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カードオタクもやるときゃやる

作者: 森川秋幸

 昼に感じた腱鞘炎の痛みはすでに感じなくなった。

 見上耕平は相棒の分厚いフチなしメガネが体力限界さながらずれ落ちていても、一向に気にする素振りを見せない。血走る目はデスクトップ画面上に次々と生み出されるプログラミングコードを睨みつけている。ピアノ奏者の如き指さばきでホップステップジャンプをキーボード上で繰り出しながら、画面右下の時刻を見た。

 午後十時五十五分。

 つまり、残り五分。

 四社目となる現在の仕事は、毎日残業が当たり前の半ブラック企業だ。学生時代から数えて二十年のプログラミング経験を持つ見上ですら、突然舞い込んできた仕事はすぐに処理できない。が、独身の見上にとって残業はさほど苦痛ではない。むしろ少ないとはいえ、残業手当は大事な資金源になる。ゆえに、見上にとって半ブラックというのは、ラーメンセットについてくる半チャーハンと同じくらいありがたく、美味しい響きを含んでいるのである。

 だが、今日は特別な日だった。見上は一週間前から、この日のために念入りに準備してきた。仕事が入るとわかっていれば、事前に半休を申請していたに違いない。見上にとって、還暦を迎えた親の誕生日や架空の彼女との交際一周年記念日なんかよりもはるかに重要なイベントがある。

 時間は過ぎていく。午後十時五十七分。

 残り三分。

 仕事はあと一時間で完了できると確信した。いや、そう言い聞かせ、阿修羅マンのように縦横無尽に動き回っていた手指をピタリと止め、ポケットから携帯を取り出した。

 日本最大のオークションサイト『ダフーオークション』のアプリを起動する。いまだにダフーの意味を知らない見上だが、そんなことはどうでもよく、入札中の画面に移動すると、思わず声が漏れた。

「そ、そんな・・・・・・」

 三十年近くも前に登場した人気マンガ『セブンスエンブレム』の抽選限定カードの一枚が、当サイトに出品されたのは一週間前のことだった。このマンガは世界的に人気を博し、未だにリメイクやスピンオフがアニメで放映されるほどの国民的作品だ。一般的にエンブレムと呼ばれることが多いが、玄人ほどセブンスという呼称を使うことが多い。

 限定カードについては本来六枚セットの応募品で、当選人数が少なかったことから、幻とも謳われている。セットで販売すれば、百万円以上の価値があるとされているが、セットで販売されることはほとんどない。一枚か数枚たまたま残っていたものがこういったオークションサイトやフリマサイトに出品されるのがほとんどである。また、たとえレアなカードでも、状態の良し悪しでまったく価値は変わってくる。一角がほんの少し折れているだけで、値段が何倍も変動する。剥がれ跡など言語道断だ。それほど状態が物を言う。人間であれば、少し欠点があった方が可愛げがあるというのに、生命活動なきカードにはそんなもの不要なのである。

 見上は一週間前にこのカードが出品されていることを確認し、最高額十五万で入札した。過去の取引額を分析し、予算の最高額を打ち出したのだ。そして一週間が経過し、終了日である今日を迎えた。

 見上はここまで一度も入札額の動きを確認しなかった。オークションは直前で一気に値段がひっくり返る。終了一分前で自分が入札者であっても、落札できるとは限らない。直前で別のカードオタクに入札されれば、終了までの時間は五分延びるシステムであるため、数秒間で勝負が決まるわけでもない。

 オークションは真剣な駆け引きの上に成り立つ、命がけの勝負だ、と見上は勝手に思い込んでいる。商品の価値を熟知した上で、過去の取引相場額を頭に叩き込み、予算を決めておく。そして最も大事なことが、予定される落札時の時間を確保しておくことである。今回見上はこれに失敗した。予期せぬ仕事を抱え、仕事と生きがいの狭間で悶え苦しむことになった。

 納期は今日中。あと一時間で終えられると確信し、安堵して携帯を開くと、残り三分を切ったところでの最高額が表示されていた。

 二十、三万・・・・・・?

 バカな!

 自身の入札額をはるかに上回る額に、かつて高校受験する学校の場所を間違えて茫然自失したときくらい、開いた口が塞がらなかった。割引クーポンが配布されているわけでもない。こうなると見上の思考はスピード制限なしの5Gばりの超高速インターネットと化す。見上の知る限り、このカードが二十万以上で取引されていたことはただの一度もない。さらに見上自身、二十万を超えるカードを購入した試しがないのだ。

 喉から手が出るほど欲しいとはいえ、数か月分の残業代を注ぎ込むほど、このカードに価値はあるのだろうか。ノストラダムスの大予言を信じ込んで、二十世紀最後になにをすべきかを一晩中考え込んだとき以上に見上は考え込んだ。

 価値はない――。

 いや、ある。

 保存状態が良いのはもちろんだが、やはりこのカードの価値は上がり続けており、今後もそれは続く可能性がある。それに、ここを逃したら次またいつ出会えるかわからない代物だ。

 ふと、大学時代に取った経済学の授業で学んだ需要と供給の曲線図が頭に浮かんだ。自分のようにこのカードを欲っして止まないやつはごまんといるはずだ。その高い需要量と比べて、市場には滅多に出てこない。均衡価格は自然と上がっていく。つまり、この価格の上昇は決して偶然ではない。経済学という崇高な社会科学が理論的に証明してくれているのだ。

 誰も聞きはしないし興味もない自問自答に謎の興奮を覚えていく見上。

 出し惜しみするのは、本当はドリップを飲みたいけど、結局三百円で八十杯飲める粉コーヒーを選んでしまうときだけで十分である。

 後悔するな、耕平。命を賭けて手に入る物じゃないぞ。

 脅迫まがいの自己暗示をかけ、深呼吸して気持ちを落ち着かせた後、見上は当初の額の十万増額の二十五万を入力し、決定ボタンを押した。

「あなたが最高額入札者です!」

 その表示を確認すると、心が弾むと同時に、目と頭に極度の疲労を覚えた。

 終了時間が五分延びる。他に何人このカードをウォッチしているだろうか。この額まできたら、ほとんどが手を引いているはず。

 ウェブオークションは麻薬だ。見上はタバコを一本も吸った経験がないが、オークションを麻薬と表現することに絶対の自信を持っている。

 もし初めからこのカードが二十五万の即決価格を提示していたら、即落札していたか?

 答えはノーだ。

 予算を十五から二十と決めていた時点で、それはありえなかった。目に見えない競争相手に高額の銭を見せつけて圧倒させる。一本の電話より百通のメールを選ぶ当代きっての臆病者の思考だが、それに一種の快感を得てきた見上は、麻薬に神経を侵された人間といっても過言ではない。

 だが、それでも一抹の不安は拭えなかった。

 急いで仕事を再開しようとしたとき、携帯が揺れた。画面上には、「あなたの入札額を上回る入札がありました」との通知が見えた。驚愕のあまり、額の神経が震えた。

 慌ててアプリに戻ると、入札額は二十五万五千円となっていた。見上はたまらず目を閉じて唸った。時間があればじっくり戦いたいが、いまはそうはいかない。

 若干震える指で三十万と入力したが、決定ボタンまでは押せず、心の拠り所がない見上は、先ほど咄嗟に思い浮かべた需要と供給の曲線を心の支えにして思考をかけ巡らせた。

 半年分の残業代がこの一枚でとぶ。

 八十年生きると仮定すると、半年という時間は人生のわずか一パーセントにも満たない。自分は死ぬまで働くことを望んでいるから、半年なんて大したことないのではないか。

 もし万が一、他のフリマサイトでもっと安値で出品されたことを知ったとき、自分は平静を保てるだろうか。

 いや、無理だろう。滅多に出品されるものではないのだ。かつ美品である可能性は極めて低い。海外でも支持され、未だに人気を博すマンガの限定カードだ。価値は今後も跳ね上がる可能性はあり、それ以前にもしかすると、もう二度と訪れないチャンスかもしれない。もはやこれは、過去の経験や理論的分析で決めれることではない。

 思わず笑いが込み上げた。自分は好きなカードのことになると、いついかなるときも脳内を活性化させ、驚くべき想像力を働かすことができてしまうのだ。

 刹那、これまでの自問自答はいったいなんだったのかと思うほど、当初の思考が跡形もなく吹き飛んだ。

 三十万の入力を消し、大幅値上げの三十五万を打ち込み、迷いなく決定ボタンを押した。

「あなたが最高額入札者です!」

 入札額を上回るたびに表示されるメッセージが、長き戦いに耐え抜いた者だけに与えられる、勝利の証にすら見えた。見えない相手にも、自分をも負かしてやった気分だ。これで負けても悔いはないという確信に、胸をなでおろす。

 オークションを戦い切った後のこの言葉にできない充実感と爽快感、まるで真冬に凍えた全身で熱々の湯たんぽを抱きしめたかのような至福のとき――これに比べれば、一仕事終えた後のわずかな達成感なんてかわいいものである。

 見上は携帯をカバンの奥底にしまい、再びキーボード上に指を走らせた。


 土曜の夜、見上は『灰谷屋』に来ていた。

 人気のない薄暗い店内の両側にはさまざまな種類のおもちゃがまばらに並べられており、その奥には冬の季節ぴったりのホワイトニット帽を被った店主の灰谷守がいた。

「あら、やっと来たわね、耕平ちゃん」

「ごめん、寝過ぎた。ていうか寒すぎて起きれなかった」

 見上は眠気眼をこすりながら、用を足した後のようにぶるっと身を震わせた。

「寒くなってきたわねえ。お肌もカサカサでやんなっちゃうわ。粉がふいたときにはもう、わたし絶叫しちゃうんだから」

「還暦のおじさんにしては上出来だと思うけど」

「還暦なんて言わないで。せめてちゃんと年齢で言ってほしいもんだわ」

 濃いまつエクに戦国武将を思わせる口を囲む城壁のようなひげは初対面にはインパクトが強すぎるのだろうが、三十年近くの付き合いになる見上にとっては慣れ親しんだ絵だ。還暦を迎えても鍛えることを忘れず、胸板は立派なもので、肌艶もいい。

 見上は奥まで進み、慣れた動きでレジの横にあるイスに腰かけ、深い溜息をついた。

「どうしたのよ、また何か見逃した?」

「九十二年版のキラのまとめ売りが出てた。それもたったの三千円。出品者は何を考えてるのかな。出す前に少し調べればどれだけ価値があるものかわかるはずなのに」

「あら、それは残念。よくある断捨離ってやつね。それか奥さんがあまり考えず勝手に出品しちゃったのかしら?買った奴はいまごろウハウハしてるわね。本当の価値を知らないってことほど人間にとって不幸なことはないわ」

「せめて僕が見てるときに出せよな」

「それが本音ね。もしかしてまた別の商品ページにメッセージでも送ったのかしら?わたしだったらその商品に一万円以上は払いますけど、取引キャンセルできませんか?って。本音は取引キャンセルしてくれませんか?なんだろうけど」

「うん、送ってやった」

「返事は?」

「まだない」

「あんまりやり過ぎちゃだめよ。サイトのルールでは、一度成立した取引に第三者がクビを突っ込んじゃだめなんだから」

「公平な金額で取引できるんだからいいじゃないか」

「もし自分が最初に見つけたら同じようにその値段で買っちゃうくせに」

「・・・・・・まあね」

「それより、二十八万で勝ち取ったカードは無事手元に届いたの?」

 その言葉を待っていたのか、俄かに目をぎらつかせた見上は携帯を取り出し、画面を見せた。

 最後の一枚を含めた、六枚コンプリートセットの写真を見せる見上は、会心のドヤ顔である。

「わお、ついに六枚揃えたってわけね」

「まあね、想像以上に高くついちゃったけど」

「三十五万まで覚悟したってどういうわけ?」

「仕事で頭がおかしくなってたのさ。本意じゃないよ。需要と供給の曲線がさ・・・・・・」

「え、なに?儒教と究極のコックさんが?」

「いや、とにかく本意ではなかった。この金額であきらめてくれて正直ホッとした一方で、本当に買ってよかったのかなって、今でも思う有様なんだから」

「まさかこんな値打ちものになるとはね。二十年前なんか五万円でも中々買い手がつかなかったのに。世の中不況だとか、日本はどんどん貧困になってるとかいってるけど、本当にそうなのかしら」

