5.なろうエッセイ・批判系エッセイ(過去作は検索除外しているのでこちらから)
「テンプレかどうか」なんてことより、「面白いかどうか」で論じませんか。
ページ下部に、本エッセイで取り上げた拙作「血まみれジーニャ」や参照した記事へのリンクを置いています。よろしければ、そちらも参考にしていただければ、なんて思います。
以前私は、『Welcome to the tavern of 「bloody Jenya」 ~ 血まみれジーニャの酒場へようこそ』という、ハードボイルドな作品を書いたことがあります。全四話、約一万字程度の短編小説で、極寒の街を舞台としたハイファンタジー作品なのですが。命のやり取りが当たり前のように行われる街での友情と非情を描いた、そんな作品ですね。
まあ、流行というのをこれっぽっちも意識せずに書いた作品です。ハイファンタジーはランキングのハードルが高いですし、結果ほとんど読まれないまま、なろうの片隅にひっそりと眠っているのですが。
――この「血まみれジーニャ」という作品をね、ちょっとした思いつきで「異世界転移」にして、このエッセイと同時に公開してみたんですよ。異世界転生/転移のランキングは300位までありますからね。タグも付くし、もしかしたら読まれるかも、なんて感じで。
ええ、まあ要するに、実験的に非テンプレ作品に「なろうテンプレ要素を付与」した訳です。……まあ正直に言うと、思ったよりは内容が変化したのですが。それでも変更前と、本質的にはあまり変わらない作品になっていると思います。そりゃそうです。単に主人公が現地で生まれたか現代社会で生まれたかの違いしかありませんからね。違う作品になると思う方が不思議です。
まあ、出来はともかくとしてね、可能であればこの「血まみれジーニャ」という作品を一度読み比べていただきたいのですよ。一つのハイファンタジーな作品の主人公を異世界転移に変更しても作品が劇的に変わったりはしない、一つの例になるかと思いますので。
――というか、確かに主人公が異世界転移していますけどね。むしろ「テンプレ詐欺」みたいな感じの作品になっていると思いますが、如何でしょうか。
◇
実のところ、この作品がテンプレ詐欺作品になった理由というのは明確で、ハードボイルドの物語に「異世界転移」というなろうテンプレ要素を付け加えながら、それに付随するはずの「異世界転移テンプレの面白さ」は盛り込まないようにしたからなのですが。
つまり、この「異世界転移版血まみれジーニャ」という作品には、「なろうテンプレの持つ面白さ」がまるっと欠けています。その代わり、元々あった「ハードボイルド」の面白さはそのままです。だからこの作品は、異世界転移という「なろうテンプレの要素」を使いながら、テンプレらしくない作品になった訳です。
――なら、「異世界転移の持つなろうテンプレとしての面白さって何か」という話になりますよね。
まあ正直、「異世界転移の面白さ」なんて明確な定義がある訳でも無いですし、論者によって変わると思います。なので、あくまでこれは自分の見解なのですが。でもまあ、その面白さを一言で言い表すことはできると思います。
――基本的に「異世界転移」の面白さというのは、「貴種流離譚」の面白さと同じものですよ、と。
異世界転移というのは、端的に言うと「一般人を貴種(特別な人)にするための手続き」です。異世界転移をすることで、それまで一般人だった人が一般人でなくなります。なので後は、その転生者に故郷を与えて旅に出せば、それだけで「元一般人による貴種流離譚」になる訳です。
◇
異世界転移というのがなろうテンプレにおける「物語の型」なら、貴種流離譚は非テンプレにおける「物語の型」です。最近よく「なろうテンプレには型があるけど非テンプレには型がない」なんて言葉を目にしてしまうのですが、とんでもない話です。本当に型に当てはまらない作品というのは、物語と言っていいのかどうか疑わしいような、そんな文章になるはずです。特に長編以上だと、そんな小説はほとんど無いと思います。
……まあ、例外は常にありますからね、スタニスワフ・レムの「虚数」とか。でも、こんな作品、本当に極僅かだと思います。
物語というのは大抵、どんな個性にあふれていても何かの型に当てはまっています。それは、日本中にあるファミレスを始めとした料理屋さんがありとあらゆる料理を出しながら、その全てがまぎれもなく料理の枠の中に入っていて、なおかつそれぞれの美味しさがあるというのに似ています。
