5
次の日も加藤さんは休みだった。
もしかしたらこのまま異動日を迎えてしまうのかもしれない。後任の人が加藤さんの休みを知らずに引き継ぎに現れてしまったので私が対応した。
その夜、西沢さんと行ったカフェのタルトは美味しかった、と、思う。
なにを話したのかもうろ覚えで、不自然じゃない相槌をうつのに必死だったことしか覚えてない。
西沢さんとの食事がどうのというわけではなくて、病院を出るときに気付いたことが気になってしょうがなかったのだ。
地下の更衣室へ向かう廊下、いつも隅を走り抜ける赤や青の光が全くなかった。
私が見ている風景はいつも人間とそうじゃないものでごった返しているのに、今日の駅前はいつもの何割か分スカスカしていた。人間ばかりのその風景は、何やらゴーストタウンに紛れ込んでしまったかのような不安を感じさせた。
それでも聞かなくてはならないと思ったことだけはちゃんと聞いた。
西沢さんと加藤さんはお付き合いはしていないらしい。
「ええ? 偶然帰り道が一緒になったときに一杯飲んだりしたことはあるけど。そんなんじゃないですよ」
軽く首をかしげて西沢さんはそう言った。
やっぱり、世間では一緒に食事とかそういうことは、そういうことにすぐ直結したりしないものなんだろうか。だったら私もそんなに気にすることもないのかもしれない。
幾分かほっとはしたけどほんとにそうなんだろうか。
「家、どっちの方角ですか? 送りますよ。病院の駐車場に車とめてあるし」
駅前での別れ間際、地下鉄への通路とJRの改札口をそれぞれ指さしてきかれた。
「西沢さん、車通勤でしたっけ」
ちょっと得意げに、嬉しそうに、西沢さんは笑った。
「こないだ買ったばかりなんです。だから運転するのが楽しくて」
「えっと、JRですけど家は駅に近いですし大丈夫です。……買い物にも寄りたいので」
この時間ならもうお肉屋さんは閉まってるしほんとは買い物の予定なんてないのだけど、とっさにそう答えて断ってしまった。
西沢さんはちょっと意外そうにほんのわずかに眉を寄せたように思えたけど、次の瞬間にはまたぱっと笑って、「残念。今度はドライブでもいきましょうね」と、そう言った。
いつもと時間が違うせいなのか沼肌のやつはホームにいない。
――ほんとうに時間のせいだろうか。他の異形もいなくなってるのに。
いつも通る公園に足を踏み入れた途端、昨日と同じに背筋が硬くなった。
またいる。
今日はコロッケも買っていないので素通りするつもりでいた。
それに時間が違うとあの一つ目もいないと思った。
なのに、いつも座るベンチの向こうの植え込みが、風の吹く向きとは違う方向にざわめいている。
いるのは、一つ目だけじゃ、ない。
波打つわかめ頭が見え隠れするそのそばを小走りに抜け、
公園の出口に向かい、
カーブミラーを見上げ、
カーブミラーには公園の入り口を幅いっぱいにふさぐ黒い小山のようなものが映っていた。
街灯が緑色の濃淡をまだらに照らしている。
ところどころに突き出した枝は髪の毛みたいになびいていて、少しずつこちらに移動しているのがわかった。
背筋だけではなく、喉まで強張って悲鳴すらあげられない。
足も動かなくなって、ただカーブミラーを見つめたまま立ちすくんだ。
よく見ると小山は液体状なのか前に進むたびにその高さを変えている。ずるり、ずるりと音が聞こえてくるような気がした。
私と小山のいる場所の直線上を一つ目が差し掛かった。いつもベンチに寄ってくるときと同じペースで横切ろうとして。
そのまま小山に飲み込まれていった。
全力で走ったのなんて高校での体育の授業以来だった。
一つ目が飲み込まれた瞬間、走り出していた。あんなやつ、みたことがない。
いや、争っているやつらは確かにみたことがある。
多分殺しあっているのだろうなという光景もみたことはある。
けれどそういうとき、その景色はまるで薄いベールが私との間に立ちふさがっているかのように、私とは関係のないものだと思えていた。実際、そういったやつらは私という存在を認識していないようだった。
けれどもあいつは違う。
確実に、わたしを、目指して進んでいた。私だけを目指して進み、一つ目のことなど認識もしないまま、飲み込んでいったのだ。一つ目ももがくこともなく、ただ飲み込まれていった。自分が飲み込まれていることなど気が付いてもいないようだった。
部屋に飛び込み鍵をかけカーテンを閉めた。
ついてきただろうか。
