はじまり
虚数遊戯(前)
私は知っている。僕は知っている。自分はこの暖かい手を知っている。それは何時の事だったかは覚えていない。ただ、その記憶だけは確かなものだ。そうして目をあける。ここはもう見慣れた景色だ。幾度そうしてきただろう。私は未だ微睡む我が身を起こし、歩を始める。無機質な大地を踏みしめ、いつも通りの道程を進む。頭をクリアにして。
そういえば、まだこれからの準備をしていなかった、とようやく調子を出しつつある頭脳が引き出される。そうして私は思考する。
では、どこから始めようか?
昼夜煌々と照らされているこの街にも当然の様にその光り(あかり)が届かない場所は存在する。その影は徐々にその範囲を広げつつある光りに反比例する様に相広がってゆく。その影の中を2つの人影が駆けていく。
前を行く影は時折足元を何らかに取られながらひたすら懸命に駆けていく。一方で後方を駆ける影は前方の影が崩壊させた足場の悪い路を苦も無く駆けていく。一見すると後者が圧倒的に見えるこの徒競走も先程から均衡状態が続いている。この均衡を創り出しているのは言わずもがな追手の方である。実力的に言えばあと30秒もあれば余裕で追いつけてしまうだろう。しかし、そんな彼が敢えて前方を行く者を捕捉しないのは彼がこの徒競走を楽しんでいるのか。はたまた、他に何か狙いがあっての事か。とにもかくにも二人はより闇が深い場所へとその舞台を移す。
「ハァ…、ハァ…、ハァ…、くそぉ…。?」
前を行く男の影は明らかに『走る』から『歩く』へ動きが落ちている。しかし、それでも追手は未だその身を捕らえない。やがて二人は何年も人が足を踏み入れてない様な古い倉庫へ辿り着く。かつては人々の生活を支えていたのであろう工業品を終い込んでいた古びた倉庫はもはや完全AⅠ管理のオートメーション化された現在の産業体制で撤去すら無価値と判断される様な長物と化してしまっている。ただ、それ故にここには彼らを見つめるものは何もない。そして、ここでようやく二人は足を止める。一人は土埃まみれになる事にも気をくれず、倉庫の中ほどまで這いずり、追手の方を向き直る。そしてその体勢のまま彼と対峙する。それを見た追跡者はゆったりとした歩調で獲物へと近づく。
「…。アンタ、一体何者だ。わざわざこんな場所まで追い回しやがって!どっかの組織の回し者か?」
息の上がりきった男はそれでもプライドからか虚勢を張り続ける。そんな男を追跡者は淡白な瞳で見据えている。そんな相手の反応に今度こそ男は恐怖を感じる。それは目の前に迫る人影が今や街に溢れている無機質な人形のそれと似た目をしているからか。それともその姿そのものが絶対的な終焉に思えたからか。いずれにせよ男にとってはここが完全な"詰み“であった。男の顔には恐怖と同時に諦めが滲み始めていた。
そんな様子を見てようやく追跡者が口を開いた。
「川崎章則、43歳。元警察官。10年前に同行していた捜査用ドローンH2Aを破壊し、共に警備にあたっていた対象者も殺害し逃亡。その後はそれまでの経験を活かし、裏社会で活躍のようだな。」
低く、抑えられた声で追跡者が告げる。
「だが、まあ、年貢の納め時、というヤツだな。諦めな。」
その手には今時分珍しい実弾入のH&K、P‐2000が握られている。個人のみならず治安組織でさえも所持・携帯が禁止されているそれは例え彼が何者であろうとも少なくとも違法な手段で手にしていると言わざるを得ない。それでも彼は躊躇いなく銃口を川崎に向ける。その銃口からは男の本気が溢れており、流石に川崎もその経験値から殺意を読み取る。完全に覚悟を決めた川崎は諦めを以て最後の言葉を口にする。
「一体俺に何の恨みがあるんだ、あんた。何も趣味でこんな処まで追っ駆けてきた訳じゃねぇだろうが…。」
悪態をついた川崎の態度に意外なことにその殺気を失す。突然の事態に川崎も発する言葉が見つからす、二人の男の間に怖しい静けさが漂う。
その沈黙を破ったのは追跡者の男であった。
「別に殺しはしないって。これでも身元はしっかりとしている身でね。一応人命優先って事で。ただアンタには俺が個人的に聞きたい事があってな。」
追跡者の男に川崎は二重の意味で驚いた・今や都会のみならず、地方の片田舎でさえ治安カメラと探知センターにより、その維持が徹底されている。よって現行の治安維持組織の役割は21世紀初頭まで続いた権力による治安維持の役割から既に発生した事件・事故を記録された情報を基に確認し、処理するためだけにいる受動的な団体となっている。そんな牧羊の中にあって目の前の男はかつての、そう自身が幼少期に憧れを抱いていた、その時の"刑事“という言葉が当てはまりそうな雰囲気を有している。
それともう一つ、この男は今「聞きたい事がある」と言った。自身も長年この業界中で生きてきた。死線を超えたことだって一度や二度ではない。故にそれなりの知識や情報を有してはいる。それこそ彼ら‐治安組織‐が欲しそうなものも。しかし、奴はあえて「個人的」にと付け加えた。それはつまり治安のためでなく、私情を以って自身から聞き出したい事がある、という事だ。そのためにあえて社会から隔離されたこんな廃墟まで自身を追い込んだ。
誰の耳目にも触れぬように。
男の意図に川崎の口内が渇く。この男は目的を選ばないタイプの男だ。長年の経験から川崎はそう直感する。故に黙秘は無駄。
「な、なんだ。一体俺に何を聞きたい?」
川崎は口にしながらもう一つの直感で感じ取った。この男に何かを教える、それは何らかの決定的な過ちであると。そんな川崎の抱いた恐怖を感じているのか否か。しかし、感情の読み取れない男の声のトーンが突如その表情と共に変わる。それは川崎が今まで男に感じていた印象が一掃される様な動的な形相であった。
「アンタ、〝シード“って言葉知っているか」
§
この国家の中枢には2つの頭脳が存在する。一つはこの国が世界と関わる様になってから1世紀以上にわたり、政治の根幹として働いていた議会制。もはや成熟期や安定期を通り過ぎ、荒廃期ともいうべき時期が半世紀以上に至る。しかし、それでも我が国の国民はこの機構が正しく作動していると、残念ながら大半以上が信じていた。そんな旧時代的な信仰が続いてきた社会には現在、2つ目の脳として人工知能=AIが中枢となっている。特に治安に関しては、現在ほぼ全てをこのAIを基盤として構築された維持システムが管理している。勿論、このシステム自体に依存する形ではなく、人間というパーツを組み込んだ社会構造が既行している。とはいうもののその数は2020年代に30万人に到達したのをピークに現在はその座を完全にAIに譲っている。ただ、全てが全て人の手が不要、という訳ではないので必要に足る規模で現在も治安活動に奉仕する人間も存在する。その人数は最盛期の半分ほどでしか居ないが。そんな「少数精鋭」とも言える彼らが警察機構だが、未だにアナログな形式様態を引きづっている。
〝刑事は足で“
なんて不文律を守り続けているような始末である。しかし、そんな古びたやり方も高度な演算機能を有する「伽藍」とは意外と相性が良いらしく上手く機能しているとは、批評家の言である。とにもかくにもそんな現状の中で彼、加島ミナトは今日も巨大だがかなり古びた建物に足を踏み入れる。ここはかつてこの都市の治安の基幹となっていた場所だったが、今は一見すると廃墟の如く聳える遺物と化している。残念ながらそんな遺構が彼らの職場であるのは致し方ない。唯一の救いと言えば24時間営業でやっている庁内の食堂がまずまず美味しい事位であろうとは職員一同の見解である。
その様な環境下に於いて存在する、とある一室が彼らの職場となっている。
《警察省東京職庁刑事部第四刑事課》
在籍人数僅か8名の小さな課である。
ミナトが部屋に入ると既に数名の影が室内にあった。ミナトは彼らに一瞥をくれる事もなく、決まりきった動線で自らの席へ進む。隣にはいつもの見慣れた姿の男が悠然と腰を掛けている。そして、彼もまたミナトに一瞥をくれる事もなく、朝刊-今や紙媒体でこんなものを読んでいるのはこの部屋では間違いなくこの老人だけだろう。というかどこに売っているんだ、それ-を広げている。朝の挨拶を交わすのみで、自身の席へ腰かける。デスクの上はいつも通り用紙一つなく綺麗に片付いている。対面にはミナトよりやや年嵩の妻木ケースケが自身にしか見えないディスプレイに目をやりながら手元を虚空へと持ち上げながら宙を行き来させる。ミナトも自身のバッグから黒い首輪を取り出し。そのまま自らの頸部へと嵌める。首にほんの一瞬刺激-それこそ蚊に刺されたと言わんばかりの程度だが-が走るが直ぐに体に馴染む。すると視界の中に見慣れたディスプレイが出現する。
LINKAED。彼の首に装着されているその機器はここ30年で劇的に普及し、今や現代社会にとって必要不可欠なものとなっている。2010年代に普及したスマートフォンに代わり更に大きく機能を拡張した複合型デバイス。
当初は若い人やデジタル業界を中心に限定された層のみに使用されていたがある程度各国の企業の開発競争に拍車がかかってくると、各政府はその画一性と有用性に目をつけた。デバイス内に内蔵される個人データ、これらはネットワークと常時リンク可能なLINKAEDを単なるデバイスとしてではなく社会システムの中でパーソナリティを確立するのに必要な条件を有する証明書として非常に効率的であると。各先進国ではコレを利用して、国民の生活を管理するシステムを構築する試みを行う。各LINKAEDサービス会社はその全てが先進国に存在したため、先進国同士の合議により、全企業が国際的なカルテルを形成し、それぞれの国内に画一的な機能を有したこのデバイスを流布した。その後更に生活に根付かせるために住民票、保険証、免許などの公的な証明書や各通信機器のインターフェイスとしての役割を付与する。そして20年程前には政府の管理下にあるサーバーへの登録を推進し、最終的にはこれを義務付ける法案が各国で提起。その結果、個人保護を謳う団体を中心に反対活動が起こる。各地で起こった反対運動に対し、政府は当初治安組織を動員しての武力制圧を目論んだが、結局民意を無視することは出来ず、この案は頓挫せざるを得なくなった。それは日本に留まらず、同様の国策を採った各国でも同様の問題に衝突していた。解決の糸が見えず、指針として方向転換を強いられる様な状況の中、日本国内のとある研究機関より、一つの打開案が打ち出される。
〝AIによる網羅管理“
当時飛躍していたAI開発も未だ世の中心へは辿り着けていなかった。しかし、この時の技術で国民の情報管理を全羅出来るか。これもまた議論になったが、提唱者である学者を中心として、次世代型のAIを開発する。
この総合統括型AI=「テンマ」この国における"学びの神“を祀った宮の名を冠した人工知能がこの状況を一転させる。
この新型AIの登場により、従来各AIが独立して処理能力を有するだけであったが、この「テンマ」は独自の処理回路を有するのみならず、他のAIへの干渉・統制を目的とした回路も有する。複合的に情報を処理・管理する事を可能とし、各分野の情報管理を特化されたAIが統括。最終的にそれらを総合的に首脳AIが管理する、という現在の社会管理システムの基礎を生み出した。その後、この「テンマ」をモデルとし、世界中で統合AIの開発が進められた。その結果、特に性能的に突出した統合AIが7つ誕生した。
-アメリカ・ミネルヴァ-
-オーストラリア・プロメテウス-
-中国・弁天-
-イギリス・ダグザ-
-インド・ラートリー-
-サウジアラビア・エンキ-
そして先の「テンマ」をベースに更なる改良を加え、新たに誕生した日本の
-オモイカネ-
これら7つの新生代を代表するAIはいつの間にか「セブンズ・ブレイン」と呼称される様になっていた。そして現在に至るまでこの7機を中心に全世界的にLINKAEDのシステムが浸透・普及して、各国の国民統制が行われている。近直行われた調査ではその普及率は世界規模で90%を超える様態である。勿論未だに反対する者もあり、このLINKAEDやAIに対して、過激な反対活動を行う一握りの人間も居るが、一般社会ではそういった部分は照らされる事は滅多にない。そのおかげか世間ではLINKAED自体は完全に受け入れられている。それは社会生活を営む上でもはや必要不可欠なものである。
ミナトは視線上に現れたネットワークアイコンの一つをタッチする。LINKAEDではAR(拡張現実)を介してその機能を最大限に利用する。ミナトが今選択したのは、自身のLINKAED内のパーソナルデータをキーとして接続可能とした警察内のネットワークである。勿論セキュリティ上の問題があるが、このLINKAED、起動・使用には登録者本人の生体反応が証明として必要となる。更にこのネットワーには事前にサーバーへの生体登録と毎回の接続時への個別パスワード入力が必要となり、三重のロックで外部からの侵入を許したことはない。よって、各職員は毎朝出勤直後にはこのネットワーク、通称・伽藍NETへ接続するのが日課になっている。ミナトも例に漏れず、伽藍NETへ接続すると自身宛のメールを確認する。昨日来確認し終わっていたメールだけを残し、新たなメッセージは届いていなかった。それを確認したミナトは他の署内トピックを気にかける事もなくメーラーを閉じる。気付くと周囲にはいつの間にか他の課員も揃っている様だった。ミナトは視界の端に浮かぶ時刻表示に目をやる。見ると丁度始業の時になるところであった。するとこの部屋唯一の出入り口から最後の課員が気怠そうに入ってきた。
「おっはよ―ございまーす。って、相変わらずテンション低いっすねー。」
見た目は完全にホストの様でではあるが、これでも立派なこの課の一員である。
新野タカノリ。この課における最年少の課員であり、この部屋における不必要なムードメーカでもある。そして新野の自身も早々に己の席に着く。これに代わる様に上座に座っていた男が立ち上がる。
「全員揃ったな。では朝礼を始めるぞ。」
室内に適度に響く声量で声をかけたのはこの課を仕切る伊豆タケアキ課長。第四課の個性的な面々をコントロールしている熟練の刑事だ。そんな伊豆の号令に課全員がその場に立ち上がり、伊豆の方へと向き直る。毎朝行われる定例の朝礼であるが、この四課では形骸化したこの朝礼を嫌い、伊豆の「お疲れさん。」の一言で各々が自身の職務へと向き直るのが常となっている。
しかし、この日はその常とは異なり、伊豆の口から言葉が続けられた。
「諸君、済まないが今日は諸君らに残念なお知らせだ。昨夜担当区域内で不振事件が発生した。な何故か‘伽藍’が判断を下しかねている。まあ、なんとも厄介そうなヤマだ。」
久々に飛び込んできた重大事件の一報。普段であれば伽藍が分析・解析し、判明した事実を基に実働する警官に指示が下されるのがメインとなっている。しかしながら、この辺りの指示が四課へと来ることはまず無い。更に伽藍自体への情報が不足している場合があるのでその様な不足分の情報収集や証拠集めをする必要がある。しかしながら、そういった作業のほとんども大所帯である一~三課へと振り分けられる。そういった環境の中で早々におこぼれチームの四課へ稼働要請を出されるのは相当稀な事案である。そんな事情もあってか、課員の一人から疑問の声が挙がる。
「珍しいですね。ウチにそんな捜査要請が来るなんて。そんなに厄介なヤマなんですか。」
課員を代表して疑問を呈したのはミナトの隣に座る老公に次ぎ、この課では現場経験の長い冴安ヒロシ巡査部長。壮年の面構えに合わせて、隆々とした肉体は柔道や剣道など諸々合わせて武道二十段を超える超武闘派と噂されるのも頷ける。そんな男に相対されても顔色ひとつ変えない伊豆は流石のベテランぶりといったところだろう。
「まあ、そんなところだ。他の課の連中が避けた上、伽藍システムがウチの課への配件を提案した。その結果としてウチがこの事件の捜査に当たることになった、という訳だ。」
そう言うと伊豆はARパネルを操作し、今回の事件の資料を全課員へと配信する。
課員各自が事件資料に目を通す。資料によると被害者は桜木テッシュウ。51歳。帝都工業技術大学で教授を勤める電子工学の大家である。彼は勤務先の大学内にある自身の研究室で倒れているのを今朝方発見されたそうだ。教授は昨夜二〇時頃研究室で自分のデスクに向き合い、仕事をしていたのを研究室の室員に目撃されていた。それは日常茶飯事の風景であり、その研究員も特に気に留める事無く帰宅したという。そして今朝方、その研究員が出所すると自身のデスクで突っ伏して教授が死んでいるのを発見した。研究室自体は機密性が高く、LINKAEDでの生体認証を介しないと解錠出来ないシステムになっている。ただ、その研究室に所属する者ならば容易に入室できる状況である。
「こんなの犯行時刻の入室記録や治安カメラの録画を調べれば、一発で解決じゃないですか。どこが面倒なヤマなんですか?」
全員が資料を読み込む中、新野が気怠そうに伊豆へ意見する。すると、伊豆は新たに資料を各自に配信する。
「その資料を読んでくれ。まだしっかりとした検死は行っていないが、現場から上がってきた情報によると桜木教授には特に目立った外傷はなく、遺体自体にも死に繋がりそうな要因は無かったそうだ。」
伊豆がそう言うと再び各員が資料に目を落とす。確かにそこには発見時の遺体の様子が
記録されているが、そこには「死因・不明」とある。
「今、所轄が現場で調べているが、ここに合流して捜査を進めて欲しい。」
伊豆は自分の座席へと戻り、着席すると、
「という事で、まず現場に向かう担当者を決めたいと思うが…」
部屋全体を見渡す伊豆はその中で一人ひとりの顔を確認する様に目を見やる。しっかりと伊豆を見返す者、あからさまに目を逸らす者、我関せずを貫く者、更に資料を読み込む者、と各々が反応を示す中で責任者である伊豆が選任する。
「それではウチからは加島と佐々、お前達二人で行け。」
ミナトは資料に通していた目を伊豆へと視線を移し、更に下座に掛ける小柄な影へと向ける。そこに座っているのはつい最近この部署へと配属されたばかりの佐々ナナセ巡査。落ち着いたトーンで伊豆の声に応返するミナトに対し、佐々は虚を突かれた様子で自身が指名された事を理解するのに多少時間を要したらしく、やや間を置いた後、「ハ、ハイ!」と、着席した姿勢のまま、背筋を正す。この課に来て、碌に捜査の現場に出た事の無い佐々にとっては初めて与えられた大きな役割となる。傍目から見ても浮足立ったその様子は伊豆が思っていた以上に部下にとって、今回の抜擢は大きなプレッシャーとなった様だ。一方、ミナトの方はというと一応の返答はあったものの、その後は再び自身の目の前のみの世界へ戻ってしまう。彼が見ているのが果たして自分達と歩む先が同じなのか、伊豆にはミナトのその横顔からは図り知ることは出来なかった。
「二人はこの後すぐに担当所轄に向かってくれ。向こうには俺の方から連絡しておこう。」
佐々にも聞こえる様に見遣るとやはり、不安でいっぱいの瞳が返ってくる。そしてもう一度、ミナトの方を再度見ると相変わらず何を見ているのか掴めない瞳。
「他の者は常態の勤務に入ってくれ。ああ、それと、加島。現場をあまり引っ掻き回し過ぎるなよ。毎回お前さんの尻拭いをしている身にもなれよ。」
そんな伊豆の話を聞いているのか、いないのか、ミナトは見ていたARディスプレイを閉じて、席を立つと瞬く間に部屋を出る。それを追う様に佐々も急いで席を立つと、ミナトの背中を追い、扉をくぐる。若手二人が居なくなった四課の面々は既にそれぞれが自分の仕事と向き合い始めている。伊豆は頭を軽く抱えると一瞬本気で転属を考えてしまう自分に嫌気が差してしまった。
§
いくつもの小さな影が陽の落ちかける前の午後の町並を走り抜けていく。技術の進歩目覚ましい中にあっても首都郊外の風景やそこを走り回る子供達の姿は十年以上の周期を以ても意外と大きく変化している様には見られない。但し、走る子供達の頸部には人体のソレとは異なる活動器官が付いている。
既に彼らは誕生時より当たり前の様にソレを身に着けており、彼らの親世代とのその感覚を異とする。
はしゃぎながら走っていく集団からやや距離を置き、独り歩いて付いて来る姿がある。特に浮いている訳ではないが、何故か集団に紛れる事も無い。その目は前方を行く学友達の姿を捉えてはいるが、何を考えているかは全く読めない。すると彼の後方から新たに一つの影が近付いて来る。
「ミナト、どうしたんだい。随分とつまらなそうにしている様だね。」
独り歩く男子児童の横に彼よりやや小柄な男の子が並ぶ。
その歩幅が同調して歩く二つの人影が一つに重なる。
「別になんでもない。お前こそどうした。いつもなら図書館で’お勉強’の時間だろ。」
小柄な人影はその手に持っていた本を持ち上げて、友人に掲げて見せる。
「今時紙の書籍かよ。というか、まだおいてあるんだな、そういうの。」
LINKAEDが普及した現在、本や雑誌を読むのに手に取って購入する事はなくなり、デバイスを経由して書籍アーカイブから電子書籍を購入するのが主になっている。そんな環境の中で紙の書籍を持つその子は時代の中で相当の異端である。そもそも、彼がその本を何処から持ってきたのかは謎であるが。
