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 病院を出て、駅に向かう。

 駅前に近づくにつれ帰宅を急いでるのか早足の女性や、横並びにじゃれながら歩く高校生、まだ仕事中なのか携帯に深刻そうな顔で何事かつぶやいているサラリーマンが増えていく。

 駅に向かう流れの本流を勝手気ままに横切るモノも増えていく。


 私の目にうつる風景はきっとほかの人より密度が高い。いつだって大混雑だ。


 ぼこぼこの節をもった古い切り株のような何かは中央分離帯でぼんやりと座り込んでる。

 ふわふわと揺れる緑色の毛をした六本足の犬のような何かは、通り過ぎる人の足に噛み付いては離れを繰り返している。

 雑踏の中で小石を積み重ねているやつは、人がそれを蹴飛ばしていっても黙々と拾い上げて積み上げ続けている。そいつは少し毛むくじゃらに似ていた。

 駅のホームでは、ぬめぬめと光る沼のような肌をしたヤツがそわそわと乗降口に並ぶ人の周りをうろついている。列からはみ出て文庫本を読んでいた中年のサラリーマンに狙いをつけたのか、その後ろに陣取った。甲高い唸りをあげて乗り込んでくる電車めがけて、そいつはサラリーマンの背に突進する。サラリーマンは電車を見て、文庫本を閉じ、列の後ろに並ぶ。空振りしたそいつはそのまま電車の前に転がり落ち、はじけ、電車の下に吸い込まれていった。こいつは毎日同じことをしている。ヤツの目論見が成功したのを見たことはない。もしかしたら、空振りするのを愉しんでるのかもしれない。


 駅二つ分電車に乗って、部屋の近くの駅で降りる。

 帰り道の途中にあるスーパーで牛乳とバナナと豆腐を買った。

 赤と黄の薄汚れた日除けの屋根を掲げたお肉屋さんでコロッケもひとつ買う。

 街灯がぽつ、ぽつとつき始める道。どこからか焼き魚の香ばしいにおいと、甲高い子供の笑い声。


 この町で一番大きな公園を抜ければすぐ私の部屋。滑り台の上では毬藻のような何かがにょきっと突き出た足をぶらぶらとさせてる。公園は白樺や銀杏の木に囲まれていて通りからは中の様子が余り見えない。「不審者に注意」黄色と黒の釘文字で描かれた看板が、街灯の光が届かない薄暗がりの中に設置されていた。


 ベンチに腰掛けると、後ろの植え込みからひょろりと背の高い何かがのそのそ出てきた。

 昆布やわかめのように波打つ長い髪を引きずって黄色く濁った一つ目をぎょろぎょろさせているそいつは、すとん、と私の隣に腰掛ける。

 私のほうに視線は向いていない。私たちは電車で乗り合わせただけの間柄のように同じ方向を向いてベンチに座っている。

 さっき買ったコロッケを袋から引っ張り出す。買ったときにはぱちぱちと脂がはじけるほどに熱かったが、今は紙袋ごしに持っていられるくらいの温かさ。二口食べる。ここのお肉屋さんのコロッケはいつも美味しい。もう二口食べて、一欠片ちぎって一つ目が座るほうとは反対側のベンチに置く。

 毛むくじゃらがコロッケのかけらをつつきまわして、椅子のように座ってみたりしている。コロッケを三分の二ほど食べたところで、残りを紙袋から出して一つ目と私の間に置き、ベンチから立ち上がって歩き出した。毛むくじゃらはコロッケを高々と戦利品のように持ち上げて走ってついてくる。

 公園出口にあるカーブミラーを見上げると、さきほどまで私が座っていたベンチにはもう何もいない。いつもどおりコロッケもなくなっていた。あいつもあのコロッケは気に入っているんだろう。



 集合玄関の郵便受けからチラシやダイレクトメールを取り出して部屋に向かう。

 この四階建て二十戸ほどの小さな単身者用マンションには中学を卒業してからずっと住んでいる。母は、高校くらいは出させないと世間体が悪いと生活費と学費を出してくれた。実家からは電車で五時間ほど離れた高校に通うことを条件に。狭い屋内階段を二階まで上がり、廊下の奥にある扉の鍵を開ける。玄関の明かりをつければ小さなベランダまで見通せる私の家。


