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 更衣室では隣の課の池田さんが私服に着替え終わってロッカーを閉めたところだった。

 何か考え込んでるような顔をしてた気がするけれど、私が挨拶をすると微笑みながら挨拶を返してくれる。

 池田さんは多分私よりいくつか年上で柔らかな物腰の女性。

 西沢さんと同じように私の挨拶にこたえてくれる人。

 部屋が違うので週に一度見かけるか見かけないかくらいではあるけど、たまに書類を届けにいくと目を見てありがとうと言ってくれて、そのときの笑顔にはほっとするような感覚があった。

 それがなんだか嬉しくて、彼女の部屋に届け物があるときはさりげなく率先したりもした。

 池田さんと挨拶を交わせた日は、何かいいことがありそうな気持ちがする。

 実際いいことがあったこともなければ今日だってもう後は家に帰るだけなのだけど、そんなことは些細なこと。



 今日はコロッケが売り切れだったので鳥のからあげを買った。

 いつもの公園のベンチに座ると一つ目ががさごそと植え込みから姿を現して隣に座る。

 脂の染みた紙袋にはからあげが五つ。二つ半食べて、二つを一つ目の脇に置いた。

 カラスが五、六羽、公園の端から夕焼け空に向かって飛び立つ。そのうち一羽はどう見ても翼が三つあった。

 一つ目は微動だにしないし、からあげにも手を出さない。毛むくじゃらはからあげのかけらを転がしている。私が立ち上がると、毛むくじゃらはかけらを毛の合間、多分口があるところに押し込んで手で押さえながら足元をくるくると走り回りだす。公園から出るときにカーブミラーを覗くと一つ目もからあげもいなくなっていた。




 ひいおじいさんは裏山に小さな畑を持っていた。

 トマト、きゅうり、なすびにいんげん。冬には大根。

 畑に向かう道は細い獣道。獣じゃないものも時には横切って行った。

 ざわざわと鳴るミズナラの葉がこぼれ落とす陽の光の中、おじいさんに手を引かれて登った。

 雑草をむしり、葉の具合を見て、虫を摘み、収穫時を教わった。

 畑の横には深いところでも私の腰くらいまでの浅さしかない小川が流れていて、笹舟を流して遊んだ。

 籠にトマトやきゅうりをいれて川で冷やし、そのままかじった。苦手だったトマトが好きになったのはこのとき。


「そろそろ帰るかぁ」


 小川のほとりで冷えたきゅうりを食べ終わる私をみて、ひいおじいさんは腰を伸ばしながら立ち上がった。反対側のほとり、熊笹の隙間にのぞく緑色の足。ひいおじいさんは、きゅうりを一本、足元においた。


「ひいじい。それいらないの? ダメなきゅうり?」

「んやぁ、おまえが食べたのとおんなじおいしいきゅうり」

「なんでぽいしちゃうの?」

「ぽいしてないぞぉ。さ、行くかあ」


 手を引かれて立ち去り間際、そっと振り返ると紫と黄緑が斑の肌をしたやつがひょろ長い手をきゅうりに伸ばしていたところだった。


「なんかおるかぁ?」


 ひいおじいさんは体を屈めて私に囁いた。小さく頷いてみせる。


「むらさきいろでね、髪がうーんとながくて、頭におっきな葉っぱのせてる」


 そうかそうかと笑って、私の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。


「ひぃじぃ、ちょっかいだしちゃだめって」

「ちょっかいだしてないぞ。しらーんふりしてる。ひぃじぃはきゅうりおいただけだ」


 小さな獣道は大小の石がごろごろしていて、下り坂に勢いがつきかけてはひいおじいさんがしっかりと腕を引き上げてくれる。もうここまでくると小川も畑も森に隠れて見えない。


