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ひいおじいさんが亡くなったのは私が小学校にあがる直前。
本当はひいおじいさんの家から小学校に通うはずだった。
ぴかぴかのランドセルを撫でまわす私に「机も買わないとなぁ」と言っていたのに、買いに行けないままひいおじいさんは町の大きな病院に入院した。
入院して亡くなるまで、一週間ほどだったと思う。
隣の家のおばさんに預けられた私がひいおじいさんに会いに行けたのは二回だけだった。
最後に会えたとき、ひいおじいさんは病院のベッドに沈むように横たわっていて、とげとげしい羽根をつけた黒い毛虫がひいおじいさんの胸の上で這いずっていた。
苦し気に上下するひいおじいさんの胸に手を伸ばそうとすると、眠っていたはずのひいおじいさんにその手首を掴まれた。
「さわったらだめだぁ」
でも、きっとこれがいるから、そういおうとした私の手を自分のわきに置き、手の甲をさすった。
しわしわでごつごつした乾いた手のひらは、いつもよりひんやりしていて。
きっとこいつらのせいだと幼いながらも感じていた。ひいおじいさんが苦しいのはこいつらのせい。
だからきっとこいつらを追い払ったらひいおじいさんは元気になってくれる。
おうちに帰ってきてくれて、また私を膝にのせてくれるに違いないのだ。
今はちょっとひんやりした手だけども、元気になれば一緒にお布団にはいって寝てくれる。
いつものように私の冷たい足をひいおじいさんの足で挟んであっためてくれる。
隣の家のおばさんちは、ひいおじいさんのうちよりも新しくてあったかいけれど、お布団の中はなかなかあったかくならない気がしてた。
今ならそれが寂しいという気持ちだったのだとわかる。
ただ、幼い私は自分の中に膨らむものの名前はわかっていなかった。
ひいおじいさんとまた家に帰ることだけをひたすらに願っていた。
だからひいおじいさんにまとわりつく毛虫はどっかにやらなくてはならない、そう思ってるのにひいおじいさんは手を離してくれない。幼い私の力はひいおじいさんの手を振り払えない。
「このへんにいるのか?」
ひいおじいさんは胸のあたりにもう片方の手をかざし、私が頷くのを確認すると、ひょいとそいつらを掴んで自分の口に放り込んだ。
いつも私のほっぺたをつまんで、お餅がここにあるぞ食べちまうぞとふざけた仕草とまったく同じに。
今まで出したこともない甲高い叫びが私の喉から飛び出していた。
廊下で看護師さんとお話ししていた隣の家のおばさんが、慌てて部屋にきてしまうほどの悲鳴。
「ベッてして! ひぃじぃ! ベッてして!」
だいじょうぶだぁって、笑ったひいおじいさんの顔と、暴れる私をとまどいながら抱きしめるおばさんの腕、それが覚えている最後の記憶。
ちっとも大丈夫なんかじゃなかった。
私は母のもとに戻り、そこから小学校に通った。
新しい机はなかったけど年の離れた兄のおさがりがあったし、ランドセルがあるから別に文句はなかった。不自由なんてものもない。
けれども、どうしてもひいおじいさんの家に帰りたくて、一度だけそう母に頼んだ。「馬鹿じゃないの」って言われておしまいだった。
ひいおじいさんに預けられる前は母がなぜ不機嫌になるのかわからなかったけど、戻ってからは私が何か話そうとするときに不機嫌になることに気づいた。
私にみえるもののことや、ひいおじいさんが言っていたこと、そのうち何か言いかけるだけで視線が鋭くなった。
だから何が見えているのかを誰にも言わないようにした。何がほかの人には見えないものなのかもう少し大きくなるまではわからなかったから何も言わないようにした。
何が異形のものなのかがわかるようになってからもそれは変わらない。
なにも言わなければ、母は私を放っておいてくれることに気がついたから。
誰に何がまとわりついていてもそれを口にしたりはしなかった。
放っておけば何が起こるのかわかるようになってもそうした。
どちらにしろ私には何もできない。言ったところで何がどうなるわけでもない。
ひいおじいさんにさえ何もしてあげられなかった役立たずにできることなどない。
入院費窓口の当番だった日、計算担当がもってきた請求書。
診断書の欄の金額は死亡診断書のものだった。佐山さんのご遺族だろう方を頭を垂れて見送った。
こんなとき、あの虫みたいなものを取り除いてあげてたらどうなっていたのだろうと思うこともなかったわけじゃない。
けれどもひいおじいさんはさわるなと言った。
私が触れることのないように、虫をのみこんでまでそういったのだ。
だからずっとひいおじいさんの言いつけをちゃんと守ってきたのに。
異動月は四月と十月の二回。