「ただ格差が広がってるだけじゃない?アメリカの新自由主義に影響されたんだよ」

「アメリカの新宿行き?」

「守くん、耳の中で粉ふいてない?」

「あら、やだ」

 灰谷は渋い表情を浮かべながら、小指で両耳をほじくる。

「高くついたとはいえ、念願の限定六枚セットを達成したってことで、お祝いしちゃう?」

「こんなことで祝ってばかりだ」

 灰谷は足元にある小型冷蔵庫からビール缶を二本取り出し、一本を見上に手渡し、二人同時にプルトップを開けた。満面の笑みで乾杯する灰谷と対照に、見上は鼻詰まりのような苦い顔をして開けたビールに口をつけた。

 灰谷屋は見上が幼いころから足繁く通う老舗のおもちゃ屋だ。三代目の灰谷守が店を切り盛りするころには、灰谷の好みで半分カードショップと化し、まだネットショッピングが盛んでなかった時代は、多くの若者が出入りして賑わう場所だった。いまとなっては灰谷屋もネット販売主体の骨董屋と化し、店を訪れるのは見上のような生粋のカードマニアか灰谷と親しいゲイの連中ばかりである。

 灰谷はいつものように棚に忍ばせているお気に入りのサワーオニオンチップスを口にしながら、簡単に一缶を空にしていた。仕事中、オークションの入札にギリギリまで追い詰められた話をすると、灰谷は大笑いした。

「わたしもウォッチしてたのよ。でもまさか耕平ちゃんだとは思わなかったわ。あそこまでいくと思ってなかったし」

「僕も思ってなかった。いっても二十くらいって踏んでたから」

「それがオークションの怖いところ。耕平ちゃんの言う麻薬ってやつよ。言ってくれれば代わりに勝負してあげてたのに」

「あんな高額の競り頼めないよ。もし守くんに頼んでたら落札まではいかなかった。あそこまで予算を立ててなかったからね」

「仕事に追われてたからこそ、振り切った勝負に出れたってわけね」

「果たしてそれがよかったのかどうか」

「よかったに決まってるじゃない。これで耕平ちゃんのセブンスエンブレムコレクションはあと残り一枚になったわけだ」

「その話をしちゃうか」

 ビール一口で顔を赤くする見上は、自虐的な笑みを浮かべた。

「お金さえあればいつでも手に入るわ」

「あのカードだけは――買いたくない、絶対にね」

 朱に染まる顔とは逆に、声のトーンは垂直落下して鈍い音とともに不時着した。

「かつて持ってたものだから?」

「まあね」

「他にもかつて持ってたカードなんていっぱいあったじゃない?大量にうちで売ったカードだって、また何倍もお金つぎ込んで集め直したくらいなんだから」

「それとこれとは別だよ」

「でも、状態が悪くても、最低百万の価値があるカードをタダでくれる人がいると思う?それこそわたしが止めるわよ。わたしだったら五十万は払いますよってね」

「死ぬまでになんとか手に入ればいいさ」

「わたしが生きてるうちには難しいかもね、残念だわ」

 見上には友達と呼べる相手はほとんどいない。灰谷守は見上にとって貴重な存在だ。

 小学校の頃はいじめに遭い、男子だけでなく女子からもバカにされ、人間という存在が嫌いになった。

 当時人気のカードをひたすら集めることが唯一の救いだった。父親の稼ぎがよかったおかげか、それなりにもらっていた毎月の小遣いやお年玉を余すことなくカードの購入に注いできた。その習性は自分で稼ぐようになっても変わっていない。

 そんな見上に家族は————特に父親と兄の一郎は————まったく理解を示さなかった。

 六つ上の一郎はまるで真逆の人間で、同級生と同様に見上をコケにし、父親も見上を目の上のタンコブのように思っていた。その関係性はいまも変わっていない。兄は大手製薬会社に就職して出世し、人間嫌いの見上すら認めてしまうほどの美人と結婚し、周囲に恥じない立派な家庭を築いている。カードに人生を委ねている自分に勝ち目はなく、負い目しかないのは当然なのかもしれない。

 灰谷屋に通い出したのは小学校五年生のころだった。自宅から自転車で二十分という決して近くはない場所にあった灰谷屋は、見上にとって唯一の憩いの場所だった。周りは知らない人ばかりで自分がどういう人間かを探ったりはしない。宝石店にははるかに劣る安っぽいショーケースには見上が所持していないレアカードがズラリと並べられ、レジの壁にまでカードがディスプレイされていて、見上の心は踊った。

 当時店主だった灰谷の父がいて、若い灰谷もすでにいた。まだ髪が豊富にあり、化粧もしていない灰谷は、口調も普通で、どこにでもいる明るいお兄ちゃんタイプ、まさかそのとき彼がゲイであることに気づく者など一人もいなかった。

 初めて会話をしたとき、灰谷は「カードをお店に持ってこないように」と見上に教えた。たとえ持ってきたとしても、周りの人間には見せないようにと忠告したのだ。

「俺と親父がいる限り、店の中で盗みはさせない。けど、一歩店の外に出たら守り切れない。ここにはトレードしようとか言って、平気で小学生からカードを巻き上げる輩も大勢来るからくれぐれも気をつけな。ここで高いカードを買うときもだ」

 見上は灰谷の忠告を守って通い続けたが、ある日事件は起こった。

 小学校六年生のときだ。

 当時圧倒的な人気を誇っていたセブンスエンブレムの博覧会があった。チケットを購入し、見上は一人そこに参加したのだ。博覧会でしか購入できなかったカードのリメイクなどは、いまとなっては高額で取引される代物だ。そこでの一つの目玉は参加者全員がチケットと引き換えに参加できる抽選会だった。限定百名に当たるメモリアルカードには1から100までのシリアルナンバーが刻印されており、限定にふさわしい見開きの台紙に封入されていた。

 そして、見上は幸運の一人に選ばれた。シリアルナンバーは9番。いまとなっては人生の運をそこですべて使い切ったと思っている。灰谷屋に持ち込んだことも、自ら誰かに見せることもなかった。見上は灰谷の言いつけを守ったつもりだったが、そうではなかった。一歩店の外に出たら守り切れない可能性があることを、わかっていなかったのだ。

 このカードは今となっては幻の中の幻と言われ、状態が未使用であれば、たった一枚でも五百万は優に超えるといわれており、年々価値は上がり続けている。

 なぜそれほどの価値があるのか。

 理由は三つ。

 一つはセブンスエンブレムが今なお根強い人気があること、

 二つ目に百名という最少の数であること、

 そして最後に、一枚ずつにシリアルナンバーが刻印されていることだ。

 見上はこのカードを紛失した。そのショックで自殺も考えたが、カードを紛失して自殺したという報道と、カード一枚のために自殺した息子と世間から認知されてしまう家族のことを考えると、自殺に踏み込むまでには至らなかった。代わりに、当時所持していたカードをそのときすべて手放したが、中学生の途中で再びエンブレムコレクターに戻った。同時期に、父親が灰谷屋を引退して息子が正式に店主となったとき、灰谷は本来の自分を見せるようになった。呼称も「俺」から「わたし」に変わった。

「耕平ちゃん、これ見て」

 指先に付着したスナックをロリポップキャンディさながらに舐めた手で、宝石箱に似たシックの箱を取り出し、開けて見せた。中には光沢のある分厚いスリーブケースに入れられた手の平ほどもない正方形の小さなシールが四枚置いてあった。一目見て、いまなお数多くのマニアの支持がある『オカルトマン』のシールだとわかった。もしペットを飼っていたら自分のペット以外には目もくれないであろう見上は特段興味を示さず、「レア物?」とだけ聞いた。

「四十年前の応募限定セット。こんな新品同様のセット品はあまり見かけないわ」

「まさか、二十八万超え?」

「値段は教えられないの。秘密の守くん」

 あくまで趣味の範囲である見上と違い、カードショップを生業としている灰谷の手を出す範囲は広く、利益が出る商品の行方や取引には余念がない。灰谷のおかげで手に入ったカードも少なくないのだ。

 幻の珍味を目の前によだれをおさえきれないでいる灰谷の興奮と喜びの様子を見ると、相当な値打ちものなのだろう。同じコレクターとしてその気持ちは十二分に理解できる。コレクターにとって、やっとの思いで手に入れた品は、自分の命の次に大事なものと言いたいものなのだ。

「そしたらお互いに乾杯だ」

「嬉しいわ、耕平ちゃんとお祝いできて」

「独り身同士で、寂しいね」

「ごめんなさいね、いつもこんなオカマと一緒で」

 オカマでも、僕にとってはたった一人の――そんな臭いセリフは思い浮かぶことすらなく、二人は手に持ったビール缶を再び突き合わせた。


 ある休日の土曜日に、見上は縁もゆかりもない埼玉県の草加市に来ていた。いまとなってはカードも専らオンラインで売買する見上にとって、隣県はもはや異国に等しい。

 その理由は一週間前の出来事に遡る。

 見上は五年前に始まったフリマアプリサイト『ナンデモフリマ』の自称ヘビーユーザーだ。

 手数料は一割とまるで闇金並だが、ユーザーが多いことから商品の数も圧倒的に多く、種類も多岐に亘る。商品を売っても買っても、売り手また買い手から、『良い』、『普通』、『悪い』の三段階の評価を受ける。サイトスタート時から利用していた見上は目当ての商品を購入するだけでなく、副業さながらダブったレアカードや、コレクションには不要と感じたカードを主に売りさばいていた。

 例えば、一時期集めていたプロ野球カードなどは、高校時代に野球部の連中に許しがたい嫌がらせを受けたことが尾を引き、悪魔祓いさながら、途中でやめてすべて売り払った。

 すでに所持していても、安値とわかれば購入し、それを適切な値段で売れば利益が出る。

 灰谷ほどではないが、数多くのカードに精通している見上だからこそできる技であり、稼ぎ方だ。

 それにはまり込んだ見上は、片時も携帯を離せない。仕事以外のときはほとんどそれらのフリマアプリを眺めては獲物をカードハンターさながら狩っているのだ。仕事では九割以上パソコンに向き合い、それ以外は携帯を見下ろしている。目は病的なほどブルーライトに曝され、元からの猫背は悪化する一方だが、やめられない。他の会社からは一度もきたことのないヘッドハンティングの連絡が灰谷屋から毎日くるだけのことはある。

 五年もの間、売買両方でこのナンデモを利用してきた見上の『良い』の評価は999まできていた。四桁の評価まで取引経験がある人はそれなりに見かけるが、見上が誇らしいのは、千回に達しようとする膨大な取引すべてが、『良い』の評価を受けていることだ。取引先から悪評を受けることはあまり起こるものではない。商品の説明が受け取った実物と異なるとか、梱包がひどい、発送が遅い、評価をつけるのが遅い、メッセージのやり取りで嫌な気分をしたなどが大半である。嫌がらせがない限り、正直な取引をすれば『普通』や『悪い』の評価がつけられることはない。とはいえ、千回近くの取引を実施して、すべてが『良い』の評価を受けることは中々できることではないのだ、と実際は知らないが、見上はそう自負している。少なくとも、見上はきっちりとした自身の性格を生かし、抜かりなくやってきたといってよい。

 そして十日前、ナンデモで千回目の取引をした。購入ではなく、エンブレムのキラカード単品が売れたのだ。丁寧に梱包し、売れた翌日すぐに発送した。

 千回も取引をしたことに驚く自分を認める一方で、そろそろ潮時なのではないかとも思っていた。

 先日手に入れたエンブレムのカードで、見上が手に入れるべきカードは残り一枚となった。灰谷は数百万用意すればいつでも買えると言ったが、見上にとってそれは正しいようで、正しくない。解決する術を知らない複雑な気持ちがどうしてもある。

 発送して三日後に受け取り評価の連絡がきた。

 結果は、見上の期待を裏切り、自信を粉々に砕き切った。マイページの評価欄には、999の『良い』と、1の『普通』が記録されていた。

 まさかだった。

 驚愕のあまり、ページを何度も更新して確認してみたが、結果は変わらなかった。小学生のとき社会のテストで十点という取ったこともない点数を取ってしまい、返却されたテスト用紙を穴があくほど見つめた依頼の見返しぶりだった。

 見上にとって『普通』という評価は普通ではない。一本のCMで一億稼ぐ有名芸能人にとって塩といえばトリュフ入りのオーガニックソルトが普通の塩で一般人が食べる塩は理科の実験用に使う食べない塩扱いであるように、見上にとって『良い』という評価が普通であり、『普通』という評価は大いなる屈辱、敗北なのだ。ナンデモというフリマの世界で、誰も知らないとはいえ、見上は不敗神話として語られる絶対的勝者になるはずだったのだ。