「いいかい、ミナト。媒体そのものに然したる意味は無いんだよ。大事なのは中身が何であるか、それだけだよ。まあ、ちなみに紙の書籍は僕の嗜好だけど。」
彼は微笑むと少し歩速を早め、僅かに前を歩く様に進む。後を行く男子児童は先を行く友人の楽しそうな背を見ながら自分も少し微笑みを携えつつ、帰路に就いた。
§
署に備え付けてある覆面パトカーに乗り込むと佐々は車のナビゲーション現場となった大学の住所を告げる。すると車内に「承知しました。移動を開始します、」と、無機質な声が響く。警察組織内においては旧型であるものの一般的には未だに高い性能を持つ自動運転システムを搭載するパトカーを現在の四課では使用されている。
よって、車内においては目的地までどちらも運転に気を取られる事なく、通常であれば情報共有や事前打ち合わせ、他愛ない雑談などが取り交わされている空間であるハズであるが。佐々は左隣に座る先輩の顔をチラリと覗き込み。その顔は佐々とは真逆にある窓の外を見ており、その表情を確認することは出来ない。
車内に気まずい雰囲気の流れる中で、
「でも、死因不明ってなんか怖いですよね。
今の世の中って現場で直ぐ死因が分かって、そのまま解決する事なんて普通なのに。それが全く何も分からないなんて。加島さん、どう思いますか?」
佐々の問いにミナトは彼女の方を見向く事もせず、窓の外の流れる景色を見続ける。少し肩を落としながら前を向き直った佐々の耳に無機質とも感じられるミナトの声が届く。
「実際見てみないと分からんが、死因が分からない、という事は外傷を含めて現状では何も見つける事が出来ていない、だけだ。」
一瞬空耳かと思った佐々であったが、顔は外を向いたまま話すミナトを佐々は少しだけ伺う様に顔を向ける。それっきり再び黙り込んでしまったミナトを佐々は不思議な気持ちで見つめていた。
一時間もしない内に目的地である帝都工業技術大学へと到着する。二人は車を降りると現場となった研究室へ向かう。目の前にAR表示で研究室までの道順がマップで表示される。迷う事なく研究室に辿り着いた二人は設えられたバリケードの間を抜けて室内へと入る。室内からは既に遺体は回収されており、室内は無人であった。人と言えば数人の制服警官が部屋の前で警備と後処理として残っているだけであった。
「失礼します。東京職庁第四刑事課の加島です。捜査応援で臨場しました。」
胸ポケットから身分証を提示しながら名乗るミナトの後ろに付いて来た佐々もミナトに合わせる様に急いで自身の身分証を掲げる。
「同じく四課の佐々です。」
二人の挨拶を受けた警官たちがミナトの目の前に集まり返礼する。
「お疲れ様です。ご足労いただきましてありがとうございます。」
並ぶ面々の中では一番年長であろう警官がミナトに応じる。
「しかしながら、足を運んで下さったところ申し訳ありませんが、現場検証も一通り済んでしまいまして、ここには何も残っていない状況です。」
彼が言う様に室内からは被害者である桜木教授の遺体や研究設備などが一切持ち出されており、殺風景な空間が広がっている。すると、二人の元に伊豆から連絡が入る。
『‘伽藍’から桜木教授の検死結果が送られてきた今から転送する。確認してくれ。』
その後直ぐに伊豆から検死結果が届く。ミナトと佐々がそのファイルを開くと目の前の警官達が戸惑う様子が目の端に映る。ミナトは彼らを各自の持ち場に戻る様に促す。二人は部屋の中へと進み、機材が置いてあったであろうデスクに座る様に寄り掛かる。その状態のまま目の前にARの表示を展開する。送られてきた検死書に記載されていた内容は次の通りだった。
・死に至るようなものは元より遺体に外傷は一切見受けられない。
・体内にも目立った損傷や病原は無く、健康体そのものの状態であった。
つまり、総じては全く死に繋がるような要因はなく、その有体は正に「眠ったまま死んだ」様であった、という事だった。
検死書に一通り目を通し終わったミナトが展開していたAR表示を仕舞うと現実世界へと目を戻す。そのまま入って来た時と同じ場所で、これまた入って来た時と同じような格好で立ったまま、ミナトと同じ様に検死書を確認している佐々が目に映る。ミナトに比べると読み取りが遅い佐々はまだ資料を読み続けている。その相棒を横目にしつつ、ミナトはしばし自考へと入る。
‘この国を代表する電子工学の第一人者の死。その死はあまりにも不可解な事ばかりだ。誰も出入りしていなかった現場。死の要因の無い遺体。そして何故かこの件を解析不十分として。自分達四課へと事件を丸投げする様な支持をしたAⅠ・伽藍。’
考え込むミナトは自身に近づいて来る影に気付くのが一瞬遅れた。自身の方に触れた手を思わず掴み取り、強く捻ろうとする。
「痛い!痛いですよ、加島さん。」
ミナトが見るとそこに居たのはやっと検死書を読み終わり、目の前で物思いに耽っている様に見えた先輩に声をかけた佐々の姿であった。咄嗟に握っていた佐々の手首を離すと寄り掛かっていた机と佐々からやや距離を取る。
「悪い、つい反射的に…。」
少し戸惑いがちに答えるミナトに佐々は違和感を覚え、思わずその表情を見ようとしています。車中と同じように佐々から顔を逸らすミナトだったが、その表情を佐々はしっかりと見て取った。その一瞬見て取った表情は彼女がこれまでのミナトに見た事の無い程怖しい顔が張り付いている様に見えた。佐々がたじろいでいると、ミナトがコチラに向き直る。そこにはいつも彼女が見ているミナトの無機質な表情が張り付いていた。
「加島さん、大丈夫ですか?今凄い顔していましたよ…。まるで人でも殺しそうな…。」
その言葉を遮る様に棒立ちになる佐々の隣をミナトは黙って通り抜ける。すれ違いざまに佐々の肩に手をかけ、
「佐々、取り敢えずここで見られるものは無さそうだ。ひとまず所轄に設けてある本部の方に顔を出してみよう。」
肩に乗せていた右手を離すと部屋の出口へ向かって歩き始めた。視覚から消えたミナトを追い、佐々も出口へと向かう。その背中は完全にいつもと同じ雰囲気へと戻っており、
「待ってください、加島さん。」
駆け足でその背中を追う佐々は先程一瞬見せたミナトの見せた違和感の事をなんとなく忘れて、急いた気のまま、ミナトと共に大学を後にした。
§
ミナトと佐々が管轄である警察署へと入る。以前はどこの署の前にも居た警防の職員も現在では完全な防犯・監視システムが各所に設けられており、捜査員を含め、実働人数の大幅な減少へと直結している。二人が認証を行って辿り着いた先には
‘大学教授変死事件’
と今時珍しく、紙の「戒名」が掲げられている。ミナトが少し嫌な予感を抱えて扉を開けると室内は会議室程の広さしかなく、在中しているのもたった二人だけであった。気怠げに備え付けのテーブルに座って資料をまとめていたまだ若手と言える30代頃の男性が此方を向く。
「失礼します。本庁四課の加島です。伽藍のシステム判断により、今回の事件の応援で来ました。」
現場に足を運んだ際と同様、扉の所に立って敬礼しながら中の二人に声をかける。佐々も続けて敬礼すると若手の男性刑事は部屋の反対側でARディスプレイを操作している老年の男性に目配せをする。扉を開けてから初めてミナトと佐々の方を見た老年の男性は若い刑事の方をチラリと見る。見られた若手刑事は扉の付近に立っている二人から見えるかどうかの角度で思わず苦い顔になってしまう。本人は見えていないと思った様で当たり障りのない事務的な笑顔を向けて、
「お疲れ様です。捜査本部の熊谷です。そこに居るのは飯館。宜しくお願いします。」
恭しく敬礼を行うもののどこか機械的に感じたミナトは目の動きだけで室内を見渡す。
資料はほとんどがデータ化され、捜査員各員のアクセス領域へ公開されており、絶えずアオップデートもされている。そのため室内には紙媒体は少なく、無造作に置かれているのは現場の研修室から搬出された物品の数々である。そんな雑然とした部屋を見た佐々は素直に、
「他の捜査員の方々はどちらにいらっしゃるんですか?それに此処にあるのって証拠物件ですよね。それがこんな所に無造作に…。」
そこまで言うと、ここまで沈黙を貫いていた飯館という老刑事が初めて口を開いた。
「残念ながらここの面子は我々二人を合わせても六人だけだ。まあ、今アンタ等を加えて八人になったが…。」
そう言うと飯館は目の前の椅子に腰かけると今や主流となった電子タバコを銜え、一息つくと、ほんの僅かな時間、互いを牽制する様な時間が経過する。飯館がタバコをふかした回数が二ケタを超えた辺りでミナトが口火を切る。
「我々も含めて八人、と言いましたが、ここの責任者は誰が?」
ひとまず現状をより把握する為に最も情報を有していそうな人物を割り出そうとする。ミナトは優先的に今回の件につき、より詳細な情報の収集を行うことにした。心なしか不安そうに立て寄っていた佐々もミナトの意図を察したのか、部屋中を泳がせていた視線を飯館へと向けなおす。二人の視線を気にもかけず、変わらずに一服を続ける。僅かに噴出される薄い煙は二人の元には届かないが。ただ、その煙が相応に不愉快である事はその位置からでも想像に難くない。
「捜査責任者はウチの課長である藤峰だが…。コッチには顔を出さずに2、3通メールを寄越しただけだ。しかもその内容ときたら、早期に事件を収束させろ、の一点張りだ。ともかくこの件は間もなく’穏便’に解決されるんだろうよ。俺たちはただの残務処理だ。」
いつの間にか火の消えた電子タバコを少し見やると、付属のケースへと仕舞い、また口を噤んで作業に戻ってしまう。黙っていた他の三人はそれぞれに飯館のその言葉を掬うと、熊谷も彼に合わせて同じ様にまるで作業に没頭しているかの様に机へと向き直る。再びの沈黙に佐々は隣に居るミナトへと指示を仰ごうとする。ミナトは更に部屋へと踏み込むと無造作に投げ出されている遺留品のPCに手を触れる。
「ひとつ聞きたい事がある。現場と教授の遺体から回収したPCとLINKAEDからは何か手掛かりになりそうなものは出たのか?」
二人の方に目を向ける事無くPCを見つめるミナトに飯館は渋々答える。
「後でアーカイブにはあげるんだがなぁ。まあ、いい。PCの中には小難しい論文やらなんやらが入っていたが、特に今回の件に関して取り立てて手掛かりになりそうなものは何もなかった。それからLINKAEDの方にも書きかけの論文や資料なんかが入っていたな。PCと同じ内容のものだったから、同期でもしていたんだろうよ。後は特に変わったソフトなんかも入ってなかったな。ああ、そういえばどっちも電源が切られていた状態だったな。」
それまで黙って話を聞いていたミナトはPCに触れていた手を離すと、立ち上がり部屋の出口へと向かう。今回も棒立ちになって佇んでいた佐々であったが、無言で部屋を立ち去ろうとするミナトの背に声をかける。
「待って下さい。か、加島さん。まだほかの遺留品もあるじゃないですか。調べなくていいんですか。」
佐々の叫びに足を止める事無く「失礼しました。」と背を向けたまま退室する。ミナトを立ち尽くしたまま、見送る佐々がそのまま室内へ目線を移す。飯館はこちらに目もくれず、手の甲をコチラヘ向けそのまま振る。追い払う様なその動きを見て佐々は小さく会釈をして部屋を出る。足早に署内をミナトに佐々が追い付く頃には目線に署の玄関が見え始めていた。ミナトは黙ったまま来た時と同じ様に誰も居ない玄関をくぐり抜け、そのまま乗って来た車へと乗り込む。佐々も助手席へと滑り込むと既にミナトは車のナビゲーションAIへ次の目的地を告げていた。佐々が横からその行き先を確認する。車が次の目的地として走り出していた先は、つい数時間前に出発してきた東京職庁であった。
「えっ、これって。加島さん、もう本庁へ戻るんですか?まだほかにも言っておいた方が良い場所があるんじゃないんですか。ご遺族の処とか。」
食い下がる様にミナトへと問いかけを続ける佐々を相変わらず無表情で受け止める。祖も無表情はしばしの間、また窓の外の流れる風景を眺めると再び前方へと視線を移し、扉の窓枠に肘をかけ、その掌に寄り掛かる様に顔を預けると僅かな時間、瞼を閉じたかと思うと徐に口を開く。
「佐々、報告書を作る時、『何処』で『どうやって』作る?」
思いがけない質問に一瞬面食らった佐々だが、直ぐにはその意図を理解出来ないままに答える。
「報告書、ですか。当然課室に戻って、自分のデスクでポリキュットのテンプレートから作りますよ。あっ、でも私正直アレ書くの苦手で。」
ポリキュットとは現在の警察組織内のネットワーク上で様々な資料などの情報を処理・閲覧を行う為の警察官専用のアプリケーションである。また、ポリキュット自体が伽藍と連動しており、その伽藍を中心に行われる全国の警察組織内の情報共有のネットワークへのアクセス窓口ともなっている。
「ああ、普通はそうだ。そしてポリキュットで作成された書類はアプリの所有者同氏のやり取りやネットワークの共有により他者へ公開される。」
赤信号で停車すると目の前の横断歩道を2組の母子の他、数人の会社員やショップ店員らしき人々が忙しなく通り過ぎて行く。気付けば時間的には一般にもう昼食をとり始めている様な時間となっていた。LINKAEDの普及により2010年代後半から推進されてきたキャッシュレス化も一定の浸透率を超えた。とは言え、未だに物理的に現金を持ち合わせる人も少なくない。そういった人々なのだろう、先程の人の流れの中でも手元に財布を持っている人も見受けられた。信号が青に変わり、車が再び運行を始める、走行の音がほとんど響かない車内でミナトが続ける。
「この時使用されるネット回線は勿論組織内や署内の専用回線だ。」
佐々はミナトの話を黙って聞き続ける。流れる風景はずっと無機質なものに感じられる。
「じゃあ、佐々。どうしてそんな仕組みが採られていると思う?」
ミナトが乗車してから初めて佐々の方を見た。その瞳は外を流れる景色を見る時と同じ様な影を落している。その目に押される様に佐々がたじろぐ。
「えっ、それは…。ええと、情報の共有が迅速に行われる為に、とか?」
佐々が恐る恐る答える。答えた佐々を見たミナトはフッ、と口を緩めるが、佐々にはそれを見拾う余裕はない。
「もう少し考えてみろ。いいか、ウチで使われているネットワークは外部から独立している回線だ。根本的にこの回線に接続されている間は一般の公共回線からは強制的にアクセスが遮断される。更に言うとこのネットワーク上で作成されたデータも内部ネットワークから持ち出す事も出来ないし、外部から閲覧する事も出来ない。」
「・・・・」
「これは警察内の多様な情報を完全に隔離し、保護し、’伽藍’により管理する為のシステムだ。」
ミナトは一息つくといつの間にか購入したのか、ペットボトルのコーヒーを取り出し、口をつける。そんな横顔を見つめて、息を呑む様に目線を外す。
「ウチのシステムについては良く分かりました。でも、それが今回の件と何が関係あるんですか?」
佐々が少し考え込む様な仕草を見せると、
「いいか、そういったオフラインの内部ネットワークってのは我々警察組織以外でも様々な処で採用されているシステムだ。」
「特に機密性の高い職業においてはほぼ間違いなく利用されているものだからな。勿論各分野の研究の第一線に於いても言える事だ。」
そこまで言うとミナトは佐々にその先の言葉を期待する。佐々は少しの間を開けて、
「つまりはあの大学にもそういったオフラインのネットワークが存在する、という事ですか。」
丁度車が目的地に到着する。車はそのまま職員専用の駐車場に決められたルートで向かう。低速で構内を進む車内でミナトは続ける。
「正確には大学自体はオンラインの環境だが、一部の研究棟では今言った内部ネットワークを使用している様だ。そして、桜木教授の研究室も多聞に漏れず、このシステムが適用されていた様だ。」
車が振り当てられたエリアへと駐車する。静かに車が停車すると、ミナトは車のエンジンを落とし降車する。それに続く様に佐々も助手席から降りると、
「待って下さい、加島さん。いつの間にそんな事を調べていたんですか?」
慌てて自身を追う佐々を振り返る事もなく。
「注意散漫だぞ。お前、あの大学で何を見ていた。」
えっ、と瞬間呆ける佐々にミナトが続ける。
「構内のあちらこちらにパブリックネットワーク中継点が設置されていた。まあ、それも流石に一般のそれよりワンランク上のセキュリティで守られているんだろうよ。」
「しかし、現場となった研究室のあるエリアにはそういったアクセスポイントが存在しなかった。にも関わらず桜木教授は国内でも最先鋭の研究者だった。そんな先生が何のシステムも使用せず、研究を進めているとは思えない。」
「つまり、あの施設内では特別に機密性の高いネットワークが使用されている。彼らはその環境下で研究を行っていた。」
二人は既に庁内へと入り、職場へと戻ろうとしていた。ところがミナトは上階にある自分達の課室には向かわず、3階の廊下を歩き始めていた。戸惑う佐々をよそにスタスタと前を行くミナト。追っていく佐々がそれに気が付いたのは過ぎ行く視界のスミに「この先食堂」の文字が見えた。
「加島さん、この先って。」
と小声でミナトへ呼びかけると、少しだけ佐々の方を見遣り、
「腹が減っては何とやら、だ。丁度波が終わる時間の様だ。」
ミナトの言う通り、二人の向かう先からは多くの人がコチラヘと向かって歩いて来る。その多くは未だ完全に機械仕掛け(オートマッティク)に移行しきれていないこの組織で働く事務方の職員であろう。一方で情報処理の加速化や収束化によって旧時代的な捜査方法がめっきりと減った刑事達の姿も見受けられる。逆流しながら食堂へと入ると昼食のピークが過ぎ、少し多めの空席が目立つ。中に入るとAR画面に新たなアイコンが出現する。そのアイコンを仮想デスクトップで操作すると、そのままバーチャルな食券が購入できる様になっている。
「何食べる。」
こちらを振り返ったミナトに思わず佐々も挙動不審になってしまい、
「えっ、えっと。かつ丼で。」
開いたままであったメニュー表から目についた商品を思わず口にする。少し驚いた様に目を見開くと、少し噴き出す様な笑いを浮かべミナトは自分のデスクトップを操作すると、
「たまには奢ってやる。黙って食え。」
そそくさと窓際の席へと足を運ぶと、4人掛けのテーブルに腰掛ける。佐々もそれに倣い、ミナトの斜め向かいの席へ座る。
しばらく経つとプレートを2つ乗せた配膳用のドローンが二人の座るテーブルへと近づき、その脇で停止すると持っていたプレートを両方ともミナトの方へと置く。ミナトは自身が頼んだ定食のプレートを手元へと持ち寄せると静かに食事をとりはじめた。佐々は置きっぱなしになっているかつ丼のプレートを引き寄せると、一息つき向こう側で黙々と食事をするミナトへと
「加島さん、さっきの事なんですけど。」
箸に手を伸ばす事なく、声をかけた佐々であったがそんな佐々を無視する様に食事を続ける。目線は目の前の膳へ向いたまま、
「いいから、黙って食べろ。」
そう一言言い放つ。既に自分の食事を随分と進めているミナトを見た佐々は渋々自分のかつ丼へと手を付ける。閑散とした食堂で黙々と食事と続ける二人の真横を先程の給仕ドローンに似た清掃ドローンが通り過ぎる。佐々は今まで食べた中でも一番マズイかつ丼を食べた気がした。
§
一通り食事を終えるとそのまま再びミナトに付いて行く佐々がチラリとテーブルを見返すと、既に先程の給仕ドローンが食べ終えた食器を片付け始めている。そんな光景を後ろ目に随分と先へと進んでしまったミナトの背を追う。階段を上がるミナトに追い着き、横に並び歩き始める。静かに付いて来る佐々に軽くため息をつく様に少し肩を下すとミナトがようやく口を開く。
「あれだけ閉鎖的な環境で研究していた桜木教授のLINKAED内に論文が残っていたのは明らかに不自然だ。アレじゃあ折角のセキュリティが無駄になる。それにLINKAEDもPCも電源が落ちていた。」
階段を昇りきり、課室へ向かうミナトを佐々が呼ぶ。
「PCもLINKAEDもタイマーか何かで自動的にオフになったんじゃないですか?」
確かにPCには元々一定時間操作しないと自動的に画面がブラックアウトしたり、電源が切れたりする設定が可能である。またLINKAEDも稼働源であるソーラーバッテリーの消耗や所有者の設定により、一定条件下で電源がオフになる事がある。勿論通常であれと体内を流れる微弱な電気信号を糧としたLINKAEDは容易には電源は落ちない。しかし、その可能性が全くゼロ、という訳ではない。実際過去にそういった事が原因で起こった事件がない事も無い。佐々もそういった事例に遭遇した事は無いが、知識として有してはいる。他の捜査員も佐々と同様かそれ以上の経験則を有している故にミナトの様な疑問を先入観から抱かなかったのであろう。なので未だにミナトの疑心を理解できていない佐々にミナトは、
「確かに教授が寝落ちしてたり、休憩したりしてオートオフが起動した可能性もある。だが、論文は書きかけで同期していた。もし教授がLINKAEDを利用して論文を書いていたとしてもわざわざ同期させてからそんな事をするか?」