どれだけ独創的なレストランでも、出す料理は料理の枠から外れていませんし、他には無い味を求めて不味くもしていないと思います。
和食に飽きたからと言って「非和食」を求めて、その調理法まで否定する。焼く、煮る、茹でるを否定して料理は美味しくなりますか? 私はとてもそうは思えません。「非和食」でも、焼く、煮る、茹でるといった方法で料理を作るべきだと思います。
小説もそれと同じで、俗にいう「非テンプレ作品」を書きたいとしても、それが物語になってないといけないし、面白くなくてはいけません。そのためには貴種流離譚のような「なろうテンプレに該当しない型」を使って物語を構築すべきです。そして、その構造や面白さは多くの場合、「異世界転移」のような「なろうテンプレの型」と同じなのです。なろうテンプレも非テンプレも、展開そのものには多くの共通点があるのです。
テンプレ作家が非テンプレ作品を書きたいのなら、「テンプレを外す」と言ってなろうテンプレ的な展開を避けるのは悪手だと思います。そんなことをする位なら、同じ展開のまま非テンプレにすることを考えた方が良いと思います。つまり、「異世界転移」を「貴種流離譚」に変えて、後はできるだけ同じようにしたほうが良いのかなと。
なろうテンプレにない展開を考えるよりも、現実世界でチートを駆使して俺ツエーするような作品を考えた方がまだ現実的なはずなのです。そうですね、シュワちゃんvsソ連軍数万とか、そんな感じでしょうか。きっと映画化すれば全米No.1にだってなれる、そんな作品だって作れると思います。
でもまあ、それよりももっと良いと思える方法もありますけどね。
――「面白いなろうテンプレ作品を書いて読者を黙らせる」私には、これが一番真っ当な方法だと思えます。
結局ね、素人だろうが趣味だろうが、面白さは目指すべきだと思うのですよ。
◇
2017年の年末から2018年にかけて行われた「第6回ネット小説大賞」の最終選考総評に、とても興味深いことが書かれています。そうですね、正直、最近のエッセイランキングを騒がせてきたものの答えの一つが、既にこの時点で提示されているように、私は感じるのです。以下、その総評の一部分を引用します。
―― 第6回ネット小説大賞 最終選考総評 ――
応募作の傾向として、今の読者の好みやすでに書籍化されたヒット作をしっかりと研究している作品が多いように感じました。全体に粒ぞろいのコンテストだったのではないでしょうか。
特に一次・二次選考通過作の中からは、作者の個性を表現しつつ、今の読者に刺さるキーワードを上手に組み込んでいる作品に多く出会うことができました。
こうした、読者にいかに楽しんでもらえるかという視点はエンターテインメント作品にとって欠かせないものです。自身の感性・個性を作品に注ぎ込みながらも読者に楽しんでもらえる作品に仕上げていく、その姿勢を今後も持っていていただきたいと思います。
……(中略)……
一方で、上記受賞作など目を見張る作品が出ているものの、一番層の厚い「異世界転移・転生もの」小説の方が、例年に比べて魅力的なものが少なくなったことを複数の出版社様が感じられました。作品数が多く差別化が図りにくい部分もありますが、だからこそ本当に面白い発想や物語、心地よい文章は出版社の目に止まります。
また、『小説家になろう』といった投稿サイトが成熟していき、『人気作』もわかりやすくなり、誤解を恐れずに表現しますと、『人気作になる方法』もある程度わかってきた印象があります。それは悪いことではなく、読者のニーズを捉えようとする作者の方の努力の賜物であると考えておりますが、一方でそちらに終始してしまっては、著者の方の持っているポテンシャルを失ってしまうことにもつながりかねないと感じます。
……(中略)……
受賞作品を選定するうえでその作品にしか出せない個性の部分は非常に重視されます。流行りのテンプレや設定などによって、同じような作品が増えていく傾向にありますが、その中でもどこかオリジナリティを感じる作品に注目しました。人気トレンドを押さえることも重要だと思いますが、読者が本当に読みたいと思える作品には、王道や流行を抑えつつも、あるいは抑えているからこそ、既存の概念にとらわれない、『その作品だけのセールスポイント』が必要であると考えます。