「なんかおったのなら、そいつあそこに住んでるんだろ。ひぃじぃたちは川借りてきゅうりもトマトも冷やしてもらったろ。場所代だぁ」

「ばしょだい」

「なんか借りたりもらったりしたらお礼するだろ?」

「うん」

「そういうこった」




「平木さん、わかったら教えて欲しいことがあるんですけど」


 もうすぐ定時というころに西沢さんが声をかけてきた。西沢さんの仕事とかぶるようなものってないと思うのだけど。


「このね、三年前の集計って平木さんみたことあります? うちの係の過去データには見当たらなくて」

「あ、はい」


 A4用紙十枚ほどの束のデータは確かに見覚えがあった。補佐恒例の思いつきで作らされたもの。


「補佐ですか?」

「ええ、まいります。いつものように突然ですから」

「これ以降つくるように言われことないですから、多分以前誰が作ったのか覚えてないんでしょうね」


 そこそこ偉い人が要求するような資料なんだから、本当に必要なものなんだろうと思ってた時期が私にもありました。


「ですよね……。補佐がもってきたのがこれですから。でも、システムからは個々のデータは出せてもリンクしたものはそのままじゃでないんです。時間かかってもいいなら、CSVだけ吐き出してエクセルで整形するんですけど、一件一件手入力で形式直さないといけないものが多くて……明日の会議までにっていうんですよ。以前どのくらいかかりました? 何かいい方法ありますか」


 もともとうちのシステムは、この手の病院経営のための資料を作ることを想定していない。予算が足りなかったのか、オーダーするものに知識が足りなかったのかわからないが、まあ、市立なので安物買いの銭失いはよくあることだ。

 そうはいってももしかして私たちの知らないどこかで本当に経営に必要な情報はまとめることができるのかもしれない。数年に一度思いだしたかのように作らされる資料は少なくとも必要ではないだろうから、私たちにはすぐに出力できないだけなのかもしれない。

 補佐だからしょうがない。それがこの課の共通認識だったりする。

 ひいき目にみてもあまり課の人たちと深く交流してない私ですら知っているのだから、相当だとわかるもの。


「えっと……必要なデータそれぞれのCSVは情報部に落としてもらいました?」


 個人情報保護がなんちゃらで、システム端末からデータをファイルで出すことは私たちにはできない。システム管理をしている部署から出力してもらわなくてはならないのだ。


「一応、そろってると思います」

「じゃあ、二時間くらい、ですかね……。思い出すのにもうちょっとかかるかもですが」



 なんだか私がすごくできる人みたいだが、特別な方法があるわけでもなければ特殊なことをするじゃない。ちょっとエクセルを使うだけなのだけど、うちの係以外では普段の仕事はほとんどシステム用端末ばかりで、普通のパソコンすら一人に一台あたっていないのだ。

 うちの係は主に金銭を扱うせいで他の係よりは多少使う程度というだけ。


「ほんとですか!? え、システムから直にでますか」

「いえ、えっと、これから金庫の締め作業がはじまるので、ちょっとだけ待ってもらえますか。すんなり合えば三十分くらいだと思います。土台になるデータ整えますから」

「うわあ、助かります! ありがとう!」


 なんだって西沢さんはこんなに開けっぴろげな笑顔をするのだろう。

 データを共有のフォルダにいれておいてくれるよう頼んで、金庫合わせに向かった。


「……西沢さん、どうしたんです?」


 加藤さんの若干とがった声で迎えられた。


「資料作り、ちょっと手伝うだけ」

「ふぅん」



 土台を整えるのに一時間ほどかかった。さすがに三年前にした作業はなかなか思い出せない。後はグラフ化するなりなんなりするだけだ。以前につくったものと同じように処理したファイルと土台になった生データを共有フォルダにいれて西沢さんの席に向かう。


「え、全部やってくれたんですか?」

「えっと、前に作ったのと同じ処理しただけで、今回西沢さんがどんなの作るつもりだったのかわからなかったから……元のデータもここにあります」


 それから一緒に画面を見ながら処理の仕方を説明した。

 時々お互いの腕がぶつかるくらいに近かった。

 西沢さんはパーソナルスペースが私とは違うんじゃないだろうか。



「すっごい助かりました! 今度なんかおごらせてくださいね」


 私を居心地悪くさせる笑顔はちょっと直視できなかった、から、彼のひじのあたりに視線を落としてしまい。

 そこに小さな黒いうねりをみつけた。

 糸ミミズのような、ほつれ糸のようなそれは不規則な波をうちながら西沢さんの肘にまつわりついていて、とっさにそれを掴んでしまった。


「……ゴミ、ついてました」


 首をかしげて覗き込んできた西沢さんにそう言い訳して床に払い落とす素振りをした。

 糸ミミズは私の指に絡みついて離れない。

 自分でも何を言ってるのか聞き取れないほど口ごもってしまいながら席を離れた。自分の席に戻ると加藤さんが珍しくまだ帰っていなかったけれど、挨拶もそこそこにかばんを持ち部屋を出た。




 どうしよう。どうしよう。




 心臓の音が耳の中で響く。

 

