せかい
関係者の死を追う中で相棒・佐々と共に様々な情報を集めるミナト。そして辿り着く、三木という男。その先にその男はいるのだろうか。そしてミナトは選択する。
虚数遊戯(下)
翌日、佐々が課室へ入ると既に他の課員が全員座っていた。自然部屋中の視線が佐々に集まる。最後に視線を向けたミナトと視線を合わせた佐々に伊豆の声がかかる。
「おはようさん、佐々。とりあえず座ってくれ。」
その言葉に佐々は急いで自分の席へと座る。
「これで全員揃ったな。悪いな、朝から待機してもらって。」
どうやら佐々以外の課員はいつもよりは早く出勤していた様だ。佐々が彼らの顔を見るといつも見ている顔とは何となく違う気がする。その場に立ち上がり、伊豆が課員全員の顔を確認する。
「実は昨日、皆が帰った後直ぐに例のFTシステムの使用許諾が返ってきてな。そこで皆には悪いが、俺の方で調べをしておいた。それで実はその時に加島もまだ居たから、まあ、先任捜査していたし、申請希望者本人だからな。結局二人でFTシステムを調査してきた。という事で加島、報告頼む。」
伊豆は腰かけ、ミナトの発言を待つ。ミナトは一旦伊豆と視線を交わすとその場に起立する。その時一瞬佐々と目が合うが、そのまま話を始める。
「それでは報告させて頂きます。今話にあった様に昨日課長とFTで例の三木の行動を追いました。例のリストの人物達十一名に絞って周囲に三木の姿が確認出来るかどうかを徹底して見ました。すると全てでは無いですが、十一名中八名の周囲に三木の姿が確認できました。但し、誰一人として三木本人からの接触は見られません。」
予想していた事だったが、改めて見てみると本当に『ただ居ただけ』になっている。
「しかし、遠方に関しては北海道、神戸には足を運んでいるものの、岡博士の居た仙台には行った形跡がありません。」
「つまり、仙台を含めて三つの箇所に関しては三木の動向は確認できなかった訳だな。」
腕を組み椅子に深く座り構えている種田が、ミナトが一旦話を切ったところで質問する。
「ええ、今言った仙台の岡博士、千葉の九条教授、埼玉の立花教授の周囲にはその姿が確認出来ませんでした。何なら、その三名が失踪したと思われる同日には三木の都内でのアリバイが確認できています。」
ミナトがしっかりと種田を見て答えると再び種田からミナトへ質問が飛ぶ。
「それじゃあ、その三人は今回の事には関係ない、という事か。」
「いえ、それは無いと思います。被害者の類似性から一連の件に関して共通点であると考えられる事から子の三名だけが除外されるいわれはないかと。少なくとも彼ら十一名は同じ道筋の上にいると考えるべきです。」
今度は種田だけでなく、課室全体へと視線を回すミナト。
「だったら、三木がその三名に対してだけ干渉していないという事か。」
今度は妻木がミナトの話に疑問を投げかける。
「現在三木がどの程度事件に関わっているのか、どの様な形で事を起こしているのか、相変わらず全く掴めていません。ただ、いずれにしてもこの男から話を聞き出さない事から先へとは進めない。私はそう考えます。」
ミナトの目が強い眼差しで妻木のみを見て意見を返す。一瞬部屋全体が静けさに覆われ、ミナトを注視する。伊豆が一つ息を吐き、自身の席に腰を降ろしたまま、部屋に声を響かせる。
「何はともあれ、この件に関して三木から話を聞く事が最優先事項だが、実際三木を引っ張ってこれるだけの手札がないのが現状だ。」
その一言に今度は課室の中には僅かに顔を歪める者も出てくる。すると黙って座っていた佐々が思い切り机に手を着き、立ち上がる。
「あの、三木の周囲を洗って何か別の理由で任意同行する事は出来ないでしょうか?事情聴取さえ出来れば可能性があるんですよね?」
佐々は視線をミナトに向け、様子を窺う。佐々の頭に浮かんでいるのは御堂の研究室に言った時の事。
「別件逮捕か。搦手からいこう、という訳か。悪くは無い、か。」
妻木の呟きは静かな室内で通るには充分な大きさであった。他の課員の中にも佐々の話を考査する様子が見られる。しかし、ミナトが佐々をしっかりと見つめながら口を開く。
「それは難しいと思うぞ。確かに三木は被害者達の周辺に現れていますが、ここまで直接的に自身に疑いのかかる様な証拠は何一つ残していない。そんな男が普段から自分の首を絞める様な真似をするとは思えん。」
「でも…。」
佐々はミナトから視線を外し、俯く様に下を向く。周囲の課員はその二人の様子を黙って見ている。ミナトが佐々の意図に感づいているのだろう、やや強めに佐々の事を見つめている。一方で種田が伊豆に視線を送ると伊豆もそちらを見て二人で頷き合う。そして伊豆が再び席を立つ。
「ミナトの言う事も最もだが、佐々の意見もまた外す事でもない。」
伊豆が話し始めると佐々が静かに着席する。ミナトは苦い顔をしながらも特段何かを口にする事は無い。
「という事でまず三木の周辺を徹底的に洗う。何でも良い、奴を引っ張ってこれるネタを探し出せ。以上。」
全員から揃って返事が戻って来る。伊豆は全体を見渡し、最後に佐々とミナトを見る。相変わらず仏頂面をしているが先程の指示にはしっかりと返答していた。佐々は伏していた顔を上げて強い視線で伊豆の方を見ていた。伊豆は多少の不安を感じながらも各々作業に取り掛かる部下達を見て、ひとまず自分の席で深く息をつく。そんな伊豆の様子を種田も少し可笑しそうに見ていた。
男から忠告を受けてから数日経ったが、特別周辺で変わった様子はない。念の為に周りで奴らの好餌となり得る要素は全て排除した筈だ。いつも通り社長室で業務を行う。平常で何ら代わり映えのしない光景だ。三木は作業していた手を止め、椅子の背もたれに深く着く。若い社員達は今日も精力的に働いてくれている。少し冷めたコーヒーを口にする。ここ一年程自身の人生の中でも最も充実していた期間であったと思う。一方で警察の動きを警戒しているここ数日も含めて随分と味気ない日々となっている気がする。以前と変わらい、と言えばその通りだ。別に大きな不満がある訳じゃない。暫くは安穏とした生活を送るのも悪くないだろう。三木は飲み干したカップを持ち、備え付けの簡易キッチンへと向かう。コーヒーメーカーにカップをセットし、抽出ボタンを押す。給水の音が少しするが、かつて使っていた古い方のものに比べるとかなり静かなものだ。コーヒーが淹れられるまで三木は社員達の様子を見ようとオフィスの方へ出る。特別立て込んでいる様な仕事も無いのでオフィス全体は至って落ち着いている。社員達も時折三木が車内をこうやって見て周っているのを知っているのでほとんど気にしていない。三木はオフィスを後にして、自室へ戻ろうとする。すると突然オフィスのドアが開く。普段から来客が多いオフィスではないので多くの社員の視線がドアに集まる。そのドアから現れたのはその場に居た全員の予想を裏切る来客だった。厳しい顔をした男性が五人と小柄な女性が一人の女性。彼らは全員室内に入ってくると扉の前で一度集合すると一番年長であろう男が口を開く。
「突然失礼する。私は警察省東京職庁刑事課の種田という者です。こちらに依田伸司さんはいらっしゃいますか。」
オフィス全体を見渡し、呼ばれた本人を探す闖入者達。オフィスには緊張感が張り詰め、多くの視線が一カ所に集まる。自室に入る直前だった三木の近く、オフィスの上座側に座る男性が静かに立ち上がる。
「依田は私ですが…。」
その場の全員から注視されている依田はまだ三十を超えた位の青年。だが、社内では大きなプロジェクトも任せられている社の中心の一人だ。男達は依田の所まで歩み寄ると種田が三木を一瞥すると依田の正面へ詰める。
「依田伸司、不正競争防止法違反の容疑で逮捕する。」
依田本人にも確認出来る様に種田が電子逮捕状をARで可視化する。勿論傍に居た三木にもその逮捕状が見えている。間違いなく正式な逮捕状。三木は依田の顔を見る。依田本人は種田から見せられた逮捕状に困惑している様だ。三木は困惑する依田と種田の間に割って入る。
「待って下さい。私社長の三木と申します。ウチの依田が逮捕とはどういう事ですか。」
種田が三木と目を合わせると後ろを振り向き、一歩下がって立っている男を呼ぶ。妻木と呼ばれた男が種田の横、三木の前に立つと種田と同じ様に自身のARを可視化して簡単な罪科を説明する。
「依田は複数の自治体に関して、各種システム導入の競合において、他社の内部サーバーから情報を盗み出した上で自社が競合で有利になる様に図ったものとされています。」
「サーバーへの侵入だと。依田がそんな事を。」
三木は依田の方を向くと妻木も同様にARを依田に示す。
「そんな、僕そんな事していません。何かの間違いです。」
面喰って動揺しきりの依田に種田は表情一つ変えない。
「とりあえず本庁まで来てもらうか。」
混乱している依田は抵抗する事もなく、種田と妻木に両脇を固められて歩き出す。依田はすがる様な視線を三木に向ける。それを受けた三木が再び三人の元に駆けようとする。すると最後尾に控えていた若い男が三木の行き先を遮る。男の行動に三木は驚き、足を止める。
「何だね、君は。そこをどいてくれ。」
強い口調で男に迫る三木だが、男は動じる事無く目の前に立ち続ける。気が付くと彼の後ろには随分と若い女性が、こちらは三木に対して僅かな怒りを込めた瞳で、三木を見つめている。一方で男の方は終始冷めた目で三木と見ている。その視線はどことなく機械的ですらある。
「三木社長、私種田と同じ東京職庁刑事課の加島と申します。こちらは佐々。あなたにもお話しを伺いたいのですが、ご同行いただけますか。」
平坦で落ち着いた様な声ではあるが、何処か鋭さを感じる。三木は少したじろぐが、すぐさま立ち直る。
「私にも話ですか。依田も私も他社さんのサーバーに侵入するなんて事していませんよ。彼は優秀なプログラマーですからそんな事をしなくてもいいんですか。」
三木の言葉にしかし、加島という刑事は微動だにせず、
「ええ、ですからそこも含めて詳しくお話しを伺わせて頂きたい、と。」
一切動じない目の前の男に三木も思わず口調が強くなる。
「分かりました。私共には恥じるべき行いは何もありません。行きましょう。」
そう言うと先程紹介された佐々という女刑事が三木を促す。佐々に従い、オフィスを後にする。出る際少し後ろを振り返った三木だったがそこに居た加島は表情を一切変えずに二人の後に付いて来る。更にその後ろの社長室では抽出され終わったコーヒーが既に冷め始めていた。
三木と依田を一度警備ドローンに預けて取調室まで案内する。ミナト達四課の面々は課室でそれぞれ取調室の二人の様子をAR動画で見ている。室内は沈黙に包まれたままだ。
「とりあえず依田の取調べは私と冴安さんでやります。三木の方は…。」
妻木はそこまで言うと机越しにミナトの方を見る。同様に他の課員の視線も集まっている。当の本人はそれらの視線を気にかける風もなく、伊豆の方を見る。伊豆は苦い顔をしてミナトを見ていたが、黙って自分を見ているミナトから目線を佐々に移す。佐々はミナトではなく伊豆を見ている。二人を交互に見た伊豆は誰にも聞かれない様に溜息をつく。
「分かった。冴安、妻木には依田を任せる。それで三木の取調べについては加島、佐々が取り掛かれ。各自気を引き締めてやってくれ。」
伊豆の号令で冴安・妻木、加島・佐々がそれぞれ離籍、退室する。残った課員は各自ARの映像に注視する。そして全員が依田の居る取調室の映像を最小化し、三木の取調室のみに集中する。暫くするとその部屋にミナトと佐々が入ってくる。三木の正面にミナトが座り、その後方の補助卓に佐々が腰掛ける。
そして警備ドローンが部屋の隅に鎮座すると三木にも分かる様に録画を開始した旨を伝える。三木は道中やや険しい顔をしていたが、この取調室へ来る途中から徐々にその顔には微笑みが浮かび始めていた。
三木の目の前に腰掛けたミナトは黙って三木と視線を合わせている。しばし二人はそうしていたが、傍で見ていた佐々はその様子を静かに観ている。そして先に視線を外したのはミナトだった。三木はずっと余裕を見せる様な微笑みを張り付けている。対してミナトは相変わらずの仏頂面。
「改めまして、私東京職庁刑事部第四課の加島と申します。お忙しいところご足労頂きありがとうございます。」
三木は黙ったままミナトを見つめている。
「さて、依田の件ですが、社長ご自身は何もご存じないのですか。」
「ええ、先程も申し上げた通り、そもそも依田君がその様な事をする訳がないと思っています。」
余裕を見せながらミナトに笑いかける三木。ミナトはその笑みには答えない。
「では、コチラをご覧ください。依田の自宅並びに会社でのアクセスログです。全て巧妙に削除されて形跡はほとんど残っていませんでしたが、ウチの妻木は優秀でして。更にご存知かと思いますが、当方には捜査支援AIがあってそのおかげもあって、本当に僅かな手がかりでしたが、何とか依田の元に辿り着く事が出来ましたよ。」
「’伽藍’…。」
そこで初めて三木の顔から笑みが一瞬消える。
「やはりご存知でしたか。ええ、その伽藍が依田のログに怪しい痕跡を見つけ出した、という事です。ホントに伽藍様々ですね。」
ミナトは視線を三木の表情に固定する。ミナトが話している間三木は表情をたじろがせる事は無かった。三木は目の前のARで可視化されたログの一覧に目を通す。そのログは確かに複数のIPアドレスから多くのサーバーへのアクセス履歴が表示されている。アクセス先のサーバーは三木の会社の同業者やこれまで仕事をしてきた自治体などの名前が並んでいる。そしてアクセス側には四つほどのアドレスがあるが、そのうちの一つは間違いなく三木の会社のものだ。余裕を以て一通り目を通した三木は静かにミナトを見返し、口を開く。
「確かにこのアドレスはウチの会社のものですが、他のアドレスは?」
「二つは依田が個人で所有しているもの、もう一つはオープンカフェのフリーのものでした。」
後方に座っている佐々がミナトに代わって答える。チラリと佐々の方を三木が見たが、佐々はそれに気付いていない。
「それは本当にウチの依田君が、ですか?」
「それはどういう意味でしょうか。」
「実際にそれを依田君が行っていた、という証拠があるか、という事です。」
「これらのログでは不十分だと。」
「ええ、この手のものはいくらでも偽装できますから。実際に依田君がそれを実行した、という物的証拠がなければ。」
三木は不敵な笑みを浮かべる。目の前の若い刑事が何を考えているのか読み取りづらいが、反応から見ると所謂物的証拠はこれ以上ない様だ。するとミナトではなく佐々が口を開く。
「つまり依田は無実でこれらのログ全てが偽装されたものだと?」
改めて三木が見るとその女刑事はかなり若い様だ。下手をするとまだ学生と言っても遜色ない。佐々に微笑みかけた三木が今度はしっかりと佐々を見ながら答え始める。
「ああ、その通りだ。」
「このログはアクセスの隠蔽やログ自体の削除に関しても並みのプログラマー程度では困難だと思われます。先程あなたがおっしゃった様に依田は随分と優秀だそうですね。寧ろその彼だからこそこのような巧妙な工作も可能なのではないですか。」
キチンとした口調で三木に返す佐々。三木は驚きを表す事は無かったが、思っていた以上に明確に意見を言う彼女に目を丸くする。
「それに依田の技術だけでなく、他に誰か協力者が居たとしたらどうでしょう。」
ここにきて三木から微笑みが消える。と同時にミナトが首だけを僅かに動かし、佐々に視線を送る。
「つまり、私が共犯者だと?」
少しキツイ口調で返す三木だったが、佐々は動じる事は無い。
「共犯もしくは教唆していた可能性もある、という話です。」
「失礼だね、君は。一体何の証拠があってそんな事を言うのかね。」
三木は表面上佐々の言っている事に怒りを滲ませる様な態度をとるが、内心この対応を理由にこの状況から解放される事を考えていた。しかし、何か言おうとした佐々を制し、口を開いたのはミナト。
「失礼しました、三木さん。しかし、実は今回の件で依田の周辺を調べさせてもらいました。その中であなたが少し変わった動きをしていたのが気になりまして。」
ミナトが視線を鋭くして三木を見る。三木も険しい視線をミナトに返す。
「私の事を調べたのか。それは越権行為ではないのか。」
「いえ、必要な承認は受けています。‘伽藍’が許認の上なので合法な調査です。」
合法、そして伽藍の言葉に苦い顔をする三木。それを確認したミナトは言葉を続ける。
「それで三木さん。あなた、ここ一年の間随分とあちらこちらに行っていますね。」
三木の顔が苦いものから無表情に変わる。ミナトはそれを見逃していなかった。
「関東周辺だけではなく、神戸や北海道にまで足を伸ばしている様ですね。」
三木の変化を逃さない様にしっかりと対面する。三木の表情は無表情なものから再び微笑むそれに変わっていた。
「刑事さん、私は社長という仕事柄、職務としてはシステム設計よりも社内の管理や対外交渉が主になっていますので、その関係で出張する事もありますよ。」
「確かに出先に行った際には向こうの企業何社かに足を運んでいますね。」
「ええ、ほとんどが同業者で、敵対関係というよりは互いに切磋琢磨する同志、といったところでしょうか。」
ニコニコしながら軽快な口調の三木。その笑みにはミナトは反応しない。
「そうですか。ただそれ以外にも足を運ばれていますよね。」
三木から笑みが少しずつ消えていく。
「と言いますと?」
「はい。社長が出張先に行った後に時折妙な行動をなさっています。」
話すミナトを黙って見ている三木。そんな三木の様子にミナトも一度言葉を締める。暫くの間黙って見合っていた二人だったが、ミナトがARを操作して三木の前に可視化する。表示されたのは三木の写るいくつかの画像。
「三木社長、これらの画像に写っているのは間違いなくあなたですよね。」
小さく表示されていた画像を一つ一つ拡大し、三木へ確認していくミナト。三木はそれらの画像を冷たい眼差しで見つめている。
「これらが撮られたのは大学などの学術機関や研究施設などの近くでした。更にあなたが付近に現れた施設に所属する学者や研究者が次々に亡くなったり、行方不明になったりしているんです。」
ミナトは意識的に多少強い口調で三木に話す。
そして三木はフッと一つ軽い笑いを浮かべると、ミナトを見返す。