 見上のプライドはズタズタに引き裂かれたといってよい。

 思わず頭を抱えた。評価のコメント欄には、普通にした理由も特に書かれていない。

 一体なにが気に入らなかったというのか。

 見上は自分が受けた評価を確認せずに、すぐに相手の評価をつけてしまったことを後悔した。知っていれば、『良い』の評価をつけはしなかったし、その前に正式なメッセージとして、なぜ『普通』と評価したかも聞き出せた。

 相手の評価履歴を見ると、まだ数回しか取引経験がないことがわかる。フリマアプリのビギナーあるあるかもしれない。たとえ受け取った品が自分の想像よりもやや劣ることがあっても、対応や発送時期がしっかり遵守されていれば、『良い』の評価をつけることはある意味で暗黙の了解だ。利用経験が長い人ほどそれを熟知しており、試しに使い出した程度の人間だと、つける評価に対してさほど責任を持たないというのが見上のトイレットペーパーのダブルはシングルよりもお得かどうかという疑問より意味のない自己満に近い考察だ。

 可能性は低いが、単なる嫌がらせもありえる。購入する商品にもよるが、購入する前に出品者の評価を確認することは重要だ。評価が極端に悪いことはほとんどないが、中にはその類の出品者がいる。その場合、その商品の説明や状態については、すんなり信じることはできない。今回の購入者は、見上の評価を確認して、『良い』以外の評価をつけてやろうと目論んだのかもしれない。ネット上のやり取りで相手の顔まで見ることはできない。とんだいかれぽんちが存在していてもおかしくないのだ。自分自身も含めて、人間とはつくづく信じられない生き物だと見上は思い知る。

 もう一点、気になることがあった。セブンスエンブレムといえば、男子に人気の週刊誌でスタートしたマンガであることから、そのカードを買うのはほとんど男子である。だが、今回見上から購入したのは、女性の名前だった。もちろん、本名を知られたくない理由から、自己責任の元、宛先名として偽名を使用するのは可能だ。男が女性の名前を使った可能性もある。ナンデモでは購入者の住所や名前を出品者に知らせない匿名配送も可能だが、見上が売買しているカードは単品か数枚セットであれば、普通郵便の方が安く済む。配送方法を普通郵便で指定する場合は、相手の住所が表示されるため、見上はトラブル防止目的で、念のために毎回購入者の住所をスクショして保管し、無事取引が完了すれば削除するようにしていた。まさにリスクマネジメントの模範だと、見上は灰谷にいつも自慢しているが、灰谷はリスクマネジメントの意味を知らないままでいる。

 今回もご多分に漏れず、埼玉県草加市が宛先の「宮崎由佳」という名前を再確認できた。

 別に出品しているページでメッセージを送ろうと考えたが、どうやら宮崎由佳は買う専門のようで、一つも出品がなかった。出品している内容によっては本当に女性かどうかも確認できたが、それは叶わなかった。自己紹介文も女子が使いそうな絵文字などが並んでいれば確信を持てたが、性の判別まで可能にする長々しい文章ではなかった。そろそろ引退という謎にかっこつけた考えは跡形もなく消え去り、自尊心を傷つけられたとばかりに、この件が頭から離れない日々を過ごす羽目になった。

 そして、見上は一人草加市に来ていた。煎餅が有名な場所という情報のみで、もっと地方を感じる地域かと思ったが、到着した草加駅は煎餅の印象とはほど遠く、駅構内だけでもショッピングや食事も十分楽しめるような、東京の真ん中と大差ない雰囲気を感じた。

 なぜ『普通』の評価なのか。その答えだけを求めてやってきた。

 寒くなりつつある土曜の空気に対抗してマフラーを首に巻き、クリーニングしないままクローゼットの底で埃をかぶっていたPコートのポケットには少し大きめの手紙封筒が一通入っている。

 フリマアプリの取引評価を不服に思い、購入者本人に直接会いに行くなどしたら、気持ち悪がられて逃げられるのは必然で、しまいには警察に通報されてもおかしくない。相手が女性ならなおさらである。『普通』の評価が下されて、本当の意味でフリマの世界から退けばいいものを、見上は原因を追究する暴挙に出たということだ。これで捕まれば、ニュースのネタにされてしまいそうである。

 見上自身、なぜわざわざここまで来たのかよくわかっていなかった。手紙は直接投函するつもりもない。直接投函すれば家に来たことがばれ、余計相手を怖がらせるだけである。手紙はあくまで郵便局を介して送らなければいけない。

 宮崎由佳の家は草加駅から歩いて二十分ほどで行ける距離にあった。二階建てのどこにでもあるアパートが彼女の住んでいる家のようだ。築年数は小ぎれいな見た目から浅く、ドアの数と全体の大きさからいってオールワンKルームの一人暮らし用だ。

 見上は宮崎由佳の住む二〇二号室の場所を確認し、何をするでもなく、アパートから少し離れたところで待機した。ここに来た理由がもし何かあるとしたら、宮崎由佳という人物が本当に女性かどうかを確かめたかったのだろう。どんな女性が自分からカードを購入したのか、どんな女性が適当に『普通』という評価をつけたのか、どんな女性が我が偉業を台無しにしたのか。

 もちろん、ただの興味本位である。極論、見上は暇だったのだ。であるならば、誰も知る由もない、罰せられることもない、正当化可能な半ストーカーまがいのことを、傷つけられた自尊心を癒す方法の一つとして実行するのは、暇つぶしの一環になる。

 二〇二号室がギリギリ視界に入るアパートから少し離れたところにある自販機の前で、微糖の缶コーヒーをちびちび飲みながら待つことにした。相手が本当に女性かどうかも、またいくつくらいの年齢かどうかもわかっていない。セブンスエンブレムは未だにリメイクがアニメで放送されるほどだから、世代を超えて人気がある。だが、昔のカードに手を出すというのは、それなりにマニアックなはずだ。

 見上くらいの年齢の兄がいて影響を受けた女性を想像する。それかまだ学生のオタク。同人誌から興味を抱き始め、昔のカードに手を出すまでになった。何も確証はないが、はっきり言えることは、見上より年下だということだ。年上、つまり四十代以上の女性が、フリマアプリで子供が買ってたカードを買うとは思えない。あのアパートの大きさなら家族が住んでる可能性も低いため、子供のために買ったということもないだろう。

 ストーカーであろうとなかろうと、善意も悪意もなくとも、妄想は自由である。どうせ二時間も経てば、自分の愚かさに気づくはずだ。

 二本目は無糖のブラックだ。飲み終えるのに少なくとも三十分はかかるだろう。

 灰谷が知ったらこんな間抜けなことをするなと言うに違いない。灰谷のみならず、世界中の人間が異口同音に言うだろう。

 わかっている。自分のやっていることがどれほど無意味で異常なことか。自分が本当に精神異常者で嫌がらせを生きる目的にしているような人間だったらどうだろう。そんな人間滅多に存在しないのだろうが、そんな人間とカードたった一枚を取引するために住所を公開する羽目になり、深く考えず『普通』という評価をつけたことで自分の身を危険に晒すことになれば、その被害者はよほど不運というしかないだろう。

 口内の不快を洗い流したいと、三本目に水を買おうと思ったが、突如くる尿意を恐れてやめた。金ももったいない。見上は待っている間ずっとフリマアプリのサイトを眺めていた。買うでも売るでもない、出品されている似たようなカードのページを更新し続けて、何度も見る。ただ見るだけ。ウェブという無責任で無秩序な世界に売りに出されたカードの適切な価値を瞬時に見極め、買う価値があると判断すれば買い、利益が出るものは売る。競争相手の出現も予測し、余裕があれば値段交渉もする。まるで何億という大金を動かすトレーダーかバイヤーになった気分で。

 それが見上のカードコレクターとしての戦いであり、ここ数年の見上の人生そのものだった。

 休日に誰一人知らない地域で一人自販機の前に立ち尽くし、無糖のブラックに顔を歪め、視線はアパートの一室と携帯の画面を交互に延々と行き来する。ここで盗難か痴漢か殺人のいずれかが惹起したら自分は犯人候補の一人だろう。だが、警察に見られるより、近隣の住人に見られるより、家族には絶対に見られたくないと思った。この姿を見て、両親は息子の人生をさらに絶望的に嘆く材料を見つけたと、内心喜ぶ気がする。いまごろ良き夫となり、パパとなって休日を家族に捧げる兄は、「お前はやっぱりどうしようもないクズだ」と冷淡な眼つきで罵ってくれるだろうか。

 埼玉まで来てどうしてこんなことを考えなくてはいけないのか。

 萎えることを考えるのはやめようと思い、もし灰谷がいたずらできわどいパンティの一枚でもズボンのポケットに忍ばせて、職質の際にそれが発見されたらどんな言い訳をしようかと、もやしは一袋何本入っているかどうかという疑問と同じくらいどうでもいい妄想に切り替えることにした。

 ふと視線を上げると、お目当ての部屋のドアが開き、人影がちらっと見えた。一瞬にして口の中が乾き、心臓が高鳴った。

 ゆっくりとした足取りでアパートに近づき、下りてくる人間を視界に捉えた。

 女性が一人。ダークグリーンのニット帽を被り、黒髪が肩にかかっている。グレーのパーカーにジーンズ。メガネはしていない。演技など一度もしたことはないが、何気なく、草加市に住んでもう五年くらいの自分をイメージしながら、ごく自然に近づいてみる。

 階段を下りた彼女は――偽名でなければ宮崎由佳は――見上の方へと歩いてくる。

 心臓の鼓動が速くなる。相手は自分を知らず、自分は相手を知っている。自分のカードを買い、記念すべき千回目の評価で『普通』という屈辱の烙印を押した女。

 彼女はこちらを一瞬たりとも見ず、二人は離れていった。

 小柄だが、切れ長かつ大きな目は彼女の強さを示し、眉毛はその目に覆い被さるほど近く、鼻は細長く見えた。肌は白い方。ジーンズは膝元が少し破けていた。

 兄がセブンスエンブレムの大ファンで、兄の影響で小さい頃から男物に触れることが多く、少女マンガにはまったく疎い。友達も男友達の方が多い。一人暮らしを始め、これといった興味も彼氏もいない。何となくみんなが使ってるフリマアプリを覗いてみたら、お兄ちゃんの影響で好きだったマンガのカードが売られていた。そして懐かしい好きなキャラクターのキラカードをたまたま発見し、衝動的に購入した。手にした物は、想像したものと違い、大したことなかった。

 だから、『普通』の評価をつけた。

 まるで自分がシャーロックかコナンになったかのような錯覚を振りほどき、見上は慌てて評価ページから彼女のページへとび、彼女の評価ページから彼女を評価した人たちの評価ページを見た。そこから彼らがどんな商品を売っているかを確認できる。ほとんどの出品者を見上は知っていた。見上同様に、エンブレムのカードを主に収集し、売買している連中である。つまり、まだ取引が少ないとはいえ、彼女は見上以外からもエンブレムのカードを購入している。

 彼女は集めているのだ。見上が集めてきたほんの一部に違いないが、同じものに興味を持ち、目覚めたのだ。

 見上は女性と一度も純粋な恋愛をしたことがない。社会人になってから、無理矢理合コンに連れ出されたことはあったが、趣味はカード集めという発言が最初で最後となり、最悪な記憶として刻まれるだけに終わった。宮崎由佳は見たところ、見上がおおよそ出会うことのない女性である。

 見上が妄想した男まさりな女性かどうかは不明だ。中身は男の野蛮さなど受け入れる余地もない完全無欠の女子かもしれない。

 自分の頭の中だけならば、妄想は自由で無限だ。罰せられることもない。

 心は高鳴って止まなかった。

 見上が求めてきたものをいま彼女が求めているとしたら、宮崎由佳という女性は、見上が知り得る女性の中で、『良い』『悪い』『普通』の三段階などで評価しようがないほど、最高中の最高である。

 携帯が揺れた。電話だ。見上に電話してくるのは灰谷くらいしかいない。

 画面を見て高鳴る心臓が瞬く間に冷めて急降下した。まるで今日の己の破廉恥な行為を終始見ていたと言われているような気分に陥った。

 母親からだった。


「耕平ちゃん、あなた何してるの?」

 見上はいつものように閉店後の灰谷屋にいた。灰谷は心なしか宮崎由佳が被っていたニット帽に似たものを頭に包んでいる。

「さすがの守くんもそう言うと思ったよ」

 見上は定番の自虐的笑みを浮かべ、ほろ苦いビールを一口含む。

「さすがの守くんもじゃないわよ。天然のオカマもびっくり。ストーカー一歩手前ね」

「一瞬だけど、ストーカーの目と心を感じた気がしたよ。自分勝手な理解と解釈に操られる自己陶酔的な感覚にね」

「耕平ちゃん、オカマの友人として言うけどね、あなた、危ないわよ」

「異常?」

「そうよ、異常よ。超異常よ。変態よ。わたしが言える立場じゃないけど」

「知ってるよ。昔から家族にそういう目で見られてたから」

 灰谷は缶ビール半分を一気に呷り、正真正銘の男の濁ったゲップをかます。

「初めて劣った評価をつけられて、その評価者の家を訪ねにいくなんて初めて聞いたわ」

「世界で初めてかもしれない」

「おそらくね。世界まる見えで放送されてもおかしくないわよ。所さんとビートたけしもさすがに苦笑いね。で、行ってみてどうだったのよ?その宮崎とかいう女は実在したの?」