この十月に加藤さんの異動が決まった。私はまた残留。今まで異動希望を出したこともなかったが、ひょっとしたら出したほうがいいのだろうか。採用されてから異動したこともないから、他の部署がどんなところなのかもわからないので希望の出しようがなかっただけなのだけど。
加藤さんは市役所庁舎内のどこだかに配属になるらしい。
係長がなぜか気まずそうな申し訳なさそうな顔をして私に告げた。平木さんも希望出してもいいんだよ、ここの係だけは希望ださないと動けないからとも言われ、そういうものなんですかとこたえたら目を丸くされた。誰も教えてくれなかったの? とも。
「ほんとうに申し訳なかった」
係長はすこし酔っているようで、何度目かの詫びを口にした。
普段職場の飲み会などは出席しないのだけど、さすがに同じ係内の人が異動の送別会には私も出席するようにしている。
隣の課とも合同なので池田さんもいて斜め向かいに座っている。
いつもどおりの穏やかな笑顔でどうしたのかと問われて答えると、池田さんも同じように目を丸くした。
「言ってはなんだけど、みんなその、嫌がるでしょ。出納窓口……辛くなかったの?」
「はあ……いえ、人気がないのは知ってたんですけど、希望を出さないと異動にならないのは気がつかなくて。私から尋ねたこともないので謝らないでくださいって言ってるんですけど」
「いや平木さんが希望出してない理由に僕がちゃんと気付くべきだった! いくら普段淡々と仕事していたって好きでこんな係にいるわけないよねぇ」
……そこまで忌み嫌われている係だとは思ってもいなかった。どこにいってもさほど変わりがないものだとばかり。
「早速希望出すべき! ね! 係長も受け取るでしょ!」
「もちろん! ああ、でも僕も一緒に異動したいねぇそろそろ」
どれだけうちの係での仕事がストレスなのか繰り返しつぶやく係長に、池田さんは根気よく相槌を打ち続けている。やっぱり今日も池田さんは優しい。
とりあえずその会話に混ざっているような顔をし続けていると、西沢さんがビール瓶をもって池田さんの隣にやってきた。まあまあどうぞと係長と池田さんに酌をして、私にもついでくれた。
「……それで平木さんずっと異動なかったんですか」
西沢さんもやっぱり同じように驚いて。
「いやでも、平木さん今異動になったらさびしいですよね。係長も」
「そうだねぇ」
「ほんと、男たちはこれだから。平木さんだってずっと同じところじゃ出会いだってないじゃない。ねえ?」
「出会いって……そんなことないでしょう、ねぇ? 平木さん」
「で、であいですか……いやそれは違うところだったらあるとかいうものでもないのではないですかね」
思いもしない方向にむいてきた会話にうろたえてしまった。
そういったものが多いところとないところがあるのだろうか。
「平木さんってそんなタイプじゃなさそうだよね」
そんなタイプってなんだろう。
「あら、大事なことでしょう? 平木さんお付き合いしてる人とかは?」
池田さんも西沢さんも、二人して私を見つめてる。
係長は反対側にいる人にビールをついであげている。
「いないです」
「じゃあ好みのタイプは?」
片眉を軽くあげて、わずかにいたずらな顔をした池田さん。
池田さんもこんな表情をするんだ、と思った。
中学や高校の時、クラスの女子がこんな顔をよくしていた。
クラスの中心グループのさらに中心にいるような子が時々してた、くすくす笑いのかけらを含んだ顔。
こういった話題が飲み会ではよくでるものだとは知ってる。
出てるのをみてたことならある。聞かれたことはない。
どう答えるのが一番場にふさわしいのか、今までみかけてきたシーンを必死にたぐりよせてみるけれども、そもそもそれがふさわしいかどうか判断がつかない。
どうしよう。
なんだって私の話題がこんなに続いてるんだろう。
こんなに居心地の悪い飲み会は経験がない。
いつも誰かの会話にまじっているような顔をしながら誰とも会話せずに飲み会の時間をすごしていたのに。もう返事や相槌のレパートリーが尽きてしまった。
というか相槌だけですまない返事を求められる質問が続きすぎる。私の能力をはるかに超えている。
「平木さん平木さん! そんな考え込まなくても!」
「……あまりにも想定外の質問でした」
「そこまで!?」
「……平木さんには真面目な人が似合うと思うわぁ。地味っていわれるくらい真面目な人」
池田さんの笑顔がいつもの穏やかでほっとさせるものに変わった。
「そりゃ真面目にこしたことはないでしょうけど、平木さんはまだ若いんだし好みが優先じゃないですか」
「年齢は関係ないわよぉ、というか平木さんはまだ、ってなに? 誰かと比べて若いっていってる?」
「いやいやいやいや」
西沢さんは苦笑いしながら池田さんのグラスにビールをついだ。
会話の隙を狙い続けてやっとトイレへと抜け出せた。