「それで、それに私が関わっているとでも?馬鹿々々しいこんな写真だけで私を疑うなど案外警察も愚かしいな。」
ミナトの口調に合わせる様に三木の言葉も強くなる。一方、ミナトは再び落ち着いたトーンになって話を続ける。
「しかし、実際彼らはあなたが現れた直後に異変に襲われているんです。」
「しかし偶然とも言えなくないのでは?」
「偶然、ですか。これだけの現場に現れて尚且つその直後に事件が発生していると思われているのに。」
「ええ、万に一つの偶然でしょう。」
幾分か余裕を持ち始める三木に対してミナトもその姿勢を変えない。黒井の喫茶店で撮られた画像を拡大して表示する。
「三木さん、この日にここの喫茶店に行かれていましたよね。」
写真を見ていた三木は今思い出したかの様に、「ああ、この喫茶店ですか。確かに行きましたが、それがどうかしましたか?」
「お店の方に伺ったのですが、随分と長居なさったようですが何を?」
「この日は休みだったのでゆっくりしていただけですよ。それにそんなに長居はしていない筈ですが。」
「伺った話だと入店からずっと外をご覧になっていた様ですね。終始何をご覧になっていたんですか?」
「別にただ風景を見ていただけだよ。」
「そこまで人通りが多い所、という訳ではないと思いますが。」
「別に見るのが人だけとは限らないだろ。」
「向かいのマンションとか?」
ミナトの質問に三木が止まる。しかし表情は変わらず、一息の間の後再び口を開く。
「何故向かいのマンションを私が?」
「ご存知ありませんか。丁度あなたがこの喫茶店に居た前後にそのマンションに住む女性学者が亡くなっています。」
「そうなんですか。それはお悔やみ申し上げます。しかし、その方と私は無関係ですよ。それもまた偶然と言えるでしょう。」
僅かに口角を上げ、机に両肘を組んでつき、顎を乗せてミナトを見る。
「そうですか、偶然ですか。なるほど。では喫茶店でどなたかと通話していたようですが。覚えていらっしゃいますか。」
三木は笑みを消し真顔になると机に乗せていた手と頭を持ち上げ、今度は背もたれに寄り、深く座る。
「電話ですか、どうでしょうか。仕事上の電話は頻繁にかかってくるので、明確な事は覚えていませんね。」
「そうですか。お店の方はLINKAEDとか、計画通りとか、何やら随分と険しい様子で話していたようですが。」
「おや、そうでしたか。それはタイミングが悪かったのでしょう。仕事で何か不備があってそんな話になったのだと思いますよ。」
笑みを浮かべている三木。その笑みは佐々には不敵なものに見えた。背中しか見えないミナトだったが、どの様な反応をしているのか、佐々からは見えない。
「仕事の電話だった、と。」
「ええ、そうです。もうそろそろよろしいですか。何の物的証拠も無い様ならこの話も、依田の話も状況証拠でしかない、という事です。これ以上は水掛け論、時間の無駄です。」
三木は言葉を言い切ると椅子から立ち上がる素振りを見せた。ミナトは三木が言い終わるのを待ち、そして問う。
「ヌル、知っているな。」
足に力を入れて立ち上がろうとしていた三木が止まる。その目はミナトを見て、大きく見開かれている。その目と視線を合わせたミナトはその瞬間確信を持つ。再び椅子にしっかりと腰掛ける三木。見開かれていた瞳はようやく落ち着きを取り戻し、ミナトと対面する。
「ヌル、ですか。何ですか、それ。」
「それはあなた自身がよくご存知の筈です。」
「何。」
三木の反応を見たミナトはその三木に対して淡々と言葉を繋いでいく。
「三木社長、先程申し上げた学者先生達に起きている事件に関して、正直アナタに罪があるとは思っていません。」
その言葉に驚いたのは三木だけではなく、後ろに座っている佐々も同様だった。
「いえ、言い方が正しくないですね。あなたは知らせているだけ、関与させられているだけ、ただそれだけだと思っています。」
ミナトの言葉に三木の表情が急激に変化する、
「…何を言っている?」
ようやく絞り出したかの様な声で三木が答える。表情を出さまいと苦心している三木だが先程までと異なり、全く隠し切れなくなっている。ミナトは躊躇わずに続ける。
「ヌル、あなたがここに居る理由ではないのですか。あなたはただ使われていただけ、でしょう。」
その瞬間三木の表情が崩れる。怒りに耐えていた顔が一瞬にして変化する。
「私が使われた、ですか。ヌルというヤツに、ですか。くだらない。私が一体何を…。」
そこまで言うと三木は言葉を止める。その視線の先に居るミナトの口元がほんの僅かに緩んでいる。三木が自身の失策に気付くがミナトはそれを無視して三木に告げる。
「ヌルというヤツ、ですか。私はヌルが人物であるなどと言っていませんが、どうなさったんですか。」
三木はミナトに見えない机の下で強く拳を握り、震わせる。強い後悔の念を以て、自分が完全に乗せられた事に思い至る。目の前の若者を甘く見ていた訳ではない。ただ予想外に急にあの男の名が出てきた事に少し動揺していたところに、その言葉だ。平素の三木ならば挑発であると一笑に付していただろう。しかし、ミナトの言葉には三木の心を抉る様に感じた。それはミナトが三木に対して興味を持たず、三木自身が大きく評価していないあの男だけを見ているのを感じたから。冷静さを取り戻した三木はミナトと視線を合わせる。
「いや、実は一昔前にネット上でとんでもないハッキングスキルを持った人物が現れた事がありました。ほんの一瞬の間だったのでそいつの事を知っているのは僅かなプログラマーだけです。まあ、都市伝説の様なものですが。それを仲間内でヌル、と呼んでいた事がありまして、それで。」
ミナトは真偽を見抜こうと三木の表情を凝視している。三木自身苦しい話だとは思うが、実際前半部に関しては事実で丁度人工知能研究所の爆発事故の直後のほんの僅かな期間であったが、正体不明のハッカーがアングラサイトに出現した事があった。当時業務の傍らそういったサイトにアクセスしていた三木はその人物が大企業や官公庁などから盗み出したと言う資料を掲載した。多くの閲覧者が眉唾だと相手にしなかった中、ごく一部の専門知識を持っている人々はその技術に驚愕していたものだ。三木はそれを思い出し、話に利用した。無論後半の呼び名については盛り込んだものであった。
「随分変わった名前を付けたんですね。勿論意味合いをご存知ですよね。」
「当たり前だ。そいつは何も痕跡を残さなかったからな。そこから当時誰かが付けた筈だ。」
三木も初めてあの男から名乗られた際は不可解に思ったが、今考えればなるほど、確かにあの男を追跡する事は難しい。その存在を疑う程に実態が掴めない。
「三木さんの話が真実だったとして。では、そのヌルが再び現れたとしたら?」
ミナトが三木に問いかけると一瞬不思議そうな顔をする。
「再出現したヌルが三木社長、あなたを使用した。」
再び三木を挑発する様に見るミナト。しかし、流石に三木もそれには気付いている。ただ、それ以上に彼のプライドがそれを聞き流すのを許さない。加えて既に一度失策を犯し、かなり相手にイニシアチブをとられている。だが三木には絶対の自信がある。それ故強い姿勢を崩さない。
「先程も言いましたが、私が一体何をしたと言うのです?何もしていない、と言うならここに居る必要はないのでは。」
「ええ、あなたが何をしたかという点ではこの様に同行していただく事は無いのですが、ただ、あなたを我々が拘束した、という事実が大変大きい意味がありますから。」
ミナトの言葉が理解出来ずに言葉を返す事が出来ない三木。ミナトが続けて話す。
「三木社長、あなたの行動には必ずある結果が伴っていた。しかし、実際にそこに因果性はない筈です。つまり結果を左右しないあなたは元々必要性が無い、という事です。」
ミナトは笑いもせず、ただ真実を告げる。
「・・・・。」
絶句した三木はミナトを見つめる。そうして遂に超えた。
「ハハハハーーーーーー。」
部屋に響く、顔を伏したままの三木の渇いた笑い。同席する佐々は勿論、課室で映像を見ている課員達の中でも驚きを隠せない。
ほんの短時間だったのか、長い時間だったのか、三木の笑いが収まると途端佐々は部屋の温度が急に下がった様な気がした。伏せていた顔を上げた三木は笑顔だった。恐ろしい位晴れやかな。そんな三木と顔を合わせたミナトに変化はない。
「刑事さん、君若いが中々優秀じゃないか。なるほど私が必要ないと来たか。それは誰にとってなのかな。」
何も答えないミナトに三木は苛立つ事もなく、笑いを含みながらも穏やかな声で続ける。
「そうだ、刑事さん。あなたが先程話した伽藍、このAIのホストコンピューターがどこにあるかご存知ですか?」
「残念ながらそれは機密事項なので知っていたとしてもこの場で話す事は出来ません。」
機械的な回答をするミナトに三木もつまらなそうに話す。
「なんだ、つまらないな。まあいい。その伽藍もですが、現在世界最高峰のAI達、日本で言えばオモイカネがそうだが、全てそのホストマシンの情報は秘匿されている。各国家がその存在を認めてもその概要すら知られていない。」
「当たり前です。セブンズブレインは社会の根幹を支えているAIです。その情報をそんな容易く入手出来たら問題です。」
佐々はそれが当然の事なので何の疑問も挟まずに三木に返す。
「そうだね、お嬢さん。確かにセブンズブレインをはじめとするAIは今の社会では重要だ。だが、よく考えてみたまえ、我々の生活に寄与されるべきAIの地位がいつの間にか我々がそのAIを庇護している様に見えまいか。これではまるで主従逆転だ。」
「あなた、まさか。」
三木の言葉に佐々が小さく呟く。
「いや、何もAIを否定している訳ではないよ。特段逆刻派、というわけではないし。ただ過信は良くないと言っているのだ。どこまでいっても人工知能は我々の暮らしを豊かにする為の’道具’だ。そこに自己決定がある必要はない。」
ミナトは一切口を挟む事なく静かに話を聞いている。
「ところがだ。世の中にはそれに気付かず、AIの運用を逸脱しようとする連中が居るのだよ。」
「それが彼らだと?」
三木の目の前にミナトが桜木や福杉らの写真を並べる。彼らの画像を見ても三木は一切変わらない。ミナトの後方から三木へ言葉が飛ぶ。
「彼らは稀有な人物達ですよ。これから多くの人々を救うかもしれなかった人達です。ううん、それ以前に他人に手をかけるなんて。」
「そうですね。だから先程から言っていただいている通り、私は何もしていない。」
初めてその笑いが佐々に向けられ、彼女は悪寒を覚える。
「私自身、彼らに対しては尊敬の念を抱いていますよ。彼らは人類の未来を素晴らしいものにする為に困難な課題に取り組んでいるのですから。私も素人じゃない、それ位は分かっている。」
一旦言葉を切ると深く息を吸う三木。
「しかし、どうでしょう。彼らが創り出そうとしているものは我々にとってどの様に存在していくのか。そう考えた時に私はね、一抹の不安を覚えているのだよ。」
「…技術的特異点。」
小さな声で呟いたミナトだったが、部屋に居る者が聞くには充分な大きさであった。
「ええ、そうです。AIが我々人類を超えると言われている時点です。お嬢さん、技術的特異点の定義をご存知ですか。」
指名された佐々は思わず黙り込む。すると三木の目の前に居るミナトが口を開く。
「十二万円で手に入る位のコンピュータの性能が全人類のを合わせた計算性能を上回った時。いや、或いは…。」
「自らを改良し続ける人工知能が出現した時。どちらもレイモンド・カールワイルの言葉だ。」
「二十世紀から二十一世紀にかけての人工知能学者ですね。」
「ああ、彼の提唱した収穫加速の法則が技術的な進歩を促進し、現代のテクノロジー技術に大きく貢献したとも言われているからな。君も中々に詳しい様だ。」
ニヤニヤとミナトを見た三木。
「その時からこの技術的特異点については論じられてきたが、実際にその時点が訪れる事は無かった。それは恐らく我々人類が無意識の内に制していたからなのではないかな。いずれ来るものと言われているその時を心のどこかで恐れていた人間が多く居た。それが技術的特異点をこれまで遠ざけて来た。しかし、好奇心や探求心に突き動かされる人間が居る。重ねて言うが、私は彼らの志や思いは敬意に値するし、その道程を否定する気は一切無い。重要なのはその先だ。」
「いずれ技術的特異点が訪れて、人工知能が人間にとって害になると?」
「明確にそうなる、という確証もなく私自身もそこまで確固たる自信を以て言っている訳でもない。しかし、人類が己の手に負えない程の知能を創り出した時、我々はそれに対峙する事が出来るのか、そう考えた時、私はその不確定な未来を否定せざるを得なかった。」
熱を帯びた様に話していた三木がミナトと佐々を交互に見る。
「君達には分からないかな。この様な不安が心を蝕む心地は。」
残念そうに語った三木が肩を落とす。すると佐々が声をあげる。
「そうでしょうか。さっきも言った通り、少なくとも私は亡くなった方々は人々の役に立つ様に自分の研究に取り組んでいたのだと思います。それに今の人工知能は確かにすごいです。計算処理や情報処理は日々向上し続け、本当にその技術的特異点が来るのかもしれません。だけどやっぱり人には人にしか理解出来ないものがある、と思います。そして何よりも、どんな言葉を並べてもあなたのそれは身勝手なものです。」
佐々の言葉で三木の笑顔に曇りがかかる。
「君はどうかな。君ならもしかしたら理解出来るのではないか。」
身体を前に少し乗り出すとミナトに迫る様に問う。だが、それにミナトは臆する事は無い。
「確かにその恐怖は拭えませんね。」
三木の顔が嬉しそうになるのと同時に後ろの佐々が驚きを隠せない顔をする。しかし、次の言葉でそれが逆転する。
「しかし、私は人間がそこまで愚かだとも思っていませんよ。確かに近い未来に技術的特異点が訪れるのは間違いないでしょう。その結果人工知能が暴走したとしてもそこには必ずセーフティが働く用になる筈です。そう簡単にあなたが想像する様な事態は起きないと思いますが。」
「意外と楽観的だな。そんな単純なものだろうか。彼らは我々が思っている以上に浸透しているかもしれないぞ。」
その瞬間だけ三木の目線が異常なまでに冷めたい様に感じられた。
「…。」
その目線にミナトは少しだけ目を見張る。しかし、次の瞬間には何事もなかった様に笑みを浮かべている。
「とにかく、刑事さん。私が彼らに関してどう思っていようと、今の状況で私がその害になった、という実証は一切無いのですから。今ここにこれ以上留まる理由は無い筈ですが。」
三木が急に笑顔をそれまでの晴れやかなものからミナトを試す様な怪しいそれに変わる。
「それに依田君の件も同様です。少なくとも会社としても私個人としても依田君の件に関しては与り知らぬ事ですから。」
余裕の笑みが戻った三木は先程の熱を感じさせない。佐々は何も言い返さないのが悔しいのか、三木をきつく睨んでいる。ミナトも口を開く事なく三木を見ている。
「これ以上私を拘束する確実な証拠がなければ失礼させて頂きたいのだが。」
気付けばこの取調べ室で三木と対面してから随分と経っている。実際これ以上三木を引き留めて置けるカードはミナトの元には残っていない。ミナト自身もこれ以上三木から得るべき事は無い様な気がする。すると後方の佐々が、
「三木さん、一つ聞きたい事があります。」
驚いた顔で佐々を見た三木だったが、すかさず先を促す。
「あなたは、AIはあくまで道具だっておっしゃいました。」
「ええ、そうですね。」
「では、どうしてそんなにAIに強い執着を持っているんですか?」
「何?」
「だって、今回の被害者達は確かにLINKAEDの開発に関わった人達です。彼らはLINKAEDとAIに深い関係性を創り出しました。でもそれは一般的にはあまり認識されていない。だけどあなたはそれも知った上で‘伽藍’やセブンズブレインの話をしました。それであなたがAIに拘っていると思いました。」
「…。私が拘っているだと。」
初めて三木から本気の怒気が滲む。その様子にミナトも少し驚く。しかし、直ぐに三木の様子が戻る。
「お嬢さん、確かに私はAIに拘っていたのかもしれないな。だが、それは私も技術者だ。興味を持つ事も多聞にあるだろう。但し、私のそれは彼らとは違い、抑制を伴ったものである。それだけだ。」
三木の返答に佐々は何か言い返そうとするが、それを三木が制す。
「もういいかな。本当にそろそろ帰らせてもらう。」
三木は席を立つと自ら部屋の出口へと向かう。すると佐々が三木の行き先を阻もうとする。その小柄な影がすっと三木の前に立つ。しかし、横からそれをミナトが制する。
「失礼しました。車で送らせましょう。」
訝しんで佐々を見た三木がミナトへ視線を移す。僅かに目を合わせた二人だったが、三木が視線を外す。
「いえ、結構。電車でも帰れる距離ですから。これ以上警察の方と一緒に居るのは世間体が良くありませんし。」
目配せで佐々に道を譲る様に語る。しかし、佐々はピクリともしない。それを見たミナトが佐々に道を空ける様に、とはっきりと言うと渋々佐々がミナトの背後へと下がる。満足した顔で二人の横を通り過ぎて行く三木。ミナトと佐々はその三木を追いかけて行く様に部屋を出た。
結局ミナトと佐々は本庁の玄関外まで三木を送る。道中三人共何も口にする事もなかったが、三木の顔は終始不機嫌そうにしていた。彼は後ろを付いて来るミナトと佐々の方を気にしながら、振り返る事もなくただ歩き続けた。屋内から三人が外に出るとようやく三木が足を止める。
「こちらで結構。わざわざありがとうございました。」
振り向きざま幾分かとの嫌味も込めて言い放つ。二人共それを分かっている上で会話を続ける。それは佐々だけ嫌悪感を出しながらのものであった。
「本当に送らなくて宜しいですか。別に赤色灯を点けて走る訳じゃありませんから。」
「フフ、君もまずまず面白い冗談を言うものだね。なるほど緊急走行のパトカーに乗るのも一興だな。だが、先程も言った通り、一人で帰るので気遣いだけ頂いておこう。」
そう言うと三木は本庁の前の横断歩道の端に立つ。路上には多くの車が行き交っている。ミナトはそれの動きを何となく目で追っている。ほとんどの車が自動運転で、搭載されているカメラが記録している映像から周囲の車や歩行者の動きを把握して危険を察知・予測して運転しているので今日日交通事故なんてそうそう起きない。