「ただいま」


 小物と文庫本が入った小さなカラーボックスの上の写真立てに声をかける。

 ひいおじいさんと二人でうつした写真はこれ一枚だけだった。あの家の縁側で、小さな私はひいおじいさんのひざでくつろいでいる。隣の家のおばさんに撮ってもらった。隣といっても歩いて十分はかかったのだけど。

 テレビの電源をいれて、サイコロのような冷蔵庫に牛乳とバナナと豆腐をしまい、かわりに今朝あまったご飯でつくっておいたおにぎりを取り出してレンジで軽く温めた。

 朝に写真立ての前にお供えした小さなコップの水を取り替える。ついでに湯船にお湯を張り始める。

 ちゃぶ台の上におにぎりとお茶をのせ、ベッドに背中を預け座り込む。


 特にいつもみてるとか好きな番組があるわけじゃないけど、なんとなくテレビはつけっぱなし。

 毛むくじゃらは部屋の隅に転がっていたり、ちゃぶ台の上であぐらかいてテレビのほうをみたりしてる。テレビを見てるのか別のとこを見てるのかはよくわからない。

 頭から顔までほんとに毛むくじゃらで顔立ちどころかどこまでが顔でどこから胴体なのかもはっきりしないし、目玉は時々毛の隙間から見えはするんだけど、どうも見るたびに目のある位置が違うように思えるのでもしかしたらいっぱい目があるのかもしれない。なのでテレビのほうを向いていても実は私のほうを見ている可能性もある。

 聞いたところでわからないので、まあ、どうでもいい。


 テレビでは全国ニュースが流れている。

 どこかの川であざらしが、とか、野球の選手がどう、とか。

 ドラマは少し苦手というか、子供の頃はストーリーがわからなくて面白くなかった。普段の生活では人ではないものは人でないと感覚でわかる。ところがカメラを通した映像だとどれが人か、どれが作り物か、わかりにくいのだ。写るものがストーリーに絡むものなのか、ただたまたまそこにいた異形のものなのか。これはなんなのかと考えている間にストーリーは進んでしまい、結局わからなくなってしまう。

 今はさほどそんな混乱はしないが、どうしても億劫さが先にたって見る気にならない。ニュース画像でもそれは同じなのだけれども、ストーリーを気にしなくていいので問題はない。



 異形のものは怖くない。

 というより怖い異形のものはあまりそのあたりにはいない。けれども、目にすると背筋が強張るような、本能的に危険だと思うもの、そういうものもたまにいる。

 日常生活で滅多に会うことのないそれらは、陰惨な事件や事故のあった現場や、多くの人が集まる行事の映像に映りこんでいることがある。

 映像だとどれが異形のものか確かにわかりにくいのだけども、そいつらに限ってはわかる。

 他の怖くないものと、特段その容姿に違いがあるわけではない。グロテスクであっても全く怖くないものもいれば、容姿だけを見るなら人間と寸分違わないものもいる。むしろ美しいことすらある。容姿に関わりなく、電子となって運ばれてきているのかと思うほどその禍々しい粒子が伝わってくるのだ。

 これはここにいないもの、どこか遠くにいるもの、テレビの向こう側にいるものだと自分に言い聞かせなくてはならないほどに。

 それならテレビなんて見ないほうがいいのだけど、音楽なり聞いたりしててもいいのだけど、それでもなんとなくテレビをつけてしまう。



 風呂場にお湯のたまり具合を見に行っている間に、あと半分ほどは残っていたおにぎりが消えていた。

 さっきのコロッケと合わせたら毛むくじゃらの体積より大きくなると思う。

 こいつの腹の中は一体どうなっているんだろう。




 窓口は二人で対応する。

 忙しい時間帯には三人はいるが、基本的には係長を含む残り二人は待機にはいる。今日は私が待機班で、午前中の忙しい時間には窓口に入ったが、それも落ち着いた昼過ぎにはいつもどおり督促リスト作りや集計をしていた。