部屋まであいつはくるだろうか。
両手で口をふさぎ、息が整うのを待ちながら耳をすませた。異形のものがたてる音など聞こえたこともないのに。
明かりをつけることもできずに、部屋の隅に背中をおしつけしゃがみこんだままでどのくらいいただろう。暗闇に目が慣れてきて、毛むくじゃらがいつもどおりちゃぶ台の上に座り込んでいるのがわかって、やっと力が抜けた。多分近くにはもういない。気配は多分ない。きっと。
夜明けがくるまで、うとうとしては自分の押し殺した悲鳴で飛び起きた。
これまで異形のものは私に見える世界に溶け込んだ一部だった。
存在していて当たり前のもの。
存在しているけれども私にはほとんど関わりのないもの。
私を認識することなどないものたちだった。
それは他の人間となんら変わりのないもので、私にとって区別する必要すらあまりなかったものだった。
時折は私に意識をむけるものはいる。それでも通り過ぎる程度。人込みですれ違いざまに肩が触れて会釈する、そんな程度のものだった。
その代わりに敵意を向けられることもなかった。
犬にも猫にも小鳥にすら嫌われて威嚇されて、母にも疎まれてきた私にとって、異形は私に敵意を向けないものたちだったのに。
そっと玄関を薄く開け、何もいないのを何度も確認して仕事に向かった。
公園の中を通らずに遠回りした。毛むくじゃらはかばんに腰かけて足をぶらぶらさせている。だいじょうぶ。あいつはいないだいじょうぶ。角を曲がるたび、ドアをあけるたび、自分の周りの気配を探って確認した。病院に着いた頃にはがちがちになった肩が痛くなっていた。
今日も加藤さんはこなかった。
加藤さんが首にまとわりつかせていたあの蛇、小山と同じ模様だったような気がする。大丈夫なんだろうか。休みの連絡はちゃんと来ているはずだから、一つ目と同じように飲み込まれてしまっていたりはしていないと思う。
人間も飲み込んでしまう異形がいるのかどうかわからない。少なくとも見たことはなかった。けれどもあんなふうに異形をのみこむ異形も見たことはなかったのだ。
いや、最近毛むくじゃらに小さいやつらを食べさせてしまったりしていたし、食いあうように争う異形たちはいた。でもあれは違った。そんなのじゃない。吸収とか同化というのが近い姿だった。
地下にいた小さなものたちもあいつに飲み込まれてしまったのかもしれない。今朝も見かけなかった。
窓口の忙しい午前中はまだましだったけれど、昼をすぎてからは少し頭が痛くなってきていた。昨日ほとんど眠れなかったせいだ。足元が頼りなくふらつく感じのまま、帰り道を急いだ。
もう陽が落ちるのが一日一日早くなってきていて、どんなに急いでも家のそばの駅に着いた時には真っ暗だった。
大丈夫。公園は通らない。
入り口にはいらず、公園の中も見ないように遠回りするつもりだった。
それなのに、毛むくじゃらが不意にかばんから飛び降りて公園に入っていってしまった。
放っておけばいい。
そう思った。そうするべきだと思った。だってあいつはいつだってちゃんといつの間にか戻ってきてたし。前よりもずっと大きくなってきてるし。
そう思いながらも、公園に足を踏み入れてしまった。
「不審者に注意」の看板があったはずのあたり。
看板が全く見えないのは小山が前に立ちふさがっているからだと、気がつくまでに一瞬かかって、毛むくじゃらがまっすぐそちらに進んでいく姿が何を意味するのか気がつくのにもうちょっとかかった。
ダメだと呼び戻そうとして、毛むくじゃらに呼びかける名前がないと思った。
なんて呼べば毛むくじゃらがこっちに戻ってきてくれるのかわからなくてためらって。
私はあいつを呼んだことなんてなかったんだ。
毛むくじゃらに名前なんてつけようと思ったことなんてなかったんだと、飲み込まれていくあいつをみながら、あらためてそう気がついた。
どうして名前のひとつもつけようとしなかったのか。
ずっとそばにいたのに。
唐突に襲ってきた後悔は私を動けなくさせ、毛むくじゃらが飲み込まれていった小山の裾あたりから目を離せなくさせた。
小山は私にはまだ多分気付いていない。こちらに動いてきていない。
昨日は気がつかなかったが、鏡越しではなく直接その姿を見ると、少し半透明の部分があるようだった。
小山自身は動いていないのにその半透明な部分にもぞもぞと動く影があって。
毛むくじゃらが飲み込まれていった向こう側からすぽんと飛び出ていく姿が見えて。
え。
――通り抜けただけ……?