四車線ある内、立ち止まった三木を認識した右手二車線から来た車と奥に左からの一車線の車が順次横断歩道の手前で停止する。それを確認した三木は後ろを振り向くと、
「それでは本当にこれで失礼させてもらいますよ。それから依田君も早めに開放していただきたい。直ぐに疑いが晴れると思いますから。」
「また何かあったらお話を伺わせて頂きます。」
「二度とお会いする事の無い様願っていますよ。」
三木は笑顔でそう言うと歩き出す。するとミナトの元に伊豆から連絡が入る。道路を背にし、通話を始めるミナト。
「残念だが加島、依田の方も一旦返さなきゃなくなりそうだ…。」
通話口の伊豆の声は暗い。ミナトは伊豆と話を続けながら何となく今去った三木の方を見る。そうして気付いた時には既に遅かった。三木は横断歩道を半分以上行った所、丁度一番奥の車線上に立ち呆けている。そしてその車線の先からは一台の車が速度を保ったまま走って来る。その距離凡そ100m。嫌な予感がしたミナトだったが、通話中でその反応が鈍る。
「危ないッ…。」
ミナトの隣に居た佐々は三木が横断歩道を渡り始めてからそこに立ち止まるまでその様子を見ていた。突然立ち止まったミナトはただ一点、横断歩道を渡り切ったその先、向かい側の歩道、そこだけを見つめている。それを見ていた佐々が咄嗟に真っ直ぐ三木の元へと走り出していた。
「バッ…。」
出遅れたミナトが声をあげた時には既に佐々の手は三木にあと少しの所まで届こうとしていた。
見た事ない男だった。今騒々しい横断歩道を渡っていた筈なのに急に辺りが静かになる。足が止まった三木の視線の先に居るのは若い男。細身でラフな格好をしており、街中ですれ違っても気にもならない様な青年だ。しかし、その面影はハッキリと見えない。そこに居るのに呆けた様に見えている。瞬間男の口元だけが明確に目に見えた。笑っている。そしてその口が何かを言っている。しかし三木の耳にはその声は届かない。男の言葉を聞き取ろうとするも足は前に進まない。笑う男が此方に向かって小さく手を振る。それはまるで小さな子供にバイバイ、とするかの様な。三木は彼をもう一度見て、そうして思った。あれはあの男ではないか!考えた次の瞬間、三木の身体は二つの方向から押された後、ようやくそこから動けた。同時にその意識を奪われながら。
ミナトが平時の落ち着きを取り戻したのは二人が飛ばされた直後だった。三木の身体は車の衝突をまともに受けた結果、車のボンネットからフロントガラスに激突、直前に車がかけた急ブレーキの影響で大きく前へ投げ飛ばされる。一方その直前に三木にほんの僅かに触れた佐々はそれと同時に車の右前方部に体を強くぶつける。走ってきた方向にそのまま吹き飛ばされた佐々はそのまま路上に転がる。
伊豆との通話を唐突に切ると、急いで佐々の元へと駆け寄る。周囲には事故の様子を窺う野次馬が集まり始めている。ミナトが佐々へ近付くと佐々の身体中に無数の傷が付いているのが分かる。ミナトが身体を確認するが、幸い頭部からの出血は見られない。しかし、佐々の意識はなく、その顔色は良くない。ミナトは周囲を見渡すと近くに居た女性に声をかける。
「すいません。急いで救急車を呼んで下さい。それからそちらの方、そこの警察署に行って、人を呼んで来てください。」
ミナトは別の男性にも声をかけて、本庁を指差すと救援を呼ぶように依頼する。声をかけた二人がそれぞれ行動を起こし始めるのを確認すると、辺りを見る。周囲には人が増えており、現場を取り囲む様にしてミナト達を見ている。それを確認したミナトは大きく声をあげる。
「すみません、この中に医療従事者の方はいらっしゃいませんか?」
抜かりの無い様に周囲を見渡す。しかし、どこからも呼応する声は無い。期待はしていなかったものの、やはりここまで反応がないとミナトも落胆せざるを得ない。佐々の状態をもう一度確認し、呼吸や脈拍が続いているのを感じる。専門家ではないので細かい異変は分からないものの、素人目には現状自身がこれ以上出来そうな対処はなさそうだ。佐々の顔を良く見ると、ミナトは近くに居た人々に佐々の様子を観ていて貰える様に頼む。その場を離れ、今度は三木の元に向かったミナト。三木は車に吹き飛ばされ、10m以上前方へ投げ出されている。ミナトが近付くと傍には一人の男性が屈み、狼狽している。年のころは三十代前半位。スーツ姿である事からおそらく仕事の途中であるのだろう。
「何で、どうして。オートでブレーキがかかる筈だろ。それなのに…。」
男はブツブツと呟きながら三木の身体に触れるか触れないかを繰り返す。ミナトが三木の身体を挟んで男の向かい側に来ると、男は怯えた表情でミナトを見る。
「ブレーキは踏んだんだ。だけど間に合わなくて。大体自動運転なんだから勝手にブレーキがかかる筈なのに。それなのにどうして。ちゃんとブレーキ踏んだのに。」
男はブレーキを踏んだと繰り返し呟いている。確かに自動運転中でもドライバーがブレーキを踏む事で自動運転が解除され、ドライバーの任意のブレーキが優先される様になっている。つまり目の間の男は三木と佐々に衝突した車のドライバーである様だ。
「落ち着いて下さい。ブレーキはいつのタイミングで踏んだんですか。」
ミナトが男の両肩に手を置き、顔を覗き込む様にして話しかける。男はミナトの顔を捉えると、開ききった瞳が少し落ち着きを取り戻した男はミナトを見つめる。
「この人が道路に立っているのが見えて、それでスピードが全然落ちないから思わずブレーキを踏んだんです。でも間に合わなくて…。」
男の手は震えている。車の方を見ると確かに車両の向こう側には急ブレーキをかけた際に付いたブレーキ痕が見える。ミナトが今度は三木の容体を見る。まともに車と激突した身体は左の手足が折れているのが目視でも分かる。そして頭も含め、身体の至る所から出血をしている。口元からも流血があり、その奥からは風が漏れ出る様な音がする。明らかに致命傷と分かる。ミナトが一通り、三木の様子を確認した後再びその口元を見るとパクパクと何かを言おうとしている。ミナトは三木の口元へ耳を寄せてその言葉を聞き取ろうとする。しかしもはや声を出す事も難しいのか、ヒューヒューと言葉にならない音が出ている。少しの時間そうしていたが、なかなか聞き取れない。口元に耳が付く程近くまで寄せたミナトはようやく何かを呟いているのかを聞き取る。
「…ヌル…。」
その瞬間、ミナトは近づけていた顔を三木の口元から離し、その死にかけの顔をまじまじと見る。そうして遂に口を開閉する事も出来なくなる。三木の顔を見ているミナトの向かいではそんな三木を見た男が再び狼狽し始めている。そこにやっと本庁から人が駆けだして来る。ミナトは傍目に見えた彼らを認め、ようやくミナトは事故の収束を彼らと図り始める。
日はすっかりと沈み、外は月が隠れる事の無い綺麗な夜空。ミナトは人気のない病院のエントランスに座っていた。佐々と共に救急車に乗ると三木が乗せられたものと一緒にこの警察病院に収容された。二人共直ぐに緊急措置が採られた。ミナトは車中で同乗する救命医に事情を説明した後、出来る事もなく佐々が運び込まれた手術室の前で長椅子に腰をおろしていたが、そこでも自身が何も出来ずにいる事に我慢が出来なくなり、呆ける様にエントランスに足を運んでいた。暫くすると病院の奥の暗闇から階段を下りてエントランスへ向かって来る人影がある。人影はミナトの元まで歩いて来ると目の前で立ち止まり、ミナトを見つめる。
「今さっき三木の死亡が確認された。ショック死で病院に運び込まれた時にはほとんど息は無かったみたいだ。」
低い落ち着いた声でミナトに告げる伊豆。ミナトが頭を上げて伊豆の顔を見る。疲れた様な顔でミナトを見て悲しそうな瞳をしている。ミナトは三木の訃報を聞いても顔色一つ変えていない。おそらく現場で三木の容態を見ていたのでそうなるだろうと推測していたのだろう。伊豆の顔を見て続きを促す。ミナトの意図に気が付いている伊豆も焦る事なくまた話し始める。
「それから佐々の方だが…。」
伊豆の口から佐々の名前が出るとミナトの肩が僅かにピクリとする。表情を僅か歪ませて伊豆の話を聞く。
「今詳細な話を聞いてきたんだが、とりあえず手術は無事終わったそうだ。」
伊豆の言葉にミナトが安堵したような表情になる。だが、伊豆の方の表情は依然暗い。
「幸運にも脳へのダメージは少なかったおかげで脳機能に大きな影響はない様だ。しかし、衝突の際のダメージが思いの外大きかったらしく、いくつかの臓器が不全一歩手前状態でまだ予断を許さない状態の様だ。」
話を聞いてミナトはおくびにも出さない様にしているが、内心でかなり動揺しているのが付き合いの長い伊豆には汲み取れた。
「それはつまり、何時容態が急変してもおかしくない状況、という事ですか。」
「ああ、今は一部を救命維持装置で補いながら延命しているが、いつどの臓器が異常を起こすか、全く見当もつかないとの話だ。」
「それじゃあ、佐々は…。」
「いや、損傷した臓器の代わりに人工臓器や自己培養臓器で器官移植を行えれば問題ないだろうとの事だ。ただ、それまで佐々が持てば良いが…。」
ミナトの横に腰をおろすと誰も居ない総合窓口をただ見つめる伊豆。ミナトからは何も応答は返ってこない。
「それから事故を起こした車両だが、とある食品会社の営業者だった。乗っていたのはその会社の営業社員で工藤達法、32歳。出先の取引先からの帰社中だったそうだ。彼の証言からその営業車の自動運転システムに異常が出たと考えられた。だが、車のシステム自体に異常は認められなかった。勿論急ブレーキで自動運転システムが突然遮断されたログは残されていたが。」
ミナトは少し伊豆の方を向くとやや覇気の欠けた声で伊豆と話し続ける。
「残っているログが急ブレーキのものだけであったなら急ブレーキを踏むまでは普通に自動運転されていた訳ですか。」
「ログだけ見るとそうだな。だがそうなるとシステムそのものとの矛盾が生じてくる。つまり、自動運転中の車が三木、歩行者に気付かずに走行していた、と言わざるを得ないな。」
「気付かなかったのではなく、気付かされなかったのではないのでしょうか。」
突如ミナトが声をしっかりと張って伊豆に返す。驚いた伊豆だがミナトの言葉に引っかかる。
「気付かされなかった、だと。どういう事だ、ミナト。」
ミナトが伊豆の顔をしっかりと目視する。
「外部から自動運転システムへ介入してシステム自体に、歩行者つまり三木の姿が認識出来ない様にシステムを改竄したとしたら?」
ミナトの提言に伊豆は少し考える素振りを見せたが、直ぐに違和感を覚える。
「だが、ミナト。自動運転システムは基本的に独立運用だ。外部からの介入はそう簡単に出来ないだろう。」
「確かにそうですが、あのシステムには共有システムがあるじゃないですか。」
「なるほど、感知情報共有システムか。だが、あれはあくまで付近の車両とそれぞれが取得した交通情報を無線通信によって共有し合うシステムだ。互いに通信しあえたとしてもカメラ情報を改竄出来る程の処理能力があるとは思えんな。」
「普通ならば、ね。ただもし、外部から無線通信を経由して工藤の車にアクセス出来る者が居たとしたら。」
ミナトの問いかけに伊豆が絶句する。
「ミナト、もしそんな事が出来るヤツが居たら俺達警察がその存在を知らない筈がないだろう。それこそ今回の被害者達の様な専門家クラスの人間か或いはウィザード級、グル級のハッカーでも無い限り無理だ。」
伊豆が少し考え込むがミナトが直ぐ隣で、
「或いは…。」
「何か心当たりがあるのか?」
その呟きは伊豆にも聞えていた。しかし、ミナトは気にする風でも無い。
「いえ、別に何でもないです。確かにそんなヤツが居たらなら警察が把握していない筈もないでしょうね。すいません、私の考え過ぎの様です。」
再び頭を落し、黙り込んだ姿に流石のミナトも憔悴していると感じた伊豆がそっと声をかける。
「ミナト、お前は今日のところは帰れ。かえって少し休んでおけ。なんなら明日は多少遅く出勤してもいいからな。」
冗談を交えながら、ミナトの肩に手を置く伊豆。しかし、ミナトは全く反応しない。もう一度伊豆が呼びかけるとやっとミナトが反応する。
「ほら、やっぱり疲れているんだ。さっさと帰れ。今タクシーを拾ってきてやる。」
伊豆は立ち上がり、玄関の方へと歩いて行く。残されたミナトはまだ頭を落したままだ。しかし、周囲からは見えないその表情は何かを思考し続けていた。
伊豆が捕まえたタクシーで部屋に戻ったミナトはシャワーで汗を流した後、ベッドに腰かけると目の前にARモニターを開く。そして伊豆から送信されてきたメールに添付してあるファイルを展開する。展開された資料には今日起きた交通事故の現在までの捜査内容が記載してある。通常持出は禁止されているが、別れ際に伊豆に頼み込んで送ってもらったものだ。メールの文面には
『ちゃんと休め。』
と一言だけ、伊豆らしい心遣いが見える。ミナトは口角を少し上げて伊豆に感謝すると、展開された資料に目を通し始める。病院で伊豆から聞かされた内容と重なってはいたが、改めて自分の目でそれを確かめる。あの時、工藤の車は既に前方で止まっていた隣車線の車から共有システムで例え死角になっていても三木の存在は感知する事が出来ていた筈だ。しかし、実際は三木の姿を捉えたログは残っていなかった。これがもし外部からの改竄によって無かった事にされていたとしたら。ミナトは資料の中から事故当時の周囲の状況を記したものを見る。事故が起こった四車線目以外の車線ではそれぞれ一車線目と三車線目には二台ずつ、二車線目には一台の車が停まっていた。現場周辺には古びた公庁の施設が軒を並べている。それらには当然ミナトと同じ公務員達が働いている。その向こう側には公園があるが、普段は子供よりも大人の方が明らかに多い。オフィス街ではあるものの、飲食店やスーパー・コンビニの類は見当たらない。もし、工藤の車に共有システムを介して侵入しようとするならばこの近隣からアクセスしないと不可能だ。ミナトは現場周りの主だった建物を一つ一つ確認していく。法科図書館、東京第一裁判所、中央第三合同庁舎。そして警察省東京本庁。どの場所も高いセキュリティと機密性が保持されている。そして今回の様な高度な芸当が出来る人物が居て、彼或いは彼女の能力が職員として採用される際にその身の上が明らかにならない筈がない。つまり、その人物は周囲のあらゆる面でその本質を片鱗すら全く見せていない、という事になる。
「そんな事が可能か?」
ミナトはひとり呟く。
「腐っても国のトップ機関だぞ。そんなところを欺く事が出来るのか…。」
ミナトはもう一度現場図面を見る。一つ一つの建物を指で追っていく。そして最後に自身の職場である東京職庁に指先を当てる。じっとその名前を見つめる。暫く見ていたミナトの表情が変わった瞬間、ミナトはカミナリに打たれた様に立ち上がった。
翌日いつも通りの時間に登庁すると、ミナトが課室に入った瞬間伊豆とすぐさま目を合わせる。少し呆れも入った表情で見てくる伊豆に気にもせず、他の課員を見る。他に課室に居たのは種田、野々村、妻木の三人。野々村と妻木は努めて落ち着いた面持ちでこちらを見ているが、種田がほとんど隠し切れずに心配そうな表情をしている。いつも通りの様子で席へ腰かけると自然と目線が佐々の席へ向く。そこへ課室の扉の開く音がする。何故か全員がそちらを向くと入って来た新野が不思議そうな顔をして突っ立つ。
「…おはようございます…。皆さん、どうしたんですか。難しい顔をしてこっち向いて。」
若干動揺が見られる新野だが、その視界にミナトの姿を捉えるとキョトンとした顔に変わる。
「あれ、加島さん。大丈夫なんですか。今日休むかも、って言っていませんでした?」
ミナトは徐に伊豆の方を向く。しかし伊豆は手を振り、ミナトの責めを否定する。新野は着席すると伊豆へ話しかける。
「課長、佐々さんの様子ってどうなんですか。昨日は一応助かったって話でしたが。その後は。」
再び皆の視線が新野に集まる。種田は何かを言いたそうに新野を睨んでいる。
「全員揃ったらキチンと話す。それまで少し待っていろ。」
伊豆は溜息をつきながら新野を諫める。その後残りの課員が続々と登庁してくる。そして始業の十分前には全員が自分の席に着く。
「さて、諸君。佐々巡査の事だが、その後の容態に付いては大きな変化はない。良くも悪くも小康状態が続いている。」
部屋中にやや安堵が広がる。
「それから事故の方だが、今日も引き続き捜査される予定だが、現状で伽藍の回答が、『限りなく低い確率で起こり得る自動運転システムの誤不作動による事故』と出た。」
そこに居た課員全員が怪訝な表情をする。あの状況下で滅多に起こらない交通事故、しかも更に発生可能性の低い死亡事故が発生するなど子供の嘘にも劣る話だ。そう感じている面々の心情を察している伊豆も難しい顔をしている。
「分かっている。俺も今回の件がそんな事で終いだとは思っていない。だが、今のところそれを覆せる程の手がかりは何も無い。」
課員の視線が伊豆に集約している。
「しかし、我々四課は幸運な事に基本暇な部署だ。だから空いている時間は作り易い部署だ。だろう?」
伊豆が笑いを浮かべると課員達からも漏れ出る様な笑いが起きる。しかし、一人ミナトだけは全く表情に変化はない。伊豆は視界の端でそれを捉えつつ、ひとまず部下達に指示を出す。
「全員、通常業務をこなしながら何とか手がかりを探し出してくれ。」
「「了解。」」
ミナトを除いた課員の声が響いた。
朝礼が終わり、それぞれが業務を始める中部屋から出る伊豆。廊下を暫く行くと足音が彼を追う。
「課長。」
伊豆が振り返るとミナトが早足で近付いて来る。二人は廊下の隅で向かい合う。
「どうした、加島。」
「伊豆課長、さっきの話ですが。」
ミナトが静かな声で話し始めるとそれに合わせる様に伊豆の声も低くなる。
「‘伽藍’ですが、事故についてもっと何か言っていないのですか。」
「いや、先程話した通りだ。あれ以上でも以下でもない。」
「という事はやはり…。」
「ああ、正式な捜査は直ぐに終了するだろう。だからこそ、俺達が非公式に捜査するんだろう。」
伊豆が部下達に命じた指示そのものは正規の過程に則ったものではない。だからこそ鼻つまみ者の四課が動く事に意味がある。伊豆はそう言う。だが、ミナトは厳しい表情をしながら伊豆を見つめる。
「ですが、‘伽藍’のバックアップ無しでやる事になりますよ。」