二人は間もなく課室のそばまで来る。
「更に教授は机に突っ伏した状態だった。単に休憩を取るなら寝づらい姿勢より楽な姿勢を選ぶのが普通じゃないか。」
相変わらずピンと来ていない佐々に続けて、
「あの部屋には応接兼用のソファーも配置してあった。それこそ大人一人横になっても支障の無いほどの大きさのある、な。しかもクッション付きと来た。隅の方にタオルケットもあったからあそこに寝泊まりする事もよくあったんだろう。どちらにしろPC・LINKAEDが落ちるには状況があまりにも不自然過ぎる。」
いつの間にか二人は課室の目の前で話し込んでいる。課室は廊下の一番奥手にあるので、彼ら以外にそこを通る者が居ない為か彼の邪魔になる者は居ない。
「なんでそんなに電源が落ちている事に拘るんですか?もしかしたら亡くなった後とかにそうなったのかもしれませんよ。」
何故かムキになってしまった佐々は自身が刑事として何か手にしている気持ちになっていたのかもしれない。しかし、ミナトはそんな佐々に冷たく言い放つ。
「死亡後に電源が落ちた、か…。」
そこでミナトは閉ざされていた課室の扉を開く。
「装着者が死んでいるのに、か?」
ミナトの背中が室内へと静かに消えていく。廊下に残された佐々は自身の間違いにようやく気付いた。LINKAEDは元々個人がコミュニティや社会とネットワークを構築するためのウェアブルデバイスであると共に個人を管理する為のモニターとしての機能も有している。そしてその後者の機能として装着車の生命活動に異常が発生した場合、緊急措置として登録された連絡先や近隣の救急・医療系の施設への連絡を行うものがある。これにより特に単身者の非常事態や過疎エリアでの緊急事態へソーシャルカメラの外であっても速やかな対応が可能となる。結果として装着者にとってLINKAEDは便利で有用なデバイスであると共に自身の生命を守る最後の命綱、なのである。
であるのならば、今回の事件は一貫してLINKAEDがその機能を喪失している状態となっている。そしてミナトにとってそれがどうしようもなく自身の中で飲み下せないものとなっている。部屋の自身の席に戻ったミナトは部屋にゆっくりと入って来る佐々へ一瞥をやると再び正面を向き作業に入る。一方でミナトからの視線に気付かずに考え事をしながら課室の自分の関へと座る。そんな二人を静かに見つめている伊豆は声をかける事なく目線を手元にやる。他の在室している課員も二人を特に気にやる事も無く、各々自身の仕事を続ける。その間も佐々はアーカイブから参照した事件の調書を読み返しながら先程ミナトから聞いた話を頭の中で反芻する。その姿を再びミナトの瞳は無機質なそれではなく、何故か心配の色を帯びている様に伊豆には見えた。
§
三木ヒデアキは朝から気分がすこぶる良かった。また一人、この国を、我々人類を滅ぼさんとしている悪賊がこの世から消えた。こうやって少しずつではあるが、世界は彼の望むべき世界へと変化していくのだと自身で信じていた。しかし、そんな彼の爽快な気分を妨げる不快な電子音が室内に響く。公的な場や人前ではやむを得ずに着けてはいるが、自身の首に無機質なあの感覚がある事が三木にとってはこの上なく嫌悪感を抱く要因となってしまう。そんな思いを感じながら自身のLINKAEDを身に着ける。目の間に現れたAR上に着信のアイコンが表示されている。そこに表示されている名前を見ると三木の期限が和らぐ。相手が発信を切ってしまう前に三木は‘通話’を押す。AR上で選択されたアイコンは赤く点灯すると、
「すいません、お休み中でしたか。」
静かで落ち着いた言葉が三木へ尋ねる。
「いや、少し興奮してあまり眠れていないよ。まあ、特別眠気が強い、という訳でもないのだがね。」
三木は寝室から居間へと出るとそのまま隣接するキッチンへと足を伸ばす。冷蔵庫から冷えた水を取り出すとコップへ注ぎ、一気に飲み干すと再び水を注ぎ居間へ向かう。
「そうですか。それは良かったです。アナタに何かあったら、我々も困りますから。」
見えない男からの心配の声に社交辞令だと理解している三木だが、何故かこの男からの言葉は心地が良い。
「フン、君達、か。そんなに私の存在が必要なのかな。」
分かり切ったおべんちゃらに三木は試しに皮肉で返してみる。
「必要、というよりは不可欠、と言った方が正しいかもしれませんね。アナタはこの国の為に必要な方ですから。」
三木の返しに詰まる事も無く変わらぬ抑揚で答える男にむしろ三木の方が言葉に詰まる。顔の見えないこの男はいつもそうだった。三木がどんな言葉を投げかけようとも決して揺らぐ事無く、彼の心に心地良い言葉を投げ返してくる今までも様々な人物に会ってきた上、その多くが現代社会では「逆刻」と言われる異端者たちである故に人並み以上には多様な人種を知っているつもりの三木でも、この男の様な人物には会った事ない。
「なので安心して下さい。今回もアナタの痕跡は完全に消しておきました。犬共はアナタの存在に気付く事も無いでしょう。」
何でもない様に事を報告する男に三木は「そうか」と呟くと改めて感嘆する。ソーシャルカメラによる監視がなされている現代社会では一部の「過疎区」を除き、人ひとりの行動の痕跡を完全に消し去るのは至難の業だ。
男の言葉でなければ三木も信ずる事も無いだろう。しかし実際に通話の向こうの男はその至難を為している事を三木自身その身で重ねて経験している。
「警察の方も調査している様ですが、特段変わった事がない限り、今まで通り’事故’として処理される事でしょう。」
まるで既に決定事項であるかの様に語る男に三木は以前より感じていた薄ら寒さが強まるのを感じる。
「それで次の’事故’ですが…。」
話を続ける男に三木が言葉を遮る。
「ちょっと待ってくれ。昨日の今日で次の話か?流石にそんな立て続けでは怪しまれるだろう。もう少し時間を置くべきではないかね。」
極力自身の感情を悟らせない様に努めて落ち着いた声で忠言する。一瞬何かを考える様子を見せた男だったが、数秒と置かず声が返ってくる。
「ご心配はごもっともです。しかしながらご安心下さい。この程度の変化では誰も気付きはしません。それに誰かが気付いたとしても我々にまで捜査の手が及ぶ事はありません。」
ハッキリと断言する男に三木は疑問を感じ、
「随分と自信満々な事だな。何か対策でもあるのかな。」
男に対し、多少の皮肉を再び込めて尋ねる。すると男は「フッ」と初めて感情が見えたかと思うと、
「そこはコチラの秘密事項、という事で御容赦いただければと。」
そう言う男の声色は既にいつもの平坦なものに戻っており、三木の意義を一切拒む。
「その上で手を引かれる様でしたら、我々の協力関係もここまで、という事になりますね。」
‘なっ?’
唐突に入れ替わった追及に三木がたじろぐ。
‘ここまで来て急に蚊帳の外にするだと?
巫山戯るな。俺がここまで…’
忸怩たる思いで言葉を聞いた様子を男に気取られる訳にはいかないと、感情を堪えて声に余裕をもって返す。
「随分な言い草だな。これは私の計画だ。君達の一存で如何こうしてもらいたくはないな。」
出来る限りの虚勢をどう感じ取ったのか、男はしばらく沈黙した後に再び相好を崩したかの様な気配がすると、
「試す様な真似をして申し訳ありませんでした。やはりアナタに力を貸して間違いはありませんでした。引き続きこの計画の遂行を宜しくお願いします。我々も最大限ご協力致します。」
そう言うと男からの通話が切れる。三木は一息つくつもりで手元の水を飲もうとグラスを傾ける。しかし、口をつけたグラスの水は既に空になっており、三木の喉を潤す事は無い。腰を起こそうとするが、再び台所まで水を注ぎに行く気力がどうにも起きず、結局暫くの間その場に座ったまま、無意識にカーテンを開いて見えていた窓の向こうを見る。刷りガラスで明確に外景が見える事は無いが、差し込んでくる日差しはしっかりと部屋を照らし出す。
「俺が世界を正すんだ。その為に…。」
誰とはなしに呟く。そろそろ出掛ける準備をしなければ間に合わなくなってしまう。折角軽やかな気持ちで一日を過ごせると思ったのに、と随分と重くなった身体をゆっくりと持ち上げる。再び渇きを思い出した三木はひとまず台所に向かった。
§
桜木教授の事件が発生してから二日経った。その後、大きな展開も見せないままに飯館の言っていた通りに事件は事故として終息へと向かっていた。そんな中、ミナトと佐々はその後、特に捜査本部の方に顔を出す事もせず、旧時代的な紙の資料も見受けられる様な一室でひたすら黙々と過去の事件の調書を洗い出していた。
あの日事件現場から帰って来てから昼食後に今回の事件について報告書もかねてまとめていた佐々にそれまでずっと自身の席で何か調べ物をしていたミナトが突如立ち上がり、近付くと佐々の背後を通り過ぎながら、
「佐々、ちょっと来い。」
それだけ言い、部屋から出て行く。驚いた佐々は伺う様に伊豆の方を見るとこちらを見た伊豆は顎でクイッと扉の方を指すとそのまま自分の仕事に戻ってしまう。課内の他の先輩を見ても佐々を見ている者は居らず、作業していた画面を保存し、恐る恐るミナトの後を追う。廊下に出ると既にミナトは少し先を歩き進んでいる。少し行くと立ち止まったミナトに佐々が追い付く。
「加島さん、桜木教授の事件についてですが…。」
佐々はミナトが口を開く前に自ら本題を振込む。
「加島さんの言う通り桜木教授が単に事故死や病気でないとしたら、この事件は第三者による‘殺人’になりますよね。」
「不可能犯罪、か。」
「…不可能犯罪…」
遺体には危害を加えられた形跡もなく、犯行現場となった研究室も最先端セキュリティが施されており、事実上の密室。その上頼みの綱のLINKAEDも機能していない、となると正に『詰み』である。
「一昔前の推理小説みたいですね」
佐々が呟くと佐々の方を見ながら、
「推理小説か。実際にそうであれば俺達にとっては随分と楽なんだが。」
ミナトは背中を壁に預けながら話を続ける。
「推理小説なら最低限の証拠なり何なりがあるけど。今回の事ではそうはいかないからな。」
実際現状アーカイブ上に挙がってきている情報は特に目立った情報がない。
「根本的に今回の現場には何もない。綺麗過ぎるんだよ。全くと言っていい程事件性が無い。だからこそ引っかかるんだ。」
下げていた目線をスウッと佐々の方に向けるミナト。その視線は車内で話していた際と同じ。
「更に言うと被害者があの桜木教授だ。彼の専門は電子工学の中でもLINKAEDにも応用されている対人体電子技術の第一人者だ。そんな人が何もない状態で殺されている、っていうのが正直不可解だ。」
「そう、ですか。」
ミナトの言う通り桜木教授ほどの人物がLINKAEDの機能を充足して使えない筈がない。
「とにかくこれが第三者の手で行われている可能性があるのは間違いないだろう。」
現場の状況から何者かが教授を殺害したのは否めない。しかし同時に誰も彼を殺せない、という事も事実として存在している。
「でも、だったら一体何がどうなって、こんな事件が…。」
佐々自身答えが出せず、ずっとミナトへ問いたかった事である。
「それはまだ分からない。分からないが、やれる事はある。」
壁に預けていた背中を離し、また廊下を歩き始める。
「ひとまず落ち着いて調べ物が出来る処へ行くぞ。」
佐々は急な事で一体何を調べるのかを尋ねる。
「この事件が一件で済むハズがない。この先同じ様な事件が起こる可能性もあるが…。」
ミナトの視線は下を向き、何かを探る。
「それ以上に過去に同じ様な事件が起こっていないとも限らないだろう。」
「どういう事ですか?」
「いいか。さっきも言った通りこの事件は綺麗過ぎるんだ。それ故に何も疑う事が無い。だが、だからこそおかしいんだ。普段現場からあらゆる痕跡を遍く拾い上げて、更にその情報を統計的に取捨選択し、必要なものを的確に掲示する。それを為しているのが’伽藍’であり、そうあってこその‘伽藍’なんだ。それが全くと言っていい程機能していないなんて本来あり得ない。しかしその『あり得ない』があり得てしまっているのが現状だ。なら、こうも考えられる。過去にあり得ないとされる事が実はあり得る事になるのではないか、と。」
そこまで言うとミナトが一息つく。ここまでの話で佐々は少なからず混乱を起こしている。一方でミナトの話の大仰さが気にもなってしまった。
「それで過去の事件も調べる、っていうですか。そんな突拍子もない事…。そもそも今の話も加島さんの推測ですよね。それだけでは話が飛躍し過ぎじゃないかと思います。」
どうしても納得のいかない佐々は追い立てる様にミナトに問う。
「確かにこの状況では俺の推論は与太話にしか聞えないだろう。だが俺はこの推論が今唯一真実に詰められるところだと考えている。」
そして実際はミナト自身も自分の考えがどこまで正鵠を射ているか掴めずにいる。しかし、感覚的にこの推論が全く的外れな方向を向いているとは感じていない。それが確信と共に何とも言えない気持ち悪さをも感じさせている。
ミナトの言葉に未だ納得しきれていないながらもその一端に理を感じた佐々は渋々ながら彼に付いて行く。二人はそのまま使っていない一室へと入る。
「ここならとりあえずは誰も来ないだろう。」
部屋に入ると備え付けられている椅子を持ち出し、腰を掛ける。その部屋は普段は取り調べを行う為に使っているのだが、ほとんどは容疑者に‘伽藍’によって提示された確定的証拠を確認させる為だけの部屋となっており、事実上部屋の意義は完全に形骸化している。
しかしそれでもキチンと掃除が行き届いているのだろう。部屋の中にはほとんど埃は積もっていない。ミナトが座った椅子以外に部屋の中心に容疑者と向き合う為の簡易な机と付属している椅子が2脚。扉を開けて右側には記入係が使用する机が壁に向かって設置されている。ちなみにミナトの椅子はこの机の相棒である。佐々もミナトへ背を向ける様にして目の前の椅子に座る。既にミナトは自身のLINKAEDを起動して作業に入ろうとしている。とりあえず佐々もLINKAEDを起動し、ポリキュットへとアクセスを開始する。そこではたと気付く。先程の話からひとまずアーカイブされている過去の事案を調べていく、という事は分かった。
しかし、実際調べるとなるとアーカイブされている事案は相当な件数がある。それをたった二人で調べるとなると月単位でかかるのでは、と思ってしまう。
「ところで加島さん、流石に何の手がかりも無く調べていくのはちょっと。」
たまらず佐々はミナトの方へ向き返りながら彼に尋ねる。作業に入ろうとしていたミナトが珍しく面倒臭そうに佐々の方に体を向き直し、一つ息を吸い直す。
「いいか、最初から事件性のある事案であれば少なからず誰かが気付く筈だ。だから俺達が探し出すのは何も無い、行ってみれば綺麗過ぎる事件だ。勿論それらは事故として処理されているものだがな。」
§§§
結果としてこの数日、二人は日がな一日過去の死亡事案を調べ尽くす日々を過ごしていた。加島からは「何一つ見落とすな。見落としていない、という事も見落とすなよ」と禅問答の様な注釈を受けては自然佐々の一件にかける時間はかなり多い。それでも担当区域以外も含む首都の過去5年に渡る調書も多くを調べ終え、ミナトに至っては昨夕からはとうとう範囲を広げ、関東圏の他の区域も近い順から調べ始めている有様だ。
昼食から随分経ち、佐々は心地の良い眠気に誘われ始める。コーヒーを淹れて来ようと思い席を立つ。ミナトへ一声かけ部屋を出ていこうとドアノブに手をかけて立ち止まる。
「加島さんも飲みますか?」
尋ねる佐々を振り返らずに背を向けたまま頭上で手を横に振る仕草をし、佐々の誘いを断る。何となくそんな気がしていた佐々は特に嫌な感じを受ける事も無く部屋を出る。廊下の先、ここ数日朝夕とコーヒーを淹れに行く際にしか顔を出していない課室へと入る。中に入ると他の課員は出払っており、在席しているのは課長の伊豆のみであった。佐々は室内に足を進めると、「お疲れ様です。」と一言かけると、「ああ、お疲れさん。」と伊豆が顔も上げずに返す。佐々達は取調室を追い出され、その後結局居着いたのは人気のない資料室で調べ物を続けている。ミナトは「こっちの方が都合がいい。」と言って完全に腰を落ち着けている。課室に備え付けられているコーヒーメーカーで注がれるコーヒーはそれなりに香りをたたせながらカップへと満ちていく。満たされたコーヒーに幾分かミルクを溶かし、自身の好みに合わせた味へと調える。近場の壁へと寄り掛かりながらミルクで少し冷えたコーヒーに口をつける。カップの中のカフェオレを凝視し、少し頭を空っぽにしようとする。ほんの一瞬か暫くそうして居たのか、ふっと佐々が顔を上げると目の前に伊豆が立っている。
「おう、大分お疲れの様だな。」
どうやら幾度か佐々に声をかけてくれていた様で、少し心配そうな顔をしてこちらを覗き込む。
「一日中調べ物するのもなかなかキツイものがあるだろう。アイツのワ―カーホリッククも大したもんだろう。」
佐々が作って余っていたコーヒーを自分のカップへと注ぐ。カップからはまだ湯気が昇りたつが伊豆は気にする事無くコーヒーを口に運ぶ。
「加島さんっていつもあんな感じなんですか。何て言うか、凄い集中力というか。」
佐々はここ数日傍で見ていたミナトの様子を思い出す。没頭、とまではいかないが、食事やトイレ以外の時間は終始作業をし続けている。結果として本来、1週間はかかるであろうと見込んでいた量の調書を二人掛かりとは言え、たった二日で調べ切ったのはミナトの力と言えるだろう。
「条件が絞られるとはいえ、たったの二日で5年分は荒行だな。」
伊豆が慰労も含めて佐々へと声をかける。しかし、佐々は伊豆の意図に気付かず、
「加島さん、今はもうウチの管轄の分は終わらせて、他の管轄の事件も調べ始めてますよ。」
佐々が見て来たミナトの姿はこれまで佐々自身が見てきたどんな人物とも異なり、まるでネットワークへと潜り込む様にLINKAEDを使用している。
「ミナトはウチでも特殊な経歴の持ち主だからな。」
そういうと伊豆は空になったカップに再びコーヒーを注ぎ、ついでとばかりに近くにあったパイプ椅子を引き寄せ腰を掛ける。
「特殊、ですか。」
佐々は腰かけた伊豆に尋ねる。自分が聞いていた限りでは特別聞き及んだ事は無かった筈だ。
「特殊というかな。アイツは二度家族を失っているんだ。」
そう語る伊豆の目には課内でも唯一自分自身しか知らないミナトの姿が投影されていた。
「佐々、お前さん二十年前のテロ事件知っているか。」
「テロ事件、ですか。」
佐々は自身の記憶を辿り、暗記してきた大きな事件を思い出す。
「二十年前にテロ事件なんてありましたっけ?いくつか大きな事件はありましたけど。」
自ら引き出した情報の内に該当しそうな事案は無く、表立って取り沙汰される様な事件でもない。
「やはりそうか。それじゃあ、その時期に起こった人工知能研究施設のガス爆発事故を知っているか。」
佐々が思っていたところとは全く異なる分類からの返答が戻る。
「ガス爆発事故ですか…。すみません、そこまでは記憶していませんでした。」
自身の記憶していた内容の範囲を超えた案件の登場により、自然と伊豆への質問へと変わる。
「まあ、そうだろうな。あの件は一般にもただの小さな事故として処理された、とされているからな。だが、実際のあの事故は反AI派、つまり今で言う逆刻派の人間が政府公認の人工知能開発の研究施設を爆破させたテロ事件だった。」
「でも、そんな事どこにも…。」
佐々が驚くのも無理はない。一般に伏せられる様な事案でも警察組織内では共有される事も少なくない。しかし、佐々の知る限り共有されている情報の中でそんな情報は無い。
「ああ、コレは当時事件に関わった一部の人間しか知らないことだ。俺も捜査の中心に携わっていたから知っている。そして俺たちはこのテロの犯人を捕まえる事が出来なかった。」
当時を思い出したのか、伊豆の顔が一瞬歪む。しかしながら、直ぐにまた話に戻る。
「ともかくアイツの親父さんは当時その研究施設に勤めていた科学者だった。人工知能の研究に関しては国内でも指折りの研修者だった。しかし、そのテロに巻き込まれて亡くなった。更に当日には施設職員の家族サービス企画で職員の家族も多く施設へと足を運んでいた。恐らく犯人はその人出に紛れて侵入したのだろう。とにかくその日ミナト自身も母親とまだ幼かった妹さんと一緒に親父さんの職場出会った施設へと訪れていた。」
流石に佐々もここまで話が御膳立てされれば直ぐに伊豆の話を推測する。
「それじゃあ、加島さんはそのテロ事件に…。」
伊豆の話の先を続ける様に思わず口に出してしまう佐々。
「ああ、そうだ。テロ事件に巻き込まれて親父さんを亡くし、アイツ自身も家族と一緒に巻き込まれた。そして結果としてお袋さんも同時に亡くしてしまった。妹さんと二人、お袋さんに庇われて大きな怪我もなくミナトは生き残った。だが、あのテロ自体でアイツの両親を含めて三十人以上の犠牲者が出た。俺が初めてアイツに会ったのはその事件の時だ。泣きじゃくる妹さんをまだ小学生のアイツがあやしていた。俺達が声をかけると驚くほど静かに受け答えをしていた。」
伊豆がほんの僅かの間、その姿を思い出す様に耽る。