 こいつらを手で捕まえられるなんて知らなかった。

 離せないのも知らなかった。

 私はひいおじいさんの言いつけをずっと守ってきたのだから。


 更衣室に向かう途中のトイレに寄り、手を洗った。

 こすっても流しても糸ミミズは落ちていかない。

 よくみると糸ミミズはところどころ濃い緑の光を照り返していた。

 指先が赤くなったのは流水で冷たくなりすぎたせいなのか、こすり続けたせいなのか。

 震える手は冷たさのせいなのか、私の怯えのせいなのか、わからない。


「どうしよう」


 小さく声に出してしまったとき、毛むくじゃらがひょいっと手首に乗った。

 一瞬だった。

 毛むくじゃらがのしかかったと思うと、もう糸ミミズは消えていた。




 あの糸ミミズは嫌な感じがした。

 怖くはない。病とかのものでもない。でも嫌なもの。

 ワニよりもうんと小さかったけど、背筋を走る嫌悪感はワニよりも強かった。


 西沢さんが何かをつけていたことは多分今までない。

 どこかで拾ってきたのだろうか。

 糸ミミズだし、西沢さんに似ているとか以前の問題だからそれ以上のことはわからない。私は異形のものが見えるだけなんだ。本当に見えるだけ。


 なんて役立たず。


 毛むくじゃらはやっぱりアレを食べてしまったのだろうか。

 今までそんなことをしてるのを見たことがない。

 いつも私がそっと置いた食べ物をつついて遊んで食べていた。あいつは私を見上げたことすらない。

 それなのになぜか私のそばにいつもいるのだけど、私も話しかけたりしたことはないし、私から触れたこともない。今はまたいつもどおりちゃぶ台の上に寝転がっている。

 どこを見ているのか見てないのかもわからない。





「あ、そこにおいておいてください」


 隣の課に書類を渡しにいくと、池田さんがパソコンの画面から目を離さずにそういった。

 忙しかったんだろうけど、そんな池田さんを見たことがなくて自分でも少し驚くほどに戸惑ってしまった。失礼しますともごもご口ごもって部屋を出た。そんなときだってある。仕事中だもの。

 でもなんだろう。何か、怖かった。


 毛むくじゃらはやたらと素早い前転をしながら、速足で廊下を進む私を先導している。

 いや、そう見えるだけで先導してるつもりもないんだろう。

 部屋に戻るには角を曲がらなくてはならないのにまっすぐ転がり続けていく。ほっといてもそのうちまたそばに現れるのでそのまま角を曲がって部屋に戻った。



 世の中の人は学校であったり職場であったり何らかの場で出会ったりすると思うのだけど、そこからどうその場以外での付き合いに発展していくのか今までよくわからなかった。

 学校や職場で会うのにも関わらず、どのような理由をつけて食事に行ったり遊びに行ったりするようになるのだろうと。今もわからない。

 例えば時々連れだって職場の玄関から出ていく西沢さんと加藤さんのように。


 西沢さんに「この間のお礼に何かおごらせてください」と言われて、前にくれたチョコくらいしか思いつかずそう答えたのだけど、もしかしてこのようなときに食事とかをしに行ったりするのだろうかと家に帰ってから思い至った。

 でもたぶん西沢さんの言葉はそれとは違うだろうから、私の答えでよかったのだ、きっと。

 思い至った自分がまた少し恥ずかしかった。



 私はあまり人の感情の機微というものに聡くはないと思う。それでも自分に向けられた敵意とまではいかない棘くらいには気が付くし、それを向けられた理由もわからないほどではない。

 加藤さんが私をにらむことがあることも、その理由も、わかってる、つもりだ。

 ただそれを思い過ごしだと彼女に伝える言葉もタイミングもわからない。そもそも伝えなければならないかどうかもよくわからない。



 私はただ、あれから何度か西沢さんがまとわりつかせているものを取り除いてしまっただけ。

 ひいおじいさんの言いつけを何度か破ってしまっただけ。

 その都度、毛むくじゃらがそれらを食べてしまった。

 糸ミミズだったり、ハエのようであったり、ヤモリのようであったりするそれらを見かけるたびに西沢さんの背や肩からつまみあげると、毛むくじゃらはそれを食べてしまう。……正直にいえば、食べさせてしまった。


「ぼく、なんかいつもゴミつけて歩いてるみたいですね」


 そういって西沢さんは笑う。


 だから、毛むくじゃらが少しずつ大きくなってきている気がすることを、考えないようにしてしまった。



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