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世界は薄いベールで私とそれ以外をわけているのだという感覚が幼いころからあった。
その薄い一枚の、向こう側にいるのか、こちら側にいるのか、世界はどちら側にあるのか、それは今でもよくわからない。
「おはようございます」
市立総合病院の医事課のドア、すぐ横には給湯室がパーテーションで区切られている。その向こうからくすくすと後輩たちの笑い声。ひそめているその声にすら私の声はかき消される。挨拶は大事です。わかってます。でも気持ちだけでも大事だともいうのでいいと思う。
十年前に改築されたという寒々しいほどすっきりとした院内とは対照的に、この部屋はどの机にもなだれ落ちそうなほど積み上げられた伝票。月半ばの今日はまだましなほうで、月末から月初めにかけてはさらに積み上げられた伝票に診療費計算担当の係員は埋もれてしまう。
壁際にびっちり押し込められたキャビネットと通路にはみ出てきているローチェストの間をすり抜け、部屋の一番奥にたどり着いた。私は出納窓口担当だからそこまで作業量に追われることはない。それでも私の係への配属を希望するものなどいなかった。運悪く配属されたものはただひたすらに異動願を出し続け、じっと時を待つのだ。
気付いた時には私は係で一番の古株になっていた。
パソコンの電源を入れながら席に着く。
すととと、と、肩から駆け降りる小さな黒いモノ。
全身黒と茶色のさび模様で、不揃いな毛並みは艶もなく好き勝手な方向に伸びている。
私の手のひらにすっぽり収まるサイズのそれは、細い手足とはアンバランスに突き出た腹で足元がよく見えないのかしょっちゅう転んでいる。
今もマウスのコードにけつまづいた。
何事もなかったかのように、あたかもそうしたくてそうしたのだといった風情で、転がったままモニタの裏を覗き込んでいる。
毎朝毎朝覗き込んでいるけど、モニタの裏側に一体何があるというのだろう。聞いたところでわかるはずもない。こいつとは意思疎通などできないのだから。そもそも意思があるのかどうかもあやしい。
こいつがなんなのかというと私には説明ができない。わからないから。
私が小学校に入る前くらいからか、いつのまにかそばにいるようになったこいつが見えるのは私だけなので誰に説明する必要も機会もない。
わからないことで困ることなどないので特に追及しようと思ったこともない。追及しようもないし。
通勤途中に買ったお茶のペットボトルをマウス横のスペースに置く。
今日は木曜日。主要診療科の手術日だから外来患者は少なめのはず。窓口のローテーションは午前中のみ。午後はフリーで動ける。支払いが滞っている人のリストをチェックし、手元のメモに苗字を書き留めた。
採用になってすぐここに配属されたときには、病院代を支払わない人の多さに驚いたものだ。支払えない人より、支払わない人のほうがずっと多い。
もごもごと唸り声をあげながら係長が出勤してきた。多分おはようと言っているつもりなんだと思う。挨拶し返す私の声も似たようなつぶやきではあるけど、お互い確認したことも聞き返したこともない。
挨拶は大事なのでとりあえず挨拶をしている私は妥当だと思う。
係長は背丈ほどある大きな古めかしい金庫を開け、釣銭用小銭各種がはいったトレイと、小さな手提げ金庫を次々と出していく。
総合病院にふさわしく電子カルテと連動した計算システムは近代的だ。
けれども予算はそれ以上かけられなかったのか、専用プリンタから請求書が吐き出されたその先から一気にアナログになる。ただ叩き慣れた電卓で釣銭を計算し続けるのだ。小さな手提げ金庫はレジの代わりと思ってもらえればいい。
来年にはこの作業も外注するという話は三年前から言われているけど都市伝説にも思えてくる。
わたしは手提げ金庫と釣銭トレイをひとつづつ持って窓口に向かった。
毛むくじゃらなあいつは、ちょこちょこと足元にまとわりつきながらついてくる。
さあ、仕事だ。
毛むくじゃらは電卓の周りをよたよたと歩き回っている。
プリンターから吐き出された伝票を引き寄せて手元に置く位置に、立ちふさがってみては寸前で避けたりしてる。邪魔だ。
電光掲示板に次々光る番号に従い患者さんたちが窓口に寄ってくる。一人一人名前を確認し、金額をつげ、つり銭と領収書を渡し、お大事にどうぞと声をかける。
視界のはしで、計算担当者が入院費支払い用の窓口に近づいていった。
手には一枚の伝票。
流れ作業の枠からはずれたその動きは「お大事にどうぞ」と声をかけてはいけない合図。もう、大事にする必要がないから。今日の入院費担当も、いつものようにただ頭を垂れて遺族を見送った。
医者でも看護士でもない私たちには、日常の光景以外の何者でもない。医者や看護士にとってもそうなのかもしれないけど。