「でも結局犯人は捕まらなかった。どうしてなんですか。そんな重要な施設なら当時もセキュリティや監視システムがあった筈ですよね。手掛かりも少なくなかったと思いますけど。」
当時はまだ現在の様に徹底した監視システムやAIによる情報統合処理システムが確立されきっていなかった。しかしながら無造作な街中や施設ならともかく、公的に支援されていた施設に於いて防犯システムが存在しなかった、という事はあり得ない。
「勿論、当時の捜査本部は徹底的に調べた。それこそ古き良き‘足を使った捜査’ってヤツも含めてな。しかし、その結果分かったのは当日現場に居なかった筈の人間がそこに居た、という事だけだった。」
「居なかった筈?」
「そうだ。当日施設に入る事になっていた家族には事前に申請してもらい、人数分の専用IDカードが配布された。入退場にはこのカードによる認証が必要だった。そして事件後に判明した事だが、発行されたIDの内の一つが全く架空の人物に対して発行されていた。そして実際にこのIDを使用して当日施設内に侵入した者が居たことは間違いない。だから当時我々もこれだけ強力な手がかりがいくつも存在していたから犯人逮捕は時間の問題だと思っていた。勿論油断していた訳ではなく、捜査員各自が尽力していた。だからこその自信だった。」
誇るその顔は未だ当時の自分達の捜査に自信を持っている様だ。だからこそ同時に怒りと焦りが思い出されている部分もある。
「そう、犯人は捕まえられた筈だった。ところがこのIDの発行や受取、施設への出入り、犯人が採り得るであろう行動の範囲を調べ尽くした。だが結局として何一つ発見する事が出来なかった。そして俺達も徐々に捜査への焦りを感じ始めていた頃だった。突如捜査本部は解散、事件はいつの間にか有耶無耶されて、最終的に反政府・反先進派によるテロ、として継続捜査の体で蓋をされちまった。」
「それじゃあ、さっき事件にならなかったって、どういう事です。」
途切れてしまった伊豆の話に佐々が疑問を差し込む。
「そうだな。その後一応はテロ事件として捜査される予定だった。だが、その当時まだ試験運用の段階だった捜査用AIによる分析が行われた。その結果そのAIが出した結論が’事故’だった。そして警察上層部はそのAIの判断を取り入れ、この事件をテロからただの事故へと結論を切り替えた。その結果捜査は完全に終了に追い込まれ、関連資料も全て事故として処理される様に記載された。」
それ故にこの件に関してはその捜査に携わった者、しかも一部だけが真実、というべきか、事件のある種の過程を知るのみとなった。」
佐々は冷めてしまったコーヒーをそれとは気付かずに飲み続ける。
「でも、被害者や家族達は黙ってないんじゃ?」
「ああ、確かに被害者側から異論や反論が出た事もあった。しかし、それは黙殺された。徹底した情報統制が図られ、事態は完全に終息してしまった。だがな、その渦中にあってアイツは何一つ騒ぎ立てる事なく、何なら冷めた目で以てそんな様子を見ていた。自身と妹さんが離れない様にしっかりとその手を握ってな。結局二人は近くに住んでいた祖母の家に身を寄せる事になったんだ。」
「じゃあ、今はお祖母さんと妹さんと一緒なんですか。」
ミナトのプライベートが垣間見えた気がしたが、伊豆は更に目を伏せ、黙り込んでしまった。
「えっと…、何かあったんですか。」
「さっき、『アイツの家族が二度殺された』、といっただろ。お祖母さんはアイツが高校生の時に亡くなってな。その後は妹さんと二人暮らしをしていたんだがな…。」
そこまで言うと伊豆が言い澱む。佐々は自分と伊豆のカップに再びコーヒーを注ぐ。ありがとさん、と一言言うと注がれたコーヒーを口にする。その様子を見ながら自身のカップに口をつけながら佐々は席に戻る。しばしの間二人は黙って互いに自分のカップを空にする事に集中する。そして丁度二人が同時に空のカップを机に置くと再び伊豆が口を開く。
「七年前、それこそアイツがまだ学生やっていた時だな。妹さんが殺されたんだ。」
佐々は黙々と作業を続けていたミナトの姿を思い出す。
「通り魔ってやつでな。事前の予兆対応も実際の事件が起こった後の対応を遅れてしまった。アイツの妹さんを含めて三名もの死者を出した大惨事だ。こっちの犯人はその場で取り押さえられ逮捕された。今頃塀の中で大人しく自分の番が回ってくるのを待っている。その時俺は事件の担当じゃなかったんだが、ミナトと面識があるからと呼び出された。テロの後も何度かあの兄妹とあっていたからな。明るく元気な妹さんを隣でたまにアイツが窘める様な傍から見ていても仲のいい兄妹だったな。そんな妹さんが、しかも残されたたった一人の家族が無差別に殺されたんだ。相当堪えている、と思って俺も二つ返事でアイツの元を訪れた。んで、訪ねて奴が居たのが霊安室だった。妹さん、アカネちゃんの遺体のそばに立っていた。その時も俺が初めて奴と会った時と同じ様な顔をしていたんだ。出会った時から俺はずっとそれが自身の感情を抑え込んだ表情だと思っていたんだ。しかし、その後アイツとの関係を深めるに連れてそれが間違っていた事に気付いたんだ。」
「・・・。」
「あいつは常に感情より理性が優先されているんだ。だから例え自身の大切な人が亡くなったとしても悲しい、寂しいといった感情よりもどうして、どうやって死んだのか、この後どの様に対応していくか、といった理性が自然と先立ってしまう。それ故感情的に取り乱す事なく、あらゆる事象に対して‘機械的に’に対処してしまう。あの時の顔はその時の顔だ。」
佐々もふと作業に没頭するミナトの顔を再び思い出す。そして思い出されるその顔は画一的に同じものであり、佐々がその機微を察する事は出来ないだろう。
「加島さんはどうして警察官になったんですか。ご両親や妹さんの敵討ちって訳じゃなさそうですし、まさか課長の影響、とかって言わないですよね。」
冗談交じりに伊豆へ問いかけると伊豆も初めて声を出して笑いながら。
「ハハ、それなら大変喜ばしいのだがな。
残念ながら本人からは否定されていてな。俺も気になってあいつが試験を受けると聞いて話を聞いてみたんだ。」
伊豆の脳裏にまだ学生だったミナトが直接願書を提出しに来た時を思い出す。今時願書なんてネットからの申込で済ませてしまう希望者がほとんどの中でミナトは珍しく本庁へ直接足を運んで来た。事前に連絡を受けていた伊豆はロビーでミナトを出迎えた。いつも通り平坦な表情で伊豆の元へと挨拶に来る。伊豆が館内を案内しながら窓口での受付を済ませるとミナトを昼食へと誘う。物珍しそうにやや落ち着きなく館内を見歩いていたミナトへ伊豆が聞いた。
『それにしてもどうして警察官になろうと思ったんだ。ご両親の事件を調べるつもりか。』
机の横を通りかかる配膳ドローンを眺めていたミナトがゆっくりと伊豆の方へと向き直った。その表情は相変わらずではあったが、伊豆からの問いかけへと回答した。
『いえ、あの件に関してはどう足掻いてもこれ以上の展開は望めないでしょう。それにまあ今更、と言ってしまえばそれまでの事になるでしょうが。ああ、因みに伊豆さんに憧れて、ってのいうはないですから。』
珍しく冗談交じりで返したミナトに少し驚いた伊豆だったが、その含みのある言い方が気になった。
『なら、尚更何でなんだ。お前さんが正義の味方に憧れて、訳でもあるまいて。』
『正義の味方、ですか、そうですね。確かにそういうのは性に合いませんね。』
ミナトの答えに満足いかない伊豆に対してミナトもぼかす様に答えている。
『強いて言うなら‘確認’の為でしょうか。』
『‘確認’だと。』
『ええ、〈何が〉、という訳じゃないですが警察官になって自身の中の考えが正しいかどうかとかそもそも考え方があっているのか。まあ、自分の中でも明確な言葉にはできませんが、そうなるべき、と思いまして。』
本人が言う通り、自分自身でも正体の掴めない理由で進路を決めた様子だった。それから先はその時考える、と常態で理論的なミナトにしては珍しい‘直感’と言われるものに突き動かされていたのだと伊豆はひとりごちに思う。
「学生時代から優秀だったからな。アイツがこの組織でやっていくのには事足りる能力は持っていた。まあ、ただあの性格だからな、一部の人間を除けばあまり人に好かれるタイプではないからな。」
「悪かったですね、人に好かれるタイプじゃなくて。そもそもそんなに器用に生きる気はないですから。」
二人が驚いて声のした方を向くと課室の方からミナトが完全に休憩室と化していた給湯室へと入って来る。
「ミナト、お前いつの間に。」
「コーヒーを淹れに行ったきり、依然として帰ってこない後輩を連れ戻しに来たのですが…。どうやらその後輩は職務放棄を敢行しているらしいが…。」
「ウゥ…。」
ミナトの鋭い視線を佐々が感じる。そっと時間を確認すると確かにここに来てから随分と時間が経ってしまっていた様だ。
「…スミマセンでした、加島さん。つい話に夢中になってしまって…。今戻ります。」
そう言い、空になっていたカップをシンクへと持って行くとそのままカップを濯ぐ。伊豆は洗い物をする佐々の背を見て食洗器ぐらい於いてもいいよな、と感じたもののこのシンクが使われるのは稀で、今みたいに一息つきたい時か、徹夜の時に夜食でカップラーメンを作って食べる時くらいだ。改めて自分達が如何に非文明的な生活を送っているのかを実感する。目の前の、娘と言っても通じる若人がこんな所に居ても良いものか、と今更ながらふと思う。
ついでとばかりに伊豆のカップも洗い終わった佐々は濡れた手を自身のハンカチで拭くと
「それじゃあ戻りましょう、加島さん。」
と踵を返し、歩き出す。しかしその行く手をミナトが遮った。
「いや、戻らなくてもいい。課長も一緒ならむしろ丁度いい。あったぞ、不自然な自然死、がな。」
「「?」」
佐々と伊豆の驚きを他所にミナトがARの画面を操作し、二人にメッセージに添付されている資料に佐々と伊豆が目を通し始める。
「約一年前、埼玉にあるBSI、脳科学総合研究センターの研究者が自宅で亡くなっている。二人が見ている資料にその当時の記録が残っていた」
被害者・福杉有藍 38歳 女性
脳科学総合研究センター研究員
専攻・脳神経伝達
死因・自然死
死亡状況・自宅のデスクにて死亡しているのを音信不通になっていた福杉氏を心配して訪れて来た同僚の木頭建彦氏と管理会社の関俊也氏が発見。その後、警察と監察医により自然死と確認
簡素な概要を確認した二人はふと疑問を持つ。
「コレって内容これだけですか?」
「いや、あとは検死報告書も付いているが、そっちも似たり寄ったりで役に立つものではないな。」
実際に添付されていた検死書の内容は先に見た事件書に記載してあったものと相似無く、そして既視感を感じるものであった。
「この検死書って。」
「ああ、桜木教授のものとよく似ているだろう。死因に不自然な所がなく、死亡状況にも外的要因が差し込む余地がない。教科書通りの自然死だ。」
ミナトの提示した資料は二人が数分で読み終わるには十分な内容で既に話が次の段階に進む。
「だとしても、どうしてこの件が桜木教授の事件と関連があると?もしかしたら本当に自然死かもしれませんよ。」
佐々が当然の疑問をぶつけ始める。
「確かに単純にこの一件だけならばほとんどの人間がその結論にたどり着くだろう。だが、今の俺達には前提としての情報がある。」
ミナトが珍しく微笑みを浮かべる。
「資料にも書いてある通り、福杉助教は脳神経伝達のプロフェッショナルだ。そして同時に彼女はLINLAEDの機能向上の為に機器と使用者の間での神経伝達機能の開発に協力していた。」
その言葉に触発され、佐々も思い出す。
「アレ、そういえば…。」
「そうだ、今回の桜木教授も同じように脳の伝達信号をLINLAEDとの間のアクセスを確立させるための技術に初期から相当貢献している。近々で二人もLINLAEDに携わった研究者が死亡している。しかも同じ様に自然死に見て取れる形で。」
「関連性を疑うにはやはり少し強引ですね。」
「だが、否定しきるには少々意図が過ぎるな。」
それまで黙って二人の会話を聞いていた伊豆が佐々を制する。我が意を得たりと思ったか否かは分からないが、それにミナトが続く。
「ならば視点を変えて考えてみるべきだろう。」
「視点を変えて、ですか。」
「そうだ。この二人の共通点である’LINLAEDの開発に関わった研究者’’その分野の第一人者’である事を条件にして関係者を調べれば、ふるいにかかって事件が現れるんじゃないか。」
まるでそうなる事が見えているかの様にミナトが断言する。
「援護が必要か。」
伊豆が茶化す様にミナトに尋ねる。回答など分かってはいるが思わず聞かずにはいられなかった伊豆に返って来たのは当然のものだった。
「いいや、大丈夫です。ここまでくれば二人でも充分でしょうから。LINLAEDの関係者は大ぴらには公表されていませんが、特段秘匿されている訳でもないでしょう。我々が調べようと思えばいくらでも手段があるでしょう。」
不思議そうに見ていた佐々は半開きになっていた口で尋ねた。
「そういえばLINLAED関連の人物ってあまり知られていないですよね。発売元の企業はみんな知っているのに。」
現在LINLAEDは国際公的カルテル・Hoffeの各国構成企業により共同開発・販売が行われている。構成企業は一国一企業が基本であり、国際的に統一化された規格や価格比率で商品を提供している。一方でその開発研究に携わった人物、というのは意外と知られていない。少し詳しい人間でもその開発に関わった人物の中に日本人が多く居る、程度にしか認識されていない。
「まあ、意図的に公にされていない部分があるからな。一般にはまず流布される様な事は無いだろう。ついでに言うと一般の人間が彼らについて調べようと思ったらいくつもの手続きを踏まないといけないからそもそも知ろうとすら思いやしないだろう。」
伊豆がミナトは説明してくれないであろう情報を佐々へ解説してくれる。
「それじゃあ、どうやって…。」
佐々がミナトではなく説明をくれた伊豆聞き返す。
「まあ、そこは警察機構の権力もそこまで廃れていない、というか。情報の提供をHoffeへ依頼すれば、開示・提供してくれるだろうさ。一応オープンな情報だからな。」
「ええ。だから既にHoffeの日本企業である麻生化学工業へ情報の提供を依頼している。」
ミナトの発言に伊豆は半分口を開けて頭を抱える。
「お前、そういうのは普通、俺に話し通してから依頼を出すもんだろうがよ…。何かあった時に上からどやされるのは俺なんだぞ。」
頭を抱える伊豆だがその口元は言葉とは裏腹に僅かな笑みを浮かべている様が見える。
「それはスミマセンでした。ただ、大丈夫でしょう。あそこの連中は表面上特段秘密主義、という訳でもありませんし、数日中にでも関連者の一覧が返ってくるでしょうから。」
それを聞いた佐々の顔が傍目にも明るくなっていくのが分かる。露骨に喜ぶ事は出来ないがここ数日間暗い部屋で機械の様な先輩と二人、明確な手引きも無いまま抽象的な書類探しを行っていたのだ。その解放感と大きく見えた手がかりの光明は佐々でなくとも感情を昂らせるには充分であろう。しかし、そんな佐々のご機嫌を容易くミナトの言葉が吹き飛ばす。
「佐々、出掛ける準備をしろ。」
ミナトは小休止を採る事も無く、自身のデスクへと戻ろうとする。
「待って下さい。出掛けるって何処へ。」
立ち上がり、ミナトを追いかけながら佐々が尋ねる。振り返る事もせず、ミナトが答える。
「埼玉に決まっているだろう。もう少し詳しい情況が知りたい。管轄の警察署ならあの調書よりかはマシな資料があるだろう。それに実際の現場近くも見てみたい。」
この段階で既にミナトは出発の準備を整えている。それを見た佐々はもはや抵抗する事を諦めて、低い声で「分かりました…」と言いながら渋々と立ち上がり、自身も自分の席へと向かった。
§
当時現場となったのは福杉が勤めていた和光市のBSIから車で西へ約三十分の新座市内に十階建てマンション。二人の居る東京職庁からは車で一時間強。
「管轄は朝霞署か。ルート的には現場へ向かう前に寄れるか。」
既にナビゲーションには行先を登録し、走り始めて十分程。いつもの様に自動運転でハンドルから両手は離れている。隣の座席から静かな寝息が聞こえてくる。謎の落胆を見せていた佐々に「移動中は休んでていいぞ。」と言ったが最後、数分後には窓に寄り掛かりながら彼女は寝息をたて始めた。モーター音がほとんど響かない車内では随分低い音であっても隣からの音は良く聞こえている。流石にここまで徹底した『休息』を採られると思わなかったが、ここ数日の根の詰め方を見ていれば、仕方がないと思うのが人情だろう。寄り掛かった拍子に髪で隠れた佐々の横顔を見ながら自分も少し休息を採ろうと思った。佐々の様に頭をドアに寄り掛からせてそのまま車外の風景を眺める。流れる風景はいつもの見慣れた首都の景色。昔子供達が夢見ていた様に車が空を飛ぶ事も無く平成~令和と時代を跨いでいるものの経済が回復する事も無く、かといって大きく破綻に至る道を辿る訳でもなく、何となく悪い様な感じがする程度の状況が約半世紀も続いている。そのせいか、街の風景もここ数十年大きく変化する事も無い。世界的にはアメリカ・中国・ロシアの三大国によるパワーバランスの主導権争い、「沈黙の戦争」とも言われる外交ゲームや欧州におけるEU圏での混乱、伽藍洞となったいつ崩壊するとも分からない協力関係が続いている。大戦と呼べる程の大きな争いは勃発していないものの今日も地球上のどこかでむやみやたらに命の奪い合いをしている。
ハァ、とミナトは一息吐くと自戒する。どうにもおかしな方向へ自身は思考を巡らせてしまっていたらしい。ともかく自分は生きていく為にも目の前にある仕事をやり遂げなければならない。仮眠を採る事で自分の脳内を整理しよう、とミナトは瞼を落した。
§
両親が亡くなって随分と経ち、自分達兄妹を育ててくれた祖母も先日天寿を全うした。残されたのは祖父母が長年住み、そして母が幼い頃から育ってきた郊外の一軒家と亡くなった祖母が貯めておいてくれた自分達兄妹名義の貯金―それこそ兄妹が社会人になるまででも余裕のある金額―であった。しかし、自分は今日も今日とてアルバイトの日々である。特段お金に困っている訳ではないが自身の経験の為に、という思いと自身の糧位はという思いもあった。結果祖母の残したお金にはあまり手を付ける事なく生活費程度は何とかなっていた。何の気なしに窓の外を眺めると一年生のクラスが校庭のトラックをランニングしている。未だに旧時代的な光景ではあるが、自身は意外と嫌いな光景ではない。所謂名門校ではないが、進学校としてはそれなりにレベルの高い高校に入学したのでやはりそれなりに授業のレベルも高い。しかし彼らにとってはたまたま近隣にあった進学校、程度の感覚であり、余程の事が無い限り落ちこぼれる事はまず無い。いつものように恙なく午前中の授業を終え、購買へと向かう。ルーティーンでコロッケパンを選ぶ。一緒に紙パックのお茶も買い、そのまま近くの階段で屋上へと向かう。『生徒立入禁止』の掛札と共に電子ロックのかかった扉の前に来ると彼は手慣れた手つきで自分のLINKAEDを使用し、ロックを解除する。扉を開いた先には勿論誰も居らず、いつもの定位置、塔屋の影へ腰を下ろす。途切れ途切れの雲が流れる空の日差しは程よく心地良いのだろうが、日陰に居る彼には関係ない。静かにコロッケパンを減らしているとガシャリと、扉の開く音が聞こえた。
「やっぱりここに居たね、ミナト。教室に居なかったからここだろうなと思って。」
塔屋の表側から顔を覗かせたのは相も変らぬ見慣れた顔。
「何の用だ。俺の幸せの一時を邪魔しにでも来たか。」
ミナトは出された顔を横目にコロッケパンを食べ続ける。そんな様子を見て、薄く笑みを浮かべながらミナトの方まで寄り、1m程空けた所で同じ様に塔屋の壁に背を預ける。
「相も変わらずのコロッケパンとお茶の組合せか。というよりそれ以外、君の昼食を僕は見た事ないけど。」
そういう彼が取り出したのは少しだけ小ぶりのお弁当箱。
「こいつらは早々に売り切れる事はまずないからな。一番手っ取り早く買えるから楽なんだ。それよりお前こそ相変わらずお袋さんの弁当か。仲が良いな。」
そういうと相手の少年は軽く笑みを浮かべながら、
「そうだね。泉さんも弘明さんも僕にとても良くしてくれるよ。本当の息子のみたいに愛情を注いでくれる。それこそ実の娘の愛花と同じ様にね。愛花も僕に懐いてくれているみたいだ。」
お弁当の蓋を開けながら笑みを浮かべ続けている。ミナトはお茶を飲み、口の中のものを胃へと流すと、
「親父さんとお袋さんだろう。いつまでも他人行儀な呼び方をしているんだ。」
「大丈夫だよ。本人達の前でも、人前でもキチンと’父さん’’母さん’って呼んでいるから。今みたいに呼ぶのはミナトの前でだけだよ。」
笑みを崩す事なくお弁当の中身に手を付け始める。二人は合わせる様に黙々と食事をとる。ただ互いに特段気まずさのある空間でなく、至って普通の空間であった。暫くすると先にミナトが食事を終える。そしてそのままどことなく景色を見ている。
「二人暮らしは慣れたかい。」
食べ終わった弁当箱を静かに仕舞うとミナトに尋ねる姿。