「名前は本名か知らないけど、いた」

「エンブレムのカードを買った女が本当にいるかどうか確認だけして、帰ってきたのね」

「一応手紙も書いたんだ」

「て、手紙?って、何の手紙よ?」

「突然のお手紙で大変失礼いたします。先日ナンデモのサイトにてセブンスエンブレムのカードを購入いただき、誠にありがとうございました。出品者の見上耕平と申します。東京都内でエンジニアとして働いております。初めに、突然このような手紙を書いて送りつけたことに対しまして、深くお詫び申し上げます。気味が悪いに違いないのですが、まずは商品を購入いただいたことに感謝申し上げます。一方で一点、どうしても確認したいことがあり、無礼にもこのように手紙を送らせていただきました。実はあなた様の名前を拝見し、もちろん本名でない可能性も重々承知しておりますが、女性であることに非常に驚きました。と言いますのも、私はこれまで三十年ほどセブンスエンブレムカードのコレクションをし、大勢の方々と売買をしてまいりましたが、女性の方と取引したことはこれまで一度もございませんでした。なので、今回の宮崎様のご購入は、セブンスエンブレムマニアの私としましては、大変な驚きであり、感動でした。こんな身勝手な手紙を書いた上に無礼極まりないお願いと存じますが、なぜ今回カードを購入することとなったのか、教えていただけないでしょうか?私からの便りはこれが最初で最後と約束します。返信用の便箋と封筒を入れさせていただきましたが、当然無視していただいても結構です。お手数おかけしますが、手紙の処分はそちらにお任せいたします。不快な思いになっていないことだけを切に願います」

 訥々と語った後に不思議と得意げな表情でビールを一口入れる見上を、灰谷はなぜかニット帽を取り外し、グロテスクな新種の昆虫を目の当たりにしたかのように眉間に皺を寄せ集め、睨んだ。

「耕平ちゃん、どういうことよ?」

「どういうことって?」

「なにをいきなり語り出したのよ?」

「送った手紙の内容だよ」

 灰谷は目を丸くしたかと思いきやそれを鋭く吊り上げ、残り半分のビールを一気に飲み干し、ごつい手で握り潰した。

「いくつか質問したいんだけどね、いまあなたが裁判で嘘ばっかりの証言をするかのように告白したことを、本当に手紙に書いて送ったの?」

「そんな大袈裟だな。莫迦だってのはわかってるさ」

「そんな長文をなぜあなたは暗記してるの?」

「何度も慎重に書き直したからね。あんなに繰り返し文字を書いたのは学生以来、いや初めてだったかもしれない。便箋の箋という漢字も覚えちゃった」

「あなたはなぜ『普通』の評価をつけたのかと聞きたかったんじゃなかったかしら?」

「最初はその内容で書いて準備してたんだ。でも、彼女を直接見たら、何だか書き直したくなって、家に帰って修正したんだよ」

「どうして書き直したの?」

「それは――まあ、僕にもわからない。質問は以上?」

「耕平ちゃん、あんたまさか、その宮崎由佳という偽名かもしれない女に惚れたんじゃないでしょうね?」

 少しの間、回答に窮した後、「そ、そういうわけじゃ、ないさ」と苦し紛れに返した。

「耕平ちゃん――」

「ノーモアクエスチョン、オーケー?」

「オカマラブクエスチョン。でも、イエス、オーケー、ノーモアクエスチョン」

「守くん、ちょっと怖いよ」

 灰谷は天高く燃え上がった炎のような気を静めるように、取り外したニット帽を頭に戻した。

「耕平ちゃん、あなたとの付き合いは、さっき言ってたエンブレムマニア歴じゃないけど、もう三十年近くになるわ。あなたは小学生で、わたしはゲイであることを親に打ち明けて、会社を辞めてこの店を手伝うようになった頃だわ。見上耕平という人間を誰よりも知ってるつもりよ。そして今日、わたしはその見上耕平という人間の底を見たわ」

「いくら守くんでも引くことくらいわかってたさ。本当は話したくなかったよ」

「引いたわ。六十のゲイもドン引きよ。でもね耕平ちゃん、あなたすごいわ」

「色んな意味ですごいだろうね」

「でもね、手紙で書いたようにもう送っちゃだめよ。今回のくらいじゃその子も警察に通報なんてできないし、しないだろうけど、次やったらお縄くらっちゃうわよ。フリマアプリの評価が気に入らなくて手紙を送りましただなんて、そんなお茶目なストーカーに一瞬なっただけで人生棒に振っちゃだめだからね。わたし嫌よ、カードオタクストーカーの親友は潰れる寸前のおもちゃ屋の店主で、しかもゲイだなんて紹介されたら。わたしまで捕まっちゃいそうだわ」

「はは、考え過ぎだよ」

「オカマは普通の人よりセンシティブで思慮深いのよ。感性も鋭いの、覚えておいて」

「今度は僕から質問。僕よりも明らかに若い女性が、エンブレムのカードに興味を持って、実際買うことなんてあるかな?」

「あなたのいま最も推しメンの宮崎由佳先輩のことかしら?」

「かもしれないね。そんな女子っていると思う?」

「耕平ちゃん、何を言ってるのよ。目の前にいるじゃない」

「守くんは、例外だよ」

「差別もいいところだわ。わたしの初恋はマッスルハニーのミケランジェロ・ガーナ―と小林モリモリ道場の末っ子、小林拓之心なんだから」

「マッスルハニー?たくのしん?」

「少女や乙女が少年マンガのキャラクターに恋い焦がれることは昔からよくあるってことよ。サッカーが好きな女子はキャプテン空の小日向修二郎を好きになるようなものよ。彼女のような女子がいてもおかしくないわ」

「でも僕は今までそんな女性に会ったことがなかった」

「耕平ちゃん、あなた女の子というか、人とそんなに話したことあったかしら?」

「オークション、フリマを全部合わせたら、千人以上の人とやり取りをしたよ」

「あらま、意外に頑固な子ね」

「あの子は若かった。感動しちゃったんだよね、なんだか」

「感動することは良いことだわ。でももう忘れましょう。手紙はどうせ返ってこないわ」

「そんなことわかってるよ。心配しないで」

 灰谷の率直な言葉に納得し、ぬるくなったビールを不完全燃焼な体の奥に流し込んだ。

 その宮崎由佳から手紙が返ってきたのは、見上が手紙を出してから、およそ一週間後のことだった。


 見上は来年四十になる。

 八十まで生きれるとしたら、人生の折り返しもまもなくということだ。

 人間の陽の感情といえば、喜び、安心、幸福、愛などがあり、負の感情は怒り、後悔、絶望、嫉妬、殺意、その他諸々あるが、見上の人生の記憶の中で、その両方の感情の傑作といえば、美品と紹介されているカードを購入したら折れも捲れもある粗悪品だったとか、少し可愛いなと思っていた女子が陰で自分を気持ち悪いとかゲロ吐きそうと言っているのが聞こえてしまったこととか、それなりに早く出勤したのに途中で腹を壊して会社に遅刻したとか、昔は仲の良かった家族が急に自分を哀れみの冷たい眼で見るようになったとかではない。

 小学校六年生のとき、髙山健太という同級生がいた。

 髙山はその名のとおり健康的で体が大きく、運動神経もよくて勉強もできる、クラスのリーダー的存在だった。性格も明るく、一見仲間思いの良い奴に見せるのが、見上にとってたちが悪かった。

 髙山は見上のような弱い者には傲岸不遜であり暴力的だった。担任も含め、周りはみな、髙山はリーダーであり、髙山のやることは基本的に正しいと思い込む節があったため、多少髙山の悪い一面を見たとしても、それを咎めることはなく、大しておかしいと思わなかったのだ。見上はそんな髙山がハトとカラスの糞を足して倍にしたものとみなし、心の底から嫌っていた。

 ある日のこと、髙山が急に見上の家に遊びに行っていいかと言い出した。今の今までそんなことは一度もなく、理解できずになぜかと問いただすと、他の同級生の家には行ったことはあるけど、見上の家にだけは遊びに行ったことがないという理由を述べ始めたとき、髙山の国語の点数は五十点以下に違いないと見上は思った。髙山はとりわけ近い友達と軍団のようなものを作っており、基本そのメンバーとしか遊ばないタイプだった。しかも髙山はそのグループのリーダーだ。見上の家に一人で遊びに来るというのはいささかおかしかった。見上は不気味に思い断ろうとしたが、髙山の強い押しに断る隙も与えられず、一緒に下校して見上の家に行った。

 家に着くと、母親は知らせもなしに困ったという素振りを見せる一方で、滅多に連れてこない友達を連れてきたことで、見上の暗澹とする思いも知らず喜んでいるように見えた。

 それも相手が髙山健太だったからなおさらなのだ。髙山は親の間でもウケがよかった。クラスの正義とパワーのシンボルだった髙山のことを悪く言う人は男女ともにいなかったからだ。見上の母親もご多分に漏れず、友達がほとんどいない見上がクラス一の人気者を連れてきたとばかりにはしゃいだのだ。反吐が出るとはこういうことだと、見上は無知の母親に苛立ちを覚えた。

 部屋へ案内し、母親が飲み物とお菓子を持ってきた。そして二人っきりになると、初め髙山は他愛もない話を始めた。あまり記憶にないが、自分もこんな一人部屋が欲しいとか、常にこんな風に飲み物とお菓子が用意してあるのかなど、どうでもいいことだった。早く帰ってほしいとだけ願っていたのだ。

 すると突然、髙山が見上の集めているカードを見たいと言い出した。

 髙山が見上の部屋にいること自体異常ではあるが、カードを見たいという行為はもはや奇異に思えた。当時の小学校高学年の間では、エンブレム以外にもアメリカ発祥の『プールザマジック』やアニメ発の『モンスターズキングダム』などはプレイ用のカードゲームとして高い人気を誇っており、エンブレムはどちらかというと人気がやや落ちてきていた時期で、逆にこの時期に出ていたカードは出回った数が少なく、いまになって値打ちがついているものが多い。

 見上もプールザマジックやモンスターキングもいくらか所持していたが、小遣いをつぎ込んでいたのはほとんどセブンスエンブレムだった。見上がカードコレクターであることは少なくとも男子の同級生はほとんど知っていたと考えられる。つまり髙山がカードを見たいということは、エンブレムのカードを意味しているのだ。

 見上は大して面白いものではないと断ったが、髙山はお前にはそれ以外にないだろと皮肉り、結局断れなかった。

 一枚一枚丁寧にスリーブケースに入れているカードを、髙山が「こんなのが楽しいのか?」と手荒に扱い、莫迦にした笑みを浮かべる度に、胸の中はムカつきと不安が渦巻いて消えなかった。

「お前、セブンスエンブレムのイベントに行ったんだって?」

 まるで刃物の切っ先をあご下に突きつけられたような気分だった。

 博覧会に行ったことは誰にも言っていない。

 なぜ髙山がそんなことを知っているのか?

 また、なぜわざわざそんなことを聞くのか?