……(中略)……
このような、新しい目を見張るギミックについて、自身の『書きたいもの』から来るのか、考え抜いた末のギミックからくるのか、といったところは違いますが、コンテストとしては市場の壁を破っていただけるような作品の登場を願ってやみません。
―――――――――――――――――――――――
どうでしょう? 実は私は最近のランキングを知らないのですが、この総評には、最近エッセイやその感想欄を騒がせてきた内容から感じられることが綺麗にまとめられていると、私は感じました。
この総評が書かれたのは2018年の半ば頃でしょうか。まあ、「第6回ネット小説大賞」の応募はその前年から始まっていましたし、もう少し前からこの傾向は進んでいたのかも知れません。ただ、この数年間、ここに書かれているような事が少しずつ進んでいたのではないでしょうか。
――この総評の中で『一番層の厚い「異世界転移・転生もの」小説の方が、例年に比べて魅力的なものが少なくなったことを複数の出版社様が感じられました。』と述べられています。この言葉をね、テンプレを書いている書籍化志望の作家さんは無視しない方が良いと思うのですよ。「最近のテンプレはつまらなくなった」そんなことを出版社に言われたのですから。
◇
福井晴敏という作家がいます。「終戦のローレライ」「亡国のイージス」という作品で有名な方で、「ガンダムUC」という作品の原作者でもあります。そして大のガンダムファンでもある、そんな方でもあるようです。この方が、そのガンダムUCの映像作品の特典として受けたインタビューの中で、次のようなことを述べています。
――「今のコンテンツはお粥化している」と。
今のコンテンツ業界では「美味しいだけでは食べてもらえないので、もう噛まないでもいいお粥のようなものにして相手の口元にまで持っていく」そういったことが「供給側によって」行われていると、そういう話なのですが。でもまあ実際は、流通とかマーケティングを考えていくうちにそうなったんだろうなと、そんな風に感じる訳です。
……なろうのランキングとかもそうですよね。読まれるために必死になってどこまでも読みやすく、わかりやすくしていく。一話あたりを三千字前後にして毎日更新する。高頻度で更新することを求められる以上、文章を圧縮せずに単純に内容を薄くしていく人も多くなると思います。で、その延長なのでしょうね、「ナーロッパという共有世界を利用して」みたいなことまで言われ始めたりもする。
ナーロッパって、それなりに昔からある言葉だと思いますが、この1、2年で意味が変わってきているようにも感じます。そうですね、ニコニコ大百科の「ナーロッパ」という項目に色々と興味深い事が書かれているのですが、その中に以下のような一文があります。
『幼女戦記と言う作品がある。舞台となる世界は「魔法が存在するが、文明が第一次大戦ぐらいまで発展した」時代設定となっており、昔はナーロッパだったかもしれないが現在もそう呼べるかは分からない。』
まあ、幼女戦記をなろうの例として挙げるのは微妙かもしれませんが。だけど、昔と今で「ナーロッパ」という言葉がどう変化したか考えるきっかけにはなる、そんな一文だと思います。
――少なくともひと昔前には、ナーロッパという言葉になろうテンプレ作品を書きやすく、また読みやすくするための「共有世界」みたいな意味はなかったと思います。
ちなみに、これは個人的な意見ですが。まだ日の浅いテンプレ作家で作品に個性を盛ることを挑戦してみたいという人は、ナーロッパという言葉に甘えずに「読者の興味を引きながら退屈にならないように、その異世界がどんな場所なのかを必要な場所で必要な分量の文章量で説明する」ことに挑戦してみるのが良いと思います。
ぶっちゃけ、シェアワールドを使った作品が独立した作品に見られるなんてことはそうそう無いと思います。似通った世界観で物語を書いたのなら似通った作品だというイメージを持たれるのは当たり前です。
――ファンタジーにおいて、世界観は重要な要素の一つです。それを読まれるために「共有世界」にしてしまったら、「ありきたり」と言われても仕方がないと思います。
◇
この数年間で、よく目にする創作論が変化したのを感じます。「どう創るか」という創作論はなりを潜め、かわりに「どう読まれるか」というまるでマーケティング論のような創作論が台頭していると、一作者として確かに感じます。