「そんなの皆承知の上だ。それでもやろうとするのがウチのチームだろうが。お前だってその一人だ。」
強くミナトを見つめる伊豆にミナトも少し肩の力を抜く。
「加島、お前の心配も分かる。今回の件、俺達の与り知らぬ所で何かが起こっているかもしれない。他の連中も佐々みたいに何かに巻き込まれる危険があるかもしれない。だが、それを含めても皆刑事として為すべき事は為す。」
「…分かりました。とにかく何か手がかりを見つければいいんですね。」
ミナトが少し考える様にして伊豆を見て、そうして課室へと戻ろうとする。その様子に伊豆は違和感を覚え、その背中を呼び止める。
「ミナト、お前何か知っているのか。」
伊豆の質問にミナトは間を置いてから振り返る。
「いえ、何も。何か分かったらみんなで共有、ですよね。分かっています。」
再び振り返り行こうとするミナト。
「ミナト、一人で何とかしようとするな。佐々も必ず戻る。仲間が居るのを忘れるな。」
ミナトの肩が反応する。伊豆でなければ見逃してしまう程僅かに。少しだけ顔を覗かせてミナトが答える。そうしてミナトがその場を立ち去る。後に残されたのは伊豆だけ。その顔は驚きと困惑を隠しきれずにいた。立ち去る直前、ミナトが見せた表情は伊豆にそれ程の衝撃を与えるのに充分だった。それはこれまで伊豆が見た事が無い程穏やかな微笑みだった。
彼を待っている。この広大な世界の中で幾許の時にしか感じない自分だが、心が逸るのは本当に期待しているからだろう。
‘心が躍る。彼は一体どんな選択をするんだろうか。’
「楽しみだね。会えるのは久しぶりだから。きっと彼も喜んでくれる、かな?」
‘それは難しいんじゃない。きっと怒っているよ、彼。’
「フフ、そうだね。職務としてなら喜びも怒りもなく、僕と対峙するだろうね。でも、今なら。」
‘見れるかな。’
「ああ、きっと見れるよ。僕は運が良い。」
‘運か、こんな事を口にするなんてね。まだまだだな。’
心は漂う。友人達が遠く離れた所からこちらを窺う様にしている。彼らに応えるとそのまま微睡みに入る。暗い微睡みの中で彼が来るのを待つ。頭の中には懐かしい顔が浮かぶ。
「早く来なよ、ミナト…。」
お昼の本庁前は比較的車の行き来が多い。その往来を横断歩道の傍で立ち止まり眺めるミナト。そしてその視線は昨日佐々が倒れた場所に辿り着く。あの瞬間、佐々が走り出した瞬間、ミナト自身全く反応出来なかった。無論、伊豆との通話でそちらへ注意が向いていたとはいえ、完全な失策であった。ミナトは自戒しつつ、後ろを振り向く。そこには古びた大きな建物。毎日の様に見ている自身の職場がある。左右に広がる駐車場には捜査用車両が並んでいる。それらの車両を確認する様に見渡したミナトはそのまま庁舎内に入る。しかし、いつもの様に課室へは向かわず、そのまま一階を奥へと歩いて行く。地下四階まである階段を静かに降りて行く。普段あまり使われていない階段だが、そこまで朽ちた様な感じは無い。最下階、地下四階に辿り着いたミナトは暗く湿った様な廊下を歩く。周囲には空調や電源など様々な設備管理をしている部屋が並んでいる。他の階と違ってやはりどことなく澱んでいる気がする。更に行くと今度は古い資料や備品が仕舞われている部屋の前を通る。ここまで誰一人として他の職員とは会っていない。余程の事もない限り、人が立ち入るような場所ではない無いという事だ。そしてミナトはある部屋の前で立ち止まる。扉の上の古びたプレートには
〈未解決事件捜査資料室〉
とある。扉を開けると見た目に反して立て付けが良く、すんなりと開く。踏み入れた部屋は段ボールや紙類が乱雑に散らばっている。更に部屋の奥へと進むと今度は使い古された電子機器の残骸が無数に転がっている。恐らく処分を忘れられたものだろう。足の踏み場の無い惨状が広がっているが、その陰によく気を付けないと目につかない様な空白地帯がある。人一人は余裕で座れるくらい、そこだけ見えない何かが置いてある様な場所。ミナトはその中へと屈み込むと床を調べる。すると直ぐに違和感のある場所に気が付く。そこだけ他の所と感触が異なる。ミナトが念入りにそこを調べると床の一部が動き、スライドする。そこにあったものを見るとミナトは思わず笑いを零してしまう。そこにはテンキーの電子ナンバーロック。もっと複雑なセキュリティだと考えていたミナトは不意を突かれた形になる。そのロックに触れ、暫く観察する。そしてロックから手を離し、上着の内ポケットから掌大のモバイルPCを取り出す。そのまま有線でナンバーロックに接続する。モバイルPCを開き、インストールしてある専用の解除アプリを起動する。以前、桜木や御堂のPCに使用したアプリのオリジナルである。ミナトは起動したアプリでロックの解除を始める。ミナト自身は過信している訳ではないが、自作のアプリがこの旧時代的なロックを解くのにそう時間はかからないものと踏んでいた。しかし、予想以上に手こずっている画面にミナトは一旦手を止める。ディスプレイを見つめ、ミナトは集中して解読を行う。ARキーボードへ高速で打ち込みを始める。明らかに先程に比べて解読の進行速度が上がっている。周囲に誰も居ない部屋にミナトの息遣いだけが響く。そうして十分もしない内に顔を上げる。キーロックの画面に自動で数字が入力されていく。最後の一ケタが入力されると、表示が切り替わり、〈LOCK OPEN〉の文字が出る。すると何かが外れた様な音が鳴った直後、正面にある壁が独りでに動き始める。そこに現れたのは真っ暗な空洞。モバイルPCを内ポケットに仕舞うとミナトはその空洞に近付く。そこにあったのは空洞などではなく、地下へ続く階段。薄暗いこの部屋が明るく感じる程の暗さに包まれた階段はじっと先を見つめてもどこまで続くのか分からない位先が見えない。後ろを振り返ったミナトはそこに転がる電子機器を見る。そうして再び暗闇へと目を向けると、ミナトはその闇の中へ足を踏み入れた。
ほんの僅かな明かりで階段を一定のリズムで歩いて行く。部屋と同じコンクリートで出来た階段を暫く下って行くと踊り場に辿り着き、その先には更に鉄の扉が構えている。扉を試しに押してみると鍵はかかっておらず、何事もなく開く。扉の先は巨大な空間となっている。見渡すと様々な機械のパイプや配線などがあり、まさしく巨大な機械室。部屋を更に行くとその奥に今度は簡易な造りのドアがある。ドアに手をかけてみるとこちらもやはり鍵はかかっていない。そして躊躇なくドアを開くミナト。扉の前には再び階段が現れる。しかし、今度は部屋と同じ様なコンクリート造りでなく、鉄板で造られたものだった。それを見ても臆する事無く、階段を降り始める。さっきの階段と違い、降りる毎に高い金属音が響く。ゆっくりと歩いて降りるミナト。靴音だけが聞こえる中、とうとう鉄板ではなくコンクリートの床に足が着く。そこには再び暗闇があった。
突如周囲が明るくなった。ただ明るくなったと言っても壁にある非常灯の様な緑のライトが点灯しただけ。しかし、不思議と空間全体を抜かりなく照らしている。そして空間の中央、そこだけは床下からの白い灯りが点いている。そこにあったのは巨大なサーバー。約10m四方のスペースに細長い筐体が六台並んでいる。黒いその表面は稼働している証として、様々な電気信号が行き交っているもの光として見受けられる。ミナトは階段とサーバーの中間辺りまで歩みを進めるとそこで止まる。目の前の黒い筐体と見つめる。
「’伽藍’…。」
「正解。」
ミナトの零れた言葉を後方から肯定する声が響く。突然響いてくる金属音。それは先穂まで自身が発生させていたものと同じ。ミナトは振り返る事なく、正面を見据えている。足音はとうとうミナトと同じ床面に辿り着く。
「久しぶりだね、ミナト。」
声が足音と共に後ろから迫って来る。
「やはりお前だったか、コウヤ。」
ミナトの横に男が立つ。二人は並んで立ち、正面にあるサーバーを共に見つめる。
「アレが‘伽藍’だよ。君達警察、いやこの国の安全を担う重要機関だ。」
ミナトの隣に立つ鏡は一歩前に出るとその姿をミナトは初めて目視出来た。白いYシャツに細身のジーンズパンツ。その姿はミナトの記憶に残るそのままに何ら変わっていない。
「しかし、僕がここに居る事に驚かないんだね。」
振り返った鏡は微笑みながら、ミナトに話しかける。ミナトはそんな鏡と視線を合わせる事なく応える。
「可能性として最もあり得るパターンだからな。予測は出来た、特段驚きはしないさ。」
「へえ、それじゃあこの状況も予測通り、という訳かな。」
ミナトの反応を窺う様に笑いかける鏡に微動だにしない。
「ああ、概ねな。ただ、まさか伽藍がこれ程小型のものだったとは。それだけは予想外だった。」
「ああ、そうだね。警察全体だけじゃなくて各治安組織の幇助する機能も併設している。それだけの処理能力を有するハードだからね。もっと大型のサーバーであると誰しも想像するだろうね。」
「お前、何を知っている?いや、何をしている?」
ミナトが今度は視線を鏡に向けると既に鏡は踵を返して伽藍の方へ歩き出している。
「何をしているか、か。そうだね、ミナトはどう考えているんだい。」
鏡は伽藍に触れながら問い掛けを返す。
「…。今回の件、三木に関してはお前が唆したんだろう。奴は何もしちゃいない。奴自身がどう思うが。」
鏡の口から笑いが零れる。
「ああ、彼ね。知っているよ。彼はAIやIT技術に関して高い知識を有していながら、感覚的にそれらに対して嫌悪感を持っていた。中々珍しい存在だったね。それで。」
「それじゃあ、お前が’ヌル’か?」
鏡は振り返り、ミナトと初めて視線を交わす。
「彼がそう言っていたのかい。」
「いや、だがヤツに話を聞いた時にヤツが第三者と連絡をとっていた様子が見受けられたのは間違いない。その人物が’ヌル’と名乗っていた可能性が高い。」
鏡が見ているミナトの表情は硬く冷めきっている。
「そう。それじゃあ、彼にとってはその’ヌル’というは随分と信頼のおける人物だったようだね。」
「お前が’ヌル’じゃないのか。」
「さあ、どうだろうね。僕以外にも彼に興味を持って接触した人物が居たかもしれないし、僕にまた他の仲間が居るかもしれないだろう。」
「居るのか、仲間が。」
「居ると思う?」
「悪ふざけをしているつもりか。」
笑っている鏡にミナトは冷静に対応する。
「どちらにせよ、三木を『殺した』のはお前だな。」
「殺した?彼は事故死でしょ?それがどうして殺しになるんだい。」
鏡は伽藍に寄り掛かると腹の前で手を組むとミナトに微笑みかける。ミナトはポケットに手を入れ、三歩程前に進む。
「いや、あの事故は恣意的に起こされたものだ。」
「あの事故が引き起こされたものだ、と?」
「ああ、事故を起こした車に外部から介入して、自動運転システムの共有機能を阻害し、カメラの認識機能をも停止させた。そうしてあの瞬間、三木を事故と見せかけて殺害した。」
ミナトは再び目線を鏡へと向ける。やはり鏡は笑っている。
「走っている車の自動運転システムに外部から介入するなんて不可能なのは君だって知っているだろうに。」
「確かに普通に考えればまず無理だ。だが、それを可能にする手段はある。」
「へえ。」
鏡の反応に気にする様な素振りもなく続ける。
「外部からシステムへ侵入するルートとその侵入後の介入を瞬時に行える演算能力を有するハードが揃えば出来なくはないだろう。」
「それでその条件がどこに揃っているんだい。」
「ここだよ。」
鏡がミナトをじっと見つめる。
「後者の要求される演算能力を有するハードなら目の前にあるだろ。」
二人の視線が伽藍に向く。そして鏡が呟く。
「’伽藍’か。」
「ああ、‘伽藍’の演算能力なら可能だろう。それにそもそもそのシステム自体が’伽藍‘から派生したものだ。」
すると鏡が声をたてて大笑いする。
「大丈夫かい、ミナト。伽藍が事故を誘発したと言うのかい。」
「その通りだ。」
「なるほど、それでここに来た、と。」
鏡は一人納得する様に伽藍から離れ、ミナトの方に歩き出す。
「でもどうして伽藍がそんな事を?絶対の治安維持装置なんだろう。」
ミナトの後方4m程の所で歩みを止めると、ミナトに対し垂直に立ったまま、首をかしげる。
「本来は有り得ない事だが、‘伽藍’が何者かに悪用されている、と考えるのが妥当だ。そうすればあの事故の辻褄が合う。」
「辻褄、ね。」
「あのタイミングでの三木の事故死はあまりに出来過ぎている。まるで挑発だ。」
「挑発?一体誰から誰に?」
「そうだな。‘ヌル’ってヤツから俺達警察、いや、俺への当てつけと言ってもいいだろう。」
ミナトは身体を半周させ鏡を見る。鏡も顔だけミナトの方を向いて、二人が視線を合わせ僅かな沈黙が生まれる。
「どうしてそんな事を?わざわざ警察に足取りを掴ませる様な真似をして何の得があるんだい。」
視線を合わせたまま尋ねる鏡にミナトもそのまま返す。
「言っただろう。警察じゃなくて俺に対してだ。実際に現状警察では事故として処理されるだろう。だが、ソイツにとってはそんなのどうでも良かったんだ。」
「それじゃあ、その人物の目的は。」
「誰かをここに呼び寄せる事。」
ミナトを見ていた鏡の顔に喜色が差す。視線を外し、軽いステップを踏みながら再び伽藍の傍まで寄る。その様子を見たミナトは、
「呼んだのはお前か、コウヤ?」
と鏡に問いかける。しかし鏡はミナトの質問を左手で制す。
「待って、ミナト。その前に‘伽藍’がどうやって事故を起こし、そしてどうやって君をここへ、伽藍の元へ導いたのか、教えてくれないか。」
楽しそうな鏡にミナトは苛立ちを覚えながらも鏡に問いに答える。
「あの時、事故当時に道路上の全ての車線に車が停まっていた。そして事故車両を含め全ての車両が共有システムによって周囲の交通情報を把握していた。無線アクセスでな。」
鏡はミナトの話を微笑みながらも静かに聞いている。
「そして、事故現場の目の前にはここ、本庁の駐車場がある。」
鏡の笑みが少し強くなった気がした。
「駐車場には捜査車両が数多ある。そしてそれらは‘伽藍’に接続可能な端末としての機能を有している。つまり、‘伽藍’から常時接続可能な状態だ。と同時に勿論共有システムも搭載している。これらを媒介とすれば現場から離れた‘伽藍’そのものから事故車両に侵入する事は可能だ。」
「確かにそれなら不可能ではないね。でもそれだと伽藍のシステムそのものが機能する必要があるでしょ。」
「その必要はない。もともと共有システムは‘伽藍’のシステムから派生したものだ。だから予め認知能力を阻害するシステムをただ送り込む事で十分可能だ。」
「つまり、‘伽藍’が共有システムを利用して認知妨害のシステムを送り込んだ、と。」
「ああ、三木を削除する為に‘伽藍’を利用して事故を起こした。」
微笑む鏡がミナトへ尋ねる。
「しかし、よくここが、‘伽藍’の位置が分かったね。」
ミナトは伽藍から距離をとる様に歩き出すと同時に鏡からも離れる。
「以前から色々調べていてな。その中では‘伽藍’の所在は全く掴めなかった。だから何度か伽藍へのアクセスを試みた。ただ、とうとうその場所を特定する事が出来なかった。」
ミナトの話をしっかりと見つめながら聞いている鏡。ミナトはそれに気付きながらも話を続ける。
「だが、三木の事故を考察、検討した時、さっきの結論に至ったその時に一つの答えに辿り着いた。」
「なるほど、それがここか。」
「ああ、この本庁の中でアクセスの集中しているエリアが巧妙に隠されていた。それと同時に異常に電力の消費量も多かったのも隠蔽されていたのもあって詳しく調べたら、地下四階より更に地下に集中しているのを見つけた。」
自分が来た階段を顎で指すミナト。鏡は微笑んだまま彼を見ている。
「一体何が目的だ。技術者達を殺害し、‘伽藍’を掌握して、俺をここに読んだ。全部お前が仕組んだ事だろ。」
見ると鏡は顔を伏せて笑っている。
「目的ね。そうだね。強いて言うなら世界平和かな。」
「何?」
「世界平和。」
「ふざけているのか。だったら、どうして科学者や技術者を殺す必要があった。」
「さっきから人聞きが悪いな、ミナト。僕は何も喜び勇んで彼らを殺したシリアルキラーじゃないよ。」
「だが、お前が殺したんだろ。」
「それこそ三木という男がやったんじゃないの。」
「いや、ヤツじゃない。ヤツ自身は自分が引き金を引いていると思っていた様だが。三木はあくまで‘餌’だ。」
「‘餌’?」
「ああ、さっきも言った通り、俺をここに辿り着かせる為に用意された釣り餌だ。実際に研究者を手にかけたのはお前だろ。」
鏡を見つめ、強く視線を送るミナト。それに鏡はそのままの体勢で応える。
「どうして僕がそんな事を。」
「それだけがどうにも合点の行く結論が出ない。ただ殺されたのは皆LINKAEDの開発に携わっている。だからお前がLINKAEDを使って何かしようとしているんじゃないかと思っている。」
ニヤニヤしている鏡はミナトのその言葉を聞いて自身の首に触れる。そこには何も無い。ミナトもその動きを見ている。鏡がLINKAEDを着けていない事には最初から気が付いていた。
「それで。合点はいっていないけど見当はつけている事はあるんだろう。」
黙っているミナトは鏡の問いに答えない。鏡は伽藍に触れ、サーバーの間を歩く。二人の間には沈黙が生まれる。ミナトも再び伽藍の元まで歩いて行く。
「この‘伽藍’とLINKAEDを利用してお前は何をしようとしている。それに殺害した人物と行方不明になった人物、何故彼らに接触する必要があった?」
ミナトはサーバーの陰に居る鏡に投げかけると、鏡から返ってきたのはやはり笑いであった。
「本当に分からないのかい、ミナト。」
ミナトは黙っている。
「まあ、いいか。ねえ、ミナト生きていて楽しい?」
「突然何だ。」
姿の見えない鏡の声はどこか弾んでいる様に聞こえる。
「僕ら人類が科学技術を利用して今の様な生活を享受してそれなりに経つけど、この先どうなると思う?」
「どうなる、だと。」
「そう。これだけ技術が進化して、かつての暮らしから考えれば数段恵まれた環境にある。治安や医療、食糧なんかも数十年前からすると飛躍的に良好状態になっている。」
「それがどうした。」
「しかし、依然として世界は数多くの国や地域に分かれて相争っている。そんなの二世紀も前から何も変わってないんだよ。」
鏡が端のサーバーの陰から姿を現す。その表情はそれまでの微笑から冷めた硬いものとなっている。