 混み具合が見えるように窓口と部屋の間のドアは開放してあり、男性の怒鳴り声が飛び込んできた。多分ドアは閉まっていても聞こえたとは思う。


「すみません。お願いします」


 野々村さんがドアから顔を覗かせた。怒鳴り声が聞こえる時の原因は大体決まっている。

 係長は昼休みで外に出ていた。多分病院前のラーメン屋。血圧のせいで食事には奥さんから厳しくされているのにどうしてもやめられないらしい。

 野々村さんは「本人。入院保証書なし。自己負担分無理。国保確認します」とつぶやいて自分の机の電話に向かった。

 すれ違いざまに資料を渡された資料を横目で見ながら、窓口で縮こまっている加藤さんと怒鳴り声の主に近づく。


「津川さん、お話こちらで伺いますのでどうぞ」


 この瞬間が一番苦手だ。笑顔を作らなくてはいけない。

 午前中に私が座った予備の窓口に津川さんを誘導した。


 国民健康保険でも社会健康保険でも医療費が高額だった場合には高額療養費委任払制度というものがある。通常、病院の窓口で支払うのは診療費の三割。それが一定の自己負担限度額を超える分については、患者本人が国民健康保険なりに請求すると三ヵ月後に還付金として返還される。この超える分を支払うことができない場合に、自己負担限度額分だけを病院に支払えば、残りの金額は病院が本人の代わりに還付金を受け取るのが高額療養費委任払制度だ。電卓を叩いて請求書から自己負担限度額を計算する。


「津川さん、高額療養費委任払制度についてはご了解いただいてますよね?」


 津川さんは首筋をぴくつかせて怒鳴り返すかどうするか決めかねているようだった。


「自己負担限度額はさきほど他のものがお知らせしたかと思いますが、この金額になります。こちらの金額分のお支払い方法のご相談ということでよろしいですね?」

「……ああ。払わないとは言ってない」


 診療科は第一外科。虫垂炎。救急車搬送で初診。

 予期していない入院だったということだ。道理で。

 もう一度、目の前のカウンターに片肘をついて胸をはってみせている男を見上げた。


 気になるのか空いている手でしきりにわき腹をさすっている。

 そのあたりには何もいない。


 でも背中に乗っているモノがいる。

 ゆらゆらと楽しそうに上半身を揺らしているそれはワニのような顎をもっていて、舌をだらりと大きな口の端から垂らしていた。いかつい頭部とは逆に体は骨格標本のようにか細く、ところどころ先の折れたトゲが突き出ている。

 佐山さんにまとわりついていたものは、病そのものというか体の悪い部分が形になったにすぎないもの。もしくは病に寄ってきて寄生しているだけのもの。

 この津川さんがつけているものとは全く性質が違う。

 これは人間そのものにつくもの。


 佐山さんについていたものは大体にして寄生元が死んでしまえばそのうち消えてしまうけれども、これはたとえ主が死んだとしてもそのあたりをうろついている。

 不思議なことに人間にとりついている異形のものはその主と性質が似ている。似ている人間を探してとりついているのかもしれないし、とりついた結果人間が似てきたのかもしれないが、どっちなのかは私にはわからない。私が見るときにはもう似ているから。

 これは、怖くはないけれども嫌なもの、だ。

 この人は払う気などない。


 野々村さんが、津川さんからは私の肘で見えないところにメモを滑り込ませて自分の窓口に戻った。メモには「資格OK委任×」と殴り書かれている。

 委任払制度は、月々の保険料をちゃんと払っている人間が受けられる制度だ。

 津川さんは四十三歳。このくらいの年齢にも関わらず十万弱の医療費が支払えない場合、保険料を滞納している可能性がある。

 野々村さんがさきほど席に戻って確認したのは津川さんが委任払制度を使う資格があるかどうかだった。資格OKは七割分は健康保険が払ってくれるという意味、ただし委任払いはできない。

 自治体ごとで対応は違うが、保険料を過去滞納したことがある場合には、役所側で強制的に高額療養費還付分をもって相殺する場合がある。津川さんはまだ未納分の滞納保険料があるのだろう。

 つまり、私は彼からこの請求書の金額全額を回収しなくてはならない。


 無理ですよね。何をどうしたって無理です。払えないのではなく払いたくない人なのだから。


「……津川さん、今確認が終わったのですけど、どうやら委任払制度は役所が許可しないようです。ということは、さきほどまでお話していたこの金額ではなく、こちらの金額そのままをお支払いいただくことになります」電卓を引き寄せ、代わりに請求書の請求金額欄を指差して見せた。