「どうして健太くんが知ってるの?」

「知ってて悪いか?コソコソして行くようなとこなの?」

 ただの皮肉ではない。ただ棘があるだけでもない。相手を見下した言い方だ。

「いや、別に――」

「他にも行ってる奴らがいたらしいよ。知る人ぞ知るってやつなんだな」

 寒気がした。

 一番のプライバシーに、立ち入り禁止という札を無視して土足で踏み込まれた気分だった。

 髙山は興味のないはずのカードを眺めながら、「ジュースのおかわりもらえる?」と空になったグラスを寄越した。見上はキッチンに行き、グラスにオレンジジュースを注ぎ、部屋に戻った。要した時間は一分もなかった気がする。髙山は二杯目のジュースを一気に飲み干し、帰ると言い出した。

「もういいや。別の用事あるから帰るわ。こんなカードばっか集めてないで、遊ぶ友達作った方がいいぜ。こんなカードずっと死ぬまで持ってるわけじゃないだろ?」

 思えば、あれが髙山との最後の会話だった気がする。

 急に来ていきなり去っていった髙山を見届けると、慌ててカードを確認した。一枚一枚、髙山が触れていたカードを確認する。大丈夫だ、なにも持ってかれていない。安堵の一息をついたとき、机の一番上の引き出しが目に留まった。

 開けていない引き出しがなぜか、微妙に開いていたのだ。その引き出しに何がしまってあるかを知っているのは見上しかいない。我を忘れた見上の表情は、引き出しを開けた瞬間に凍りついたように固まった。引き出しの奥にしまってあった黒い箱の蓋が開けられたままにされ、中にはあるはずのものがなかった。

 シリアルナンバー9だ。

 膝をついていた見上は腰を抜かして尻餅をついた。筋力ではなく、血液でもない、魂を根こそぎ持っていかれた気分だった。会場で当選したとき、見上は柄にもなく喜びを爆発させた。家族も友達もいないのに、声を上げてガッツポーズし、その場で飛び跳ねた。それを学校の誰かが見ていたのだ。そして不運なことに、それがどういうわけか髙山健太の耳に入った。髙山がなぜ家に来て、なぜカードを見たがったのか、すべてが腑に落ちた。

 親に言えばいい。髙山が自分の大切なカードを盗んだと泣いて相談すればいい。だが、親が髙山を疑う可能性は低い。もう一度よく探しなさいと言われるのが関の山だ。よもや自分を信じて、髙山の家に付き添ってくれたとしても、髙山が正直に白状するわけがない。髙山が帰ったときにカードはなかったということだけが真実だ。しまっていた場所も、見せたわけでもない。確たる証拠はない。

 勇気を出して担任に相談することもできた。

 勇気を出して他の生徒の前で髙山の略奪行為を糾弾することもできた。

 しかし、いったい何人の生徒が自分を信じてくれるだろうか?味方になってくれるだろうか?

 結果は目に見えていた。髙山はわかっていたのだ。見上が疑いをかけてきたとしても、自分は無実だと主張すれば、誰もが彼を信じるということを。

 予想外の侵入者が訪れることを予期できていれば、金庫とまではいわないが、南京錠にでもかけておくことはできた。現在の価値がわかっていれば、すぐに家を飛び出して髙山を追いかけることもできただろう。見つけたら恐れもなく噛みつくこともできただろう。タイムマシンがあれば戻りたい。ドラえもんがいれば泣いて土下座して頼みたい。夢であってほしい。いっそ髙山なんかいなければ。

 ただ支離滅裂な感情と思考に支配されただけで、何もできなかった。こんなにもあっけなく自分の宝物がなくなったことを、何一つ抗えず、こんなにもあっけなく受け入れなくてはいけない無力な自分に、見上は顔を腕に埋めて泣いた。 

 怒りも恐怖も、悲しみも虚しさも、後悔も殺意も、すべてあった気がした。

 なぜなら、髙山が奪い去ったカードには、見上の喜びと幸福のすべてが詰まっていたからだ。

 髙山は中学の途中、両親の離婚が原因で転校した。それと同時に、見上はエンブレムのコレクションに再帰する。彼がいまどこにいるのか、あのカードはどこにいったのか、他の誰かが持っているのか、もうこの世には存在しないのかなど、知るすべはなかった。

 もうどうでもよかった。自分の手元には戻ってこないという事実だけで、十分傷ついたから。


「耕平ちゃん、これ、本当・・・・・・?」

 老眼の進んでいる灰谷は両手に持った便箋にほとんど埋めていた顔をすっと上げた。インクを載せたような濃いまつエクがいつもより反り上がって見える。

「本当って、どういうこと?」

「この手紙の内容よ」

 見上は珍しく缶ビールを豪快に呷り、一度喉を鳴らした。

「見上耕平さん 先日はカードの取引を、また今回はこのように手紙をいただき、ありがとうございます。正直驚きました。ですが、せっかく返信用の封筒と便箋まで入れていただいたので、お返事を書かせていただきます。わたしの周りがみんなナンデモをやっていることがきっかけでした。初めて使う人には千円分ポイント付与というのがあったのでとりあえずインストールしたのですが、これといって欲しいものもなく、ネットサーフィンするように色々検索してみていたときに、たまたまセブンスエンブレムのカードを見かけたのです。わたしには十と六つ年上の兄がいるのですが、二人がセブンスエンブレムのカードをたくさん持ってました。二人が熱中していたときわたしはまだかなり小さかったのですが、よく二人の集めていたカードを眺めていた時期がありました。絵がキレイで好きだったのだと思います。兄二人はおそらくもうカードは持っていませんが、色々見てると値打ち物も多くあるのがわかり、譲ってもらって取っておけばよかったなと少し後悔しました。二人合わせてかなり所持していた記憶がありますので。見上様から買ったカードは兄が持っていた中の一枚で、わたしの中で強く印象に残っていたカードだったのです。何も買いたいものがなかったし、ちょうど千円だったので買ったというのがいきさつです。答えになってますかね?見てみると、小さい頃これいいなと思ってたカードが意外にすごい安かったりして、その後もいくらか買ってしまいました。いい年の女子が変ですよね。ちなみに不快な気持ちはまったくなっていないのでご安心ください。むしろこんなことがきっかけで誰かとつながることがあるのかとびっくりしてます。追加でなにかお聞きしたいことがありましたら、こちらのメールアドレスにご連絡ください。隠すほどのものでもないので、どうぞお気軽に!」

 見上の長い言葉を聞き終えて、灰谷が言った。

「自分で書いたわけじゃないわよね?」

「自作自演って?そんなサイコパス、まさか。ちゃんと埼玉から郵送されてるよ」

「それでまた暗記しちゃったの?」

「信じられなくて何回も読んだからね。宮崎由佳もどうやら本名だった」

 灰谷は何とも言えぬ溜息をついたかと思いきや、「警察に通報されるどころか、こんな礼儀正しい手紙が返ってくるとはね。年齢も十個上のお兄さんがいたということは、大体二十代後半から三十くらいね」となぜか得意気だ。

「兄の影響という予想はばっちりだった。あと年齢が一回り下っていうのも」

「でもわざわざご丁寧にメールアドレスまでくれる?今の若い子ってこんな積極的だったかしら?というより、怖いもの知らずっていうの?何か宗教でもやってるんじゃない?それか最近よく聞くねずみ講のセールスとか」

「SNS世代だからじゃないかな。住所を知られてるなら、連絡先一つ教えることくらい大したことないのかもしれない」

「疑いなしね。SNS世代だからこそ、普通はメアドや電話番号なんて教えたくないものじゃないの?よりプライバシーに近いというか、セキュリティー的な不安を感じるわ」

「別にいいじゃないか。メアドを教えてもらったからって連絡を取り合うわけじゃないし」

「あら、耕平ちゃん返事出さないの?」

「うーん、実は迷ってる」

「出しなさいよ、せっかくもらったんだから。むしろ返さなかったら無礼だわ。ちゃんとこっちもメアド提供しなきゃダメよ」

「そうか。そうだね、お礼だけでもしないと」

「空想のお花畑とゲイに囲まれて育ったこの灰谷屋の長男坊、灰谷守が一緒に考えてあげようか?」

「なんだよそれ、気持ち悪い。お礼のメールくらい自分で書けるよ」

「あら、失礼ね。これでも耕平ちゃんの何倍も男と女の酸いも甘いも両方経験してるわたしなのよ」

 上目遣いする灰谷は上機嫌で、悪い気分ではなかった。

 堅気ではないと言われても仕方ない厳ついルックスの灰谷だが、若い頃を知らない人が見ても、昔はさぞかしハンサムだったことだろうと思うほど、イケてる顔をしている。学生時代は誰も灰谷がゲイでカードマニアであることに気づかず、常に女子が群がっていて引く手あまただったというほどだ。

 幼いながら、初めて灰谷を見たとき、なんてハンサムだろうと思ったことを見上は今でも覚えている。そしてなにより、その灰谷が見上を対等な存在として扱ってくれたことが、この上なく嬉しかったのだ。灰谷のような人間は、通常では見上と交わろうとはしない。むしろ、髙山健太がそうだったように、気持ちの悪いやつだと見下ろされるのが常だった。

「若い頃は超がつくほどモテたんだもんね」

「そうよ、毎週のように女子どもに告白されてね。俺はゲイだ、女には興味ないぜっていう一言がどうしても言えなかったの。どうせ言っても信じてくれなかっただろうけど。わたしも罪な輩だったわ」

「よく店長に言えたよね」

 店長とは灰谷の父のことである。

「本当は言いたくなかったわ。今と違って性差別なんてあって当然のような時代だったからね。悩んだわ。でも灰谷家唯一の男でしょ?告白せざるを得なかったのよ。勇気振り絞ったわ。キン玉ちょん切られたらどうしようとか考えながら、歯ガタガタ震わせてね。おふくろもびっくり仰天だったけど、親父のおったまげてたこと。目玉が飛び出すかと思ったら、急に目が点になってしゅんとしちゃってね。しばらく口聞いてもらえなかったわ」

 実はもう何度も聞いた話だったが、見上はこの話を何度でも喜んで聞いた。

 灰谷の父は最終的に会社を辞めてこの店を手伝うことを条件に、灰谷を受け入れた。当時、灰谷は自分の店を継ぐか、大手おもちゃメーカーで働き続けるか迷っていた。自分が育った灰谷屋を継ぎたい気持ちは強かったが、自分がゲイだと知った父親が後を継がせてくれるのかが不安だったのだ。

 つまり、先代は最初から灰谷という人間が自分にとってどういう存在かを見極め、すべてを受け入れていたのだ。

 見上は二人がうらやましかった。

 決してそれを口には出さなかったが、灰谷がうらやましくて仕方なかったのだ。灰谷は昔も今も、見上にとって憧れなのだ。

 見上はその晩、家のパソコンに向かい、宮崎由佳のメールアドレスを打ち込んだ。

 簡単に礼を述べるだけのつもりだった。

 しかし、見上の脳裏には、あの日見た宮崎由佳の姿がこびりついて離れなかった。

「宮崎由佳さん お手紙ありがとうございます。見上耕平です。まさかあんなに丁寧なご返事をいただけると思ってなく、驚きとともに、感謝の気持ちでいっぱいです。誠に感謝申し上げます。せっかくメールアドレスを書いていただいたので、こちらにお礼の返信をさせていただきます。

 ご兄弟の影響かなと少し予想はしておりましたが、やはりそうでしたね。でなければ、女子がこのようなカードを買うことは考えられません。年がばれてしまいますが、お兄様とは同い年くらいかもしれません。いずれにせよ、教えていただきありがとうございます。

 お礼の返事なので、どうかお達者にと、ここで終えるべきだと思うのですが、一点ご提案してもよろしいでしょうか?提案というよりか、願望と表現すべきものなのですが、一度だけでよいので、お会いできませんでしょうか?この間の手紙で返事はいらない、二度と手紙は送らないと言っていたにもかかわらず、本当に身勝手な話なのですが、いただいた手紙を読ませていただき、一度会って話をしてみたいと思ってしまいました。こんな得体の知れないカードオタクの人間と会うなんて恐ろしいことはわかっております。なので二人きりでなくてもいいです。手紙にあったお兄さんを連れてきてくださっても構いません。もしかしたら、セブンスエンブレムの話で盛り上がれたら、私にとっても好都合ですので。

 こんなこと書いてる自分はどうかしてます。手紙のときと同じようなセリフで恥ずかしいのですが、このメールは無視して削除していただいて結構です。二度と連絡を取ったりいたしません。約束します。不快な気持ちにさせてしまったら本当に申し訳ないです」


 見上は押上駅の改札にいた。

 土曜はスカイツリーを目当てに来た家族連れや若いカップルが多く見受けられる。間近に見上げるスカイツリーは首を九十度に曲げたくなるほど高く、天頂で輝く太陽にも届きそうなほどだ。

 宮崎から会ってもいいとの返信をもらったときから今日までの一週間が一瞬にも永遠にも感じた。それほど、見上にとって今日までの時間は未体験でありながら、濃密なものだったのだ。ノストラダムスの大予言に向けて熟慮したときのことなど、蟻の足のつま先をいじってみたときくらい退屈な時間だったと思い知った。