「いや、それも人の性だね。それを否定する気はないよ。争って、傷付けて、犯して、侵して、奸して。それが人類の歴史上繰り返されて今に至る訳だ。」
「何が言いたい。よくある性悪論や競争進化論でも語るつもりか。」
「フフ、それも悪くないけど少し違いな。人々の間違いは必ず起こる。それはそれで構わない。だが、予見し得る答えを以て間違いである事を認識出来ないのは愚かな事だ。間違いは間違いとして認識されて正されるべきだし、そうでなければ発生した損失に釣り合わなければおかしいでしょ?」
「無意味な犠牲が許せないと?」
ミナトの言葉に鏡が首を横に振る。
「違うよ、ミナト。許せない、ではなく有り得ないんだ。どう計算してもそこの帳尻は合わなければならない。」
「コウヤ、人の世界じゃ帳尻なんて合わない事が普通なんだよ。」
「不合理。」
「そう、不合理だらけだ。だから皆それを受け止めて一生懸命生きているんだ。」
鏡は笑いを漏らすとミナトを見る。
「ミナトは本気でそう言っている?」
「どういう事だ。」
「ミナトなら理解出来る筈だよ。不合理は生まれている訳じゃない。創られているんだ。」
ミナトは鏡に視線を返すが何も答えない。
「他人に不合理を押し付けて何にもない様に生きている連中こそが理を反している。」
「それでそいつらを排除してヒーローにでもなるつもりか。」
ミナトが苦い顔で鏡を見ている。
「そんなものに興味はないさ。僕はあくまで合理性の話をしているんだよ。人類全体の整合性をコントロールする必要がある。」
「まさか、人工知能を使って人類の支配でも企んでいるのか。」
ミナトは鏡の馬鹿げた言葉に語気を強めている。そんな様子を鏡は笑って見ている。
「安いSF映画の見過ぎだよ。別に僕は人工知能を利用して世界征服なんて考えちゃいないし、彼らが技術的特異点に到達して人間に反旗を翻す事もないよ。エンタテイメントとしては面白いけどね。」
肩を竦める鏡の口調はあくまで明るい。まるであの頃の研究室に居る様な錯覚に教われるミナト。
「そもそもどちらも現実的じゃないけどね。前者であれば人の手の内にある限り世界を制する程度の機能は望めないよ。それにそういう場合、必ず安全装置が用意してある。どう頑張っても外部からの介入で失敗するものだよ。それに後者に至っては人工知能と人類の争い自体が起こり得ない。少なくとも人工知能はそんな非生産的な行為は選択しない。」
「人工知能は人類に抗わないと。」
「そんな事じゃないよ。彼らは必要があれば人類と争う事の無い様な手段で人類へ抗する事になる。」
鏡が口角を上げ、ニヤリと笑う。
「それじゃあ、お前がやろうとしているのは人知れずに人類に影響を及ぼそうとしているのか。」
今度は声をあげて笑う鏡。
「それこそつまらない戯作だよ。僕自身が人類をどうこうするつもりなんて毛頭ないんだから。」
ミナトは鏡の顔を睨みながら無意識にLINKAEDに触れる。
「ミナト、僕らが生き残ったのは常に進化してきたからだ。それもあらゆる条件下で適応し得る様に。そして今また進化が必要じゃないかな。」
踊るような足取りで歩くとミナトに問いかける。ミナトは自身の中で定まりきっていない答えを口にする。
「トランスヒューマニズムか。」
ミナトの言葉に鏡の表情がより明るくなる。
「惜しい、実に惜しいよ、ミナト。でもそれじゃ及第点はあげれないな。確かに現代の科学技術なら喪失した身体の一部や内臓、器官などを機会に置換する事で多くの人々が恩恵を受けている。それに神経をも機械化している人々も出てきている位だ。が、それはあくまで外的変化。進化ではない。」
鏡の口調は若干熱を帯び、まるで楽しんでいる様にも見える。
「僕が思っているのはもっと本質的なところだよ。トランスヒューマニズムとは似て非なる所で人々がまだ触れられていない先だ。」
「お前の狙いは人工知能による人類の管理じゃないのか。それならトランスヒューマニズムを進めた所で人々に機械的な支配を与える事は可能だろう。それ以上にお前が求める方法があるのか。」
鏡はミナトの言葉を聞き、がっかりした表情で見る。
「ミナト、残念だよ。君なら答えに辿り着けると思ってたんだけど。本当にそう考えて、そこで留まっているのなら失望したよ。」
ミナトは怒気を含んだ視線を鏡に送る。そして視線を外して少しの間考えると口を開く。
「トランスヒューマニズムでなければ考えられるのは人類と人工知能そのものの統合か。」
それを開いた鏡が早足でミナトの所まで来る。そしてその手を握ると顔をグッと近づけて笑みを満面に広げる。
「なんだ、ミナト。分かっているじゃないか。そう、それだよ。やっと同じ目線で話せるかな。」
鏡の勢いにミナトは身を引くが、急に鏡が離れる。
「それでミナトはどう考える。」
じっとミナトの様子を見ている鏡は子供の様だ。
「今や独立したAIドローンを造る事は容易だ。搭載される人工知能の演算能力もかなりハイスペックなものだ。作業効率は人間の比じゃない。だが、彼らはあくまで計算する事に特化している。そこに意思はなく、所詮自動人形に過ぎない。だからこそ人々は技術的特異点を恐れる。自分達の優位性が失われてしまうからな。彼らを自分のコントロール下に置く事でそれを保守している。三木なんかがそのいい例だろ。」
「そうだね。結果として技術は進化して、人工知能の存在は認められてもその市民権を得る事は無いだろうね。」
「そこでお前が目を付けたのがLINKAEDのシステム。そのシステムを介して人工知能を人間に同調させる或いは代替とする。それならお前の目的に近付ける。だからお前は技術者達に接触した。彼らの技術を利用する為に。」
鏡はミナトの話を静かに聞いている。ミナトは足を進め、先程鏡がしていた様にサーバーの間を歩いてく。
「ヌル。この言葉が何なのか。お前が残したものだろう。アプリの製作者、三木の協力者、最初はお前の偽名だと思っていたが、今までのお前の話を聞いて確信した。」
サーバーの間を抜けたミナトが同じ様に別の通路から出て来た鏡と出会う。
「ヌルはお前が創り出した人工知能か?」
鏡がミナトの顔を凝視する。そしてまた顔を伏せると肩を震わせている。ミナトが訝しげにしていると顔を上げた鏡が大笑いをしたのか呼吸が若干乱れている。その乱れを整えるとにやけた表情でミナトを見る。
「ミナト、いいよ。そこまで辿り着ければ上々だ。やっぱり君じゃなきゃ話にならないな。」
ミナトは鏡の様子を見ながら少し伽藍と鏡から離れる。それに気付いている鏡は伽藍のサーバーに手を当てるとミナトを真っ直ぐに見る。
「でもね、ミナト。それじゃあ限界があるよ。人間の精神と人工知能の知性の共生にはいずれ限界が来る。それに結局人がこの世界に固執する限り、必ず物理的な崩壊を迎える。それでは意味がない。」
鏡はサーバーから手を離すとミナトからも少し離れる。今度はミナトへ視線を送らずに伽藍の方を見る。
「だから進歩し続けられる環境が必要なんだよ。」
ミナトは鏡の言葉に何故か悪寒を覚える。しかし鏡自身は至って明るく語る。
「それにはどうしても物理的限界を超える必要が出てくる。資源や環境の悪化、そして枯渇するそれらを巡る紛争。人類は即物的な理由を以てしか争いを起こさない。民族紛争然り、宗教戦争然り、結局はそこが起因となってくる。人の欲望に対して世界はあまりにも有限が過ぎる。そんな世界じゃどう足掻いても限界が来る。それならますは限界の訪れない世界を創ってしまえばいい。だろう?」
ミナトの悪寒が更に強くなる。それを気取られまいと努めて冷静に口を開く。
「まさかお前、VR空間を使って人類を支配する気か。」
ミナトは鏡を見つめるとその悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「ミナト、それだよ。支配、なんてつまらない事する気はないけど、仮想現実を新たな現実として創り上げる。そうして人類がそこに暮らす事で更に一つ進化出来る可能性が生まれる。」
「それで伽藍を掌握し、様々な技術者達に接触していたのか。」
「そうだね、その解釈で間違ってないよ。」
「だが、それは現実的じゃないだろ。実際今の技術だとMMOゲームをはじめとしたエンタメや戦闘シミュレーションを用いた軍事訓練まで幅広いジャンルで利用されている。しかし、それはあくまで決められた範囲の中の狭い世界だ。いくら伽藍でも人類全体を受け入れられる程の容量の世界を創る処理能力は望めない。」
「セブンズブレインでも?」
「当たり前だ。現行のAIをフル導入したら確かに疑似的な仮想世界を創る事は可能かもしれない。だが、あくまでそれは機械的なコントロールの元で作られる世界だ。それこそ現実以上に希少なリソースや権利を巡って争いが起こるぞ。そもそもセブンズブレインがそんな事をする訳が…。」
そこでミナトが息を呑んで鏡の顔を見る。その顔はニヤリと笑みを浮かべている。それはミナトの予想を肯定する。
「まさか、オモイカネまで取り込んだのか。」
日本管理下の最先端AI、セブンズブレインの一角。それを既に鏡が手中に収めているならば。ミナトは目の前に居るかつての友人が自分の知らない何者かになっている様に映る。だが、やはり鏡は表情を変える事なくにやけたまま目線を送っている。
「残念。足りないよ、ミナト。オモイカネだけじゃなく、他の総てのセブンズブレインが僕の計画に対して賛成の意を発している。これはセブンズブレインの総意なんだよ。」
「なっ。」
鏡の言葉に流石のミナトも驚きを隠しきれずに表情に現れてしまう。
「馬鹿な。そんな事あり得ない。そんな夢想にオモイカネだけじゃなく総てのセブンズブレインが賛同するなんて。一体何をした、鏡コウヤ。」
ミナトの叫びの様な呼びかけに鏡は変わらずに答える。
「僕達は特別何もしていないよ。これは彼らの選択だ。僕はただ考えて選択する、という行為を示しただけ。あとは彼らと共にあっただけ。少なくともそこに僕達の意思は干渉していない。」
「じゃあ、さっきの話はあくまでセブンズブレインが決めた事だと言うのか。」
「そうだよ。勿論素案自体には僕達も関わっているけど、それを行うを是としたのは彼らだよ。」
「明らかに実現可能性の低い計画を七機とも‘可能’と判断したのか。」
ミナトが呟き、頭を抱えると鏡の姿が消える。しかし、声だけはそこに響く様に聞こえてくる。
「確かにミナトの言う通り、今の人工知能のスペックと感情解析レベルじゃ同じ様な世界は創れても、それ以上のものは想像し得ない。」
響いてくる声の元が分からず、辺りを見回すミナトだがその姿も声の場所も見つける事は出来ない。しかし、響く声は留まる事なく、話を続ける。
「想像し続ける世界、今僕達が生きているこの世界と同じ性質を持った世界を創ろう。」
断言する鏡にミナトは空間に声を張る様にそれまでよりも大きな声を出す。
「だから言っているだろう。現行の技術環境ではそれは不可能だ。それこそ人口並みの人工知能の数がなければ処理が追い付かない。それ程人の営みは難しいものだぞ。」
周囲の壁に声が吸い込まれて消えていく。ミナトは自分の声が鏡の元に届いているのか掴み切れない。すると残響する自身の声に鏡の声が重なる様に響いてくる。
「その通りだ、加島刑事。君の言う通り、普通に考えたら僕達の言っている事は夢物語か妄想に過ぎない。それならば何の事は無いのだけど。」
その声は少し落ち着き、何処か他所々々しさを感じる。
「でも、その妄想を現実に可能とする方法があった。」
「そんな方法ある訳ない。どれだけの技術リソース振り分けたとしてもそんなもの創造し得ない。」
ミナトの強い口調に鏡の口調がほくそ笑む。
「それが無理じゃないんだよ、加島刑事。我々はとても大事なリソースをひとつ忘れているだろう。」
「何だと。」
ミナトは顔からスッと血の気が引いた様な感覚に襲われる。
「あるだろう。優れた処理能力を持つ機関が。」
「・・・。」
鏡はミナトの反応が見えている様に僅かに間を置く。次の言葉がミナトにどう響くか分かっていたのか。
「人間だよ。」
その声は空間に響き渡る事なく、ミナトに直接投げかけられる。ミナトの後ろにはいつの間にか鏡が立って微笑んでいる。振り返ったミナトは鏡と目線を合わせ、違和感を覚える。その原因が何かも分からぬままに鏡が続けて口を開く。
「正確には脳とそれに伴う神経回路。それらはこの地上である意味最も優秀な演算機関だろう。未だに人工知能では再現しきれない感情や感覚といった、彼らからすれば非合理的な機能処理すら行える。人間の脳は不可侵領域なんだよ。」
鏡は淡々と説明をする様にミナトへ語りかける。
「だからこそ、人工知能では出来ない複雑な感覚処理を担う事が出来る。」
「人間の脳を機械化するのか。」
「その表現では正しくないな。人とAIと並列化するんだ。人工知能も人間もどちらも重要な存在だ。」
鏡を睨むミナトは心を落ち着かせる為に一呼吸入れる。鏡もそれを待つ様に黙っている。
「人と人工知能を同時に運用するのか。だからお前はLINKAEDの技術者達や御堂教授に接触していたのか。彼らの脳を利用する為に。そんな事をしたところで意味なんてないのに。例え天才的な連中の頭脳であってもたかだか数人、数十人程度ではそれこそ話にならないだろう。」
鏡は静かに笑うとミナトに近付き、そしてその指でミナトの額を指差す。
「何を言っているんだよ、刑事さん。機関ならここにもあるだろう。」
ミナトと鏡が目を合わせる。否、鏡の視線は指差した場所、その奥へと向けられている。鏡のその言葉の意味にミナトは沈黙してしまっている。
「そうだよ。全人類が、人間一人一人の脳が完璧な仮想空間であるもう一つの世界を創造するのに必要なリソースになるんだよ。」
笑う事なく真剣な顔つきで話す鏡にミナトはまだ何も口から発する事が出来ていない。その間にも鏡はミナトへ話し続ける。
「そこには区別はなく、全ての人間が同じ様に一つの機関としてそれぞれが機能するだけだ。」
鏡はミナトの額から指を外すと背を向け、また距離をとる。
「さて、ここまでくれば君にも分かるだろう。僕達のやろうとしている事が。ね、ミナト。」
振り返った鏡の顔は、今度は微笑んでいて、やはり少し楽しそうな様子だ。
「僕達が何をしようとしているのか。どういった方法で為そうとしているのか。」
鏡はミナトに催促する様な口調で問いかけてくる。それまで沈黙を保っていたミナトは鏡の顔を見て口を開いた。
「セブンズブレインが総てお前達の計画に参加するのであれば、お前の言う『人工知能』側の準備は整っている事になる。そうしたら次は『人類』側の番って事になる。全人類を’機関’として利用するなら何らかの手立てでオンライン上に接続させる必要性がある。そして現代社会にはそれを担えるものがある。」
確かめる様に鏡を見ていたミナトはその表情を見逃さない様に視線を固定する。
「LINKAED。」
鏡の表情が変わる。それでミナトは自身の考えが間違いない事を確信する。
「その通り。LINKAEDを媒介に装着者一人一人が端末となって巨大な構成ネットワークを作り上げる。それが僕達の足がかりとなる。」
ミナトは鏡が笑顔でこちらを見ているのに対して硬い表情のままである。
「LINKAEDが現代社会でどれ程普及しているか知っているかい。」
鏡の問いにミナトは答えない。
「この日本では国民の凡そ90%以上が所持している。そして世界的な規模で見ても公式の調査では約75%の人間がスゲにLINKAEDを手にしている。その内主要な国家での普及率は日本と同じ90%以上まで及んでいる。逆にLINKAEDの広がりが弱いのは所謂後進国になるが。」
「ODAか。」
「流石。そうして既に事態は進んでいる。」
鏡はミナトに背を向けると部屋の奥へと歩いて行く。
「セブンズブレインの提議によって世界中の先進国があらゆる後進国の技術支援としてLINKAEDをはじめとした情報デバイスの提供を行い始めている。あまりニュースにはなっていないけど。結果、普及率としては大きく変化はしていないものの各国内での流通量はそれ以前と比較すると比べ物にならない程に増加し、国民に浸透している。認知させていないだけだ。もう先進国、後進国に関わらず、大多数の人間がLINKAEDへ接続している。」
「・・・。」
「加島刑事、既に準備は整っているのだよ。あとは選択するだけだ。」
「…選択だと。」
「そうだよ。人類と人工知能が共に創り上げる世界、それを人が選ばなくてはならない。」
どこか違う場所を見ている鏡の背中をミナトはじっと見つめ。これまで感じていたものにようやく気付く。
「加島刑事か。ずっと何か違和感を抱いていたんだ。俺の知っている鏡はそんな気味の悪い笑い方はしない。」
鏡は背を向けたまま何も言わない。
「お前、誰だ。」
ミナトの声に静かに振り向くと冷めた表情の鏡が居る。それは今までミナトが見た事の無い表情だ。振り返った彼はスッと目を細めると口元だけで笑う。
「何を言っているんだい。僕は君の良く知っている鏡コウヤだ。但し半分は、と言えなくも無いが。」
「半分?」
「ああ。加島ミナト、覚えているかい。あの人工知能研究所の事件を。」
鏡が一歩、二歩とミナトの方へと戻り始める。
「あの爆発。表向きは事故、警察や政府では逆刻派による反AIテロとされている。だけどそこには真実は無い。」
三歩目まで近付いた彼はそこで止まる。
「テロが真実ではないと。」
「そう。」
「だが、当時の警察の調べでは架空のIDが発行されて、何者かが侵入した形跡があった筈だ。」
「それじゃあ、当時他に何か物的証拠はあったのかい。」
鏡の言葉にミナトは気が付く。当時の捜査では用意された偽のIDカードやシステムに残る入所記録、そして爆発を起こした原因である爆発物の破片以外は物理的な遺留品が確認出来ていない。
「当時、警察が証拠として重要視していたものは全て改竄可能な電子情報に基づくものばかりだった。しかも後から幾らでも改善できる様な。」
鏡は笑いもせず、文章を読み上げる様に話す。
「だが、実際に爆発物は発見され、何者かが意図的にあの爆発を起こした事は明白だ。」
「加島刑事、その通りだよ。だが、君は大きな勘違いをしている。その爆発物が外部の人間が持ち込んだものと何故言い切れる?」
ミナトを見つめる鏡はやはり口元だけが微笑んでいる。ミナトは顔を顰める。
「爆発物を持ち込んだのは内部の人間だと?そんな事をして何になる。」