 ワニはその薄っぺらな下半身を津川さんの背中にぴたりと沿添わせたまま、上半身をひねり私を覗き込んできた。

 黄金色の両目玉がぎろりぎろりと左右上下互い違いな方向に動きまわる。

 私は津川さんから目をそらさない。ワニは見ない。


「だから、払うっつってんだろ!」


 どん、とカウンターの下を蹴ったようだ。

 音は聞こえるが、衝撃がこちらに響くほど安普請なカウンターではないし、蹴った足が痛いだけだと思う。


「でも今お支払いいただくのは無理なんですよね。分割でのお支払いを希望されているんですよね? では、こちらにも分割支払いをお受けするために整える書類や手続きというものがございます」


 引き出しから複写式の書類を一部出して、項目ひとつひとつを説明する。津川さんは入院時に提出するはずの保証書を提出していなかった。その保証書には、入院費の連帯保証人を記載する欄もある。必ず徴収するのが病棟ナースステーションや入院受付窓口の仕事のはずなのだが、あの人たちは、この書類がこういうときに非常に大事な書類となることを理解していない。診療費を徴収するのは自分の仕事ではないからだろう。

 入院時の保証書が提出されていない以上、この複写式の書類、債務確認書に記載する連帯保証人は譲れない。


「ご家族やご親戚に、こちらの連帯保証人になっていただける方、いらっしゃいませんか?」

「今日は誰もきてない」

「では、お電話で確認してから記載でも構いませんが。あと、前金として一部お支払いいただけると助かるんですけど」

「急に言われてできるわけないだろうが!」


 またカウンターを蹴る。ほんとに痛くないんだろうか。


 ワニが痙攣するように太い顎を震わせた。

 おそらく笑ってるんだろう。

 津川さんは別に心底怒っているわけじゃない。顔も紅潮していない。怒鳴って威嚇することで相手が引くと思っているのだ。

 いらだたしそうにカウンターを指で叩き続け、私を見下ろす姿勢を崩さない。

 ワニは私の頭上にのしかかりそうなほどに身を乗り出している。

 最低限の持ち出しで逃げるための口実を考えているんだろう。


「分割支払いはお受けします。ただ、私たちも書類を調えなくては上司に叱られてしまいます。どんなローンでも保証人は必要となりますよね。ご兄弟はいらっしゃいますか?」

「弟がいる。それでいいか」

「ご本人が了承していただけるならかまいません。前金はおいくらならご用意いただけますか」

「……一万。それしか財布にはいってない」

「ホールの向こう側に郵便局と銀行のATMがありますが」

「払わないといってないだろう! 信用できないのか! サラ金みたいだなあんた!」


 サラ金みたいだってセリフは定番だ。行ったこともないし督促されたこともないけれど、一般的になんか怖いイメージがあるはず。私はおそらく中肉中背だし髪も染めてないしどう贔屓目にみても群衆に埋もれるタイプだし、怖がる人なんていない。というか怖くないからこの津山さんだって怒鳴り散らしてるわけで。これは一体どんな意図で言われてるんだろうなといつも思う。


「津山さんと私は初対面です。津山さんは初対面の方に十万円貸しますか?」


 ワニは上半身を津山さんのほうに戻して頭頂部に顎をのせ、ゆらゆらと左右に体を揺らし始めた。




 現金を扱うところはどこでもそうだと思うが、毎日現金の帳尻を合わせるし、合うまで帰ることはできない。私の職場も同じだ。合ってなくても、大体はその原因はすぐ突き止められるのだけど、今日は少し手こずっていた。四百五十円合わない。


「平木さん、怖くないんですかぁ? 私もうあの津川さん怖くって」


 威嚇してくる人は多いので、私たちは慣れている。

 加藤さんもそのはずなのだけど、ワニのようなものをつけている人に対しては恐怖を感じるようだ。これは他の人も同じらしい。

 ワニが睨みつけたり覆いかぶさろうとしてきた素振り、あれが見えない人にとってはプレッシャーを感じさせるのかもしれない。

 見えてしまえばどうということはないと思うのだけど。

 あのワニだって威嚇するような振る舞いでこそあれ、別に怒ってたわけでもないし敵意もなかった。……そもそもあいつらが何を思って行動しているのかとか、毛むくじゃらを筆頭にさっぱりだけど敵意のあるなしくらいはわかる。


 結局、弟さんに確認の電話をいれられたくなければ三万、後は生命保険のお金が下りたら一括で支払いということだったけど、まず回収は無理だろう。どちらにしろそのときには弟さんに連絡することにはなるが、回収は見込めない。あの手の人は何故か保証人の連絡先に嘘は書かないので連絡はつくだろうが、どうせ血縁者も似たようなタイプなのだ。