せっかく気づかれていなかったのに、私の足は勝手に小山のすぐそばを走り抜け、よたよたと千鳥足になってる毛むくじゃらを拾い上げ、公園を飛び出した。
賢いとは思っていなかったけどこんなに馬鹿だったとも思ってなかった。
昨日と同じに部屋に鍵をかけカーテンを閉め、握りしめていた毛むくじゃらをそのまま揺さぶった。
馬鹿なのほんとにあんた馬鹿なのと繰り返してるうちに、やっぱりこいつはわたしのほうなどいつもどおりみていないことに気がついた。
はじめて触れた毛むくじゃらの毛は見た目通りごわごわとしてスチールウールのようだった。
自分がぼろぼろと涙をこぼしていることにも鼻水も盛大に垂れっぱなしなことにも気がついた。
おまえなんかもうそのまま毛むくじゃらでいい。
力いっぱい鼻をかんで、そのままベッドに倒れこんで眠ってしまった。
「――っ!?」
目が覚めると視界いっぱいが黒と茶のさび模様だった。
また目の前で毛むくじゃらが転がっているのかと思ったら違った。
私の背丈と同じくらいなってしまった毛むくじゃらが、枕元に座り込んでいたせいだった。
私以外の人間には見えないとわかっていても、これほどの図体で今までと同じように周りをうろうろされると落ち着かない。しかも手の届く範囲にいる異形を、道路わきになる実をもぐかのように次々と無造作に食っていった。
これがあのコロッケのかけらを高々ともちあげて走っていたやつなのかと思うと信じられない。
なのに怖くはないのだ。
もしこれがホラー映画の映像ならきっとさぞかしおぞましいものだと思うのに。
職場では一日邪魔でしょうがなかった。
さすがに机の上やらに乗ろうとはしなかったが足元で寝転がっては机の下をのぞきこみ、私と患者さんの間に割り込んで十円玉と一円玉を入れ替えようとしてみたりとやりたい放題だった。
いつも通り。
仕事が終わるころにはまた一回り大きくなって、西沢さんよりも背が高くなっていた。
西沢さんの手の甲にいたいそぎんちゃくも、倍ほどに触手を伸ばして今は腕全体を覆ってしまっていたけれど、毛むくじゃらはそれに手を伸ばそうとしなかった。
着替えるために更衣室に向かう途中、自分のサイズ感覚に慣れてないからなのかそれともいつもの通りなのか、私の後に続こうとして防火扉に挟まれていた。着替えて戻るとまだ挟まっていたので開けてドアをくぐり一緒に外に出る。
門とは反対側の職員用駐車場へ続く通路に西沢さんがいた。
「あ、お疲れ様」
西沢さんもいつもどおりに笑う。けれどもついこの間まで私の目に映っていたほどさわやかでもないような気もする。
「今日は調子どう? 昨日すごく顔色悪かったけど」
「少し寝不足だったんで。もう大丈夫です」
「あのね、今日も車できてるんだ」
「そうですか。お疲れ様でした」
軽く会釈して踵をかえそうとする私の袖を掴まれた。
ざわざわと、いそぎんちゃくの触手が伸びていき、西沢さんの首に絡みつきはじめる。私の表情に怯えが浮かんでしまったのか、慌てたように西沢さんは手を離した。
「ごめん。ちょっとつきあってもらえないかなって。聞いてほしい話があって」
「ここでは……だめなんです、ね?」
「できれば」
駐車場に向かう西沢さんの後ろについていく。
いそぎんちゃくは嫌な感じを増していっていた。
たぶんこれはもう、はぎとることはできないと思う。
触手の先はまだらの緑色。濃淡がうごめいている。――この柄を知っている。
私は車の種類が全くわからないけれども、ピカピカの赤い車はとても高級そうだと思った。
その車の助手席のドアを開けて乗るように促されるのを拒んだ。
「……平木さんもきっとそのつもりなんだと思ってたんだけどな」
西沢さんは視線を落としつつ、つま先で砂利をつついている。
「たぶん、違うとおもいます。いえ、好ましく思っていたと思いますけど」
「けど?」
「西沢さんは優しくしてくれました。私にはあまりそういった経験がないので、うれしかったと思います。だけど西沢さん」
西沢さんは私に挨拶を笑顔でかえしてくれた。チョコもくれた。
だからお返しがしたかった。