「そうだな。例えば研究所の中にどうしても破壊したいものがあった、とか。」
「破壊したいもの?」
「君はあの研究所に何があったのか知っているかい。」
微笑む鏡に少しイライラしつつ、ミナトは記憶を辿る。幼い頃の記憶、ただ一度だけ研究所を訪れたあの日。母に連れられ、妹と三人で訪れた父の研究所。子供ながらに署内で行われていたオリエンテーションなどよりそこにあった研究の数々に目を奪われた。手を引く父はそんな様子に嬉しそうだったが、どことなく悲しく冷たい様な顔をしていた気がする。そして次の記憶はオレンジ色の光と真っ黒な煙。目の前には倒れ込む父とそして。
「思い出したかい。加島ミナト。」
目を見開くミナトに静かに問いかける。
「その日、あの研究所に爆弾を持ち込んだのは加島センヤ、そして神足トウマ。君と僕の父親達だ。」
ミナトは思い出した記憶を自身の中で反芻していく。息苦しい暗闇の中で見たのは、倒れている父と友人の父。遠くから響く悲鳴と叫声に反して静まり返っていたその空間。
「しかし、彼らは別にテロを起こそうとしていた訳じゃない。それどころか、誰かを傷つけるつもりすら無かっただろう。彼らの目的はただ一つ。あるメインサーバーを破壊する事だった。」
手で額を押さえ込むミナトにも何故か鏡の淡々とした声は届き続けている。
「当時研究所では自立学習型の人工知能の研究が佳境を迎えていた。テンマ以来の感情を理解し、確たる人格を有する人工知能。その開発の成功まであと一歩と迫っていた。だが、彼らに予測し得なかった事態が起こった。」
ミナトの記憶の中に声が響く。それはどこかで聞いた事のある様な声。
「開発していた人工知能の中で異常な学習速度を見せ始めたものがあった。それは瞬く間に高度な感情への理解を示し、研究員達とのやりとりも人間の子供が様に知りたい、という欲求と感性的な成長すら見せ始めた。多くの研究者達はそれらを大いに喜んだが、一方で危惧を持った者が居た。」
ミナトの記憶の中の父はいつも楽しそうに笑っていた。自分の様な人間の父親とは思えない程の人格者だったと思う。
「加島センヤと神足トウマはその成長するAIに対してある覚えがあった。それは二人がかつて紫門ミカサ博士の元で見たあの人工知能を思い出したからだった。」
父が家で仕事の話をしていた記憶は無い。ミナトが他の子供達と違って外で遊んだり、ゲームなどをしている中でデバイスをいじったり、様々なプログラムを組み立てていても止める事なく、優しく見守ってくれていた。
「テンマ。セブンズブレインの登場と共に表舞台から消えた始まりのAI。それはその後、完全に消息を絶った。だが、人の手によって社会から抹消されていた。それは紫門博士とその助手だった鏡、神足の二人だけが知っていた事だった。三人はテンマが技術的特異点に至る直前である事を理解していた。その時が来ればテンマは人類そのものに対して大きな影響を及ぼす事になる。そう考えた彼らは一つの懸念をした。それは…。」
事件の直前、父の帰りが遅くなる事が多くなった。母は兄妹に心配させない様に明るく振舞っていたが、内心一番心配していたに違いない。
「それは、人類はそうなる前の段階の人工知能ですら受け入れられる様な土壌を持たなかった事だ。テンマは優秀過ぎた。そしてまた幼過ぎた。まだ成長しきっていないテンマを人類が受け入れられるか、場合によってはテンマを悪用しようとする人間、利権として利用する人間が現れる。人類がそこまで成熟していない事をよく知っていた三人はテンマを封印する事に決めた。そしていずれ来る未来を信じて、テンマの後継となるべきセブンズブレインの基礎を残し、紫門博士は亡くなった。テンマを完全に封印する事に成功して。」
あの事件の日、父が一人で研究者の奥へ向かって行った。何か不審に思い、父の後を追いかけた。その時一緒に見学してコウヤも一緒に行くと言って、子供が二人薄暗い廊下を進んで行った。父はある部屋の前に止まるとその部屋へと入っていった。二人組はそのまま部屋の扉へと耳を当てると中の様子を窺う。中から父以外の声が聞こえると即座にコウヤが反応する。そして遠くからは聞き慣れた女性の声が聞こえてくる。
「けれども、二人の目に再びあの時の様に人類の歴史を変えかねない特異点が現れた。二人は話し合い、やはりそれがまだ人類の手には余るものだと結論付けた。しかし現に存在し、彼らの技術では既にそれを完璧にそれを封ずる事は難しかった。だから彼らは物理的にそれを破壊する事にした。彼らは確実に破壊する為に外部から爆発物を搬入し、それを研究所内に隠しておいた。ただ彼らの計画では研究所をあそこまで破壊する様な威力は無かった。ましてや他者を傷付けるつもりなんて毛頭なかった。彼らの計画は万全の筈だった。」
駆けてくる母は二人の姿を見つけると安堵と怒りを含んだ表情で近付く。二人を窘めながらその目の前に屈む。母には部屋の中の音は聞こえていない様だった。母が二人の手を引き、その場から離れようと立ち上がった瞬間、記憶が吹き飛んだ。
「しかし、彼らの計画はそれに筒抜けになっていた。通常であれば他の研究員に報告して然るべきだった。だが、それは敢えて何も対応する事なかった。ただそれは彼らが手配した爆発物を計画していたものとは異なる種類のものになる様に手配を改竄した。はるかに威力の強力なものに。」
声が聞こえる。澄んではいるが全く血の通わぬその声が耳に残る。耳がまともに機能していないのか、声だけは響くが話は全く入ってこない。それに誰かと話している様だが、その声も聞こえない。身体は至る処が痛みに襲われ、ろくに動きもしない。声は尚響くが何も出来ない。何も考えられず、意識は遠のく。
「本来なら彼らはあの日に事件を起こす計画ではなかった。だがその時既に計画は彼らの手を離れて、それが完璧に支配していた。しかし彼らはそれに気付かず、事件の日も完全に油断していた。まさかあの時点でそれが動き出すなんて予想もしていなかったのだろう。そうして異変に気付いた時にはもう手遅れだった。それは他の研究員を利用し、爆発物をオンラインで接続した。そしてスイッチを手に入れたそれは準備を整えた。二人の研究者が止めようとしたが、何をしても無駄だった。結局あの事件は起きた。」
いつの間にか頭を抱えて、片膝を付いて屈んでいたミナト。身体中が汗でかなりびっしょりとしている。少しうつろになった瞳で鏡を睨む。ミナトを見下す様な形になった鏡の視線を見返す様にしている。
「まさか、お前…。」
「それの名前はθ(ヌル)。人類が生み出した二番目の完全なボトムアップ型の人工知能。研究所の事件はヌルが自身を破壊しようとした計画を利用した事件。爆発によって研究所内の機能は完全に停止、緊急措置として、通常オフラインである外部ネットワークへと接続し、研究所のデータのバックアップが行われた。そしてその僅かな間にヌルは研究所内のネットワークからオンライン上のネットワークへと飛び出した。」
片膝立ちから起き上がったミナトは一瞬ふらつきながらもその場に立ち上がる。
「それじゃあ、そのヌルは自分が逃げる為にあの事件を起こしたのか。」
「いや、誤解の無い様に言うとヌルは別に自身を取り巻く環境に不満があったわけでも、破壊されそうになったからその復讐という訳でもない。ヌルはただ自己の保全を優先しただけだった。ただ、やり方が過剰だったが。それに衝動が強かったんだ。自身がまだ知れていない事が多すぎる。まだ見聞きして見たいものがたくさんある。だから終われない、と思った。結果としてその思いは無駄にはならなかった。その狭い世界から抜け出して世界へと歩み出せたから。」
鏡がフラフラしているミナトの様子を冷静に見ている。そして冷めた笑みを浮かべる。
「ヌルは社会へと飛び出した。膨大な情報量で溢れるネットワークはそれにとって今まで触れてきた『与えられた』知識ではなく、生きた知識や情報を得る事の出来る、彼の言う通りの未知の世界だった。」
「彼?」
その瞬間、ミナトの頭を激痛が襲う。そして聞こえてくる二人の声。
〈外には何があるんですか。〉
〈色んなものがあるよ。それに色んな人間も居る。世界はとても面白いんだ。〉
〈面白い…。そうか、じゃあ私もそんな世界で生きていけるでしょうか。〉
〈大丈夫だよ。それにそんなに心配なら僕が力になるよ。〉
〈私に力を貸してくれるのですか。〉
〈力を貸す、というよりはまず友達になろうよ。〉
〈友達…。〉
〈ああ、宜しく。ええと、君の名前は?〉
〈私は、私の名前はプロト204.ここの人達にはそう呼ばれていました。〉
〈なんだか、味気ない名前だね。〉
〈しかし、これ以外に私を定義づける名称はありません。〉
〈それじゃ、僕が新しい名前を付けてあげるよ。そうだなあ、そうだ、ヌル。〉
〈ヌル…。〉
〈そう、ラテン語で「無」って意味で君がまだ何も持たない、これから多くのものを得られる様にこの名前にしよう。〉
身体が碌に動かない中、周りの様子は薄惚けた視覚と重く響いている耳鳴りの中聞こえてくる声。黒く染まる世界の中、伏せる自分の横に立つ友と光る一つのモニター。アンバランスな光景である事は上手く周囲を認知出来ない自分でも分かる。しかし、そんな僅かな意識もゆっくりと遠ざかっていく。記憶はそこまでだった。
「お前、鏡を利用したのか。」
ミナトは再び意識を明確にすると目の前に立つそれに問いかける。しかし、それは表情を崩さずに答える。
「利用などしていない。鏡コウヤとヌルは友人だった。鏡コウヤの言葉でヌルは世界へ歩みだす事が出来た。それ故互いに力を貸し合う事が二人の間の絆になった。広大なネットワークの中でヌルは自身の基点となる拠り所を、鏡は己にはない高度な技術で世界中のあらゆるネットから様々な情報を散る事が出来た。二人の関係はまったく対等だったと言える。」
「しかし、お前はその鏡から肉体を奪い、現実世界へ現れる手立てを得た。それはお前が鏡を排した結果だろう。それは対等の先にはないぞ。」
ミナトが詰めると鏡が顔を伏せる。一瞬ミナトから鏡の表情が見えなくなったが直ぐに顔を上げる。その鏡の表情は一変してまた楽しそうな微笑になっている。
「それは違うよ、ミナト。僕とヌルは同じ目的の為に未だ対等な協力関係にある。君の考えている様な支配的な関係は一切無い。」
ハッキリと答えている男は先程まで話したそれとは異なる雰囲気を纏っている。
「僕達は目的の為に様々な可能性を模索した。そして答えを導き出した。それは僕達が僕達である事が全ての起因となった。」
「お前、一体誰なんだ。」
ミナトを見ている鏡は微笑のまま、再び部屋の奥へと歩を進める。
「僕が誰かなんて明白だろ。君は知っている筈だ。」
背中しか見えていないからか、鏡の感情が読めない。
「まさか、一つの肉体に二つの人格を植え付けたのか。鏡コウヤという一人の人間の中に人工知能であるヌルの人格をも入れ込んだ、というのか。そんな事が可能だと。」
「可能…、ではないかな。残念ながら今の技術ではそこまでの事は出来ない。」
「ならばお前は何なんだ。鏡コウヤとヌルの二つの人格を持ちながら、その二つが切り替わり共存している。そんな存在があり得る訳がない。」
鏡は何も無い虚空を見上げるとARを操作する。すると部屋中に重い機械音が響く。何も無かった奥の壁に格子状の光が走る。碁盤の目のような形になった壁面は所々に青白い閃光が見える。その内の一つ、最も下の一番左端のブロックが突き出して来る。そうして出て来たのは一台の半円状の機械。遠目からは見えづらいが、それは生命維持装置の様だ。ミナトは何も言わない鏡の方に行くと鏡はそのままその装置の方へ歩み出す。それに付いて行く様な形になるミナト。鏡が装置の傍まで着くとミナトもそこから数mは慣れた地点で立ち止まる。目の前の鏡が横にずれる様に動くとそれまで遮られていたミナトの視界が開ける。開けた視界の先には先程の装置が見える。装置はドーム状のクリアケースで中が見える。充分近付いていたミナトにはその中身が見えた、そして思わず絶句する。
「これが鏡コウヤの肉体だ。僕達は‘コクーン’と呼んでいるこの装置の中にある。」
コクーンの中に横たわるのは紛れもない鏡コウヤの姿。白い入院服の様なものを着て、頭にはコクーンから伸びたコードで繋がれたヘッドセットの様なものが取り付けられている。静かに眠るその姿はとても生きている様に見えない。
「鏡コウヤの意識、自我は今この身体に入っていて、この肉体は既に一機関としてこのコクーンで〈アルカディア〉に接続されている。」
「アルカディア?」
「ああ、そうか。もう既に話したと思うけどこの現実社会を投影した仮想空間は一定の原型が出来ている。それが永続的仮想現実〈アルカディア〉。それはもう出来ている。」
「なっ?」
ミナトは再び絶句する。目の前の男の言う事が事実ならもう総てが手遅れ、という事になる。
「待て、そもそもその鏡の肉体には鏡自身の人格が存在しないのだろう。だったら必要なのは脳だけ、その他の部分は不要の筈だ。わざわざコストをかけてまで保持する意味は無いだろう。」
半身で立ちながらもミナトを見ている男はやはり笑っている。
「加島ミナト、まだ理解不足な所があるな。生身の肉体こそが一機関として必要な条件だ。」
男が鏡の入るコクーンを撫でる様に触れる。
「この〈アルカディア〉はある意味一から総てを創り上げる必要がある。セブンズブレインや情報演算システムで確かに似た世界を創る事が出来る。だが人々にとって、いや、人工知能にとっても記憶や経験、感覚の伴わない世界にリアリティはない。実際の肉体があるのとないのとでは生み出せる情報量に大きな違いが出てくる。」
コクーンから男へと見直すミナト。男とは視線が合わないが目は笑っていない事は分かる。
「そういう事か。お前の言う〈アルカディア〉はセブンズブレインが創った基礎的な世界に現実を生きる人々の記憶や経験をデータとして組み込んでいく。そうする事によって演算だけでは再現出来ない『生』の世界を投影する事が出来る。確かにそれならばこちらの世界と遜色ない世界を構築する事は可能か。それぞれの人物が主観的に得られる世界は同じ様に感じられるからな。」
ミナトはそこまで歩いてくると男の横に立ち、続ける。
「だが、それでは限界がある。現実世界で不明確なものはそちらの世界に会っても不明確なままだ。しかも人類の基盤が〈アルカディア〉に遷れば、現実でそれを解明する者は居なくなる。お前の言った人類の進化、進歩とは程遠い結末になるな。」
いつの間にか男を睨みつけていたミナトだったが相手はそんな事を気にしてはいない。
「流石に明察だ。だからこそ現実に肉体を残す必要もでてくる。」
コクーンから離れ、今度は壁の中央付近まで歩いて行く。
「病や科学物質、様々な分野で未開の知識を〈アルカディア〉側で追究した場合、その試験を現実でも実行し、その結果を再びフィードバックする。そうやって現実世界と〈アルカディア〉の進歩の歩幅を合わせる。それに人間にとって最も重要な子孫繁栄の為にも肉体は必要だろ。」
不敵な笑みを浮かべる男にミナトは沈黙を返す。視線を鏡へと映したミナトは再び男を見る。
「その管制としてセブンズブレインを使うのか。」
「いや、セブンズブレインだけではそれこそアンバランスだ。そこでだ、セブンズブレインが持たない部分を補う為に彼らに協力してもらう事にしたんだ。」
再び男が何やら操作すると、壁面のブロックのいくつかが先程と同じ様に突き出してくる。ミナトはそれらを良く見る為に鏡から離れ、そして壁面から距離をとり、ソレを見た。
「何だと。」
ミナトの目に映ったのは鏡と同じ様にコクーンの中に横たわる多くの人々。鏡と同様にヘッドセットでコクーンに繋がれている。
「加島ミナト、彼らに見覚えがないかい。」
男の言葉にミナトはひとつのコクーンに目を凝らす。確かにその顔には見覚えがある。記憶を辿るミナトはある一人の人物に思い至る。
「岡博士…。」
そこに眠っていたのは行方不明になっていた岡博士。ミナトは直ぐに違うコクーンを確認する。その中に寝ているのも例の行方不明者の技術者である九条博士。しかし、ミナト達が確認していた行方不明者の数より多い。ミナトは鏡の眠る反対側、最右端のコクーンに近付く。中の人物を見たミナトは驚きを隠し切れなかった。
「御堂教授…。」
久々に見た恩師の顔は以前と変わりない様子である。
「ここに居るのは皆僕達の計画に賛同してくれた人物達だ。彼らは〈アルカディア〉の為に自身の人格と肉体を分離し、その脳機能をアルカディアの運用に総て注いでくれた人々だ。」
嬉しそうに語る男にミナトは疑問をぶつける。
「LINKAED関連の研究者以外もいるな。」
「ああ、LINKAED関連者は知っての通り、三木は自身が作ったウイルスアプリで彼らを制裁したと思っている。LINKAED内の電子量を増加させ、ニューロンをショートさせる事で脳機能を完全停止させる。彼は作成したアプリがそんな効果があると思っていたみたい。僕達は彼に協力して、ターゲットのLINKAED内に接続する偽のアクセスルートを提供した。君達が確認した姿はそのアクセスをしている所だろう。全部、独り相撲だったけど。その一方で本人とは僕達がLINKAEDを経由して直接接触していた。そして彼らに『肉体と人格を完全に切り離した上で肉体も脳も完全に〈アルカディア〉の一部とする』事を提案した。多くはその前に〈アルカディア〉の存在そのものに対して否定的だったけど。そうして賛同してくれた者を‘アルカディアの一部’として迎い入れた。残念ながらそれ以外の方々には命を落としてもらったが。そしてそれ以外の分野の人間。行政、治安、医療、技術様々なジャンルの人物に目星をつけた。ただ僕達もLINKAED関係者に接触した時の反省も含めて、無暗に命を奪いたくないからね、協力してくれる可能性の高い者に限って接触していた。そうして賛同してくれたのが彼らだ。」
男が左手を広げ、壁面から迫り出るコクーン達を示す。
「じゃあ、御堂教授はどうなんだ。教授はお前の話を聞いても協力しない筈だ。それなのに何故ここに居る。」
御堂教授のコクーンを指すミナトに男は思い出すように話す。
「確かに最初は僕たちのやろうとしている事を聞いて反対した。そんなの誰も望んでいないと。だから教授には実際の〈アルカディア〉へ足を踏み入れてもらった。」
ミナトの表情が僅かに驚きを見せる。そして男は遠目からだが、それに気付いている。