手を洗って備え付けのペーパータオルを引き出すと、毛むくじゃらが一緒にずるずる出てきた。そのまま手の上を器用に渡って肩までのぼってくる。
手のひらにすっぽり収まっていたはずの毛むくじゃらは、もう子犬ほどの大きさになっていた。
重さは変わらず感じない。
艶のない黒と茶のさび模様にゆっくりと指を伸ばし、もうすぐ触れるというところで、加藤さんがドアを開けた。
「平木さんが飲み会でるのって珍しいですよね」
にっこりと笑った加藤さんの手には私のかばんがあった。
「やっぱりあれですか。西沢さんがいるからですか」
「いえ、同じ係の人が異動の時の送別会くらいはと思ったんですけど」
「そうなんですか。わたし気にしないのにすみません。なんかお疲れみたいだし、かばんもってきたんですけど」
押し付けるように渡されたかばんを受け取って礼を言った。
私そんなに居心地の悪さを顔にだしてしまっていただろうかと一瞬思うが、これは多分帰れと言っているんだろう。
「幹事の人やほかの人には伝えておきますね」
念を押す彼女の首には、銀のネックレスとともに絡みつきうごめくまだらな緑色した蛇がいた。
そしてその蛇の尾は彼女のうなじから髪に同化している。職場から店に向かうときにはこんなものつけていなかったはずなのに。蛇の目は五つあって、どこをみているのかはわからないけど、なるべく目が合わないよう、もう一度礼を言って店を出た。
次の日、加藤さんは出勤してこなかった。
ひどい熱があって休むと係長に連絡があったらしい。
あれだけのものをつけていたら体調も崩れて当然だと思う。でもあれは病のものではなかった。
怖くて嫌なもの。
滅多に見かけることはなかったそれだった。今まで見かけることはあっても、身近な人間についてるのをみたことはないから、あれがとりつくとどうなるかはよく知らない。けれどもあれほど怖くて嫌なものに絡みつかれて何も起きないと思うほうがどうかしてるだろう。
「昨日、いつの間にか帰っちゃったんですね。二次会行くの楽しみにしてたんだけどな」
幾分低めに声を落とす西沢さんに回覧物を手渡された。
ちゃんと受け取った書類の反対側の端を西沢さんは離さない。
その手の甲に触手を伸ばしてゆらぐいそぎんちゃくのような何かがいた。
「……ちょっとお酒飲みすぎちゃったみたいだったので……すみません」
「平木さん、嫌いなものってあります?」
「きらいなもの……蛇は少し苦手ですね」
西沢さんは一拍おいて吹き出した。やけに楽しそうだ。
「いや、ごめん。食べ物っていうか、生ものが苦手とか辛いのが苦手とか」
「ああ、特にないです」
「甘いもの、すきですよね? チョコとか菓子パンとか。駅向こうにタルトが評判のカフェがあるんですけど、ちょっと店の雰囲気が男一人では行きにくくて」
「はあ」
……これは。
「えっと、一緒にいってもらえたらなと思」
「あのっ」
「え」
「手とか、肩とか、最近痛かったり変だったりしませんか」
「ええ? いや、どうだろう。肩こりしたりしてるかも、しれないかな? でも特に何もないですよ」
一握りほどのいそぎんちゃく。
場所が悪い。
手の甲なんて、そんなところゴミとるように手を伸ばせない。
いつもよりもちょっと嫌な感じが強い気がするのに。
「平木さん? どうです?」
「あ、はい」
「ああ、よかった。じゃあ明日の夜どうですか」
いそぎんちゃくに気をとられてるうちにいつのまにか行くことになってしまった。
加藤さんはまた不愉快になるんじゃないだろうか。
……西沢さんは私が思ってるよりもずっとさわやかじゃなかったりするんじゃないだろうか。
私は高校を卒業してすぐにこの仕事についた。
高校でも職場でも家との往復で、あまり男の人とでかけたことなんてない。
そもそも誰かとでかけたことすら数えるほどで。その手のことに疎いといってもいいのだと思う。
それともたいしたことでもないんだろうか。多分そんなことはない。
明日は加藤さん出勤してくるだろうか。
そんなようなことを帰り道にぐるぐる考えていて、風景がすこしいつもと違うことに気がついたのは駅に着く直前だった。
いつも中央分離帯で座り込んでる切り株はじりじりと車道にはみだしていっている。
あいつ、動けたんだ。
小石を積み上げているやつが抱えるだけ小石を抱えてどこかへ走ろうとしてる。
そこまで気付いて、背筋が硬くなった。
多分何かがいる。
後ろにいる。
振り向いてはいけないと直感して足を速めた。
駅のホームに着いた頃には気配が消えていた。なんだったのかはわからない。
心臓が今頃ばくばくとはじけだして、いつもの列から外れてホームの柱によりかかったとたん、沼色の肌をしたやつがわきをすり抜けて電車に飛び込んでいった。あいつ、今日は私を狙ったのか。