彼には見えないのだろう。つま先でつつく砂利に落ちる濃い影が。
彼の背中を覆いつくすほどの小山が、宵闇を一段濃くさせている。
私の横の毛むくじゃらは車の下が気になるようでしゃがみこんでいた。
もし私たちと私たちがひきつれているそれぞれを見ることができる人がいたなら、まるで怪獣大決戦のように見えただろうか。それにしては緊張感があまりないかもしれない。
ほんと車に下に何があるというのか。
小山の敵意は、今はもう私に向いていなかった。怖くて嫌なものには変わりないけれど。
光沢のある緑の濃淡、加藤さんにとりついていたやつと同じ柄、そして西沢さんに絡みつくそのいそぎんちゃくは、その触手をゆらりと小山に伸ばして同化していく。
「あなたには、もっと優しくしなくてはいけない人がほかにいたんじゃないのかと思います」
私の視線の先が自分の後ろにあることに気付いた西沢さんが振り向いて、そのまま硬直したのがわかった。
小山は一つ目をのみこんだときと同じように静かに西沢さんの頭からのしかかり、ゆっくりと己の中に彼をとりこんでいった。
半透明な部分に大きな気泡がふたつ、みっつ。浮かんでは表面ではじけていく。
細かな振動が、その小さな波を空に伸ばした数本の枝の先に伝えていく。
枯れ木のようだった枝に次々と小さな葉がほころび。
大樹の一生を早送りで回したビデオのように。
小山は幾多の葉を蓄え、そして濃淡の緑は黄色味を徐々に帯び。
そのまま枯葉の山となり。
西沢さんが最後に硬直したのは、小山が見えたわけではなかったのがそのときわかった。
崩れ巻き上がる枯葉の中に立ち尽くしていたのは池田さんだった。
私からは小山が邪魔をしてみえなかったのだけど、西沢さんには池田さんが見えたのだろう。
池田さんの肩や背中に枯葉が数枚残ってて、思わずそれを一枚つまみあげて風にのせた。
その時初めて私の姿に気がついたように、初めて挨拶を交わしたときのように、池田さんは私に微笑んだ。
「この車のローンねぇ、私名義なのよ」
さらりと、届け物の書類を受け取ってくれたときの挨拶と同じトーンでそういって。
「……お返しはしなきゃいけないものですよね」
「そうね」
「わたしは、池田さんにもお返しがしたかったです。あなたはわたしにやさしかった」
池田さんはいつもどおりのその微笑みのまま。
最後の水柱を高くあげた噴水がすとんとショーを終えるように、枯葉を巻き上げていた風がやんだ。
二人がどこに消えてしまったのかわからない。
彼女たちは薄いベールの向こう側にいってしまったのか、それとももっと違うところなのか。
駐車場に残された車と、彼女の机に残された鞄は噂を呼んでいたようだけど、私にはあまり詳しくは聞こえてこない。
そもそも私にそんな話をふってくる人がいない。二人を最後に目撃した人間だというのに。
加藤さんは翌日から出勤してきて、そして異動していった。
後任の人は異動してきて一週間目には暗い色をしたカエルを背負いはじめていたけど、最近は慣れてきたようだ。カエルの色が明るく薄れてきている。
毛むくじゃらは次の日には元のサイズに戻っていた。
いったい何のために大きくなっていたのか結局わからないまま。
もう通りすがりの異形を食ったりもせず、今日は素早い後転を繰り返しながら私を先導するような素振りをしている。
どっかにつれていかれたいか?
ひいおじいさんは言っていた。
あいつらにはあいつらのルールっちゅうもんがある、とも。
まあ、きっとそういうようなものなのだろう。
「ケム、こっち」
曲がる予定の角を通り過ぎて転がっていくあいつに小さくつぶやく。
相変わらず振り向くことすらないし、やっぱり私を認識なんてしていないようだから、きっとこれはルール違反ではない。多分。
わたしがいる世界は薄いベール一枚の向こう側なのか、こちら側なのか、私はどっちに存在しているのか、今もよくわからなくて時折足元がおぼつかないような感覚をおぼえる。
けどきっと、どちらにいてもこの小さな毛むくじゃらは私と同じ側にいるんじゃないかなと、そう思う。
最後までおつきあいいただきありがとうございました