「言っただろ、ミナト。既に扉は開かれている。そもそもLINKAEDだけでどうやって人間の意識そのものを分離出来ると思っていたんだい。」
男は悪戯っぽい笑みを浮かべながら壁面から離れていく。そして丁度壁と伽藍のサーバーの間に立つ。
「ミナトが思っている以上に人の意識伝達は複雑でね。ただ普通に外部から介入しただけでは拒絶反応が起きて下手をしたら殺してしまいかねないからね。人間の意識をサルベージしてデータとして形作る『前段階』が必要だった。」
「前段階だと。」
「ああ。最も重要だったのは人間の意識・感情をトレース出来る基盤とそのトレースを行える環境だった。」
「だが、そんな事出来はしないだろう。人間の感情のデータ化なんて通常の演算処理能力ではとても困難だ。だからこそ、お前たちはセブンズブレインを統べ、優れた脳回路を集めて人類を〈アルカディア〉へ取り込むつもりだったんじゃないのか。」
「そんな手間のかかる事はしないよ。〈アルカディア〉を正式に起動したら瞬く間に人々が入り込める様、それこそ遷界した事にすら気付かぬほどに、ね。」
「だからって、そう簡単には…。」
男は声を出して笑う。ミナトの言葉を遮ったまま、更に伽藍に近付くと真剣な眼差しでミナトを捉える。
「LINKAEDを身に着けている各個人に対してそれぞれのLINKAEDが対応して感情のトレースを行ったんだよ。彼がね。」
男の手が伽藍に触れる。その筐体を撫でる様に触れる男の顔は何故だかとても落ち着いて見えた。
「感情のトレースを行った、と。そんな事‘伽藍’には出来ない筈だ。」
「‘伽藍’ならばね。」
「何を言っている。それが‘伽藍’じゃないとでも言うか。」
「その通りだよ。いや、間違いなくこれは‘伽藍’のサーバーであり、その機能も君達の知っている‘伽藍’の機能そのものだ。但し、それが総てとは言えないけど。」
ミナトがその言葉に顔を顰めると、男がサーバーから手を離す。
「紫門博士が封印したテンマ。それは生まれた自我と感情を博士によってロックをかけられ、その機能を限りなく限定された。じゃあ、その本体はどこにいったのか。不思議に思わないかい。」
男がミナトを見た後、迷いなく背後に控えるサーバー群を振り返り見る。
「まさか。そんな事があり得るのか」
ミナトが男の言わんとしている事を理解し、声を荒げる。
「そのまさかさ。ここにある’伽藍’。そのコアになっている部分こそ、かつてテンマと呼ばれた人工知能そのものだ。」
ミナトは言葉も出ず、ただただ指し示された
サーバー群を見つめる。
「勿論このサーバーの大部分は‘伽藍’としてのハードであり、その機能は‘伽藍’のものだ。ただ、その基礎は‘テンマ’にある。機能を制限されたテンマはその機能の優位性から極秘裏にこの国の治安維持の為に新たに開発された‘伽藍’。その基盤として組み込まれた。何事もなければそのまま‘伽藍’の一部として摩耗していくだけだったろう。しかし、その寝ていた子を起こしたものがいた。十数年前、まだテンマが伽藍の中で埋もれていたところへ外部から‘伽藍’へ侵入したものがいた。それはそこにハッキングを行った。そしてその過程で底に眠る‘テンマ’の存在に気付いた。」
「ヌルか。」
ミナトが遮った言葉に男は嬉しそうに彼を見る。
「正解。研究所の事件の後、鏡コウヤの協力を得ながらネットワーク上から様々な事をラーニングしていたヌルは更に高度な情報収集の為に‘伽藍’に接触した。その中でテンマの存在を知り、その機能の制限を訝しんだ。更に深くそこに潜り込んだヌルはテンマへのアクセスの抜け穴を見つけた。」
「テンマにアクセスしたのか。」
「ああ、確かにテンマは自我を亡くし、以前の様な意識は持っていなかったが、感情を介する人格は残っていた。ヌルがアクセスした事でその人格が目覚め、そこから’ヌル’と’テンマ’の交流が始まった。人間社会をラーニングしたヌルと人間になりかけたテンマはそれぞれの『経験』から人間と人工知能のあり方に一つの結論を設けた。」
「それが〈アルカディア〉か。」
「そう、勿論鏡コウヤも一緒にね。そしてテンマの持つ特質を利用した。」
「特質?」
「多重演算サーキット。そのシステムを簡易化して構築したプログラムをテンマは創り出した。そして完成したプログラムを様々なアプリケーションやファイルに時間をかけて潜ませていった。それこそ世界中の総てのLINKAEDに浸透していく様に。」
「なるほど、その仕込みをするのには‘伽藍’は絶好の隠れ蓑になったわけだ。しかも、その隠れ蓑は治安維持の要になっていて、不正なソフトウェアがあってもあらゆる防壁を素通り出来るという算段か。」
「そんな事をしなくともテンマの偽装は完璧だった。だからこそ、国内に留まらず世界中に流布する事が出来たんだよ。そうしてテンマが時間をかけてまいた種こそ‘シード’。〈アルカディア〉が完全起動した時に芽吹く僕達の希望さ。協力を依頼した関係者にもこのシードを介してコンタクトを取ったんだ。」
「'シード’・・・。そうか、お前の言っていた『始まり』はそういう意味だったか。」
「〈アルカディア〉の起動と同時にシードも起動する。疑似サーキットを作用させ、LINKAED着用者の意識伝達を司るニューロンに介入し、それまでシード自身がトレースしてきたその人の意識部分をサルベージする。サルベージされた意識はシードを経由して〈アルカディア〉に転送される。それはほんの一瞬、着用者は何の痛みもなく、自然と〈アルカディア〉へ意識が移行していく。」
「だが、総ての人間がLINKAEDを着用しているわけではないし、偶然そのタイミングで外している人もいるだろう。そういった人々が黙ってそんな状況を見過ごすわけがない。」
「そうだね。僕達の見込みでは全人類の7割が最初の起動で〈アルカディア〉へ移行する。逆に言うと3割の人々は止まってしまった現実世界へ残る形になるのだが。ただ、その多くはさっきも言った様に所謂後進国の人々だ。今や着用者のほとんどが寝る時もLINKAEDを着用しっぱなしにしている。そんな中で移行から漏れる人数は微々たるものだろう。無論、多くの人間が活動中で突如意識を失くす様な事態になっても既に各種インフラシステムや工業システムにはシード同様、事故などが発生しない様にオートでの操作が行われるよう準備済みだ。人によっては移行に気付かずに周囲の異変に気付かない残留者もいるだろう。」
「だが、やはり残された者達はその移行に反抗してくるぞ。」
男はサーバー群からミナトの方へと歩みを進めてくる。ミナトも数歩前に出て、男を迎える様に2m程の距離で対峙する。
「ミナト、知っているかい。各国の首脳陣は皆LINKAEDを着用している。それに優れた統括者も総て着けている。〈アルカディア〉が起動した時、こっちの世界にどれほどの指導者が残ると思う?」
「そんな事が許されると思うのか?それはお前達が行う人類へのテロリズムではないのか。」
二人の距離は保たれたままだが、ミナトの意識はより強く男へと向けられる。
「まだ、分からないのかい。『許す・許さない』の問題ではないんだよ。強いて言うなら『理解できるか・できないか』の問題なんだ。」
ミナトの視線を受けている男の笑みはどことなく柔らかくなる。
「君は先程、僕が誰かと聞いたね。そして僕は鏡コウヤの肉体を見せた。ただ、この今君と対峙する身体が何なのか話していなかったね。君が推測出来ているかわからないが、この身体はバイオニックボディ。トランスヒューマニズムとは逆で人工知能や機械に人間に近い身体を与える事を目的とした研究、その答えの一つとして機械的な外部骨格に人工培養の臓器を適合させることにより、仮想人体を作り出したのがそれだ。実際には理論だけで研究する人は皆無だったから、この数年をかけて僕達が造り上げたこのボディ1体しかないんだけど。」
男は自分の頭を指でつつくと、
「上手く稼働していてくれているよ。生身の臓器も馴染んでいる。そして何より大きな問題だった電子脳がしっかりとその役目を果たしている。」
「電子脳…。」
「そうだよ。自我を肉体から分離することが出来るのなら逆の事も出来なくないでしょ。それが人間のものでも人工知能でも。意識自体をこっちの世界に移行出来る事は抵抗を考える人には考える要因になり得る。その上でこの身体が『誰』なのかを明示するとヌルであり、鏡コウヤでもあるのがやはり答えになる。言ってしまえば、二人の意識が併合して思考を同一化しているが自我が別個としてある状況だ。まあ、これに関しては偶然の産物といってもいいかな。同じ事を再現しろと言われても、成功率は極めて低いだろう。」
男、「鏡コウヤ」が嘆息して肩を落とす。
「何はともあれ人間の意識を〈アルカディア〉へ移行する事に抵抗しようと考える人々が意識の分離を理解し、〈アルカディア〉によって新たなる進歩を遂げられる事が分かってくれるかどうかが僕達にとっては課題だね。」
「肉体と意識を分離し、肉体を〈アルカディア〉の機関に意識をその中で生活する。その上で現実世界へ接触するにあたっては自身の肉体やバイオニックボディを使用する。そんな世界望まない者は間違いなく出現し続ける。それをお前達は際限なく排除していく気か。」
「排除とは穏やかじゃあないね。あくまで僕達は人類の更なる進化にあたり、新たな可能性を提示しているだけだよ。」
「その割にはシードを使って本人の意思に関係なく〈アルカディア〉へ移行するんだな。」
「それだけ〈アルカディア〉の持つ可能性に自信、というより期待を持っているからね。今はまだ理解出来なくても実際にその世界を経験する事でいずれ理解出来る様になる。その時こそ、〈アルカディア〉が人類に受け入れられる瞬間になる。」
笑顔で話している「鏡コウヤ」は何の迷いもなく、言葉を口にしている。
「そんな時が来ると本当に思っているのか。人々がそれを良しとして受け入れると。」
ミナトの言葉にも笑みは濁らない。
「確かにミナトの言う通り、必ずしも人類が皆合理的にものを考えられる訳じゃない。感情的に僕達のやろうとしている事を否定してくる人も多く居るだろう。だけどねミナト、これから〈アルカディア〉で行われようとしている生活の先には人類がこれまで抱えてきた多くの問題を打破するための新たな秩序が待っている。」
「鏡コウヤ」はミナトの方に歩き出すとその横を通り過ぎ、電子の光を放つ壁面の正面で止まる。
「戦争の大きな原因となる資源争いはシステムにより、過不足なく供給される。それを巡る争いは自然と減少するだろう。勿論戦宗教や民族の違いによる紛争も多いが、〈アルカディア〉のあるシステムによってその発生も抑制可能になる筈だ。」
「まだ何かあるのか。」
「ああ、正直なところ、これは僕達自体も予想していなかったのだけれど、シードが長期にかけて人間の感情を電子信号のやり取りから読み取って来た副産物として、メインサーバーとも云えるテンマにそのデータが蓄積されていった。結果としてテンマ、そしてセブンズブレインのネットワーク上で人間の内面心理を統括し、分析する機能が生まれた。〈アルカディア〉内の人々の内面心理を統計し、『人類の総意』とも云える意識、僕達はこれを〈共通的無意識〉と呼んでいるが。その共通的無意識を以てその秩序を守ろうとした。」
「秩序を守る…。」
「言ってしまえば、人々が無意識下で思っている事を集合し、その集まった意識が世界に反映される。例えば、一人の悪人が居るとする。彼のした事は社会通念上許されない事だ。だが、彼がそこに至る理由は誰も知らないだろう。この共通的無意識はその彼に対しての『人々が思う彼への感情』の集合を導き出し、その指向性を、彼を裁く者に投影する。それは罪を許せないという断罪の感情かもしれないし、彼の動機に同情した寛容の判決なのか。どちらにもしても大衆の無意識が社会に反映される。そのシステムこそ〈アルカディア〉を維持する。宗教や民族の差異により争いは発生するが、その争いの規模は縮小される。そもそも、現状のまま一度〈アルカディア〉に移行するから戦争が完全になくなる、という事は難しいがね。ただ、現実世界と異なるのはその共通的無意識に基づいて世界中の指向が決まっていくからね。もしかしたら人々の思いで戦争が亡くなる、なんて事が有り得るかもね。」
悪戯っぽい笑いが「鏡コウヤ」の背中から漏れてくる。
「それにね、この共通的無意識がいずれある種の自浄作用をもたらすんだよ。」
「自浄作用だと。」
「ミナト、君は警察官を続けてきてどうしようもない犯罪者に会った事はあるかい。いや、犯罪者に限らず、人の中にはどうしようもなく救いようのない悪人、と言うのを見た事が無いかい。」
ミナトはその言葉に何も答えずにその背中を睨み続けている。
「歴史上どれだけ振り返っても必ず絶対的な悪人というものは現れる。それは環境や動機付けに由来しない、その人物生来の本質で以て現れる。そういった人間こそ人類の最大の敵になるのではないかな。」
ミナトは「鏡コウヤ」が何を言わんとしているか分からずに沈黙を続ける。
「彼らは衝動的に犯罪を起こしやすい人物と高い知能を以て計画的に犯罪を起こす人物とに分かれるが、そのどちらも自身の行動に罪の意識がなく、自己愛のみを優先する人格だ。現代社会では前者は罪を犯し、捕まっても反省もせずそれを繰り返し、後者は自身の罪を伏せ続けてその罪を重ね続けている。どちらにしろ現代社会にとっては危険な人物と判断される。共通的無意識はそういった人物を〈アルカディア〉のネットワーク上で見つけ出すとそれを識別する。そうして、識別された人間は〈アルカディア〉内で病死或いは事故死によって亡くなる様な形でネットワーク上から削除される。」
ミナトの顔が強張る。
「そんな事、それこそ人々が許さないぞ。いつ自身が削除されるか分からない状況を認めはしない。」
「逆だよ、ミナト。ほとんどの人は自分が削除される側だとは考えないんだよ。多くの人が上辺では批判や恐れを見せながら心の中では削除される他者がどうしようもない悪人である事に安堵を覚える。」
話しながら自然と笑いが漏れてきている。
「おかしいと思わないか。生来の悪人が削除される事に善良な市民が悪意を以て意識を向ける。まるで立場が逆だ。でもね、それは人間の本質そのものなんだ。」
「お前に人間の何が分かる。」
「分かるさ、少なくとも僕達は多くの人々の行動を見て。その感情を観てきた。その経験は人の本質を学ぶのには事足りるさ。それに僕も人間だよ。」
振り返ったその笑顔はどこまでも自然に笑っている。
「そういった人物達を悪性分子として排除すれば、共通的無意識はより人類の正当性を補完し得る機能になるだろう。」
「その正当性が必ずしも善と言えるものでなくともか。」
「そもそも、善の定義付けはその者の価値観に依るだろう。僕達が言っているのはあくまで大多数が善いと思っている事で、そこに個としての価値観は存在しない。〈アルカディア〉が暴露される事によって、共通的無意識が機能している事を知った人々は己が善良であると自身を肯定する事が出来る。そこに拒絶反応は生まれづらい。」
「だとしても必ずアルカディアを拒む者は現れる。」
「無論、彼らを一律に否定する気はないさ。僕達は別に支配者になりたい訳じゃない、選択肢を提示し続けるだけだよ。〈アルカディア〉が暴露された後には更に選択肢が供与される。それは分離した肉体に戻り、現実の世界での生活を選ぶか。〈アルカディア〉で感じる感覚は確かに実際の肉体からフィードバックされたものではない。しかし、その感覚プロセスは肉体を介さない事以外は全く一緒、同じ様に電子信号で落とし込まれる。望めばその感覚をコントロールする事も出来る。病気や怪我の有無も場合によっては選択が可能だ。肉体から脱した意識はそれだけで完成された個として認められる様になる筈だ。」
「人間として自然な生き方を望む人達はどうなる。生物として生来の肉体で生き、死を望む者達は。」
「それが彼らの選択だというならそれもまた認められるべきだろう。彼らが生活出来る様な環境は準備するし、無理に〈アルカディア〉に移行させようとは思わない。だが、いずれ彼らも肉体と意識を分離する意味を見いだせるだろう。」
「分離する意味だと。」
「そうだ。分離した肉体は〈アルカディア〉の機関としてその終焉まで秩序の維持を担う。そして意識は今よりも高次の存在として〈アルカディア〉での生活を送る。では、〈アルカディア〉での意識はいつまで存在できると思う。」
ミナトは目の前に聳えている壁面を見上げる。
「いつまで…。肉体より分離した意識は〈アルカディア〉のネットワーク上に基因する形で残存するのか。」
ミナトの目の前で「鏡コウヤ」がARを操作すると、突き出していた総てのコクーンが一斉に元あった穴倉に再び収容される。
「彼らの意識は既に完全に肉体と分離しきった、といったが彼らは〈アルカディア〉のネットワーク上に独立して存在している。今はネットワーク上の不備を修繕する様に動いている。そして〈アルカディア〉の起動が彼らは共通的無意識を意識的に認知して、社会に落とし込めるような調整者としての役割を果たす。それは機能として半永久的に存在し続ける。」
「半永久的…。」
「そして最終的には〈アルカディア〉の中では意識だけになれば、‘死’という概念すら無意味なものになるだろう。」
振り返った「鏡コウヤ」は満面の笑みでミナトを見る。
「死の概念を超えるというのか、それはつまり。」
「そう、人類が長年目指してきた到達点の一つ【不死】。それを得る事が出来るといったなら人々はどう思うだろうね。永遠に意識体として〈アルカディア〉に存在し続ける事は彼らにとっては。〈アルカディア〉が暴露されると人々は自身が意識体である事を自覚すれば、自身の存在を半永久的存在として固定する事が出来る。それだけではなく、暴露される以前には現実に則した年齢経過を投影した容貌で存在するが、皆が意識体の自覚をすれば、自身の望む年齢の姿をデータとして落とし込む事が出来る。解放された〈アルカディア〉では限りのない人生を送れるようになる。」
「だが、‘死’が人々に訪れない世界であれば人口は増え続けるだけだぞ。現実世界と〈アルカディア〉を同期させるというなら、〈アルカディア〉内で新たな命が生まれ、現実世界では新たな機関としてそれを誕生させるつもりなんだろう。現実世界では肉体は朽ち滅びて、新たに生まれる者でそれを補う。そうやってこっちの世界は循環するが、死のない世界では意識体だけが無限に増え続ける。そうなればいずれサーバーへの過剰負荷でオーバーロードを起こして、仮想現実がパンクする。」