「佐山さん、七百八十円になります」
病院に毎週通う人も当然いる。当然私たちも顔を覚える。この人もそう。形式上名前と顔を確認するそぶりをするだけ。覚えられることを嫌う人もいるから。
私たちが扱う伝票には診療費の計算結果しか出ていないけれど、だんだんその数字を見るだけで何の病気かわかってくるものもある。定期的に通わなくてはいけない病気。いつも同じ診療費。そして何科に通っているのか。うちの係の者は大体遅くとも半年程度でわかるようになってくる。
でも私は即日。正確にいうのであれば、もともとそういったことがわかる。どこが悪いのか、どのくらい悪いのか。
佐山さんがいつも腰にまとわりつかせているてらてらと光る棘を持つ毛虫のようなもの。
三ヶ月前は小指ほどのが二、三匹いるだけだった。ここ一ヶ月でそれがどんどん大きく、数も増えてきてる。今日は指三本ほどの太さの毛虫が十匹ほど腰から心臓にかけてわらわらと蠢いている。そいつらは、服の上だけではなく、ずぶずぶと砂地を渡るように佐山さんの体の中にもぐっては頭を出し、もぐっては頭をだして這い回っていた。
「お大事にどうぞ」
つり銭三百円と領収書を渡し、いつもどおり軽く会釈した。さよなら、と心の中でつぶやいて。
昼休みを交代でとる私たちは、一緒に誰かと昼ごはんを食べることはほとんどない。まあ、昼ごはんといっても私は売店で買ったパンや何かを机でかじるだけ。病院の近所にあるパン屋から仕入れているパンは結構いける。
今日はレーズンをまぶしてあるアップルデニッシュ。レーズンを一粒、落としたふりをして机の端におく。そのうちあの毛むくじゃらが、まるで空気からそれが生まれてきたかのような顔をしてつつきまわしてから食べるだろう。こいつがかわいいなんて思ったことはない。ただ、私の周りにはいつも何もいなかったから。
実家にいた犬も、親戚の家にいたインコも、愛想よしと評判らしい近所の猫ですら、私のことを嫌っていた。こいつのせいだという気もするけど、こいつがいる前からそうだったような気もする。
とにかく、私のそばにはずっとこいつしかいなかったのだ。
「平木さん、君、またクレームきてたよ」
部屋の中央にあるデスクから、課長補佐が声を張り上げた。また、だ。特に急いで立ち上がったりもしないのだけど、立ち上がりきる前に「対応しておいたから。沼田さん、支払いは来月必ずってことで」と、補佐はもう違う方向を向いていた。
脳裏によぎる各種罵りをうちけし、聞こえるはずもないほどの声で「すみませんでした」とつぶやいてまた座った。どうせ聞いてないのだから問題はない。
沼田さんは三万円の未納分を月二千円ずつ返す約束で、もう三ヶ月滞ってる。四年前から支払った月はほんの数回。昨日の電話では二日後に必ず振り込むと言っていた。
払う気なんてないのだ。催促の電話には適当に返事をして放置するか、こうやってクレームを入れて「対応」させる。そしてこの課長補佐は二ヶ月に一度は未回収金額について集計させ、お前たちの怠慢だと訓示を述べる。
朝書きとめたリスト順に、携帯電話にコールすると着信拒否の機械音。自宅の電話にかけなおす。
「近藤さんのお宅ですね。市立総合病院ですが」言い終わる前に切られた。
「お先失礼します」
朝と同じようにつぶやいて部屋を出たところで、西沢さんと鉢合わせた。
「お。お疲れ様」
彼は総務係で隣の隣の隣の係。
誰にでも愛想がよくていつもさわやか。私にすら笑顔で挨拶してくれる。
「はい」
売店から戻ってきたところであろう西沢さんが、ごそごそと袋に手を突っ込んでから何かを握って私に突き出した。
意味するところがわからなくて、そのこぶしを見つめていると、もう一度「はい」とこぶしを振った。何かを私にくれるというのか。差し出した手のひらに一粒のチョコが転がった。
「僕も今日、補佐が気まぐれに集計だせっていうから残業です。たまらないっすね。あの人」
一瞬、顔を私に近づけていたずらっぽく囁いた。
このチョコとなんの関係があるのかさっぱりわからない。
毛むくじゃらがチョコに気づいた様子で、手首に座り込んでる。
西沢さんは、じゃ、と部屋に滑り込んでいってしまった。毛むくじゃらがチョコに触る前に握り締めて制服のポケットに隠した。
人気がなくなり、照明を間引きした薄暗いホールを抜けて、壁と同色の関係者専用ドアを開ける。
非常口と防火を兼ねてるのはわかるけど、重すぎるドアは非常時に向かないんじゃないかと毎日二回思う。自分の幅の分だけ開けてすり抜ける。時々毛むくじゃらが出遅れて挟まれるけど、あいつは平気なようだ。
地下にある更衣室へ向かう廊下は非常灯だけがついていて薄オレンジに染まっている。灯りをつけてもいいのだけども、そこら中に赤や緑のちいさな光がちらちらと走っているし別に困らない。他の人は困ってるのかもしれないけど私は困ってない。