「ちゃんと生活しているよ。アカネと二人で家事分担してな。今はなまじ一軒家で手入れが大変だが。」
飲みきった紙パックを丁寧に折り畳み、ゴミをまとめてビニール袋へと突っ込む。少し離れた所で持参した水筒で水分補給をする姿がある。
「引っ越すつもりかい。」
「そうだな。流石に二人であの家は広過ぎるからな。売って元手にすればそれなりの物件には越せるだろ。」
比較的に真剣に話しているつもりのミナトに、相手がフフフッと笑いを浮かべたので不本意に思い、彼には珍しく少し不機嫌になる。
「ゴメン、ゴメン。ただ、ミナトらしいな、って思ってさ。だってあの家、ずっとおばあ様が住んでいた家だろう。それに君達自身も暫く住んでいたでしょう。それなりに思い入れとかもあるでしょ。それをあまり感じない様な言い方だなって思ってさ。」
そういうと怪訝だったミナトの顔からは表情が消える。
「そう、だったか。悪い、あまり意識していなかったが。まあ、そういえばそうなんだが、その辺はあまり気にしていなかったな。」
「君のそういう所、本当に変わらないね。」
「なんだ、嫌味か。最近は特段お前の気に障る様な事した覚えはないが。」
「誤解だよ、ミナト。僕は君そういう所が好ましい、と言っているのだよ。それにそもそも僕が気に障った位で君に嫌味を吐く様な人間に見えるかい。」
「見える。」
途中からニヤニヤし始めた相手に対し、ミナトは意趣返しも込めて冷たく返す。するとニヤニヤ顔がとうとう噴き出してしまった。
「ハハ、随分ストレートで辛辣だね。流石に僕でも傷ついちゃうよ。」
声をあげて笑う彼に思わずミナト自身も小さく笑みがこぼれる。
「あー、ホントにミナトが居てくれて有難いよ。でなければこの世界はつまらないからね。」
そういうと再びコウヤは笑いを浮かべた。
§
佐々が目を開けると本庁を出てから一時間以上近く経っていた。記憶が正しければ彼女は四十分程眠っていた様だ。隣を見ると無表情のミナトが窓の外を眺めている。佐々は恐る恐る口を開く。
「加島さん、ずっと外眺めていたんですか。」
自身、若干的の外れた質問をしている事は寝起きの頭でも理解は出来ていたが言葉にしてしまった事は仕方がない、と諦める。それに気付いたミナトは不思議そうな顔をして、
「ああ、いや。俺も少し仮眠をとらせてもらった。」
そう話すミナトの口調は少し柔らかく感じた。
「全く、お前は。勘がいいのか、悪いのか。丁度もう到着する所で目を覚ます奴が居るとは思わなかったよ。」
やはり何となく柔らかい口調のミナトに嫌味を感じない。車は既に朝霞署の駐車場に入り、来客用の停車スペースで停まろうとしている。
「詳しい資料ありますかね。」
「どうだろうな。事故として扱われる事案だからな。加害者・被害者の居る事件と違ってとりわけ情報も区別される事は無いからアーカイブ上には挙がってくるのはほぼ全ての資料であるのが普通だからな。」
二人は玄関を通ると既に発行されていた来客用の電子IDを使用し、セキュリティゲートを通り、職員・関係者の通路を行く。午後の日も落ち始めたロビーに居る人出ではまばらである。その様子を背に更に奥へ進み、エレベーターに乗り込む。目的の階のボタンを押し二人静かに次に扉が開くのを待つ。途中の階で停まる事も無く、音もたてずに目的地で扉が開く。ミナトは特に迷う事なく、目的地である捜査資料室へと向かう。
「加島警部補と佐々巡査ですね」
二人の背後から急に声をかけるものが現れた。振り返るとそこにはまだ学生にも見える若い男性警察官であった。
「お疲れ様です。朝霞署の峰山巡査です。お二人をご案内する様にと、指示を受けております。」
手本通りの敬礼をする峰山に返礼するミナトと佐々。
「ご苦労様です。ただ、ご足労頂いたところ申し訳ないが案内は不要です。」
ミナトが短く返すと、峰山は困惑した顔をして、
「そう申されましても。自分も上長からの指示を受けておりますので勝手な行動を採る訳にも行きません。」
新任らしい頑なさで愚直に勤めを果たそうとしている目の前の警官に佐々は何となく親近感を持った。しかし、隣に立つミナトはその姿を見ても特段対応を変える事なく、
「分かりました。では重ね重ね申し訳ないが、戻って案内不要の旨を伝えて来て頂けますか。」
峰山は困惑した顔を続けると一瞬佐々の方に目を配り、助けを求めるが佐々も同様、やや困った顔をしている。しかし、切羽詰まり始めている峰山は再度佐々を見る。流石にこれ以上は無理だと判断した佐々がミナトに話しかける。
「加島さん、別に良いんじゃないですか、居てもらっても。特段邪魔になる訳でもないですし。加島さんが気になるようだったら、例えば部屋の外で待っていてもらえば良いじゃないですか。」
初めてミナトに意見すると思うと意外としっかりとものを言えている事に自分では気付いていないが、佐々のその様子にミナトは少し面食らった様に目を丸めると、若干考えるような仕草を見せ、
「分かった。それじゃあ峰山巡査、資料部屋まで案内してもらえるか。着いたら部屋の外で待機していてくれ。」
佐々の案にミナトも峰山もしぶしぶ納得し、峰山を先頭に三人揃って歩き出す。ほんの一・二分歩いた所で目的の部屋に着く。バツの悪そうな峰山に目線だけで扉の横に行き、そこに留まる様に促すミナト。そのまま佐々を連れて資料室へと入る。部屋の中には僅かではあるが未だに紙媒体の捜査資料が残っていたが、かつてのその光景と比べるとファイリングされた資料は微々たるものである。無くなった資料の代わりに不要なったものであろう備品の数々が打ち捨てられている。ミナトは部屋の奥に設置されているライブラリー用のオフライン端末に自身のLINKAEDを接続させると数多ある閲覧資料の中から目的の資料を探し、早々に発見する、
佐々も同じ様に隣接する端末に自分のLINKAEDを接続させるとミナトより時間をかけながら無事に目当ての捜査資料を見つける。数時間前に本庁で見た資料の内容を思い出しつつ、目の前に表示されるAR画面に集中する。
ミナトと二人、日の差さない部屋で静かに作業をする姿は結局ここ数日やってきた事と全く持って変わらない。だが佐々自身はそんな事を気にする事無く作業に没頭している。しばらくすると再び先に作業を終えたミナトが小さく溜息をつく。その横ではやはり佐々が真剣な横顔を覗かせている。ミナトに見られている事に気付いていないその横顔は未だ幼さすら残している様に見える。転属して来てまだ日が浅く、今回組むまではあまり深く関わってこなかった。普段ならミナトはベテランである種田と、佐々も女性先輩である野々村とコンビを組む事が常であった。それを今回に限っては比較的若手同士であるミナトと佐々を組ませた事は一般的にも珍しい事例である。それが管理職である伊豆の判断で決定されたのか、あるいは何か他の意図が絡んでいるのか。現場で働くミナト達には計り知れない。ただ目の前にいるこの後輩とこんな風に捜査にあたる、という事は考えてもみなかった。
「もう終わったんですか、加島さん。相変わらず早いですね。」
ミナトの視線を催促のものだと誤解したのかミナトの方を見遣った後、俄かに焦りが見て取れる様になる。そんなつもりは一切無かったが、仕事が早く片付く事には良い事なので特に何も返す事なく、佐々の様子を窺いながら部屋の中を見て回す。資料室改め完全な物置と化している部屋の中には備品の他に『捜査資料』と書かれた埃被った段ボールが山積みになっており、よく見ると記載してある日付が全て十年以上前のものになっている。
電子編纂化を諦めたのか、それとも忘れ去られているのか、そもそもその価値すら見出されなかったのか。いずれにしても長い間そこに放置されているものであり、今や無用の長物になっているものなのだろう。
あの中に今回役に立つ資料は皆無であろうと判断したミナトは目の端に留めていた佐々へと再度焦点を戻す。来た時よりも明らかに疲れを感じさせる佐々は瞼を閉じ、天を仰ぐ様にして首から背中にかけて思いっきり伸びをするとフウ、と嘆息する。その様子を確認したミナトは黙って席を立つと、来た時と変わらぬ歩調で扉を目指す。佐々も少し重くなった腰を持ち上げて同じ様に部屋から出る。すると律儀に外で直立して待機していた峰山が出て来た二人に、
「お疲れ様です。もう宜しいのですか。まだそんなに時間は経っていませんが…。目的の件は調べられたのですか。」
二人の様子を気にせず何故かその動向を必要以上に気にしている様に見る峰山に佐々は少し倦怠感を覚え、口を開こうとする。
「ああ、十分に拝見させて頂いた。ご協力に感謝します。我々はこれで失礼させていただきます。」
あっさりとこう答えたミナトに峰山は面喰って、相当困った顔をしている。しかしながらミナトは相変わらず、そんな峰山を気に留める事なく一直線に建物の出口へと向かう。
「峰山巡査、それでは申し訳ないが、上役には特に問題なく我々は立ち去ったと、挨拶に顔を出せずに申し訳ない、とお伝えして下さい。」
背中越しに峰山に言伝えする。その足は止まる事なく、引き続き出口へと向かう。峰山の困り顔がより困惑を深めて、ミナトへ何も言い返す事が出来ない。今度はミナト、佐々、峰山の順で署内を歩く。ミナトは迷いなく玄関へ歩き、佐々はその背中へ付いていく。そして、峰山は二人を止める事も出来ずに取り敢えず二人を追っていく。峰山が二人へかける言葉を発見できず、とうとう署内の出口へと到着してしまう。ミナトは一度足を止め、顔だけを後方の峰山へ向けると、
「峰山巡査、見送りご苦労。ここまでで結構です。重ねて感謝いたします。」
もはや言いたい事を言ったらしいミナトは前を向き直すとそのまま外へと出てしまう。佐々も一瞬その後を追おうとしたが、完全に困り果て固まってしまった峰山を見かねてしまい、
「峰山巡査、ありがとうございました。またどこかでご一緒出来ましたら。では。」
と一礼を峰山に向かい、一つすると急いでミナトの後を追う。夕日の差し掛かり始めたロビーは人出がかなり少なくなっており、随分と寂しい光景となっていたが、目の前で嵐が通り過ぎて行った峰山はただ棒立ちになって二人が出て行った外の景色を見つめる以外、自我を回復するまでに為す事がなかった。
再び車に乗り込んだミナトは当たり前の様に佐々に何も告げる事なく、次の行き先をナビへと伝える。それを聞いた佐々ももはや何も言われない事に特段不満を覚える訳ではなく慣れ始めた先輩の言動を見ながら、
「今の住所って福杉先生が亡くなっていた自宅の場所ですよね。」
ミナトが口にした行先を聞き、咄嗟にその目的地を思い出す。
「ああ、福杉助教が亡くなってからも特に買い手が付く訳じゃなく、今も空き部屋になっているらしい。」
二人を乗せた車は朝霞署から十五分程の所にあるマンションに向かっていた。そこは亡くなった福杉の終の住処であり、二人にとっては数少ない頼みの綱の場所であった。
「でも今更現場に行っても残っているものなんて無いと思いますけど。」
助手席で時折ミナトの方を見ながらも初めて訪れる街並を少し気にする様子である。
「まあ、そうだろうな。ただな、まずそもそも何も残っていないからこそ我々が来ているのではないか。」
ミナトは前方を真っすぐ見つめながらも目線だけは周囲へと走らせる。
「それにさっき見た調書もあの様だからな。」
「そうですね。まさかあそこまでとは…。」
佐々が口から漏らす様に呟くとミナトでなくとも感じられる程明らかに落胆していた。
「全くと言うほど何も進捗しなかったな。書き方が多少違うだけで中身は誰が見ても正に異口同音だったな。」
ミナトの言う通り朝霞署に保管してあった調書は、丁装は違えど、その内容は代わり映え無く、新しい情報は何一つ得られなかった。
「ホント無駄足でしたね。こんな事なら最初から現場へ向かっていた方がいくらかマシでしたね。」
憮然として前を見る佐々に対し、ミナトは変わらないトーンで続ける。
「そんな事ない。実はそれなりの収穫があったからな。」
心当たりが思いつかずに疑問符を浮かべる佐々にミナトが説明する。
「さっき俺達が見たのが事件調書の原本と練っているものならあまりにもお粗末に過ぎる。余程やる気のない捜査をしたのか、捜査員が無能なのか。」
冗談めかすミナトが一つ間を置く。
「それとも意図的にお粗末な報告書に仕上げられたのか。」
一瞬ミナトの顔が険しく強張る様に見えたが直ぐに無表情へと戻る。しかし、実際二人が朝霞署に行って得られた情報はほとんど皆無に等しく、事件そのものに進展は無い。これから向かう現場にしても正直事件から時間が経ってしまっているので、いくらの情報が得られるものか、徐々に不安に襲われている佐々をよそに表情の読めないミナトは近くなった現場の周辺を確認している様だった。
間もなく二人の乗った車は目的のマンションの地下駐車場へと下る。手前の住宅者用の駐車スペースを通り過ぎ、来客者用のエリアに車は自動的に停車した。
「何か暗いですね、ここの駐車場。ライトの灯りが弱いのかな。」
車を降りながら天井の照明に目を向ける佐々。ミナトも佐々に合わせて共に上を見上げる。ミナトもこの地下駐車場に入った時に随分と薄暗い空間だと感じていた。見上げていた顔を周囲へと移すと綺麗な見た目の建物の外観とはかけ離れた、くすんだ色の壁や天井、所々に大きな汚れやヒビの様な傷が目立つ。更に現代社会では当たり前のものとなっている防犯用の監視カメラがあまり見当たらない。一か所しかない出入り口とエントランスへと続く扉、そして構内の数か所のみ。しかも使用されているのは相当古い型のもので正直設置している効果があるかが疑わしい。
「今時こんなにセキュリティが低い公共スペースがあるなんて。道理でこのマンション、立地や設備のわりに安いのに入居希望者が少ないんだ。」
二人は車から少し歩いた所にあるエントランスへと向かう扉へ向かい歩き出す。
「そこまで極端に珍しい訳じゃないさ。都市部ではあまり無いが、地方や郊外なんかじゃあ、たまに発生し得る事例だ。経費節減の為にこういう袋小路の駐車場や倉庫と言った所なんかは出入り口が一つしかないことが多いから、その出入り口や窓際だけにカメラを設置してそれ以外はケチったものが多い。」
「何て言うか、意外と管理が杜撰なんですね。」
佐々が呆れた様子で言う。ミナトは目の前に現れた扉を開ける為にセキュリティロックへLINLAEDを無線接続する。予め管理会社に連絡し、送られてきていた認証でそのロックを解錠する。ミナト自身正直こんなアッサリと認証が貰えるとは思ってなかったが、実際目の前で扉が開くのを見ると特段深く考える事をせず、扉の内側へと向かう。佐々と共に扉をくぐりエントランスへと入ると先程までいた駐車場とは打って変わり、小綺麗なラウンジが広がる空間。室内は多数のカメラで監視されており、セキュリティのレベルで段違いで高い。
「さっきの駐車場とは違う建物みたい。こっちだけ見るとホント高級マンションですね。」
素直に感想を述べる佐々は少しテンションが上がっている様に見える。余程さっきの地下駐車場がお気に召さなかったらしい。ミナトより少し先を歩く様にエントランスを抜けた佐々はエレベーターの前に着くと一度ミナトの方へ振り返る。
「福杉先生の自宅は確か9階でしたよね。」
2台あるエレベーターの現在位置を確認する。現在8階にある左側のものより5階に右側の方が早い。一分もしない内にエレベーターが二人の居る1階まで降りてくると音もなく二重扉が開く。中に乗り込んだ佐々が率先して行先ボタンで9階を押すとミナトが入って来た事を合図にした様に扉が閉じる。そのまま9階まで一度も止まる事なく、密室は二人を目的地へと運んだ。エレベーターを降りると、小ぶりなエレべーターホールを抜け、外廊下に出ると左右へ延びる通路。このマンションは中央のエレベーターホールを中心に左右に3部屋ずつ設けられている造りだったハズ。
「えっと、確か部屋は902号室でしたよね。」
ホールに表示されていた案内を確認すると外廊下へ出て左手の奥側の部屋から1~6の順で部屋が並んでいるらしい。件の902号室は左手中央の扉。ミナトが先立つ様にして二人揃って部屋の方へと向かう。ミナトは再び管理会社から預かっている電子ロックのキーを使用して扉を開ける。中に入ると当然だが家具なども一切設置されておらず、電気も通っていない状況で室内灯も点く事がなかった。
西日の差し込む室内は若干の暗さはあるものの室内を見て回るには大きな支障はないだろう。簡素な2DKの部屋を二人で手分けして捜索する。特段捜す目標が決まっている状況ではないが、佐々はここ数日で完全に慣れきったもので何もない室内を’何か’を見つけようと疲れ切っている体にムチを打って行動する。一方ミナトは捜査資料にあった現場写真と現場を比較しながら彼女の亡くなった部屋を見て回る。佐々は玄関を入ってすぐ左手にある部屋を捜索する。寝室だった部屋の様だったが福杉はその部屋自体、本当に寝る為と着替えの為だけに利用していた様だった。実際に彼女が自宅に居る問の多くは今ミナトが調べている部屋で過ごしていたのだろう。この部屋は彼女の自宅における仕事部屋の役割をしており、在命中の室内には関連の専門書や資料、自宅用の備え付けのPC等が置いてあった。現場写真にはそのPCの前で付した状態で顔を両腕の中に沈めている福杉の姿が写っている。その首にはLINLAEDが装着されているものの電源は切られた状態にあった、と今日何度も目を通した資料に記載されていた。勿論それ以上深く詳しく調べられている事は無く、単調な文章によってのみ述べられていただけだった。一方でデスクの上のPCは電源が入っていたままになっていた様で彼女がデスクで作業中に急死した、という状況が出来上がっている。当然の様にその際に彼女が行っていた作業の内容やどの様なデータが残されていたのかは記録されていない。ただ、やはりLINLAEDは装着者の異常を通告しなかった、という点において桜木の事件と酷似し過ぎている。しかし管轄も異なり、変に興味を持たなければただの事故として処理される様な事件をわざわざ掘り下げる様な人間は居ない。
ミナトは写真と見比べた部屋を一人棒立ちで見渡しながら考える。福杉が事故ではなく、殺人ならばこれも桜木事件と一緒で比較的セキュリティの高いマンション内での犯行となる。ミナトが今この部屋に来る途中で確認しただけでも1階のエントランスをはじめ、移動中のエレベーターや各階のホール、外廊下の各所にカメラが設置されていた。そしてそれらは彼が見た限り最低限死角が無い様にされていた。少なくとも素人が簡単に侵入し、人殺しをした上で周囲に気付かれず、監視カメラにも映らずに逃走する事は困難だ。手がかりを探しに来た場所で再び手詰まりになってしまった。ミナト自身そこまで大きな期待を持って来た訳ではないが、現場まで来れば何かしらの発見があるのではないかと考えていた。それに対して何も無い目の前の部屋をARに映し出される現場写真と見返しているだけの状況となっている。ただ突っ立っているだけではとミナトは少し部屋の中を歩き回ろうと思い。とりあえず足を動かす。何となく壁に手を付けながら反時計回りに部屋の中を巡回すると、ふと部屋に唯一の窓が目に入った。玄関から見ると正面の窓際にはめられている窓ガラス。マンションの裏手に面するその窓はセキュリティ上からか外からは中の様子は見えない様になっている。一方内側からも透して外を見る事は出来ない様になっている。ミナトは事件以来開けられていないであろう窓の鍵を外すと引き戸を静かに開く。この建物に入って来た時は近隣には似た様なマンションやアパートが多数有り、その間にスーパーやコンビニも軒を連ねており、戸建ての家は少ない印象だった。しかし今開いた窓から見える風景は一変していた。周辺にあるのは狭い小路を挟んで一昔前の住宅地だった。戸建ての家々が並んでいるが、どれも建てられてから随分と経っているものだった。そのエリアはかなり静寂としており、よく見ると廃墟然としてるものもあり、どうやら空き家になっている物件も多い様だ。更にそんな住宅地の中に同じ様に古い造りの商店がいくつか並んでいる。しかし、コンビニやスーパーの方に行く人が多い様で覇気のない店構えがほとんど。どうやら、コチラとアチラでは住民層が全く異なるようだ。再びミナトが窓の下まで目を戻すとマンションの仕切となっている金網フェンスを挟んだ通りの向こう側に他の建物と同じ様な古びた構えの喫茶店が目に留まった。通りには帰宅足の学生やサラリーマンが足早に行き交う。彼らは特別お店に気を留める様子もない。ミナトは窓から少し身を出すと汚れた小型のサンルーフの陰から店先が僅かに見える。ミナトはしばらくの間軒先を観察すると、開けていた窓を閉めてもう一度部屋の中を見渡す。数分一考すると手前の部屋で懸命に家探ししている佐々の所に行き声をかける。
「佐々、何かあったか。」
余程集中して捜索をしていたのであろう、廊下から突然声をかけられた佐々はミナトの想像以上に過剰な反応をし、小さく悲鳴のような声をあげる。やや体勢を崩した状態の佐々は今自分を驚かした犯人が同行してきた先輩である事に気付き、
「ビックリさせないでくださいよ。怪我でもしたらどうするんですか。」