 待ち合わせ三十分前に到着した時点で、見上はすでに緊張で疲れ切っていた。

 返信を受けたとき、見上はてんやわんやし、すぐ灰谷に連絡をした。灰谷はお礼だけといって自分に黙ってデートに誘ったことを初めに糾弾したが、見上が予想外の展開に我を失っているのを察し、親が子供を心配する眼差しを注ぎ、すぐに見上耕平デートへの戦略を練り出したのだ。

「耕平ちゃん、あなたまず、コンタクトにしなさい」

 せめて洒落メガネへの変更を申し出たが、灰谷曰く、お洒落メガネでもレンズが莫迦みたいに分厚かったら意味がないと説得され、見上は人生初のコンタクトデビューを果たした。

 一日仕事を早く切り上げ、初めて灰谷スタイリストと一緒に買い物へ出かけた。ファッションに興味のかけらもない見上を、インナーシャツから靴下、そしてマフラーまで灰谷がコーディネートした。

 灰谷の説明としては、やりすぎず、控えすぎず、年相応のさりげない小洒落さが逆にお洒落を引き立たせるというが、最後まで意味がわからなかった。

 さらに禿げつるの灰谷おススメの美容院を紹介され、千円カットでは味わえない魔法を頭髪にかけてもらい、高校まで見せかけのがり勉で本性はカードマニアだった人間が、大学デビューで金髪ピアスに走ったのと変わらないほど、見た目が一変した。それにかかった総額を考えると、女性一人と会うことはこんなにも苦労を要することなのかと、会う前から一種の絶望感を味わっている自分がいた。

 女性を知らない見上に対し、無理してたくさん話す必要はなく、どちらかというと相手に話させてよく聞いてあげることだと灰谷はアドバイスした。曰く、女性とゲイは話すのが好きで、話を最後までしっかり聞いてくれると嬉しいということだ。宮崎がそういうタイプではなかったらどうするかと訊ねると、色々質問するか、自分の得意分野を語れと急に助言が雑になった。質問が思い浮かばないなら事前に準備しろと言われ、見上は百個質問を練り、それをすべて頭に叩き込んだ。

 そして当日、フルーティな香りの整髪料で髪を整え、まだ慣れないコンタクトレンズから別世界をのぞき見、一度も着たことのないブランドのスリーブシャツとジャケット、カシミアのマフラーに身を包み、大人っぽいベージュのパンツに重みのある茶色の革靴を履いて見上は改札口に立っていた。手には有名な焼き菓子店のマカロンが持ち帰りに便利な小さい袋に入っている。これも灰谷の仕込みだ。最初から最後まで灰谷の方が明らかに盛り上がっていた。まるで自分事のような勢いだったが、それはそれでありがたかった。

 慣れないコンタクトの変な感じと緊張のあまり吐き気がした。

 そして、宮崎由佳は本当に来るのだろうかと、いまさら疑わしくなった。

 よく考えればおかしな話である。

 カードを一枚買っただけで、手紙を出し、メアドをもらったことで舞い上がった挙句に会おうと誘ってくる輩がいるだろうか。

 冷静になれ。

 宮崎は来ないのではないか?

 スカイツリーの受付で働いているというのも嘘で、見上をからかったのではないか。手紙にメアドをあえて書いたのも、罠なのかもしれない。

 それならそれでいいと思った。そうすれば今すぐこの得体の知れない緊張と不安から解放される。早く楽になりたかった。

 と思ったのも束の間、下を向いていた顔を上げて改札の向こう側を見たとき、彼女の姿が視界に入った。

 本当に来た。いや、来てしまった。

 宮崎に思わず集中してしまった視線をすぐに逸らした。見上は宮崎が誰だか知らないことになっているのだ。初めからわかっている様子を見せては怪しまれる。

 いつぶりの感覚だろうか。体が火照ってしょうがない。マフラーを脱ぎ捨てたくなったが、チェック柄のマフラーを一つの目印にしてあるのだ。

「見上耕平さんですか?」

 女性特有の高い声だが、芯の通った声だ。

「は、はい。あ、み、宮崎さんでござ、ございますでしょうか?」

 直立不動して口だけを動かす見上に対し、宮崎は白く光る笑顔を見せ、「手紙ありがとうございました。今日はなんというか、あの、よろしくお願いします」と挨拶した。

「い、いえいえ、そんな!私の方こそ、ありがとうございます。こんな貴重な、あの、休日に出てきてもらって・・・・・・」

「いえ、わたし草加駅が最寄なので、押上は一本で来れるんです。それにここが職場なので、定期も使えますので。見上さんは、どちらから来たんですか?」

「自分も浅草橋からなので、実はすぐそばなんです。た、ただ、実際スカイツリーまで来たのは、今日が初めてで」

「ええ、今まで来なかったんですか?東京住まいなのに、珍しいですね」

 宮崎の恰好は、草加で見かけたときとさほど変わらなかった。違うところといえば、今日はブーツで、上着は黒の革ジャンというワイルドなスタイルだ。

 そんなことよりも、見上をさらに驚愕させたことがあった。

 なんて、キレイな、女性だろう――

 そう、宮崎由佳は、超がつく美人だったのだ。

 先日の半ストーカー行為による盗み見は、完璧ではなかった。

 宮崎はすっぴんだったのだ。見上はそうは思わなかった。十分に人を引き寄せるキレイな顔立ちだったから、化粧があるのかないのか区別がつかなかったのだ。外用にしっかりメイクを施してある宮崎は、とてもじゃないが自分が横を歩けるレベルの女性ではなかった。目の置き所がなく、彼女の顔を直視できそうになかった。

 二人はスカイツリーの中にあるフレンチのレストランへ入った。灰谷が選んで予約してくれた店で、見上はほとんど何も知らない。店内の落ち着いた雰囲気とは裏腹に、見上の心臓はフル回転、休むことを知らなかった。

 窓際の二人席に案内されると、東京の果てまで見えそうな大展望に見上は驚いた。

「わたし毎日来てますけど、このお店に入るのは初めてです」

「景色が、思った以上に、すごいですね・・・・・・」

「初めて来たんですもんね」

「はい、大分昔に東京タワーに上ったことはありますが」

「展望台にいったらもっとすごいですよ」

 実のところ高い所はあまり得意ではないとは口が裂けても言えず、見上は中身がクリームだと思って食べたタイヤキの中身が嫌いなあんこだったときと同じくらいぎこちない笑みを浮かべた。

 白シャツに黒ベストを着た清潔感のある店員に革ジャンとマフラーを預けた。

 下に着込んでいた黒ニットのタートルネックを見て、宮崎は黒が好きなのだと思った。黒は女を美しくするとかなんとか、マンガかアニメで聞いた記憶を思い出しながら店員に注文しかけたが、すでにランチコースを予約されていると告げられ、すっかり忘れていた見上は恥ずかしさに慌てた。メインディッシュと飲み物だけ注文を取りたいと聞かれ、二人ともメインに肉を選び、見上はビールを、宮崎は白ワインを注文した。

「こんな素敵な店に、こんな格好でなんかすみません」

「い、いえ、そんなことないです。素敵だと思います。それに、失礼な言い方かもしれませんが、革ジャンとか、すごい、かっこいいな、と・・・・・・」

「ありがとうございます。よくそう言われるんです。わたし女の子女の子した服装があんまり得意じゃないんですよ」

 薄めのピンクのグロスが引かれた宮崎の唇を視界の中心で捉え、鳥肌が立った。

「――ほんとに、すごくお似合い、ですよ」

「見上さんもすごく素敵ですよ。ファッションとか結構興味あるんですか?」

「い、いえ!これはなんというか、今日はちゃんとした服をと、思いまして・・・・・・」

「わたしが言っても信憑性ないですけど、すごくセンスあると思います」

 自分が褒められるというより、灰谷が褒められている気がして素直に喜べなかったが、自称男も女も理解できるオカマ、灰谷守に今のところは感謝である。

 まもなく飲み物が運ばれ、乾杯をした。見上は顔が赤くなることを恐れ、舐める程度しか口に含まなかった。

「今日はセブンスエンブレムのことで盛り上がりましょうか?とか言って、わたしはそんなに詳しくないんですけど」

 宮崎の心を惜しげもなく開いたような笑顔を見ると、気負っていた見上の心がほんの少し和らいだ。

 準備した質問集はまったく必要なかった。宮崎は見上が話しやすいよう会話をリードしてくれた。年上の男がなんとも情けないが、おそらく宮崎はこの短時間で、いや、手紙やメールのやり取りの時点で、見上がどういった男なのかを理解していたように思える。見上には百年かけても真似できない芸当だと思った。

 宮崎は大学卒業後にここの受付として働き始め、もう五年になるという。つまり年齢は二十七か二十八だから、やはり一回り若い。

 間もなく前菜が運ばれ、料理を食し始めたが、美味しいと宮崎が口にする一方、まだ張り詰めた緊張がすべては解けていない見上にはどんな味なのかはさっぱりだった。それはデザートのババロアのような物を口にするときまで続いた。それは見上が必死に苦手なよく知らぬ相手との会話に食らいつき、会話が延々と止まらなかった証拠でもある。見上がエンブレムのカードだけで少なくとも一万枚は所持していると吐露すると、宮崎はこれまでカードだけにいくら使ってきたのかなど、遠慮ない質問もしてきた。相変わらず顔を直視できなかったが、見上はなんとなく嬉しかった。普通だったら引くような話を、宮崎のような女性が素直に聞いてくれ、素直に思ったことを言い返してくれるのだ。予期していなかったほど緊張が解けてきた見上は、史上最高額の買い物をした先日のオークションのことまで赤裸々に話した。仕事中の脳内は思考がまとまらず喧々諤々として混乱状態だったことも話すと、宮崎が聞いた。

「そんなにずっと欲しかったカードをそんなに高い金額を払って、実際受け取ったときってどんな気分だったんですか?」

「それは――そうですね、もちろんやっと手に入れたという達成感というか、一種の感動はありましたが、インターネット上で何度もそのカード自体は見てきたので、実は一方で、こんなものかなという感じもあるんです。それは今回のカードに限らないのですが」

「なんかわかります。インターネットで覗き込んでると、どれもよさそうに見えることってよくありますよね。実際に実物を見ると、意外と普通だなって」

 その宮崎の言葉は見上の耳に残り、謎はすべて解けたというとあるマンガの主人公ほどの勢いではないが、やがて一つ謎が解けた気がした。

 おそらく宮崎は、見上から購入したカードを実際手に取ってみたとき、想像したより普通だと思ったのではないだろうか。

 その気持ちは見上もわからなくない。長年に渡って探していたカードを、やっとの思いで見つけて購入したにもかかわらず、手元で眺めてみると、それほどの感動を得られないときがある。カードの絵柄やデザインがすでに頭に叩き込んであるのも理由の一つだが、結局カードは集める過程に楽しさがあるといっても過言ではない。手に入れてアルバムにしまえば、ほとんど見ることはないのだ。中には写真のように額に入れて飾る輩もいるようだが、暗室でない限りカードを痛める可能性があることから、見上から言わせればナンセンスである。

 フリマアプリの使い方に慣れていない宮崎は、出品者への評価というよりも、その購入した物への実感を評価としてつけたのではないか。

 だから『普通』だったのだ。真の回答はわからないが、見上はそう思うことによって納得したし、もしそうであれば、宮崎からもらった『普通』の評価は、これまで積み重ねてきた不敗の評価以上の価値があるように思えたのだ。

 およそ一時間半のランチタイムは長くも一瞬にも感じた。宮崎への好意はこの短時間で大きくなっていた。女性としてというよりかは、宮崎由佳という人間の魅力を知ったからなのかもしれない。まるで灰谷と話すように、彼女になら何でも話せてしまう、そんな気すらしたのだ。このまま終わって解放されない気持ちと、もう少し彼女と話したいという思いが絡み合い、複雑な気分に駆られた。

 会計を見上が済ませると、宮崎は繰り返し礼を述べ、深く頭を下げた。その姿を見て、見上は逆に狼狽した。

「私が勝手に誘いましたし、それに、私はもう四十近くのオヤジですので、さすがにこれくらいはさせてください」

「年齢は関係ありません。わたしもこう見えてれっきとした社会人なんですから。でも、この場は遠慮なくご馳走になります」

 赤と白ワイン一杯ずつを飲んだ宮崎の少し赤らんだ顔を見ると、自己嫌悪するほど気持ち悪いのだが、妹のように愛おしく思えて仕方なかった。

「そう言ってもらえる方が助かりますよ」

「見上さん、この後ご予定はあるんですか?」

「いえ、とくには」

「そしたら上りましょう、展望デッキまで。わたし半額になる特別割引券持ってるんです」

「え・・・・・・でも、日曜に当日券なんて取れるんですか?」

「ちょっと待つ可能性はありますけど!」

 予期せぬ誘いに情けなくもたじろぐ見上の腕を掴み、宮崎は歩き出した。

 スカイツリーは展望デッキとさらに上に位置する展望回廊の二ヶ所で展望を楽しめるそうだが、宮崎曰く、展望回廊はさらに千円以上払うほどでもなく、展望デッキで十分ということだ。