病院というところはよっぽど異形のものと相性がいいらしい。幼い頃に預けられていたひいおじいさんの住む田舎にも相当いたが、密度としては段違いだと思う。
「さわんなぁ」
ひいおじいさんは田舎に一人で暮していた。
角がけずれてきしむ階段、日に焼けた畳、格子のはいったすりガラスの窓、ふすまはしっかり閉めても上のほうに隙間が開いている、そんな家に預けられたのは多分四歳くらいから小学校に上がるまで。
大きなクモの巣のかかる物置がある庭と裏山の境目は、ひいおじいさんが草むしりをどこまでできるかで変わっていった。
その境目、小さな私の腰まで来る雑草の隙間から足を投げだして座り込んでる何かに手を伸ばしたとき、ひいおじいさんが間延びした声を縁側からかけてきた。
「ひぃじぃ、ひぃじぃにもみえるの?」
見えるものを指差すと母にその指を叩かれた。何もいないと両頬を挟んで睨まれた。母はそのうち私まで見えないものとして扱うようになった。
「んや、みえねぇけども、おまえ、なんかさわろうとしたろ」
駆け寄った勢いと同じ早さで胸の中がしぼんだ感じがした。
ひいおじいさんは、よっこいしょと縁側に腰掛け、節くれだった指の手を伸ばして私を引き寄せひざに載せる。
「んでも、おまえにはみえんだろ? じゃあいるんだろ。ひぃじぃにはみえんけども、まあ、なあんとなくいるのはわかる。ひぃじぃのばっちゃんは、あっちこっちで普通の人にはみえんものみえたっていってたぞ」
「そうなの? おかあさんはいないって」
ひざにのるということに慣れていなかったせいで、どう体重を預けていいかわからずにぐらぐらとバランスをとれないでいた私を、ひいおじいさんはもう一度抱きなおして抱え込んでくれた。
じぃじぃと鳴く蝉。裏山の木々が風に鳴る。ぶぅんと蝿が一匹飛んで行った。
「いいか。あいつらにちょっかいかけちゃだめだぞ。しらんふりしとけ。あいつらにはあいつらのルールっちゅうものがある。わしらにはわからんルールだ」
「しらんふり」
「そう、しらんふり。おまえがちょっかいかけなきゃなんもしてこない」
「ちょっかいかけたらなんかしてくる? なにしてくる?」
「……はて……どうかのぅ。ばっちゃんそこまではなんもいわんかったなぁ」
木漏れ日がゆらゆら降り注ぐ雑草の隙間に座り込んでいた何かは、足をぱたぱたさせたあと、ふっと消えた。
「あ、どっか行った」
「おまえ、どっかに連れてかれてたいか?」
太陽の下にいればじりじりとする夏の日だったけど、日陰になる縁側はひやっと気持ちのいい風が通っていて、ひいおじいさんのひざは暖かくて、ここのほうがいいと思った。
「ううん」
「じゃあ、ちょっかいだすな。連れてかれちまったらいやだろ。ひぃじぃもおまえいなくなったらさびしいからなぁ」
「さびしい?」
ひいおじいさんは、にまぁっと笑って私をくすぐった。笑い転げる私よりもずっと楽しそうに。
更衣室で制服から着替え、ロッカーを閉めてから、もう一度開け、チョコを制服のポケットからかばんにしまいなおした。
なんでチョコなんてくれたんだろう。僕もっていってた。もしかしてクレームの話聞いてたのだろうか。そのことだろうか。
……なぐさめてくれた? いやそれは図々しい考えな気がする。
ロッカーの扉の裏の鏡に映る、私の頭でうつぶせでくつろぐ毛むくじゃら。
私はずっとひいおじいさんの言いつけを守ってきた。こいつにちょっかいは出していない。でもついてくるのだ。どんなに走っても、ドアの向こうに置いてきても、いつのまにかまたそばにいる。もうあきらめた。
全ての人が異形のものをまとわりつかせてるわけじゃないし、人にまとわりついてる異形ばかりじゃない。
異形の形をしていない、人と全く同じ姿のものもいる。
そんなものは少しちぐはぐな服を、時に前後ろ逆にまとって、人の体を空気みたいに通り抜けて歩いていく。あいつらが私に何かをしてきたことはない。
ごくたまに覗き込んでくるやつもいたし、何かを訴えるように口をぱくぱくさせてくるやつもいた。
けれども、あいにく私はあいつらの言葉はわからないし、そもそも声も聞こえたことはないので言葉があるのかどうかもわからない。
わからないものは反応のしようもないし、ひいおじいさんの言いつけもあるし、で、黙っていればそいつらもそのうちどこかに行ってしまう。
大体において私に興味を示さないやつらのほうが多かったし、それは他の人間たちとなんら変わりがないわけで。だからあいつらを怖いと思ったことはほとんどない。
異形のものたちをスルーするのはいいけれど、さすがに人間に対してまで同じわけにはいかないだろう。言葉が通じるわけだし。ひいおじいさんは挨拶は大事だともいっていたのだ。
……言葉が通じるのに西沢さんがなんでチョコをくれたのかはわからない。
どう受け止めたらいいのだろう。