何故か心外にも後輩に怒られる理不尽さを感じながらもそんな事はおくびにも出さずにいつも通りの顔で佐々に釘を刺す。
「勝手に驚いたのはお前だろう。まあ、いい。行くぞ。」
そう言うと佐々が付いて来ているかどうかも確認せずに歩き出すミナト。一方佐々も当然そうなるだろうなと思い、置いて行かれない様に急いで作業を切り上げる。寝室から出ると既に玄関から外に出ようとしているミナトが居り、こちらを向きながら扉が閉まらない様にその右手で支えている。玄関に脱いであるスニーカーは入室するときにそれぞれ揃えて入っているので佐々も靴を履くのにそんなに時間はかからない。
「ありがとうございます。」
扉を支えているミナトにお礼を言うとまだ履ききれていない靴の踵を直しながら外廊下へと出る。
「気にするな。ロックをかけて帰らなくてはならないからな。」
佐々がミナトの横をすり抜けて外へ出るとミナトは支えていた扉を閉めて借りているキーロックで今度は鍵を掛け直す。その様子を見ていた佐々は駄目元で次の目的地を尋ねる。
「加島さん、もう暗くなりますけど次はどこに行くんですか。」
鍵を掛け終わったミナトは一度錠が掛かっているか扉を引き確認すると、
「裏の通りに古い喫茶店があった。この部屋の真ん前にあってもしかしたら何か分かるかもしれない。」
そのままエレベーターホールへ向かう。ホールに着くと丁度帰宅時間と被ったのか2台のエレベーターは両方共に移動中であった。すると一方のエレベーターが二人の居る9階へと到着する。ドアが開くと中なら三十代半ばの女性と五十代ぐらいでスーツを着た男性が降りてくる。二人はホールに出ると男性は今二人が来た方向に向かい、女性の方はそれとは逆の方へと向かう。すれ違った二人の首には当たり前の様にLINLAEDが装着されている。女性はともかく男性の方は未だにこの機器に慣れぬ世代であろう。それぞれが外廊下へ消えていくのを視界の隅に捉えながら既に乗り込んでいた佐々に続いてミナトがエレベーターへ踏み入る。佐々が1階のボタンを押すと静かに降下を始める。沈黙が続く箱内で徐にARを操作し始める。ミナトには仮想画面は見えないが忙しなく佐々は右手を動かしている。1階に到着し、エレベーターの扉が開くとミナトが先にエントランスへと出る。それに続く様に降りる佐々は仮想画面を見ながらだったので足元で少し躓く様な形になる。慌てて体勢を戻す佐々が顔を上げるとこちらを冷ややかに見るミナトと目が合う。ミナトは佐々に向けていた視線を出口の方に向けて歩き出す。佐々は顔を少し伏せてその後に続く。二人は駐車場には向かわず、マンションの正面玄関を出ると目の前の通りへと出る。
そこでミナトは立ち止まり左右に延びる通りを見比べる。するとそんなミナトの後背から佐々が声を挙げる。
「加島さん、左ですよ。裏の通りに周るにはそっちこっちの方がずっと近いですよ。」
佐々は左手を横に真っ直ぐ伸ばし道の先を指している。
「さっきこの辺の地図を調べました。右手に行くと結構先まで行かないと裏の路地にはいけないみたいです。左だと比較的早めに回っていける様です。」
そう言う佐々の顔は少しにやけた様になっている。どうやら先程転びかけてまでエレベーターで調べていたのはマンション周辺の地図らしい。
「こっちです。」
「あ、ああ…。」
少し驚いた様なミナトをよそに佐々は小走りで自分を見ていた彼の右側を通り過ぎ、先程指し示していた方へと歩き出す。黙ってその後ろに付いて行くミナトに対し、佐々は振り返る事なく歩調を速めてドンドン先へと進む。マンションを出て200m程進むと左手に他の道に比べてかなり細くなっている道が見えた。佐々はそこの交差路で足を止めると再びARで地図を確認する。地図上ではその細い道を抜けて行くと裏手へ出れる様になっている。
「加島さん、ここの路地です。ここをずっと抜けてくと裏へ回れるようになっているみたいです。」
再びミナトを連れ立つ様に歩き出す佐々。ミナトは行く手を佐々に任せ、その後を付いて行く。二人が歩いている道は始め、先程まで二人が居たマンションの様な集合住宅や小ぶりなオフィスビルなどの新し目の建物が多い。そして二人が徐々に通路を進むと周辺の景色も少しずつ様変わりしていく。近代的な風景の表通りから比べると今歩いている周辺にはだんだん一昔前の古い色合いの建物が増え始めて来た。それに伴い、漂う空気感もどことなく変わっていく様に思える。
やがて何ヵ所かの小さな交差点を通り過ぎて、数分ほど歩くと今までよりも広い通りへと当たる。ミナトは通りの左右を見ると先程の福杉のマンションから見えた通りである事を確認する。そのまま今度はミナトの方が先立って道の左手へと進み始める。佐々と共に数分歩くと目的の喫茶店に到着する。マンションから見た遠目の外観から受けた印象同様、周辺の住宅地と同じ様に煤けた外装が目につく。日も随分と傾き、先程同様帰り足の人々が二人の横を過ぎ去っていく。昔ながらの呼び鈴の付いたガラス戸を開けると涼しい風が店内から吹き抜けてくる。それと同時に柔らかなコーヒーの香りも一緒に二人の元に流れてくる。店内は外観とは違い、綺麗に整えられており、内装もモダン調の落ち着いたもので清掃も行き届いている。今時見かけなくなった手本の様な純喫茶、見た所客も数人居る様だ。
「いらっしゃいませ。」
入口の目の前にあるカウンターテーブルの奥から六十代後半位の男性が声をかける。白い糊の効いたシャツの上から黒いキッチンエプロンを身に着け、白髪混じりの頭髪はバックへと綺麗に固められている。
「お好きな席へどうぞ。」
軽い笑顔で二人を促すと男は一度自分の後ろの部屋-恐らくはキッチンであろう-に消える。二人掛けのソファーテーブルを挟んで対面で置いてある四人掛けの席が3つと背もたれの付いた丸椅子2つとテーブルのセットが窓際に1つ、カウンター席5つと店内は二十人程度でいっぱいになる。既に一番奥のカウンター席に一人と真ん中の四人掛けの席に二人が座っている。
ミナトと佐々は入り口から最も近いカウンター席の二つへと座ろうとする。席に向かう途中何故かミナトは一度後ろを振り返り、入口の方を一瞥する。
「何してるんですか。加島さん、早く座りましょう。」
そんなミナトを見た佐々は大分疲れているのか、着席を促してきた。生返事で答えたミナトはもう一度だけ店先を確認する。窓ガラスの向こうには通りを挟んで事件現場のマンションを囲うフェンスとその外壁が見える。
席に座りながらその外壁を見ていたミナトの位置からは先程の部屋の窓は見えない。
「いらっしゃいませ。何をお召し上がりになりますか。今日のオススメはこちらのエチオピア産のシダモです。少々酸味がありますが、甘みも豊かな味わいとなっております。」
男は手書きのメニュー表の商品名を指しながら笑顔で対応する。
「じゃあ、それで。」
ミナトがにべもなく注文するのに対して、佐々はメニュー表とにらめっこしながら渋い顔をしながら悩んでいる。ミナトは男の顔と佐々の様子を見比べて、
「同じものを2つ。」
「承りました。少々お待ちください。」
男、店主は終始微笑んだまま、紙の伝票にオーダー内容を書き、カウンターの奥にあるドリッパーの方に向かう。店主の行った方を見ていると、何となしに嫌な感じがして、原因となっている方向を確認する。
向いた視線の先には不服そうにミナトの方を見つめている佐々の眼差しがあった。その恨めしそうな視線は口に出さずともミナトを攻めている事が分かる。
「そんなに睨むな。別にコーヒーを呑みに来た訳じゃないんだ、何頼んだって構わないだろう。」
「そういう事じゃないんですよ。それに折角こんな雰囲気の良いお店中々来る事ないんですから、コーヒー位好きなもの選ばせてくださいよ。」
相変わらず不満気にミナトへ呟く佐々はまるで子供の様に駄々をこねる。
「なら問題ないだろう。店主のオススメだ。この店で一番飲んでもらいたいものなら良いだろう。」
ミナトは佐々が不満気なのがやはりよく分らず、自身の判断を説明する。そんなミナトを見た佐々はほんの少し目を丸くした後に小さく嘆息する。
「加島さん、友達居ないでしょ。」
その佐々の一言に珍しくミナトの動きが止まる。
「何でもかんでもそう合理的に考えるものじゃないですよ。何となくそういうのは分かってください。」
黙るミナトに佐々が諭すように続ける。それを聞いていたミナトを困った顔をした後、しばらくするとフゥと長く息をつく。。
「えっ、どうかしましたか。」
ミナトの様子に佐々は自身が何かおかしな事を言ったのかと不安になる。そんな佐々の様子にミナトが声をかける。
「いや、悪い。昔似た様な事を言われた事があってな、それを思い出しただけだ。確かにそうだな。前にそう言われてから随分経つがすっかり忘れていたな。」
話すミナトの顔は佐々が驚く程穏やかに見える。佐々が面喰って何も話さずいると、カウンターの奥から店主がソーサーに乗ったカップを2つ、トレイに乗せて持って歩いて来る。
「お待たせ致しました。シダモがお二つです。砂糖、ミルクはテーブルの上のものをお使い下さい。」
二人の前にそれぞれコーヒーを置くと再びカウンター奥へと戻ろうとする振り返った背中にミナトが声をかける。
「申し訳ない、店主。少し話を伺っても良いでしょうか。」
そう言いながら身分証である警察手帳を見せる。隣でも同じ様に佐々も手帳を掲げる。既に先程の不満顔から凛とした表情に戻っているのを見ると伊達で刑事はやっていないのが分かる。二人の手帳を見た店主は僅かの間訝しげな顔をしたが、更に二人の顔を見ると、
「少し待っていて下さい。」
そう言うと店主は店の奥まで下がる。カウンターの端のスイングドアからフロアへと出てくる。そのままミナト達の横を通り過ぎると店の入り口へ向かう。そして入口に架かっていた〈OPEN〉の札を外し、代わりに〈CLOSE〉の札を架ける。店主はそのまま元来た動線を戻り、再びカウンターを挟んで二人と対面する。入口に架けられた〈CLOSE〉の札を見た佐々が店主を気にかける。
「申し訳ありません、営業中に。でもお店閉じても大丈夫ですか。我々が言うのもなんですがお話を聞くのにも邪魔にならない様にはしますので。」
「いえ、今日みたいな普通の日はこの後特別混む、という事もありませんし。丁度少し休憩でも、とも思っていた処だったのでむしろ好都合でした。」
紳士然とした店主は変わらず微笑みながら話す様子で佐々はまるで執事の様な佇まいだな、と感じながら「そうですか。」と返す。
「初めにお名前をお伺いしても宜しいですか。因みに私は加島、こちらは佐々で警察省東京職庁の者です。」
ミナトは佐々に話すのと変わらない様に平坦に落ち着いて話す。紹介されて佐々も小さく会釈する。佐々の会釈に店主も小さく返すと、
「私はこの店のオーナーで黒井、と申します。でも東京の刑事さんがこんな所までわざわざ何の御用で。」
「一年前にお店の向かいのマンションで大学の准教授が亡くなった事件はご存知ですか。」
店主、黒井はミナトの単刀直入な質問にしっかりと答える。。
「ええ、まあ結構な騒ぎでしたから。それに亡くなったのが随分有名な先生だったみたいでよく覚えています。」
黒井は話が長くなると感じたのか、身に着けていたキッチンエプロンを外すと畳みながらそばに置く。
「事件当時もこちらでお店を?」
「ええ、このお店は私の両親が始めたお店で、もう五十年近くこの場所で営業させてもらっています。勿論リフォームや手入れはしていますが。」
確かに再び内装に目をやると多少時間が経ってはいるが、流石に何十年も経っている様に見えない。
「今はお一人でお店を?」
ミナトも店内をもう一度見渡し、他の客を気にする様にする。
「ええ、基本一人ですが店の裏が自宅なので家内に店を家内に店を手伝ってもらう事も多いですね。」
「そうですか。因みにお子さんは?」
「息子が二人いますが二人共自立して今は家内と二人暮らしです。」
少し寂しげな黒井の様子を見ると息子二人、というのはあまり里帰りしていないらしい。
「申し訳ありません。話が脱線してしまいました。それで黒井さん、その亡くなった先生はこちらのお店にいらっしゃった事は?」
「私も事件の後に新聞の記事でお顔を拝見しましたが、記憶している限り来店なさった事はありませんね。」
僅かに考える仕草を見せた後、黒井は少し申し訳なさそうに答える。
「では事件の前後に怪しい人物を見たり、変わった事はありませんでしたか。」
ミナトの続く質問に黒井は嫌な顔せず、先程よりも長く考えると、
「申し訳ありません。一年も前の事なので正直あまり覚えてなくて。ただ、思い当たる様な人や事柄は無いと思います。」
やはり少し申し訳なさげに軽く頭を下げる。
「ところでどうして今更その事件をお調べに?しかもわざわざ東京から。ただの事故だったんですよね。」
他意無く黒井は自身の疑問をミナトにぶつける。
「いえ、今私共の捜査している事件に関係しているかもしれないので念の為に調べて歩いているんです。」
ミナトは当り障りの無い様な返しをすると目の前の黒井から視線を外し、再び店頭の軒先を見る。
「ところで軒先に設置されているあのカメラですが、あれは今も稼働していますか。」
ミナトが指すのはお店の軒先3カ所に設置されている古びたカメラがある。佐々もそこを見て、ミナトがこの店に来てからずっと気にしていた事をようやく察した。そして、当初からのその様子を思い出す。
「ええ、随分と古い型ですがまだ現役なんですよ、アレ。ただ、古い上に私や家内もこういう機械の類には弱くて…。」
そう言いながら身に着けているLINKAEDに触れる。確かに従来のスマートフォンなどのデバイスに比較すると使いやすいと言われているLINKAEDだが、元々そういったものに親しみの無い世代や人々にとっては両者には大きな差は無いのかもしれない。
「なのであのカメラもインターネット、ですか。そういったものには接がってなくて、店の事務所にあるパソコンとレコーダーに記録されているだけです。」
笑って自嘲する黒井に対し、話を聞いていたミナトがその話に喰い付く様にほんの少し身を乗り出す。
「すいません。因みにその記録映像って見せて頂けませんか。」
思いがけない申し出に黒井驚く。
「構いませんが、特に何も映っていないと思いますが。それに一年前の事件の時のデータは残っていないかと。」
少し顔を暗くし、ミナトへ申し訳なさそうに答える。そんな黒井の様子を見ていた佐々は黒井に対して非常に好感を持っていた。しかし隣に居るミナトは黒井に対して完全にフラットな状態で臨んでいる。
「大丈夫です。一度拝見させて下さい。」
「分かりました。少し待っていてもらって宜しいですか。いらっしゃるお客様が皆様お帰りになってからでお願いします。」
「ええ、お願いしているのはコチラですから。待っている間、コーヒーを楽しませていただきます。」
ミナトはコーヒーを手元へ持ってきながら初めて黒井に微笑みかける。黒井もそれに返すと二人に会釈してから二人の元を一度離れる。
結局店内からミナトと佐々を残し、客が全ていなくなるまで三十分以上かかった。黒井は最後の客が帰ると一度二人の所へ来て、既に空になっていた二人のカップにコーヒーを注ぎ直すと、「もう少し待っていてください」と言い残し、ミナトと佐々以外の食器をキッチンへと持って行く。暫くするとそれらの食器とキッチンを一通り綺麗にした後に二人の所へ黒井が戻ってくる。
「大変お待たせしました。こちらへどうぞ。」
そう言いながらスイングドアの所から声をかけてくる。二人は互いに目を合わせるとミナトが先立って黒井の元に向かう。黒井はカウンターの内側へ二人を招くとそのままキッチンの奥にある扉の前まで歩いて行く。
「ここが事務所になります。少し手狭で申し訳ありませんがお話の記録はここのパソコンに入っていますので。」
実際部屋に入ると物は多いが元々それなりの広さがある為かさほど窮屈には感じない。ただ、黒井が話していた様に室内は帳簿や古いメニュー表など随分とアナログなものが見受けられる。目当てのパソコンは部屋の奥、追いやられた様に設置してある。
「こちらです。狭いので気を付けていらしてください。」
黒井が先導しながら慣れた足取りでパソコンの元へと向かう。三人がパソコンの前に着くと早速ミナトが本体を含めて周辺を確認し始める。確かにデスクトップ型の本体や外付けHDDは型としては相当古く、好事家が見ればそれなりに喜ぶ様な年月は重ねている。更に配線などはむき出しになっている部分も多く、今時珍しい有線での回線接続となっている。
「以前は息子達が帰ってきた時は整理してもらっているんですが、何せ我々は未だに使い慣れていないもので、最低限使える様になってはいるんですが。」
ミナトはスリープ状態にあったデスクトップを起動する。表示されたデスクトップは比較的整頓されており、帳簿や発注書、レシピなどと思われるもののみで構成されていた。
「ああ、コレです。コレが監視カメラを見るためのやつです。」
黒井が画面を見て指したのは外に設置されていたカメラを模した絵と妙にリアルな片目の瞳のイラストが一緒になったアイコンであった。ミナトは黒井が指したアイコンをクリックする-ちなみに操作自体はマウスで行ったが、ミナト自身まさかこんな所でマウスを使う様な事があるとは思ってみなかったが-と専用のアプリケーションが起動する。起動音と共にいくつかのメニューが表示され、その右側に現在進行形でカメラが捉えている風景を映し出している。
数秒おきに3台のカメラの映像を切り替えて映し続ける画面をミナトは表示方法の切替のアイコンをクリックして三画面同時に見れる様にする。それぞれの画面には少し遅めの家路に就く人々が映っている。
「このカメラはずっと稼働しているのですか。」
「ええ。以前は営業中だけだったのですが、随分と前に泥棒に入られた事がありまして、それ以降つけたままにしています。」
稼働するカメラは意外と隙無く店の前を映し出して、比較的広範囲を捉えている。
「カメラのメンテナンスとかはどうしてらっしゃいますか。先程の話だとご夫婦共にあまりそういった作業はお得意ではないと思いますし、息子さんが戻られた折にだけメンテナンスなさってるんですか。」
「最初の頃はそうでしたがもう何年も息子たちが手入れをした事はありません。今は年に何度か専門の業者さんに依頼しています。」
そう言った黒井が近くの書類棚を漁り、一冊のファイルを取り出すとそれを佐々に渡す。
「それがその業者さんに関する書類です。」
ファイルの表紙と横の部分には
〈国立テクニカルメンテナンス〉
と、インデックスが宛てられている。佐々が中の書類を確認する。ファイリングされていたのはメンテナンスの作業計画書や結果報告、請求書など特別変わった書類は無い。ただそのファイル自体は変わっていて、
「こういう書類を紙でまとめているんですね。今時珍しいですよね。」
佐々は一通り目を通したファイルを目の前に座るミナトに渡す。それを受け取ったミナトもファイルに目を通し始める。
「なんだかんだで、やっぱりこういう紙が私ら、慣れているもんですから。普段は一度紙に書いてから時間のある時にパソコンに打ち直してますよ。」
効率悪いですよね、と苦笑いしながらそれでもどこか楽しげに話す黒井に佐々が笑って答えている。その横で書類に目を通すミナトであったがやはり見た所おかしな所は無い。
「ところで作業の時、カメラは全て止めてしまうのですか。」
書類上ではいつも作業は数時間の内に済んでいるのでミナトはカメラのメンテナンスが一度に行われているのものだと思っていた。
「いいえ、カメラは一台ずつ止めて順番にメンテナンスをしてもらっています。」
「それにしては随分と手短に作業が済んでいますね。」
実際この手の作業であれば数時間程で終わる事が普通だが、如何せん目の前の機材の古さを見るととてもそんな短時間に終わるものとは思えない。
「ええ、最初は他の業者さんにお願いした事があったのですが、見積もりの時に機材が古くて時間がかかり過ぎるかも知れない、と今の国立さんを紹介してもらいました。それからはずっと国立さんにお願いしています。」
黒井の口ぶりから本当に長期の間の付き合いの様だ。二~三ヶ月に一度の点検ではあるが、未だにこれらの機材が現役なのは使用者が丁寧に扱っているのもあるが、一方でこの業者自体も相応に腕の良い技術者なのだろう。ミナトは国立テクニカルの名を頭の片隅に留め置く。ファイルを佐々に返し、再びパソコンへ視線を戻すとカメラ映像の横に表示されているメニューからあたりを付けて一つのアイコンを選択する。画面上には昨日以前の日付が一覧としてリストアップされる。
「コレが過去の録画データですね。」
「ええ、日付を選んでもらうとその日の午前0時からきっかり24時間、翌日の0時まで録画されて、データとして保存される様になっています。」
確かに言われて昨日の日付のものをクリックすると表示された映像の右上には小さな表示ではあるが数字の羅列がある。左上には先程クリックした日付が表示されている。再生ボタンを押すと右上の数字がカウントされていき、秒数と思われる数字が増えていく。早送りをすると秒・分・時とそれぞれの数字が変化していくと共に映し出される映像も暗かった画面が陽の光を浴びて徐々に明るくなっていく。7時頃を超えた辺りでミナトは再生を止めて再び日付の一覧を閲覧し始める。リストをスクロールしていく。しかし直ぐにリストの一番下に辿り着く。その日付を見ると丁度三ヵ月前のものとなっている。