 高いところが苦手という意識はもうなかった。東京全体から富士山まで一望できる景色は絶景だった。あのビルはどこで、あの川は何か、写真スポットはここだと、宮崎がツアーガイドさながら横で色々説明してくれた。言われるがまま、見上もあまり使わない携帯のシャッターを切った。

「どうです、たまにはこういうところもよくないですか?」

「ええ、思ったよりすごいキレイで驚いてます」

 半分本音で、半分はわからなかった。おそらく自分一人で観に来たら、自然も何もない無機質な建物が敷き詰められているだけの風景で退屈だとしか思わなかったに違いない。今は宮崎という相手がいてくれるからこそ、心が何でも受け入れられる状態なのだ。

 見上はほどよい緊張に、不思議な安心感を覚えていた。

 食事をしていたときから考えていた。この懐かしい感覚はいったい何だろうか。自分はずっと前にこれをどこかで経験している。それを思い出し、見上は一人頷いた。

 灰谷だ。

 小学生のころ、まだ灰谷屋に勤め始めたばかりの灰谷守と出会ったときのことだ。ベースボールキャップを被り、まだあった髪は会社をやめて金髪に染め上がり、左耳にはいくつもピアスがつけられていた。店主の息子と聞き、初めは自分と違う世界で生きてきた人間で、とてもじゃないが話せないと思った。

 だが、灰谷は見上に声をかけてくれた。お互いエンブレムのカードが好きだとわかると、灰谷はまだ子供の見上にも分け隔てなかった。家族にも、学校の同級生にも、そんな風に見上に接してくれる人は、受け入れてくれる人はいなかった。その灰谷との交流はいまなお続いている。いや、今日まで本当に友人として見上と居続けてくれた人は、灰谷守しかいない。

 灰谷しかいなかったわけではないことはわかっている。周りにいる誰かが、自分にとって大切な人かどうかは、自分がその人に心を開けたかどうかなのだ。ただ、見上はそれを複数の相手にはできず、灰谷だけにできた。

 ただそれだけなのだ。

 そして今、まだ会って間もない自分よりも一回り若い女性に、見上は心を開こうとしている。

 それがなぜなのか、確かめる必要があった。雲はなぜ浮いているのか、星はなぜ夜にしか見えないのかといった具合の疑問を解消するのと同じように、確かめなくてはいけなかった。

 一通り眺め終わった後、展望デッキの中にあるカフェの席がたまたま空いていたため、二人はそこで一息つくことにした。見上はホットコーヒーを、宮崎はほうじ茶ラテを注文した。東京を一望できる高さでの一口は、底に凝り固まった最後の緊張を砕こうとしてくれた。

 東京には海はもとより、山も川も森も、ほとんど見当たらない。それだけ人が多く住んでいる証拠でもある。自分自身でもあり、自分が最も苦手とし、自分が最も挑まなければならない人間が余すことなく住み着いているのが、ここ東京なのだ。

「あ、これ」

 今思い出したかのように、見上は持ってきたマカロンの袋を宮崎に差し出した。

「わたしに?」

「マカロンなんてほとんど食べたことないですが・・・・・・」

 本当は一度も食べたことはない。

「わたしマカロン大好きなんです。それにこれ有名なパティシエが作ってるやつですよね?本当に頂いていいんですか?」

「も、もちろんですよ。お付き合いいただいたお礼です。これじゃ足りないくらいです」

「こんなに至れり尽くせりの日、人生で初めてかもしれないです」

 本当に喜んでくれたようで安心した。人生で初めてといえば自分も同じである。

 あと一時間もすれば、落ちてくる陽が冷たく透き通った冬空を橙に染めるのだろう。その景色は想像以上に美しいに違いない。

 宮崎はそれまで待ってくれるだろう、きっと。彼女は良い女性だ。人間をよく知らない見上にもそれはわかる。だからこそ、見上は待つことなく、確かめようと思った。

「宮崎さん、ひ、一つだけ、あの、お伺いしても?」

 宮崎の「はい」と答える顔を目の端で確認した。

「もし、私が、あなたと、お・・・・・・お付き合いしたい、と言ったら、どうされますか?」

 見上は言い終えるとすぐにコーヒーを一口、二口と含んで、ガラス越しに広がる東京の風景に迷子の視界を預けた。

 宮崎は「何を冗談言ってるんですか?」と顔を歪めて笑っているに違いない。

 すぐに返答はなかった。

 外界の時間の流れを早く感じ、このままでは夕陽はおろか、夜になってしまうのではないかと、見上の焦りは募った。

「あ、あの、今日初めて会って、しかもこんな形で、失礼なことを聞いているのは、承知してます。なので、む、無理にお答えにならなくても――」

「ごめんなさい」

 はっきりとした口調だった。彼女という女性の、人間のど真ん中に屹立している信念すら感じる強さだった。

 わかっていた、それくらい。無理なことくらい。

 見上が知りたいのは、もう一歩先のことである。だが、それを知る権利が自分にはあるのだろうか。

 見上は自分で自分を抑え込んだ。彼女のすべてを知る権利は自分にはない。そう思えた。

「ありがとうございます。あの、いきなり変なことを聞いてすみませんでした」

「見上さん、わたし――実はわたし、男の人を好きになったことがないんです」

 思わず横に向けていた顔を戻すと、真摯な眼差しを見上に注ぐ彼女がいた。

 今日初めて、宮崎の顔を直視できた。

 ずっと前から、小さいころから、知っている人に思えた。

 美しかった。愛おしく思った。

「見上さん、初めてわたしのこと見てくれましたね」

「――は、はい、やっとしっかり、見れました」

 二人は思わず吹き出した。

 見上は言った。

「陽が落ちてくると、キレイな景色になりそうですね」

「ええ、ちょうどこちらが西側なので、あの太陽が落ちていくのを見届けれます」

 もうすぐ消えていくとは到底思えないほど、西へ移動する太陽は燦々と光を放っている。

「せっかくなので、私はもうしばらくここで、その景色を見ていきたいと思うのですが、宮崎さんは?」

「はい、せっかくなので、わたしも」

「それはよかった。せっかくですから、お茶もおかわりしましょう」

「そしたら、よければこれ、一緒に食べませんか?」

「――ぜひ」

 見上は宮崎が飲んだほうじ茶ラテを、宮崎は見上が頼んだホットコーヒーを注文した。

 カラフルなマカロンは、見た目に反して甘さ控えめで、しっとりとした噛み心地を口の中でほどよく味わうと、すぐ解けて消えた。

 

 日が沈み、宮崎を押上駅まで見送った後、見上は灰谷に電話をした。

「耕平ちゃん?」

「守くん?今さっき彼女と別れたよ」

「今さっき?思ったより長くなかった?」

「うん、お昼食べた後に少し二人でゆっくりする時間があってね。お店すごくよかったよ、緊張してほとんど味なんてしなかったけどさ。彼女も気に入ってくれたよ」

「ランチだけじゃなかったの?ちょっと、カードオタクもやるときゃやるわね」

「マカロンも一緒に食べたよ。見た目は砂糖の固まりかと思ってたけど、意外とおいしくてびっくりした」

「なによあんたたち、そんなに仲良くなっちゃったわけ?」

「まあね、僕はずっと緊張しっぱなしだったけど。本当にいい子だったよ」

「もしかして、まさかの脈アリだったの?」

「いや、フラれたよ」

 電話越しでずっこける灰谷が目に浮かんだ。

「耕平ちゃん、あなた、どうしちゃったのよ?緊張しすぎて、気がふれちゃったの?」

「いや、いたって冷静だったよ。守くんの作戦にはなかったことだけどね」

「それでなんで告白までいっちゃうわけ?」

「雰囲気とか、色々、かな」

「そんな一瞬にして、わたしの耕平ちゃんのハートを盗んじゃったのね、宮崎ちゃんってのは・・・・・・まったく恐ろしい子だわ」

「盗んだって・・・・・・想像したよりずっと素晴らしい女性だった。前見たときとは別人って思うほど美人で、正直顔なんてほとんど見れなかったよ」

「それで耕平ちゃん、ダメ元で?」

「そういうことになるかな」

「もー、勢いも大事なときはあるけど、今回に限ってはちょっと焦りすぎよ。耕平ちゃんは恋愛経験ゼロなんだから」

「そうだね、カードばっか眺めてた僕には、到底届くはずのない人だったよ、彼女は」

「そこまで言ってないでしょ。カード眺めてばっかといえば、わたしもご多分に漏れずなんだから」

「素晴らしい人だったな。僕には、釣り合わないくらい、素敵な、人だった・・・・・・」

 携帯を当てる頬がすっと濡れた。雨が降ったのかと思って見上げたが、雨天ではない。感情を追い越して、先に目から溢れ出た。それに気づくと、あとは勝手に流れ出てきた。

「彼女は・・・・・・本当に・・・・・・」

「――耕平ちゃん、もしかして、泣いてる?」

「僕じゃ・・・・・・僕なんかじゃ・・・・・・」

「ちょっと耕平ちゃんったら。あらまあ・・・・・・今日うちにいらっしゃいね。何時まででも付き合うわよ」

 灰谷の言葉は素直に嬉しい。

「心配してくれてありがとう。でも、今日はもう帰るよ。すごく疲れたんだ、色々」

「一人で大丈夫?こういうときはオカマでも、ダチに甘えるもんなのよ」

「大丈夫だよ」

「そう、わかったわ。そしたら明日いらっしゃい。待ってるから」

「うん、ありがとう」

 携帯を切り、新品のマフラーで頬を拭い、深呼吸をした。

 一歩踏み出すということは、素晴らしいことだ。それがいかなる結果だとしても。

 薄暗闇の中、吐く息が白く濁って、すぐに消えた。


 家のインターフォンが鳴った。

 起き上がって玄関に行くと、男が二人立っていた。

 ドアには鍵がかけてあるはずなのに、どうして。

「見上耕平だな?」

 オーバーを着た二人は共に険しい表情を浮かべていて、見上を睨みつけている。

「商標法違反および詐欺罪の容疑だ」

「ど、どういうことですか?」

「灰谷守とカードを偽造して売りさばいてただろ」

 顔が真っ二つに割れるかと思った。開いた口が塞がる前に、片方の刑事は見上の腕を取り、そこから引っ張り出そうとした。

「ちょっと待ってください!何かの間違いだ!僕も彼も何もしてない!」

「灰谷は認めたよ」

 刑事が冷たい眼で抗う見上を見下ろしていた。

「嘘だ、そんなの嘘だ・・・・・・」

「お前も関わっていたと、彼は白状したよ」

「嘘だ!」

 見上の一喝は刑事を消し去り、見上は布団の中に戻っていた。

 夢だ。よかった。

 だが頭がひどく痛い。昨晩は灰谷屋に寄らず、帰ってすぐ寝ようと思っていたのに、なぜかコンビニに足が向き、一度も買ったことのないアルコール9パーのロング缶を購入し、家に帰って一人で飲み干した。静脈に直で注入されたかと思うほど、すぐに酔いが回った。酒に強くないことをあらためて証明できた。

 枕元にある携帯をのぞくと、すでに昼の十二時を過ぎていた。

 さらに、母親からメールがきていた。

「一郎も落ち着いてきたから、帰ってこれる日が決まったら教えてください」との内容だった。

 頭痛を言い訳にその場で返信はしなかったが、携帯は閉じず、いつものようにナンデモのアプリを立ち上げ、検索条件に保存している「セブンスエンブレムカード」のページを開いた。もう見る必要などほとんどないにもかかわらず、勝手に手が動いてしまう。習慣というより、依存症に近い。このカードは今これくらいの価値なのかとか、持ってなかったらこの値段で買ってもいいなとか、この値段じゃ絶対に売れない、出品者は市場価格をまったくわかっていないなど、眺めて思うことはいくらでもある。

 不思議なのだ。頭では無駄な時間とわかりながら、そのページから目を離せない。この時間をもっと別のことに使えたらと思う。そう、例えばプログラミングやファッション、異性とのコミュニケーション方法について勉強できる。よほど価値的ではないか。

 水を飲みに行かず、布団に体を埋めたまま、同じページを何度も何度も眺めていたときだった。

『セブンスエンブレムカード 93年 抽選限定』

 目に飛び込んでたきたタイトルと写真は、見慣れているといえば見慣れていた。

 値段は、999万9999円。

 ナンデモで設定できる最高額だ。この最高額は、売る用ではなく、しばしば商品の確認用として使われることが多い。しかし、本商品に関しては、確認用ではない可能性も考えられる。もしこれが本物であれば、一千万出してもおかしくないからだ。

 アップされて一分で『いいね』が五つもついている。

 つまり、買うつもりのない『いいね』である。『いいね』には買いたいからウォッチしておきたいが、今の値段で購入するかどうか迷っているという意味と、買う意志はないが、良い商品だと思うという感想的意味合いの『いいね』がある。このカードについた『いいね』は後者だ。それだけこのカードがプレミアであるということだ。

 商品の説明文を見て、見上は唖然とした。

『シリアルナンバー9。正真正銘の本物です。専用出品です』

 説明はそれだけだった。

 専用出品という言葉に釘付けになる。

 地球が一回転したかと思うほど、目の前の景色が回転し、方向感覚を失った。

 さらに動悸が激しくなり、鼻息も三日間ろくに食べていない野犬同然に荒くなる。どうかしてしまいそうだ。

 見上の脳裏にはすぐある人物の絵が思い浮かんだ。

 髙山健太――?