最近ちょっと有名作品は読めてなくてですね、ちょっと年単位で積読になってしまってるのですが。例えば知識チートの作品だと「おかしな転生」「異世界薬局」をブクマしてました。この辺りは作者に知識がないと書けない作品だと思います。
異世界転生チートだと私が思いつくのは「蜘蛛ですが、なにか?」かな。正しくチートだけどそうなるのは途中からで、それまでは知恵と勇気とあとキャラで切り抜けてますよね。個性が目立つけど、なんだかんだで王道な物語だと思います。
――これらの作品を創ることにつながるような創作論を本当に見なくなったと、そう思うのです。
なろうテンプレを書きたいと思った人って、こういう作品を見て、自分も書いてみたくて書き始めたんじゃないのですか? こういった作品が面白いのって、テンプレだからですか? 私にはとてもそうとは思えません。多分、これらの作品には、テンプレとか非テンプレとか、そんな枠組みを超えた面白さがあると思うのです。
――テンプレ「だから」つまらないのか、テンプレ作品「が」つまらなくなったのか、最近の作品を追っていない私にはわかりません。ですが、周りを見渡して、ツイッターやエッセイで流れてくる声を拾い集めているとね、読まれることにこだわりすぎていて、どうすれば面白い作品が書けるか論じることを忘れている人が多いと、どうしてもそう思えるのです。
◇
私は、今のなろうは「お粥」のような作品に多くの評価点が入るようになっていて、それがランキングに反映されているだけだと思っています。今は「美味しさ」より「噛まないでもいい」方が強く読者に選好されている、そんな状態なのかなと。
ただ、それが悪いことだとも思っていません。ランキングを目指したいのなら、その選好に合わせた形で活動すれば良いだけかなと。
私はまあ、そこまでランキングを重視していませんが、手のかからない範囲でなら色々と試そうかなと、そんな感じでしょうか。
今回書いてみた「異世界転移版血まみれジーニャ」だって、正直に言えば、その「色々」の中の一つです。このエッセイとセットにして公開して、その結果読まれることになれば良いなと、そんな下心だって実のところありますよ。まあ、テンプレ詐欺作品だし、そこまで受けないとも思っていますが。
――でも、公開するに足る面白さはあると思っていますし、自分が書きたいから書いた作品でもあります。やっぱりね、そこは譲れないのです。
今、ランキングを目指しながら、同時に「面白さの込め方」を追い求める人ってどの位いるのでしょう? ひたすらお粥の作り方ばかりを求め、論じていませんか? お粥の作り方ばかり論じた結果、美味しくするのを忘れてませんか? もちろんそういう人ばかりだとは思いません。だけど、そう「そそのかす」ような発言が多いと感じるのも事実です。
別にね、ランキングを面白くするために執筆なんてしなくて良いんですよ。ランキングをどうにかするのはランキングをどうにかしたいと思う人たちや、ランキングを見る人に任せておけば良い。ここはね、多数派がどうであれ、好きなものを書いて好きなものを読めばいい、そんな場所です。
先の福井晴敏という人は「ガンダム」という枠組みを使って「噛み応えのある料理」を届けることを考えた。でも、それをするもしないも作者の自由ですよね。そしてこの人は「ガンダム」を枠組みとして利用した人であると同時に、大のガンダムファンでもある訳です。そんな人だからこそ、ガンダムという枠組みを利用して「ガンダムUC」という人気作を生み出せたのかもしれません。
――今の姿勢は、書き始めた頃の自分に恥じない姿勢ですか? 自分が満足できる、自分が面白いと思える作品を目指していたはずなのに、いつの間にか忘れてたりしていませんか? そのことは常に自分に問いかけてみるのも良いと思います。初心って、意外とあっさり忘れてしまうものですから。
なろうテンプレをどう扱うのか、作者の自由だと思います。でも、気付かないうちに「何か」を見失っていた、そんな人が少なくなるといいなと、そんな風に思います。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ここよりもさらに下に、本エッセイで取り上げた拙作「血まみれジーニャ」や参照した記事へのリンクを置いています。できればそちらも見て思索の種にでもしていただければ、なんて思います。