「やっぱりそんなに前のやつは残っていませんね。」
ミナトの背後からディスプレイを覗いていた佐々がガッカリとした声でミナトの頭の上まで乗り出す。すると黒井が二人の後ろから声をかける。
「そのままの画面だと今出ている日数分しか見れませんが、自動で別のファイルに保存される様になっています。」
失礼します、とミナトの使っているマウスを借り受ける。慣れた様子でそのマウスを使い、画面を操作する。
「ええと、あった。コレです。」
先程展開していたカメラのアプリとは異なるファイルを開く。更にその中にはいくつかのファイルが入っている。
「コレが自動的に保存されている過去の映像データです。」
黒井が表示した画面にミナトと佐々が見入る。ミナトは黒井からマウスを戻してもらう。展開されたファイルの中に更にあったのは三つのファイルデータ。するとそれを見た佐々が、
「確かに過去のデータは残っていますけど、これは…。」
佐々が口籠る様子を見てミナトも口を紡ぐ。三つのファイル名に表示されていたのはそれぞれ年月と思われる数字、そして二人がその数字を確認して同時に落胆する。表示されていた数字を見ると二人の予想していた通り、先程のアプリ内で確認した日付から更に三ヵ月前のものまでの画像データが保存されている。
「一つのファイルに一か月分。トータルすると今から六か月前までのデータだけ。これじゃあ、事件のあった一年前の映像は残っていない…。」
佐々の声に黒井も状況に気付いたらしく、ああと声をあげる。
「本当ですね。今まで碌に使っていませんでしたので気にしていませんでしたが。」
黒井はパソコンが乗っている机の引き出しから別のファイルを取り出す。ファイルをいくらか捲る黒井があるページで止まるとしばしの間目を通している様子だ。
「一ヶ月毎に自動でこちらのファイルへデータがコピーされる様になっていて、その後に元々の方が削除されるみたいです。それでもこっちのファイルには三ヶ月分しか保存されないみたいです。」
ファイルを読みながら二人に説明する。どうやら黒井の持っているファイルは監視カメラを管理するアプリケーションに関する説明資料が挟んである様だ。ミナトはマウスで展開されているファイルのプロパティデータを参照したり、削除されたデータの履歴を閲覧して、データの状況を調べる。暫くパソコンを調べている間、佐々は黒井に声をかけて彼の持つファイルを一緒に見ている。彼女は彼女で打開策を模索している様だ。ミナトは作業をしている手を止めて画面を凝視しながらしばし黙考する。すると、ガチャ、と扉の開く音がする。画面から目を離して扉の方へ顔をやる。扉からは小柄な老年の女性がこちらを見ている。
「お父さん、お客様ですか。こんな所で何をしているのです。」
現れた女性は部屋に入って来ると黒井と同様慣れた足取りでこちらへ向かってくる。
「ああ、ウチの妻です。スマン、声をかけていなかったね。こちらは東京の刑事さんだ。ほら、去年向かいのマンションで大学の先生が亡くなった事故があっただろう。それについて調べているそうだ。」
黒井が二人を紹介するとミナトと佐々は黒井にしたのと同じように手帳を見せて名乗る。近付いてきた奥さんは少し驚いた様にして二人に挨拶する。
「それにしても随分前の事をお調べで。てっきりもう終わっていたものだとばかり。」
黒井と同じ様な反応を見せた奥さんにミナトが重ねて説明する。
「ええ、事故自体の件はもう解決しています。私たちは別の件を調べていて、その先生の事件から関係しているものが何かないか調べていまして。御店の店先にあるカメラが気になりまして、もしかしたら、と思ってお伺いさせて頂きました。」
丁寧に説明するミナトの話を聞く奥さんに黒井が近寄る。
「どうした。何かあったのか。」
「いいえ、そろそろ夕食の時間なので声を掛けようかと思って。」
黒井夫婦はミナトと佐々の方を確認すると僅かの間何かを相談すると、
「もし良かったら夕食、ご一緒に如何ですか。いつも年寄り二人だけの食卓なので。」
黒井が笑顔で二人に声掛ける。それを聞いた佐々もその笑顔に応じる様に笑顔になる。しかし、その前で困った様な顔をしているのはミナトであった。彼はデスクトップで展開していたファイルやフォルダを閉じ、席を立つ。
「いいえ、私達はここでお暇させて頂きます。ただ、それでお願いしたい事があって。」
話を続けようとするミナトの脇腹を佐々が肘で突く。話を遮られたミナトは怪訝な顔で佐々の方を見る。すると佐々は軽い怒りを滲ませた表情をしてミナトを見ている。その顔を見たミナトは更に困惑した表情に陥る。
「加島さん、そういう所ですよ。臨機応変に答えていかなきゃ。機械みたいな人間って思われちゃいますよ。」
ミナトを見た佐々は夫婦に聞こえない様な音量でしっかりと釘を刺す。また、別で驚いた様に反応するミナトを横目に佐々が夫婦と話す。
「すみません、ウチの先輩堅物で。喜んでご相伴に預からせて頂きます。」
本当に嬉しそうに答える佐々にそれよりも一層嬉しそうに黒井夫婦が反応する。
「それじゃあ、今四人分用意してきますから、ちょっとだけ待っていてください。」
と、奥さんが張り切りながら言い残し、部屋を出て行く。残された三人の内、黒井と佐々が談笑を続けている中、ミナトは引き続き困った顔のままであった。しかし、気を取り直してやるべき事をやろうと決意する。
「黒井さん、待っている間、一つお願いをしたいのですが宜しいですか。」
佐々と話していた黒井が、なんでしょうか、とミナトの方へと向き直る。
「映像データの保存してあるあのハードディスクをお借りして行っても宜しいでしょうか。ウチの方で削除されたデータが復元出来ないか、調べさせてもらいたいのですが。」
ミナトは黒い外付けのハードディスクを指さす。
「ええ、構いませんよ。ただ私もどうやって外せばいいか分からないので…。」
快く答える黒井がミナトの傍に行き、件のハードディスクに触れる。ミナトは再びディスプレイに目をやり、パソコンをいじり始める。
「大丈夫です。差し支えなければ私の方で取り外させて頂いても構いませんか。」
ミナトが黒井に尋ねると再び快諾してくれる。許可が出たミナトは続けてパソコンを操作し始めるとハードディスクの中身を確認する。中には先程の映像データの他にも過去の帳簿の控えや夫婦と小さな子供たちが写った写真データが出て来た。すると後ろから黒井の声がした。
「ああ、懐かしいですね。随分昔の写真だなあ。子供たち連れて旅行に行った時のものですね。」
穏やかな顔で画像を見ている黒井の様子をミナトは静かに眺めている。そして次の写真へと画像を切り替える。
「楽しそうな写真ですね。」
二人の後ろからは佐々の感想が零れてくる。ミナトが何枚かの写真をゆっくりと展開していく。数分の間三人は写真を眺めていたが、ふとミナトが手を止める。
「黒井さん、申し訳ありませんが、こちらの写真データも一度ウチの方で預からせて頂きますが、念の為バックアップを準備しますか。」
確認された黒井は静かに首を横に振り、
「いいえ、大丈夫です。そのまま戻ってくるのならこのまま持って行って頂いて構いません。」
「分かりました。それではこちらのハードディスクは私の責任でお預かりします。」
「はい、宜しくお願いします。」
ミナトは引き続きハードディスクの取り外しを行う。パソコンの本体との接続を手順通りに開始する。先程からパソコンの中身を確認しながら自身のLINKAEDを使用して目の前のパソコンについてネットワークを介して調べていた。型としては確かに古いが決して無用の長物、という訳ではないらしく、あまり多くは無いが機器の詳細な操作方法や特徴が記された資料があった。ミナトはそれらの資料を基にハードディスクの取り外しを進めていく。佐々と黒井の二人はミナトの背後から画面を覗くと時折、へえ、だったり、ほぉ、だったり、声をあげながらミナトの作業を見守っている。ものの数分の間であったが、無事にハードディスクの取り外しが終わる。作業が終わるとミナトは辺りを見回すと部屋の更に奥に重ねておいてある紙袋の束から手ごろなサイズの紙袋と事務所のテーブルに積んであるタオルも適当に三枚持ってくる。
「すみません。こちらもお借りして行って宜しいでしょうか。」
両手で持った紙袋とタオルを指して黒井に尋ねる。ええ、構いませんよ、とこちらも快諾される。ミナトは持ってきたタオルで接続を外したハードディスクを丁寧に包むと同じく借り受けた紙袋へ静かに入れる。
「一週間程お借りするかも知れませんが大丈夫ですか。なるべく早く返せる様にはしますが。」
「いいえ、大丈夫ですよ。暫くは本体に保存されるのでもつと思いますから。遠慮なく活用してやってください。」
重ね重ねの快諾に有難うございます、と佐々が深々と頭を下げる。ミナトも佐々程オーバーではないが深く頭を下げると謝意を示す。
「頭を上げて下さい。これくらいの事でお力になれるなら喜んで協力させていただきますよ。」
目の前で頭を下げる若者二人に好々爺が慌てる様に駆け寄り、頭を上げさせる。するとノックする音がする。その扉が開いて奥さんが顔を出す。
「皆さん、お食事の用意が出来ましたよ。どうぞ、母屋の方へ。」
部屋に入らずにそのまま戻ってしまう。黒井は顔を上げた二人に、
「さあ、行きましょう。自慢じゃありませんがウチの妻の料理はなかなかイケますよ。」
笑顔で二人を先導する様に歩き始める。佐々は直ぐに黒井に付いて行く。ミナトはハードディスクを入れた紙袋を抱える。
「加島さん、早く。行っちゃいますよ、ほら。」
黒井の後ろからミナトを急かす佐々は完全に夕食へと意識がシフトしている。ミナトが声を返そうとするも佐々の背中は既に扉の向こうへと消えている。声をかけるのを諦めたミナトも渋々紙袋を抱えたまま部屋を出た。
結局その後一時間半程黒井夫婦と食卓を囲む事になったが、思いのほか奥さんの方が良く話す様で主だって話の発信をするのが奥さんとなり、それに佐々が楽しそうに応じる。男性陣二人は盛り上がる女性達に対して、黒井はにこやかな相槌を繰り返す。ミナトはそんな三人を静かに見ながら食事をいただく。話の主眼は黒井夫婦の二人いる息子達の事だった。途中奥さんは佐々の身の上話なども聞き始めていた。最終的に佐々が奥さんからまた遊びにおいで、と誘われるまでに及んだ。どうやら奥さんから随分と気に入られたらしく、娘の様に可愛がられるに至ったらしい。
帰りの車の中で佐々が黒井家の食卓の空気をそのまま持ち込んだかのようなテンションで未だニコニコしている。
「本当に素敵なご夫婦でしたね。加島さん。」
ミナトが生返事で返すのを気にも留めず、話し続ける佐々。
「でも、息子さん達が中々返って来ないって、なんか少し寂しいですね。」
そんな佐々も黒井家での話の中で自身が現在一人暮らしをしていて、親元を離れている、と話していた。
「私なんて未だにちょくちょく実家に帰ってるのに。」
佐々の実家は確か東海の方だった筈。本人曰く、頑張れば日帰りで帰れますから、との事。
「あとはおっしゃっていた通りお孫さんの顔が見れればいいですね。」
食卓では長男の方は既に結婚しており、それこそ随分とあの夫婦家には訪れていない、と話していた。その息子夫婦には現在子供は居らず、黒井夫婦は孫の誕生を心待ちにしている様子だった。更にまだ結婚をしていない次男の嫁に是非、と佐々が再三誘われているのをミナトは横目で見て黙って食事を摂っていた。ミナトは終始黙って食事をしていたが佐々が、
『こういう人なんで。』
という一言だけで何となくその場にいる全員がそれに納得した。
その後の車内で黒井家での出来事を楽しそうに話す佐々。ミナトが画面で時間を確認すると既に時刻は二十一時を回り。それなりに遅い時間となり始めていた。このまま本庁へ戻ると確実に二十二時を超える事は目に見えている。
「佐々は確か寮住まいだったよな。」
「ハイ、入庁してからはずっと寮暮らしです。これでもちゃんと自炊だってしているんですから。」
何故か胸を張って話す佐々にミナトは薄く答える。
「そんな事は聞いていないが。それならこのまま寮へ向かおう。」
「え。」
「こんな時間だ、今日はもう帰りなさい。俺も送った後そのまま帰宅するよ。」
ミナトは記憶を手繰り、寮の場所をナビに登録しようとしたが、ふと指先が止まる。それを見た佐々には常に見ないミナトの行動に困惑する。ゆっくりと腕を引いたミナトが佐々へ話しかける。
「スマン、佐々。悪いが行先設定に寮の住所を入れてもらっていいか。」
横の窓から外を見つつ、顔の見えないミナトに対し、佐々は今日何回目かのこぼし笑いを起きる。二人とも良く考えずともミナトが女子職員の住んでいる職員寮の詳細をしている筈がない。それを何故かミナトはそれを知っているかの様な反応だった。どうしてその様な反応をしたのか、ミナト自身にも謎だったが、佐々はそれで無性にミナトが近しい存在に感じられた。
佐々を職員寮に送り届けた後ミナトは念の為、伊豆に自身と佐々の直帰の連絡を入れる。明らかに業務時間外なので返信は無いだろうと思っていたミナトではあったが、直ぐに「了解」とだけ返信が来る。伊豆らしいと思いつつミナトも帰路に着く。佐々の寮は本庁から車で十五分程の所にあり、意外と遠く感じたミナトだったが、佐々は
『一応電車で来ても良いんですけど、基本的に歩いて出勤しています。』
と自慢げに語っていた。ミナトの部屋はそこから二十分程、本庁からも三十分程の距離にある、古びた小さなマンション。決して朽ちている様な雰囲気ではない。何となく陰気なのは周囲を一層高いマンションに囲まれ、陽の光が中々差しづらい為か。ミナトは自室のある二階へと屋内階段を使い上る。各階1DKの部屋が六部屋ずつあり、ミナトの部屋はその階の一番奥にある。LINKAEDの生体認証により部屋のロックを解錠する。扉を開けると真っ暗な部屋に感知式で、自動で明かりが点く。生活感の無いキッチンを通り抜けてダイニングに入る。ドアを開いた先には更に生活感の無い部屋が広がる。8畳ほどの部屋の中には二人掛けのテーブルセット、簡易なテレビボードの上に小ぶりなTV。他に目立った家具は無くやや大きめのパイプラック位である位で家主の特色が出る様なものはあまり無い。ミナトは足を止める事なく隣接する寝室へ入る。寝室も8畳程の広さがあったが、こちらはダイニングと異なり、随分と生活感が出ている。シンプルなシングルベッドにこれまた、シンプルなルームデスク。壁際には今時珍しく紙の書籍が数多く本棚に並んでいる。ミナトはスーツを脱ぎ、部屋着へと着替えるとルームデスクの椅子へと腰掛ける。首からLINKAEDを外し、机の上へ置く。深く息をつくと机上に伏せてある古い写真立てを撫でる。暫くの間静かに裏返った写真立てを見つめる。治安は決してよくないエリアではあるが、窓の外から聞こえる事は無い。無音の部屋の中、ミナトはゆっくりと立ち上がりキッチンへと向かう。ほとんどからの冷蔵庫を開けて、数少ない入庫物のペットボトル入りのコーヒーをグラスへとあける。いつも飲んでいる筈のものだが、今日はあの店で黒井が淹れてくれたコーヒーを呑んだせいか、随分と味気なく感じる。飲み干したグラスをシンクへ置くと、そのまま再び寝室へと戻る。久しぶりに疲れを感じた身体をベッドへと倒すとゆっくりと目を閉じる。今日はもうこのまま寝てしまおう。シャワーは明日起きてからにしよう。珍しくそう考えたミナトはそのまま微睡む中で今回の事件について少し思い返していたが。その内に思いの他強い眠気が襲ってきてそれ以上考える事をする事無く眠りに落ちた。
§
「社長、おはようございます。」
いつも通りの時間にいつも通り出勤するといつもの面々が既に出社していた。そのほとんどが二十台後半から三十代中盤と、比較的若い層で構成されている。これ以外にも社員は勿論いるが、やはり年齢層は若めである。
三木は朝の挨拶を交わしながら自身の牙城である社長室へと入る。オフィスの見える座席へと座ると今しがた挨拶を交わした部下たちを見る。皆、ラフな格好で作業に取り組んでいるのに対し、三木は少しずつ暑くなり始めたこの時季にもしっかりとジャケットで来ている。自身で会社を立ち上げて十年近くになるが、正直仕事上楽しいと思えた事は一度も無かった。常にアウェーの中で挑むべきものを見出してきた。皮肉にもその結果こうしてここに座っている訳だが。個人的には機会をいじったり、システムを構成したりすることは嫌いじゃない。むしろ学生時代はそういう分野で働こうと思って勉強を重ねていた。これからドンドン発展していく分野であると思って。実際その分野は日々、加速度的に進化していき、現在に至るまで目まぐるしい発展を遂げてきた。三木が想像だにしなかったレベルまでに。そしていつからか三木はその中で人が人を超えるものを作り上げてしまう事に言われようのない恐怖を覚えていった。それはテンプレート的なフィクションの世界を描いたエンターテイメント作品などの影響ではなく専門職故に来たるべき結論を導き出してします三木の憂慮であった。そしていつからか、自身が身を置く世界がとても危うく、一方で滑稽なものに思えてきてしまった。勤めていたシステム会社を退職した三木は一年程その場繋ぎの様な生活を過ごしていたが、日々情報として入ってくる新たな世界への足音に堪え切れなくなった。そんな中で偶然目にしたのが学生時代に読んでいた〈孫子〉の一説である
《彼れを知りて己を知れば、百戦してあやうからず》
使い古された言葉ではあったが、その時の三木にとっては啓示の様にも感じられた。三木はその言葉を踏襲する様に自身の技術を生かす事で自身の敵としたものを図る事を行った。そして結果として大きな規模ではないが、新進の企業としては異例の年商を得るまでに至った。しかし三木自身はその手の事に興味が起きず、収益をなるべく社員に還元した結果、彼らの士気が思いの他高揚してしまったのは三木の計算違いであった。
始業の鐘が鳴る。メリハリのある環境がいいと起業当時から使用している。オフィスの社員達も慣れきっており、一同に各々の仕事に没頭し始める。そんな彼らを改めて見ながら自然とそれぞれが付けているLINKAEDに目がいく。若い彼らはその身に着けているものは生まれた時から至極身近にあるもので当たり前にそこにあるものだろう。そして三木は自身の首のそれを撫でる。確かにLINKAEDが世界的に普及して世の中は劇的に発展した。このデバイス一つで生きていくのに必要な事は賄えてしまう。三木自身もこの仕事を含めてその利便性は十二分に理解している。だが、一方で原始的不安、違和感と言ったものがどうしても拭い切れない。だからこそ「あの男」の言葉は心地良く胸に響く。今から一年前突如入ってきた見知らぬ連絡先からの着信。常の自分だったら応じなかったであろうその着信をその時の自分は受けた。そして「あの男」に出会った。
すると突如の着信音に三木の意識は急激に社長室の椅子の上に引き戻される。狙ったかの様な着信によもや、と思い表示される相手を確認する。しかし表示されていたのは思い描いていた人物の名ではなく、古くから付き合いのある得意先の社長の名であった。三木は一息つくと着信に応じる。沈んでいた思考をいつも通りの経営者としてのそれに切り替えると彼のいつもの一日が始まった。
§
キャンパスの中を歩くミナトに背後から声がかかる。振り返ると男が一人立っている。同じゼミの学生で名前は秋野とか言う名前だった筈。クラスで何度か話した記憶がある。
「おう、加島。今帰りか。」
5m程向こうから駆け寄ってくる秋野の後ろには数人の学生のグループがいる。ゼミでは会った事無いが、見た事のある顔がいくつかある。恐らく学科グループの同じ面々であろう。
「ああ、秋野。どうした。」
足を止めたミナトに駆け寄った秋野も彼の目の前で止まる。表情を変えずに秋野を見るミナトに対して秋野は笑顔でミナトに話しかける。
「今から皆でメシでも食いに行こうと思うんだけど、加島も一緒にどうだ。今まであんまり行った事無いだろう。」
後ろの集団を指差す。指を差された集団では数人の男女がこちらを見てニコニコしている。秋野を含め彼らの殆どは構内で孤立している様に見えるミナトに善意で声をかけてくれている様だ。特段他人との交流を絶っているつもりはないが、性格上あまり友人は多くはない。というよりは傍目から見ると完全に「ぼっち」というヤツである。今後の学生時代を考慮すると軽々と没交渉を選ぶ程ミナトも子供ではない。都合の良い事にこの後特段用事がある、という事でもない。
「分かった。付き合わせてもらうよ。ただ、少し済ませておきたい用事があるから、後で現地集合しても構わないか。」
ミナトの提案に秋野は若者特有のノリの軽さを見せて、「OK」と答える。
「それじゃあ、連絡先交換しようぜ。まだ交換してなかったよな。」
秋野がAR画面を操作してミナトとの連絡交換の準備を行う。ミナトが待っているとAR上に通知が表示される。
【M・AKINOよりパーソナルアクセスの申請が来ています。許可しますか?