 そして、出品者の名前を見た瞬間、見上の中で時間が止まった。


 日曜の昼過ぎに灰谷屋に姿を現した見上の顔は、冬の曇り空にはふさわしくないほど大量の汗に覆われていた。店の奥の定位置に座っていた灰谷は待ってましたと言わんばかりの笑顔を見せる。

「こんなに早く来ると思ってなかったわ、耕平ちゃん」

 見上はいつもと変わらぬ灰谷の顔に一旦落ち着きを取り戻したが、すぐに携帯を開き、灰谷に画面を見せた。

「これ、どうして・・・・・・?」

 画面には見上の目を失明させる寸前の衝撃を与えたエンブレムの商品ページが映し出されている。

 出品者の名前には、灰谷屋、とある。

 見上はもう一度言った。

「ねえ、これはいったい、どうして?」

「わかってるわよ。それよりすごい汗よ。フラれたショックで、フルマラソンでもしてきたの?」

 灰谷はカラフルな手ぬぐいを見上に渡し、レジ裏にある小型の金庫を開け、一通の封筒から取り出した中身を大事に両手に載せ、それを見上の前に差し出した。

 ハガキサイズの台紙は、その中身の価値を物語るかのように上質な黒い厚紙だった。幼い記憶にしまっていたものと同じである。

 見上は手ぬぐいで顔と手の汗をしっかり拭きとり、見開きの台紙を開いた。

 左側には何も書いていない。右側には、ホログラムカードの上下対角二ヶ所が台紙に差し込まれている。慎重にカードを台紙から取り外し、刻印されたナンバー9の金文字を見つめると、汗が流れ出るのと同じくらい簡単に、その目から涙がこぼれ落ちた。

「僕のだ・・・・・・これ、僕のだよ・・・・・・」

「ちょっと耕平ちゃん、カードの上に落としちゃダメよ、そのお涙ちゃんたちは」

 見上は灰谷に視線を移し、どうして守くんが?と潤んだ目で訴えた。灰谷は聖母、いや、聖なるオカマの微笑を浮かべて答えた。

「一九九三年十月七日、もう夕方だったかしらね。初めてここに来た一人の少年が、そのカードを持ってきたの」

「――髙山健太?」

 灰谷は首肯し、続けた。

「彼はこのカードを売りたいと言ったわ。だからわたしは聞いたの。あなた、博覧会に行ったのか?って。彼はうんと言ったけど、目は泳いでいて、早くこのカードを手放したいような表情をしてた。だからすぐにわかったわよ。これは盗んだものだって。シリアルナンバーは9。わたし耕平ちゃんから抽選でゲットしたことは聞いてたけど、番号まで聞いてなかったでしょ?だから聞いたのよ。あなた初めて見たけど、どこの小学校の子かって。少しおどけた様子で答えてくれた。耕平ちゃんと同じ小学校の六年生だって。ビンゴ。耕平ちゃんの同級生ということは、このカードは耕平ちゃんのだって」

「そんなこと・・・・・・でも、どうして――」

「なんでこんな長い間黙ってたのか、よね?」

 見上は間髪入れず聞いた。

「僕がカードを手放したから?」

「耕平ちゃん、親父一人のときに売りに来たでしょ?わたしだったらすぐ異常に気づけてた。次会ったときはもう手遅れだったわね。もう違うカードに浮気しちゃってたもの」

「そっか・・・・・・」

「一番大事にしてたカードが盗まれたって今日みたいに涙の一つ流してくれれば、すぐに返したわ。やめる必要もなかったんだから。どうしてわたしに相談しなかったの?」

 三十年も前の話だが、たしかにと見上は思った。

「でも、い、今そんなこと聞くの?」

「そうね、野暮な質問だったわ。でね、耕平ちゃんがまたエンブレムを集め出したときにね、わたし思ったのよ。そうだわ、もし万が一耕平ちゃんの身になにか起こったとき、悲しくて苦しくてどうにかなっちゃいそうなとき、これを返してあげようって。一番の宝物は一番の元気の源でしょ」

「それが、今日だったって?」

「だって、耕平ちゃん泣いてたじゃない。わたし初めて見たわよ。それって、苦しいくらい勇気出して、傷ついた証拠でしょ?今こそって思ったのよね、わたしっていうピュアなオカマちゃんは」

「それで、それだけで、三十年も・・・・・・もし僕が惨めにフラれて涙流さなかったら、いつ言うつもりだったのさ?」

「わたしが死ぬときだったかもね。耕平ちゃんきっと悲しんでくれるだろうから」

「そんな・・・・・・あんまりだ。これだからカードオタクは・・・・・・」

「ごめんね。でも許してよ、耕平ちゃん。これであなたも大金持ち。これを知ったらその髙山くんっていうお友達もきっと泣いてるわ」

「髙山からいくらで買ったの?」

「ふふ、聞いて驚かないでね。なんと、たったの千円よ」

「せ、千円?」

「当時でもすでに数万が相場だったけど、盗んできたものでしょ?だからお仕置きと思って、その値段提示したら、あっさりそれでいいって。彼にとって千円も大きかったのかもしれないし、早く手放したかったのもあるかもしれないけど、本当の価値を知らないってことがどれだけ不幸なことか、わたしも思い知ったわ。ねえ、その髙山くんって、そんなに良い暮らしをしてなかったんじゃない?」

「そんなこと知らないよ・・・・・・でも、中学生のとき転校したのは、父親が経営してた工場が潰れて、結果両親が離婚したのが原因だって」

「やっぱりね」

「やっぱりねって、どういうこと?」

「同級生の宝物を盗むなんて絶対してはいけないことだわ。だから別に彼の味方をするわけじゃないけど、わたしはあの子がそんな悪い子には感じなかった。ただ耕平ちゃんがうらやましかったのよ、きっと」

「僕がうらやましかった?あの、髙山が?」

「耕平ちゃんちはそれなりに裕福だったでしょ?だから自分のカードを好きなだけ買うことができた。それってできない子からすると妬ましいのよ。彼にはお金がなかったから、他で自分を満たすしかなかった。だから勉強もスポーツも頑張って、いい子になろうとして、同級生から人望を集めることによって自分を満たそうとした。それに成功したにもかかわらず、やっぱりまだ子供だったのね、うらやましいものはうらやましかったのよ。だから耕平ちゃんには冷たく当たった。彼は自分の本当の価値をわかってなかった」

 そんなこと今さらどうでもいい――そう思ったが、小学生のころの髙山健太の顔を思い出すと、ハトとカラスの糞を足して倍の憎悪そのものだった男に対し、今までほど嫌な気持ちは抱けなかった。

 決して三十年という時を経て、自分の手元に戻ってきたカードのおかげではない。

 ただ、灰谷の言葉を聞いたからだ。 

「ま、オカマが観察したところの話よ。もうどうでもいいことね」

「守くん、これ売ろうと思わなかったの?」

「そんなことしないわよ。わたしはこのカードの本当の価値が何なのか知ってましたから。耕平ちゃん、9っていう数字にはね、究めるっていう意味があるそうよ。耕平ちゃんにぴったりの数字よね。実際、これでオールコンプリートなんだから」

 中々返す言葉が見つからなかった。

 しかし、見上は思うことがあった。それを包み隠さず話す必要があると思った。

「――守くん、本当に悪い人間ってさ、僕みたいなやつのことをいうんだよ」

 灰谷は怪訝な表情を浮かべる。

「前に守くん聞いたよね。僕みたいな人嫌いが、会ったことも話したこともない女性に、どうして急にそんな積極的にって?」

「そう思ったのはたしかね」

「宮崎さんの家に行った日の帰りにね、母親から珍しく連絡があったんだ。兄貴がうつ病にかかったって。実のところ結構前からだったらしい。仕事ができなくなって会社を辞めて、離婚したんだよ。それで実家に帰ってきたって。父親はひどく嘆いて憔悴してどうにもならないって。母親もどうすればいいかわからなくなったんだと思う。それでわざわざ僕なんかに電話してきたんだ。兄貴が落ち着いたら、家に寄ってほしいなんて言うんだ」

「あら、そんなことがあったなんて・・・・・・」

「問題はここからだよ。それを聞いたとき、僕ほっとしたんだよ。ほっとしただけじゃない。なんだか自分が強くなった気がしちゃったんだ。これまで自分を見上家の腫物みたいに見てた人たちが大変なことになって、自分が初めて優位に感じた。それで宮崎さんに連絡を取った。これで女性の一人とでも付き合えたら、自分が劣った人間だなんて言わせないし、思わせないって。バカだよ。最低だよ。僕も結局普通を求めてた。普通が正しいと思ってたんだ。でもそれが怖くてカードに逃げてきた。救いようのない人間だよ。こんな根っこが腐ったやつがうまくいくわけない。フラれるのも当然だ。守くんには、本当に申し訳ないと思ってる」

 いつの間にか横に立った灰谷は、胸の詰まりを吐き出した見上の肩にそっと手を置いた。

「耕平ちゃん、そんなの自分を卑下する理由にならないわよ。自分を悪く言う必要はないわ。そんなの妄想よ。オカマのわたしが言うことなんて信じられないかもしれないけど、あなたは実はすごく素晴らしいんだから。カードに逃げたっていいじゃない。耕平ちゃんがあなたのいう普通の家庭を築いて普通の暮らしをしてたら、こんなところにはいないでしょ?わたしはきっと一人だったわ。あなたがカードに逃げてくれたおかげで、わたしは一人にならずにすんだの。ちょっと語弊がある言い方だけど」

 灰谷の言葉が心に沁みた。素直に嬉しかった。

「耕平ちゃん、顔つきが変わったわ。当たって砕けた男って、たくましく見えるのね。わたし、好きになっちゃいそう」

「そのたくましくなった顔で、来週にでも実家に帰ってみるよ」

 灰谷は頷いてウィンクまでしてみせる。

「お母さん喜ぶわね、きっと。これは今日持って帰る?」

 灰谷はカウンターに置かれた見上のカードを指差した。

「もう少し置いておいてもらってもいい?僕も小さい金庫でも買おうと思う。家が燃えても大丈夫なようにね」

「あと、もう二度と盗まれないようにね」

「でも、これで本当に終わりだ・・・・・・あ、そうだ、昨日電話で言い忘れたけど、宮崎さんに守くんの話をしたんだ。そしたらすごく会いたがってたよ。今度三人でご飯でもしようよ」

「あら、素敵ね!こんなオカマのおじさんがジョインしていいのかしら?」

「もちろんさ。きっと話が合うよ、守くんと宮崎さんは」

「ふふ、楽しみだわ。それより耕平ちゃん、これ見てよ」

 灰谷はナンデモに出品したカードのページを見せた。

「いいねがもう二十もついてるわ。こんなの初めて」

「取り消さないの?まあどうせその値段じゃさすがに誰も買わないだろうけど」 

「このいいねは、わたしはこのカードの価値を知ってますのいいねよ。世界にたった百枚しかない、その中のナンバー9の価値をね」

「それより守くん、まさか偽造カードなんか売りさばいたりしてないよね?」

 灰谷は見上の言っていることが理解できず、怪訝な表情を浮かべて首を曲げた。

「うそうそ、ごめん、ただの冗談」

 小さくはにかんだ見上は携帯でそのページを開き、最後の『いいね』のボタンを押した。


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