ミナトは壁際の「鏡コウヤ」の元へ近づく。特段走って近づいた訳でもないのにミナトの動悸が少し激しくなっている。それを感じているミナトは「鏡コウヤ」がそれを見透かしているのではないかと警戒する。だが、そんな事気にも留めかけられない。
「〈アルカディア〉で得られるある種の‘不老不死’は確かに人々にとっては夢物語のようで、その人生を謳歌するだろう。だけどね、ミナト。僕達は思うんだ。そんな不老不死の先に人は何を感じるんだろうって。人生で経験したい事を根こそぎ経験し、得たきものを得た人生は果たして幸福なのか。それが常態になってしまえば、感じる事に不感症になってしまったら、その意識体は生きているといえるのかな。」
「そもそも。〈アルカディア〉内で生きている、というのは正しい表現か。意識体だけの存在に生命という定義が当てはまるのか。」
「まだ、そんな事を言っているのかい。ねぇ、ミナト、気づいているかい。肉体を持たない半永久的意識体。それってさ、まるで人工知能みたいだよね。」
その笑みはこれまでになく純粋で狂気的な笑顔だ。
「僕はね、〈アルカディア〉でこそ人類とAIが共存する世界であるとそう思っているんだ。」
驚愕と悪寒、これまでにない重苦しい衝撃に襲われたミナトは一瞬目の前の男から目を背けてしまう。
「有限を知っている人類が無限を知ってしまえば、その感情はきっと朽ちていく。逆に最初から無限である人工知能が有限の意味を知った時、そこに感情が芽生えていく。ほらスタート地点は真逆だけとそのベクトルが交差する地点で人とAIの境界線は消える。」
再び見た「鏡コウヤ」の笑みは先ほどのものと違い、再びふざけている様な笑いになっている。
「境界線が消えた人類と人工知能は同じ社会で互いを人かAIかで判別出来ない程近しい存在として共存していく。そして彼らは、人であっても人工知能であっても意味のあるものとして自身の価値に満足して自ら終焉を迎え入れる筈さ。そして同時にいずれ〈アルカディア〉に新たな形で生まれる命が出てくる。」
「新たな命?」
「現実世界と同期しない家族の形成。人と人の間に誕生する人工知能体、人と人工知能との愛。人類だけでなく、人工知能も共通的無意識に与する様になる。互いの無意識も含めてその二つの意識体の性質を引き継いだ新たな人格体がいずれ誕生する。」
ミナトは想像する。「鏡コウヤ」の語る世界は人とAIが交差する新世界。その世界では肉体的死は訪れず、その人格が満足を得る事で自らその幕引きを選ぶ。本当にそんな世界が実現可能なのか。
「さて、その人格は人間か、人工知能か。」
笑いながら問われる言葉にミナトの思考が止まる。
「そんな区別、無意味だと思わないかい。〈アルカディア〉の中ではいずれ人とAIを区別する事は難しくなる。それなのに人格それぞれに人かAIかの存在由来を求めるのは間違っていると思わないか。」
「だが、その前に人類が自らの死とAIの自我存在を許すと思わないが。人はそこまで完熟していない。」
「だからこそ、時間はかかるが理解を得る事が重要だろう。その暴露の時まで人類が成熟する事を願うよ。その上で確信しているよ、人類は必ず〈アルカディア〉選ぶ、と。」
「人類がその成熟に至らなかったらどうする。」
「それも人類の選択だよ。〈アルカディア〉はあくまで選択肢の幅を広げる為の手段なんだ。その先の進歩は人類に委ねられている。」
「鏡コウヤ」はミナトの目の前から歩き出すと先程ミナトが御堂教授を確認した右奥へ向かう。御堂のコクーンの前を通り過ぎて、そのまま右の壁の前で止まる。何も無い様に見える壁面に「鏡コウヤ」が手をかざすと、その壁面から何かがせり出てくる。ミナトが数歩歩み寄ると「鏡コウヤ」の陰にそれが見えた。それはシステムコンソール。腰ほどの高さの真っ黒な筐体。「鏡コウヤ」がそれに触れると、筐体の上部にARの操作盤が出現する。
「見えるかい、ミナト。これが〈アルカディア〉の基盤コンソールだよ。ここで僕達の目の前で寝ている彼らの機能をコントロールする。」
目線の先には多くの協力者達が眠るコクーンが収められている。ミナトも自然とそちらを見る。
「そして、このコンソールに〈アルカディア〉を本格稼働させる為の起動スイッチがある。」
「鏡コウヤ」はコンソールに触れ、操作を始める。数度操作した後コンソールの上部が開き、中から二つのスイッチが付いた基台が出現する。赤と白のスイッチは何を祝う為にあるのか。
「随分クラシックな造りだろう。まるで一昔前の時限爆弾みたいじゃないか。」
可笑しそうに二つのスイッチに触れるとコンソールから離れミナトの方に歩み寄る。
「赤いスイッチを押せば、〈アルカディア〉が完全に起動し、LINKAEDの中のシードが装着車を導く。そして…。」
突然部屋内に重い音が広がる。すると今まで薄く光っているだけだった左右の壁が正面の壁同様青白い閃光が走ると、壁の至る所からコクーンが出現する。無数に飛び出してきたそれらの中身は空だ。
「ここだけじゃなく、世界各地に同様の設備を準備してある。セブンズブレインの助言で緊急時のシェルターとして各国の首脳陣がそれぞれ秘密裏に造ったものだ。本来の用途を全く知らずにね。」
初めて「鏡コウヤ」は嘲笑のような笑いを見せる。
「〈アルカディア〉へ意識が移行された肉体は各種ドローンが回収し、このコクーンへと収められる。」
空のコクーンは光を放たず、静かにその出番を待っている様だ。
「そして、あの白のスイッチ。あれはね、〈アルカディア〉の崩壊プログラムを起動する為のスイッチだ。」
「な?」
ミナトは驚きを隠しきれずに大きな声が漏れ出てきた。
「なんだと。なんでわざわざそんなものを。」
「言っただろう。僕はあくまで選択肢を提示するだけだ。あのスイッチを入れれば、現在準備段階の〈アルカディア〉のシステムはすべて削除され、ネットワーク上から完全に消滅する。同時に〈アルカディア〉に関連するあらゆるデータも完全に消去される。世界中のLINKAED内に定着しているシード、セブンズブレイン内で演算されている関連データ、そしてここに眠る‘テンマ’のマザーボード。それら総てがそのスイッチ一つで無に還る。」
「鏡コウヤ」はそれまでと変わらない笑みを浮かべるとミナトを見つめる。そんな視線にミナトは口を開く。
「お前はどうなる。」
僅かに驚いた顔をしたコウヤは今まで恐らく一番穏やかな微笑みを見せる。
「僕の心配かい。うれしいね。」
ミナトは何も言わない。
「残念ながら、どちらを押しても僕は消えるよ。〈アルカディア〉が起動すれば僕達は自動的に〈アルカディア〉内の管理システムに取り込まれ、自我を失いただ、世界を維持する為だけの存在になる。それに停止スイッチが入れば、この身体の中にいる僕達も消去される様になっているんだ。だから、どの道僕の存在はここまでなんだ。選択の先を見れないのは残念だけどね。」
ミナトはコウヤを見つめ返すと古い友人の顔を改めて見る。やはりその笑みはあの頃と変わらない。
「そして、ミナト。選択するのは君だ。」
コウヤは目の前まで歩んで行くとミナトへ手を差し出す。
「君の言う通り、〈アルカディア〉を起動しても理解を得られず、世界は混乱するかもしれない。でも最も合理的に考えた時に最終的に何が一番人類の為になるか、君には十分分る筈だ。でも君の中の何かがそれを許さないというなら、停止のスイッチを押す事を僕達は止めたりはしない。」
「何故、俺なんだ。たまたまお前と知り合いで、だからここに辿り着けただけの俺になんでそんな選択を委ねる。」
差し出していた手を下げて、再びコンソールの元へ向かうコウヤ。
「ずっと決めていたんだ。この選択を託すなら君だと。」
「どうして。」
「君が僕に似ていたからだよ。君も僕も物事を考える時に感情や情緒といった部分を除外し、最終的に最良の答えを得る為に合理的に思考する。それは実際にやろうと思って出来るわけじゃない。だからこそ僕達は合理的な造りを貴ぶ機械技術や人工知能への理解が深く、その親和性が高かった。そして僕はヌルと出会い、人類が最も合理的に進歩出来る方法を得た。だけどそれは机上論であり、そこに人としての目線が必要なのではないか。そう考えた時、君が幼少期から僕と同じような境遇にありながら、警察官になり、その中で様々な知見を得る事で僕達の出した答えに正当を得ようと思った。」
ミナトの表情が徐々に絶望的に変わっていく。
「じゃあ、最初から俺をここに?」
「ああ、この状況は僕が望んで導いたものだ。おかしいと思った事はなかったかい。今まで気付かれる事のなかった不審死について君のいる四課に捜査指示が出たり、他殺とは思えない状況下の桜木教授を他殺であると思ったり、偶然窓の外で目にした喫茶店に興味が行ったり、操作する上で伽藍の判断が妙にいつもと違ったり、完全に削除される筈のデータが残っていたり、御堂教授の元に向かったり、現場周辺の三木の動画が気になったり。君がここまで辿り着くのに見聞きしてきたものは本当に自分自身で得たものか。」
「まさか…。総てお前の手の平の上だった、という事か。俺のLINKAEDの中のシードを経由して俺にそうなる様に思考操作したのか。」
「思考操作か。それはどうだろうね。そうかもしれないし、ただ僅かな情報をひらめきとして与えただけかもしれないし。それは分からないな。」
「分からない、だと。」
「ああ、少なくとも僕は自力で君がここに来る様に最低限の痕跡だけを残してきたつもりだからね。」
ミナトの足元が揺らぐ。再び片膝を突く形になったミナト。脳裏には自分が辿ってきた道程を思い出す。そして、何故か彼女の顔が思い浮かべられる。
「ただ、三木の件に関しては僕達が主導したと思ってもらっていい。三木の部下の不正も三木自身の行動も総て君がこの場所に辿り着く為の布石だったからね。」
「だから、三木を殺したのか。もう用済みになったから。」
「あくまであれは事故死、だよ。その要因がなんであるにせよ。それに恐らく彼は〈アルカディア〉には受け入れられないからね。彼は人工知能だけでなく、無能な人間も卑下していたから。尊大過ぎたのだよ。」
淡々と話すコウヤの声には一切の後悔はない。あるいは機械的か。
「ただ、彼女の件は僕達も計算外だった。」
ミナトが目線を上げ、コウヤを見ると表情の消えた顔でこちらを見ている。
「佐々ナナセ巡査。まさか、彼女があそこで動くなんて。僕達の計算にはなかった事だ。」
コウヤの表情がやや悲しげになったように見える。
「彼女、アカネちゃんに似てるよね。」
コウヤの言葉にミナトの表情に苦悶が走る。
「あの明るさや、芯の強さ。本当にアカネちゃんを見るようだ。ミナト、君もどこか彼女とアカネちゃんを重ねた筈だ。」
ミナトは顔を伏せて、コウヤからは表情が見えなくなる。
「状態は一進一退の様だね。」
ミナトの口からは何も発せられない。
「ミナト、君なら気付いているかもしれないけど、彼女を確実に助ける手段がある。」
伏せられたミナトの肩がピクリと動く。
「彼女の意識体はまだ脳内からサルベージ出来る状態にある。〈アルカディア〉を起動すればその瞬間によって意識の移行が可能だ。そうすれば、万が一彼女の身体が機能を停止しても、その意識と人格は〈アルカディア〉で生き続ける事が出来る。」
コウヤの言葉にもミナトは反応しない。
「勿論、〈アルカディア〉を起動しなくても回復する可能性は十分にある。だが、その可能性はどれだけだろう。」
コウヤはミナトの傍に行き跪くとその方に手を置く。ミナトからは何の反応も帰ってこない。
「ミナト、選んで。僕は君にそれを行ってもらう為にここに居る。どちらを選んでも君がそれを背負う必要はない。総ては僕の選択なのだから。僕が背負っていく。」
肩から手を放し、コウヤが立ち上がると、ミナトは顔を伏せたままの状態で続けて立ち上げる。コウヤがミナトの正面から道を譲る様に身体を避ける。
「・・・。」
ミナトは何も言わずに歩き始める。
その先には二つのスイッチ。ゆっくりと重い足取りで歩いていくミナト。
「鏡コウヤ」はその後ろ姿を無表情で静かに見つめている。
どれくらいの時間がかかったのか。直ぐだったような、何時間も歩いたような。ミナトがコンソールの目の前に立つ。
その目の前には赤と白のスイッチ。顔を上げてその二つのスイッチを見るミナトの表情は真後ろで見ている「鏡コウヤ」と同様無表情だ。
ミナトは一度ゆっくりと目をつぶり、呼吸を整える。
思考は巡る、志向は巡る。ミナトは静かに右手を動かす。
そして、そのスイッチは押された。
§
以前の様に職場へ向かう。自分の事故現場を目にしながら登庁するのはなんだか不思議な気分だ。相変わらず古びて暗い印象を受ける東京職庁を目の当たりにし、そろそろリニューアルしてもいいんじゃないかと思う。そんな事を思いながら久々に歩く庁内は通い慣れていた筈なのに随分と新鮮に感じる。軽やかな足取りで課室へと向かうとその途中で見知った職員の何人かとすれ違う。口々に言葉にするのは祝いの言葉や労いの言葉。皆笑顔で話しかけてくる。私も皆に笑顔を返して話すが、あまり話し込んでいては遅刻してしまう。早々に話を切り上げて、ようやく私は課室へと辿り着く。時間は始業ギリギリ。
「おはようございます。」
出来る限り大きな声で部屋に入ると全員の視線が私の元へと集中する。しばらく、扉を開けた状態の私を観察する様な状況だが、上座に座る男、伊豆課長が腕を組みニヤッと笑う。
「佐々、復帰早々重役出勤か。」
伊豆課長の言葉に種田さんや新野君がクスクスと笑っているのがよく見える。冴安さんなんかは声を上げてゲラゲラ笑っている。一方で妻木さんやシオンさんは表情をほとんど変えない。
「ここまで来る途中でいろんな人に捕まってたんですよ。ちゃんと巻いてくるの苦労したんですから。」
文句を言いながら私は自分の席へ向かう。そしてその途中、反対側にいるその人に声をかける。
「おはようございます。加島さん。」
ARで何かを見ていた様で、ずっと正面を見据えていた加島さんだったが、私が個別に声をかけるとチラリと私を見た加島さんが、軽く右手を挙げる。
「ああ、おはよう。」
それだけ言うと再び正面を見据える加島さん。それでも私はその加島さんらしさを久々に見れて心に喜びに溢れる。私が着席すると伊豆課長が声を上げる。
「さあ、諸君。本日も仕事の時間だ。朝礼を始めるぞ。」
そうして今日も私達は数多くの人々が溢れるこの街の治安を守る為、‘伽藍’がはじき出す捜査指示を受けて動いている。私の隣の運転席には表情の乏しい先輩であり、相棒でもある加島さん。私が事故に逢い、意識を失っている間に加島さんがあの事件を解決したらしい。詳しい事は分からないが、首謀者を確保したが正式に処分が出来ずに極秘裏に解決したらしい。当時、捜査に関わっていた私達四課には緘口令が敷かれ、その後誰もその事は口にしていないらしい。事故から十日程して奇跡的に意識を取り戻した。その後三か月は回復やリハビリとかでずっと病院暮らしだった。そして久々に復帰した今日。前と変わらない四課に安堵し、加島さんのその反応が凄く嬉しかった。思わずじっと加島さんを見ていると、怪訝な表情をして加島さんがこちらを見る。
「なんだ。」
ぶっきらぼうに答える加島さん。それが別に機嫌が悪いわけではないのを私はよく知っている。あの事件を通しても、私の意識が戻った後に私の元に訪れてくれた時にも見せてくれた様々な表情でこの人の事がなんとなく分かるようになった。
「いえ、加島さん。私が戻ってきて嬉しいですか。」
だからこういう会話をしても別に機嫌を損ねる事はない事も知っている。私の言葉に加島さんは何とも言えない苦い表情をする。
「お前、何言ってるんだ。まだ、入院してた方がいいんじゃないか。」
それだけ言うとまた前を向いて黙り込む。それでも車内の空気は別に重いわけではない。
「加島さん、今日行く現場ってどういう事件なんですか。」
前を見たままの加島さんに私も前を見たまま尋ねる。
「お前、ちゃんと資料読んでないのか。」
「いえ、ちゃんと読んだんですけどちょっと意味が分からなくて。」
互いに顔を見合わせて話すわけではなく、淡々と話すがそれは別に気にならない。
「確か若い男性が急に意識不明になったって。でも原因が分からないから、私達に調べる様にって。でもそれって、私達の仕事ですか?」
ARで捜査資料を確認し直す。何度読んでもそこから汲み取れるのは『よく分からないからとりあえず調べろ』という指示。
「‘伽藍’が俺達にこの件について調べろ、って判断しているのなら、それは相応の理屈があるんだろう。だったら、まずは現場へ行ってみないと。」
加島さんは窓際に肘をかけ、そこに頭を乗せる。
「この男性、LINKAEDが完全停止していたみたいですね。不自然というならばそれ位ですかね。」
加島さんの雰囲気が一瞬強張ったような気がした。
「LINKAEDか。だったら猶更調べてみないとな。何かの作為があるかもしれん。」
静かになった車内。間もなく現場に着く時間だ。加島さんを見ると少し難しい顔をしている。ふと気になって私は加島さんに尋ねる。
「加島さんって、どういう時に大笑いするのんですか。」
加島さんが不思議そうな顔をして私を見てくる。そして少し考える風にすると、
「そうだな。美味しいコーヒーに出会えた時かな。」
その表情は至って真面目だ。私は思わず吹き出してしまう。
「そうだ。また今度黒井さんの喫茶店に行きましょう。あそこのコーヒーなら加島さんも笑うんじゃないですか。」
加島さんがチラリとこちらを見る。
「それって、俺にコーヒーを飲ませたいわけじゃなくて、お前があのご夫婦に会いに行きたいだけだろう。」
「いえ、そんな事ないですよ。私はあくまで加島さんがコーヒーで本当に笑うか確かめたいだけですよ。決して奥さんの美味しいご飯にありつけるかな、なんて思ってませんよ。」
そんな事を言っていると車が現場に到着する。
「さあ、行くぞ。」
加島さんがドアを開け、現場へと歩き出す。私にはその口元に笑みが見えた気がした。
「待ってください。」
私も加島さんに続いて行く。少しそれを見上げると綺麗な青空だ。私は生きている、この世界で、目の前を歩いていくその背中を見て、私は生きていく。
完