OK/NO 】
表示されたのはLINKAED同士を直接コネクトさせる許可を確認する画面。【OK】を押すと続いて画面上に秋野から送付されたパーソナルデータが表示される。名前や生年月日、連絡先など、彼のプロフィールが表示されている。ミナトの経験上比較的詳細なプロフィールの様な気がする。ミナトは経験が乏しいが、若者の特有の’プロフ’というやつである。すると画面の上に、
【こちらのパーソナルデータを送信しますか?】
という確認が表示される。メッセージ欄をタップすると新たな画面が表示される。表示された画面には相手に送信したい情報を選択出来る様に複数の項目とそれぞれにチェック欄が並んでいる。ミナトは秋野と異なり、最低限の情報のみを選択して秋野へ返信する。返信されたものを受け取った秋野は自身の目の間に表示された画面を見て一瞬表示を曇らせたが、直ぐに先程と同じ様な笑顔を取り戻すと、
「OK、これでいいな。それじゃあ、俺達は先に行ってるから用事が終わったら連絡くれよ。」
そういうとミナトが「分かった」、と答えたかどうか位かのタイミングで彼の肩を叩いて走り去る。その後ろ姿をミナトは黙って見送る。学生の群れへと合流した秋野が二、三話すとこちらを学生達が見る。何人かは少し驚いた様な表情をしているがミナトは気にせずその場を去ろうとする。
「それじゃあ。加島、また後でな。」
向こう側から大きく手を振り立ち去る秋野。何人かは秋野に合わせてミナトへと手を振っている。一応、それに対してミナトは軽く手を挙げて答える。結局一団が立ち去るのを見送る形となった。誰も居なくなった歩行路を見つめていたミナトに再び後ろから声がかかる。
「随分と大学生らしい生活を送っているんだね、’加島君’。」
そうミナトに声をかけたのは彼より小柄な青年が立っている。ミナト自身、成人男性並みの慎重であるが、後ろに立ち彼はそれよりも10㎝程低い。
「珍しいじゃないか。君が他の子達と関わろうとするなんて。どんな心境の変化だい。」
「別に。」
「ふうん。」
簡単なやり取りをするとミナトの顔を一つ見て、振り返り歩を進める。自然と彼の後ろに付いて歩いて行く形になるミナト。直ぐにミナトは前を行く友の隣に並ぶ。構内を並んで歩く二人は少し離れた所にある研究棟へ入る。
「それで、いつまで付いて来る気だい。」
足を止める事も無くミナトに尋ねる。
「まあ、どうせ少しの間だからな。気の済むまでさ。」
「君、用事があるって言って、後で合流する事にしてもらったんだろう。その用事ってやつはどうした。」
既に分かり切った笑みをこぼして話し始めている彼にミナトはまだ様相を崩さずに、
「うん?ああ、それはアレだ。お前の研究を手伝う、という用事だ。」
事も無げに言い放つミナトに青年は噴き出してしまう。
「おや、そんな事を僕は頼んだかな。覚えがないな。しかし、それこそ珍しく僕に親切じゃないか。どういう風の吹き回りだい。」
「なに、たまには友人の研究に力を貸そう、という俺の人の良さだろ。」
クスクスと笑う青年に真顔で返すミナト。傍目にはなかなか分かりづらいミナトの冗談も付き合いの長い彼には容易く見分ける事が出来る。
「全く、それだったら最初から誘いを断ればいいのに。わざわざ人をダシに使ってまで無理に行く必要があったのかい。」
先程はぐらされてしまった彼は改めてミナトの珍しい行動を問いかける。
「まあ、俺も人並みの大学生の学生生活を送ろうと思ってな。というか、コウヤ、お前も少し周りと合わせていこう、という気はないのか」
ミナトがそう言うとまたクスクスと笑う青年がミナトの方を向くと、
「なんだい、君。突然社会適合性にでも目覚めたのかい。それともアカネちゃんに何か言われたのかな。」
ミナトの顔を、その向こうを見ながら話を続ける。そして青年の予想通り、彼の言葉に対してミナトの表情が微かに苦虫を潰した様に変化する。これもまたミナトとの付き合いの長い彼だからこそ見て取れた微妙な変化であった。それに気付いたミナトは片手で少し頭を抱えながら少し遠くに視線を向ける。しばし何か追い出すように考えると。
「この間アカネに言われたんだ。『兄さんは人間味が足りない。少し人と関わったらどう?』って。正直ピンときてないんだが、まあ言っている本人があの性格で友達なんかも多いから、戯言と言って聞き過ごす訳にもいかなくてな。」
また分かりづらいのだが、青年にだけ分かる様な苦笑が見える。そんな彼の様子に、
「相変わらずアカネちゃんにだけは弱いね、ミナトは。僕が同じことを言っても気にかけもしないだろうに。」
「そも、お前にだけは言われたくない、この人間失格め。機械と触れ合っている時間の方が圧倒的に多いだろうが。」
「おやおや、随分失敬な事を言うじゃないか、ミナト君。これでも僕は君が考えているより触れ合っている人間は多いつもりだよ。」
互いに古くからの知己である二人のやり取りは彼らにとってはとても心地良く、こうして二人きりにならなければ見られない光景でもある。階段で2つ階を上がった先にあるとある研究室の前に到着する。青年が律儀にノックすると中から「どうぞ」と声がかかる。二人は扉をくぐり中へ入ると、
「御堂教授お疲れ様です。」
青年が挨拶すると様々な電子機器の溢れる室内から壮年の男性が顔を出す。
「やあ、今日は加島君も一緒か。どうぞかけてくれたまえ、と言っても座る所がないか。スマンが、その辺りの椅子を空けて勝手に座って待っていてくれ。」
それだけ言うと顔を引っ込めてまた何やらAR画面に向かい直す。いつもの事なので青年もミナトも好き好きに手近な椅子を引き寄せて乗っている資料などをすぐ傍の机の上に置く。空けた椅子に座った二人はそれぞれにAR画面を展開する。ミナトが開いた画面上には早速秋野からメッセージが届いていた。
【駅前のオフオフに居るからヨロシク?】
オフオフ、正式にはOff―Offであるが、リーズナブルな値段で食事を楽しめる大手ファミレスチェーンである。食事の味は値段相応だが、多彩なサイドメニューとドリンクバーの手頃さで学生や子供達には大人気だ。ミナト自身は入った事は無いが、聞き及ぶ限り確かにあそこなら彼らの持て余す時間を消費するには丁度良い場所だろう。ミナトは表示されていた秋野からのメッセージを閉じると近くに座っている青年の様子を見る。彼も自身のLINKAEDから研究資料に目を通している様だ。ミナトはその様子を見て邪魔をしないように自分は手持無沙汰になりながらも、声をかける事なく室内を見渡す。月に一度程しか来ないが一見雑然とした室内ではあるが、部屋の主に依然聞いた際に、
『いやいや、この状態で十全なんですよ。』
そんな事を不敵な笑みを携えながら話していたのを覚えている。
この部屋の主である御堂ケンユウ教授は国内最高峰のAI開発の研究者であり、従来の専門的な自身の研究の他に数は少ないが、講義の時間も受け持っている。しかし、ゼミなど学生と直接交流するような形は設けていない。
しかし、どういった経緯か分からないが目の前の旧友は個人的に御堂教授の門下生の扱いとなっている。そしてミナトも学科は異なるもののこの教授の研究に関心を引かれて旧友に連れ立ち、この研究室へ訪れる様になった。ミナトは専門ではないので二人が話しているのを聞いている事が多いのだが、その内容が自身の理解の範疇を超える事も多い。しかし、ミナトはここで過ごす時間が比較的好ましく感じられていた。
暫くすると作業が一段落付いたのか、機材の陰から御堂が姿を現す。
「いやあ、スマナイ。待たせたね。」
ヨレヨレのYシャツに色のくすんだスラックス、ほとんど手入れのされていない荒れた髪の毛、そして無精髭を気にする様子もない。とても第一線のAI研究者とは思えないナリをしている。しかし、その瞳は妙に鋭く感じられる時があり、ミナトが出会ってきた人物の中でもひときわ深い知性を感じさせる男であった。傍に座る青年も御堂の姿を視界の隅で捉えた様で作業を中断して御堂へと向き直る。
「教授、進捗はどうですか。」
椅子に深く座り直し、御堂へ問いかける青年。それに合わせて二人で視線の席を御堂の顔へ合わせる。
「至って順調だよ。もう少しで一つ目途が経ちそうな感じだよ。」
「それは良かったです。流石教授ですね。」
青年には珍しく、純粋に人を褒めている様子はミナトにとっても見るに貴重な事である。
「まあ、確かに基本構造の理論を考えたのも、そのプログラミングをしたのも環境設定まで仕上げたのはこの私だが、お前の手伝いもまずまず良かったよ。」
御堂の口ぶりはいつも通りなので特に気にならない。青年に至っては当たり前の様に御堂へ切り返す。
「手伝いのレベルじゃなかったですけどね。教授の理論は僕が来る前から一定以上完成されていたけど、なかなか上手くいっていないじゃないですか。僕の規格したエラーフィルターシステムで都度尻拭いをしているこっちの身にもなってみて下さいよ。」
いつも通りの二人のやり取りは何一つ変わらない日常。二人が専攻する分野は共に人工知能、特にその世界では王道と呼ばれる学習型AIの研究であり、この部屋で交わされる話の大部分がそれだ。ミナトは彼らの影響で専門分野ではないが周囲からは相応の専門性の高い学生として認識されてしまっている。とはいえ、ここに来るとミナトなどは他の学生とも大差なく感じられる程。一方で青年は御堂のまでは言わないが、自身と御堂の間にも大きな隔たりがあると以前こぼしていた事がある。ミナトから見るとその差はよく分からない。
「御堂先生、今はどこまで開発が進んでいるんですか。」
雑談を続けている二人を気遣いながらミナトは御堂に問いかける。大した話をしていなかった御堂はすぐにミナトへと向く。
「ああ、前にも加島には話したかとは思うが、現在〈セブンズ・ブレイン〉と呼ばれる世界最高峰と言われるAI達も学習型AIである事は周知の事だ。彼らは初期段階では必要な情報を取り込み、それを基に分析・解析を実行。それらの回数を重ねる毎に’経験’として自己の中に蓄積していく。そして、〈セブンズ・ブレイン〉は従来のAIに比べて、蓄積された経験値を分析して自身へと投影していく。その能力の起源となったのがこれら全ての元となったAI、〈テンマ〉。〈テンマ〉の持つ多重演算サーキットは開発者である紫門博士が開発したシステムだ。この’オリジナル’は次世代機である〈セブンズ・ブレイン〉の登場によるテンマの退場と共に姿を消した。」
ここで御堂が一息つくと今度は青年がミナトへ話し始める。
「それらは表向きには『セブンズ・ブレイン、次世代演算サーキット搭載AIの台頭による旧型の除籍』、という事になっている。表向きはね。」
「でも、実際は違った。君達も知っての通り〈セブンズ・ブレイン〉は非常に優秀で我々人類史上、最高叡智の結晶の一つと言っても過言ではない。しかしその実、ただの一機も〈テンマ〉に匹敵するものは無かった。」
御堂は二人に語りかける様にして、実際は自身の思考を反芻する様だ。
「〈テンマ〉が有していた演算サーキットに比較して次世代機の演算サーキットは純粋な演算処理の能力は明らかに向上していた。単純な情報処理なら確かに上だ。しかし、〈テンマ〉の最たる特徴は我々のいうところの’心’、というのを学習していたところだ。それまでのAIも人間の感情や心の動き、といったものを情報として蓄積し、分析する事は既に実現されていた。しかし、それを理解し、情報処理に適用する事の出来たものは無かった。」
手元に持っていてペンを回しながら青年が注釈を入れる。ミナトは話を聞きながらも相変わらず今時珍しいものを、今回はペンであった、持っている友人に感心する。
「言ってしまえば、彼らは‘感情’と‘行動’を別々に捉えて、それぞれの情報として扱っていた、という事だったんだ。」
「しかし、そんな中で現れたのが〈テンマ〉だった。〈テンマ〉は既存のAⅠ達の様に人間の感情データを蓄積・分析するに止まらず、それを自身に投影させていった。」
いつの間にか腰かけていた御堂が席を立ち、窓際まで行くとその縁に寄り掛かる様に座る。
「それは結果として現行の七機にもみられるものだ。
しかし、それはあくまで仮初のものに過ぎなかった。実際は〈テンマ〉には秘匿されていた機能があった。」
「’人格’」
ポツリと呟く青年は先程談笑していた時とは全く違った雰囲気を纏っている。
「人格…。」
AIが生み出されて以来ある種の開発のゴールとされる事があった。「人格的AI」。人工的に生み出されてAIに‘自我’と言っても良い個が生まれる。それは数ある人類の探求の中でも極致とも云える夢。
『無からの有の創造』
その体現とも言える。しかし、現実で実際にその段階まで進んだAIは無かった。
「ただ。その事はほんの一部の研究者を除き、全く知られる事の無い事実でもあった。
実際、私も全くそんな事は知らずにあくまでセブンズ・ブレインの基になったAI、位の認識しかなかった。」
そこで御堂が言葉を切り、青年の方へと目を配らせる。
「コイツと出会うまではな。」
クスリと笑った青年は一瞬ミナトの方を見ると再び御堂へと顔を向け、
「僕じゃなくて、僕の両親の残した研究資料でしょ。」
御堂と二人笑い合う青年。今度はミナトの方へ振り向き、
「覚えているだろ、ミナト。僕の父親も君のお父さんと同じ研究所に勤める研究者だった。そして、僕の父は人工知能について研究する中でテンマについての資料を持っていた。でも父の研究資料はあの事件の際に研究室ごと焼失してしまったが、ほんの一部が自宅に残っていてね。それを父の後輩だった御堂教授が遺品整理の際にどうしても、言って写しを譲り受けたんだ。」
「まあ、彼とはその時からの付き合いでね。でもまさか私の居る大学に進学してくるとは思ってなかったよ。」
「いえ、特に意識はしていなかったんですけど、でも似た様な分野を学んでいれば自然とこうなりますよね。」
少し呆れた顔をする御堂を見る青年。
「まあ、それはともかく。鏡の父親が残した研究資料は本当に極僅かだったが、その資料にはさっき言った〈テンマ〉の機能が記載されていた。」
そこでミナトはひとつの疑問を抱いた。
「でも、何故その〈テンマ〉の成長と言える変化が公表されなかったですか。そんな重大な発見なら開発者本人だけじゃなく、周りが公表するでしょう。」
これに答えたのは隣に座る青年だった。
「確かに。でも、当時の開発者の殆どがその成果を知らなかったんだよ。」
その言葉にミナトは唖然となる。
「そんな事が起こり得るのか。いくら秘匿性の高い研究とはいえ、相応の数の関係者がいた筈だ。それら全てが事実を認識出来ない、なんて事があるのか。」
「普通は有り得ないね。あそこに集まっているのは国内屈指の研究者達だからね。ただ、彼らに匹敵する頭脳或いは超越したものならば可能かもしれないがね。」
ミナトに微笑む青年はそこで話を切る。
「実際はどうだったのか分からないが、事実として〈テンマ〉の変化を知っていたのは開発者である紫門博士と彼に近しいものだけだった。その中に…。」
「僕の父親が居た。父は紫門博士の助手だった。」
笑っていた青年の顔が一瞬引き締まる。
「だからこそ我々は彼の残した資料から〈テンマ〉に関する真実を知る事が出来た。それらの資料から私は今の七機に出来なかったその機能の再現を目指す事にしたんだ。」
「僕自身も自然とそっちの道を志しちゃったんだよね。父の資料は僕の手元に残っていたんだけど、義父さんにも義母さんにもその手の事には疎いから。結局頼るところ、この御堂教授になったわけだ。」
この時初めてミナトは二人の関係性の由来を知る。彼が初めて御堂を紹介する時に「ちょっとした顔見知り」と紹介してくれた事を思い出す。
「まあ、正直最初の内は若い事もあってあまり期待していなかったのだがね。しかし流石、と言ったところだよ。あの両親にしてこの子あり、と言ったところだよ。」
照れ隠しなのか、少し怒った様な表情で御堂を見る青年が可笑しくて、ミナトは吹き出してしまう。そしてそんなミナトの様子を見た二人も合わせて笑い合う。妙に気の合う三人はいつもこうやってなんとなくの談笑を重ねる。ミナトが居る間は二人とも作業しながら会話を投げ合う。ミナトはここに来て出来る事はほとんどないが、青年からしてみれば、「居て、会話してくれるだけで意外と息抜きになるもんだよ。」と、いう事らしい。
そして結局この日も二人が研究を進める横で彼らの話し相手をしている内に先の約束の時間から随分と思考が離れてしまった。
虚数遊戯(中)へ続く。