウからのぉ‼‼? 超隕石斬ゥゥゥゥウウウウウウ‼‼‼」
バトルアックスを構えた蜜月糖梨が熊型魔物の腹へと突撃する。まさしく隕石のような勢いでの突撃によりバトルアックスの刃が熊型魔物の腹へと深く突き刺さる。熊型魔物は天地が崩落するような痛みにこの世の終わりのような絶叫を上げようとするが、蜜月糖梨は間髪入れずにバトルアックスを腹から引き抜く。
どす黒く深い紅が噴水のように吐き出される。内臓まで引き裂かれた熊型魔物の絶叫はもはや筆舌に適わぬほどだ。蜜月糖梨は自由な左手でとっさに耳を抑えたが、間に合わなかった右耳の鼓膜が破れ激痛が走る。
蜜月糖梨の頭が痺れ視界に光が瞬く。足を止めてはいけないと警告をかき鳴らす理性に反して動きが鈍ってしまう体は震わせた熊型魔物の動きに弾き飛ばされる。
駄々をこねる子供のような惨め極まりない動きだが、ビルほど大きな巨体であればそれでも十分な攻撃力を持ってしまう。ビルの壁面に叩きつけられた蜜月糖梨は擦り切れた雑巾のようにアスファルトに墜落する。
辛うじて受け身を取った蜜月糖梨は骨一本折れてもいなかったが、強い衝撃を受けた筋肉は悲鳴を上げて動くことができない。唯一動く外眼筋は蜜月糖梨のひとみに凶悪な熊型魔物の姿を映すだけで指一本動かしてはくれない。
地に這って見える熊型魔物の姿は、蜜月糖梨の目にそれまでの何十倍もの大きさに見えた。苦悶に歪み滝のように垂涎する口も臓物交じりの赤黒い道を作りながら這いずる腹も、人を殺す悪魔の象徴であるようでさえある。
近付いてくる熊型魔物の歩みは決して速くないが、筋肉の痺れる蜜月糖梨には少し速すぎる。
熊型魔物と蜜月糖梨の距離が三分の一にまで縮んだ時、熊型魔物は腕を低く構えて張り裂けそうな眼力で蜜月糖梨を睨む。跳躍して一撃で蜜月糖梨を沈めるつもりだった。蜜月糖梨はバトルアックスを杖にしてようやく立てたところだ。素早い回避をできるような状態ではない。
「……ぃにたく、なぃ…………」
熊型魔物の構えは重心を左脚に集中させた構えだ。それによって右脚の負傷をカバーし、蜜月糖梨を確実に殺せるだけの攻撃を生み出させていた。熊型魔物の巨躯がダイナマイト百キロが爆発するような勢いで強く弾かれ――ようとした瞬間に熊型魔物の左脚が深く引き裂かれる。
全体重をそこにかけていた熊型魔物はあまりに無様にアスファルトに這い落ちる。
熊型魔物は蜜月糖梨への攻撃を柱とした極限の集中状態により痛みを一時的の克服していたが、無残にも痛みによってそれを破かれてしまったために腹を引き裂かれたとき以上の痛みで熊型魔物の脳内はぐちゃぐちゃにされてしまっていた。
体勢を整えなければならないと本能が警鐘を鳴らすが、それすら満足に叶わない。
蜜月糖梨は立ち上がって、翼を得たように飛び上がる。うわごとのように「やるじゃぁん。童貞野郎」そう呟く。構えられたバトルアックスが熊型魔物の頭蓋骨を向いていた。
蜜月糖梨の肉体は、そうまるで隕石のように、まっすぐに落下した。
「超隕石斬ゥ、ですぅ」