「よく三万も回収できましたよねぇ。平木さん、すごいです」


 ……なんだって今日の彼女はこんなに話しかけてくるのだろう。

 普段私たちは一日の半分は交代で窓口にいるし、雑談するような機会もない。嫌われるほどの接触もないけど仲良くなるような理由もない。

 たまにそれは私だけなんじゃないかという気がしないでもないけど、ちょっとよくわからない。とにかく普段加藤さんはそれほど私に話しかけることなんてないのだ。


 今は領収書控えの合計を検算しているところだ。プリンター付の電卓で。加算するたびに印紙がプリントアウトされるので確かに普通の電卓に比べれば、会話はしやすいが会話していれば当然速度は落ちる。


「野々村さん分の金庫、検算合ってました」


 加藤さんは少し唇をとがらせた。

 私たちはそれぞれ自分の金庫を持っていて、そこから窓口でやりとりをする。そうすることで最後の集計をあわせやすくしている。今日は野々村さんと係長が前から早退する予定だったので残っているのは私と加藤さんだけ。なので、野々村さんが処理した分の領収書を私が検算していた。


「じゃあ、システムからの個別帳票突合するしかないですね」

「もうすぐ出力終わると思います」


 帳尻が合わないかもしれないとわかった段階で、システムには個別帳票の出力をさせはじめる。これは出力指示してから全て終わるまで三十分はかかるのだ。それから千件を超える個別の計算結果と領収書控えを突き合わせる作業になる。二人で。二人でだ。


「ゴミ箱みました?」

「ええ、なかったです」


 時々流れ作業の中で間違えて領収書控えを捨ててしまうことがある。ゴミ箱の中にもなかったとするとやはりこれから個別帳票突合させるしかない。


 加藤さんは大げさなほどにため息をついた。


「あの……平木さん? 私、今日用事があってこれ以上残るのはちょっと……」


 ――なるほど。それでやけに話しかけてきてたんだ。なるほど……って、え?


「本当にごめんなさい! 今度埋め合わせしますから!」


 今六時半。これからシステム出力を待って突合作業? 

 ひとりで? わたしひとりで?

 だけど私が返事をするまでもなく、彼女はかばんを既に手にして、部屋の中ほどまで後ずさっていた。

 返事してないのに。

 わたしだってこんな空気くらいなら読める。でもこれは読まなくてはいけない空気なんだろうかと考えてるうちに加藤さんは部屋から出て行ってしまった。


 まだ月半ばのせいで、部屋に残っている人は数人。

 西沢さんが立ち上がったのが見えた。

 あたりに軽く挨拶をして笑顔を振りまき帰っていく。


 毛むくじゃらが私の手元にある領収書控えの束をぱらぱらとめくり、その隙間に足を挟んでみたり抜いてみたりしていた。



 さて、四百五十円。

 九で割り切れる数字なのが気に掛かる。システム出力が終わるまでにもう少しかかりそうだ。

 加藤さんの領収書控の束に手を伸ばし、電卓から打ち出された細長い紙と突合することにする。

 プリンター付の電卓が便利なのはここだ。

 打ち込んだ数字と領収書の金額を後から付け合せることができる。

 左手で束をめくり、右手の赤鉛筆で細長い紙に打ち込まれた数字にチェックをいれていく。


 あっさりと見つかった。


 62380円が62830円になっている。その差額四百五十円。

 百と十の桁の入れ替わり。誤差が九で割り切れる数字のときは桁の入れ替わりを一番最初に考えるし、そもそも自分の金庫の現金と合わなかったはずなのにその申告はなかった。

 一体彼女は何と何をあわせていたのだろうと問い詰めたくもなるというもの。

 念のために現金を全部もう一度数えなおし、帳尻があうのを確認する。

 まあ、これで突合作業をしなくてもすんだ。


 大金庫にそれぞれの手提げ金庫と準備しておいたつり銭一式をしまい、鍵をかけてダイヤルを勢いよく回す。出力が終わった端末の電源を落として部屋からでると、私服に着替えた加藤さんが西沢さんと連れ立って玄関から出て行く姿が見えた。


 そっか。チョコは考えすぎだったんだ。やだ、私ってばなんか恥ずかしい。


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