むくひめのたび。1
「ハル! ほら、あそこを見て下さい!」
ぷくぷくとした小さな指が、馬車窓の外を差しました。
「…………」
しかし、御者のハルは、ちらりともそちらを見ませんでした。
「子鹿が飛び跳ねて居ます! すごいですねぇ、かわいですねぇ」
これまたぷくぷくとした頬に両手を当てて、少女はうっとりとため息をつきました。
少女は、カティアと言う名前で、御者のハルと二人で旅をしていました。ハルはとても寡黙な青年で、1日に一言だって喋らないという日が良くありました。
反対に、カティアは、とてもおしゃべりです。一秒たりとも黙ってられない。黙っていたらもったいない!とでも思っているかのようでした。
年季の入った車輪が、草原を行く音が響きます。馬車は、森の近くを通り過ぎる所でした。麗らかな日差しが、暖かく二人に降り注ぎます。
二人は、世界の果てを目指していました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
白いハーフボンネットに、レースの手袋。幾重にも重なるドレスのフリル。はちみつ色の髪は、ゆるくウェーブがかかっています。カティアの座っている姿は、花束に埋もれている妖精のようでした。
「ハル、お腹がへりました! そう言えば、よくお腹と背中がくっつくぞ!って言いますが、本当にくっついてしまったら大変ですよね!? ぺったんこですよ!? お腹と背中って、どこからがお腹で、どこからが背中なんでしょう! ねぇ、ハル、気になりませんか?」
いつの間にかカティアは、御者台に居場所を移していました。
御者のハルは、長い前髪で片目を隠した青年です。
首には何重にもマフラーを巻き付け、手には分厚い革の手袋をし、外界との接触を断っているかのようでした。
馬の手綱を取るハルのコートのすそを、カティアがしきりに引っ張ります。
「……………」
ハルは、自分の腰袋に手をやり、干し葡萄をいくつか手に取ると、カティアの口に放り込んでやりました。
あま~い!と破顔してから、カティアはこてんと寝転がり、ハルの太股に頭を乗せました。
そうしてカティアは、しばらく猫がじゃれるように、ごろごろと転がったり、喉を鳴らしたり、ハルの顔にちょっかいを出したりしました。
馬車の車輪がゴトゴトと音を立て、時々小石を踏み、ゴトンと跳ねます。
ハルは、ただ黙って、前を見つめていました。
「ハルは、優しいですね」
カティアが言います。
「ちゃんと、世界の果てまで連れて行って下さいね」
こくり、とハルは頷きます。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ハルぅ~、このパン焼き立てですよ! 焼き立て! ふわっふわで、千切ると中から湯気がぶわぁって! ふぁー!」
「…………」
二人は、今、デルトラムという街の外の露店に居ました。デルトラムは、石畳が敷き詰められた少し大きな街。街の外周りも石畳になっており、石の磨り減り方に歴史を感じます。
行商の中継点という事で、多くの行商人が立ち寄るのですが、街の外はぐるりと背の高い防壁で囲まれており、よそものは、そう易々とは入れません。今も、防壁の周りは、関所の審査待ちの人々でごった返していました。
時間が経てば経つほど、お腹は空きます。街の中に入れないお腹を空かせた人達が多く居るとなれば、そこは商業の町。そう言った人達を当て込んで、出店や屋台が出張します。ふかし芋や、肉の薫製、果物市などなど。幌馬車の荷台をお店代わりにして商売をする、旅の者も居ました。
旅装の人間がごった返す防壁の周囲は、ある意味もう一つの街のようです。旅の人は、そう言った防壁の周囲の事を、外街と言っていました。
「ハルハル! あなたのそれはなんでしたっけ?」
ハルがカティアの口元に、すっと自分が食べていた物を持って行きます。カティアは、そのままそれにかぶりつきました。
「も! 桃じゃないですか! 蜂蜜漬なんてあなた贅沢なものを!」
食べる速度を緩めず、ひたすら桃にかぶりつきながら、カティアは小言を言いました。
ハルは、どこ吹く風で明後日の方向を向いています。
「良いですか、むぐ、いくら私たちの旅費が無尽蔵だからと言って、むぐ、無駄遣いをして良いわけじゃないですからね!」
眉根を寄せ、人差し指をぶんぶん振り回しながらお説教をするカティアでしたが、蜂蜜で口の周りをベタベタにしている状態では、幾らも説得力がありません。半分ほど食べたところで、カティアはお腹いっぱいになったようでした。
ハルは、腰袋から取り出した布で、カティアの口元をぐりぐりと吹いてやります。
むずかる様な声を出すカティアでしたが、ハルが拭きやすい様に上を向いてやっています。
お腹いっぱいになってうつらうつらし始めるカティアに、ぶつかっていく者が居ました。
ぼろぼろの継ぎ接ぎの服を着た、貧相な少年です。その手には、カティアの食べかけの桃が。
「んぅ……?」
カティアは、良く事態を把握していないようでしたが、どうやら、ひったくりにあってしまったようです。余程カティアの食べている桃が美味しそうで、カティアが他の旅人に比べて、隙があったのでしょう。
貧相な少年は、必死に走ります。
時刻は既に夕方。太陽は、とうの昔に防壁に隠れる程に落ちていました。
松明に火を灯していく点灯夫が現れ、夕闇を照らし始めます。埃くさい石畳の外街に、煤と酒盛りの匂いが混じり始めていました。
松明を縫い、少年は走って行きます。
ハルは、下唇を噛み、少年に厳しい目線を送りながら、しかし、追いかける事はしませんでした。
少年を追いかける事より、カティアを一人残す事の方が危険だと判断したのです。
それに、もう直あの少年は死にます。
ハルはため息をつくと、完璧に寝に入ったカティアを抱きかかえて、自分達の馬車へと帰り始めました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「なんだい嬢ちゃん。そんなに木細工が珍しいかい」
口も目もまんまるにして見入るカティアに、細工師の老人もご満悦です。
場所は、デルトラム街内の噴水広場。
御多分に漏れず石畳が敷き詰められた広場の中央には、勇者の像が立っていました。なんと、口と耳から水が噴き出しています。本当にこの街の人々は、勇者を尊敬する気があるのでしょうか。
まあ、そこはどうあれ、広場は外街に負けず劣らず人でごった返していました。ただ、外街よりちょっとだけ身形が綺麗な人が行き交っています。
細工師の露天は、そんな広場の外れにありました。東洋風な絨毯を石畳に敷き、その上に老人が座っています。そこで、実演をしながら木細工を売っているようです。周りには時々観客が足を止めて細工師の腕に見入っています。
鷹の意匠。大樹の意匠。山羊の意匠。造られるものはそれほど大きくなく、遊牧民が好む御守りのようでした。軒先にかけたり、首から提げたりするタイプのものが、所狭しと並べられています。
「おじさん! わたし! わたしやってみたいです!」
さわぐカティアをよそに、老細工師は、目を眇め、一枚の板にノミを当て、まだ見ぬ姿を掘り出していきます。平板に谷が出来、山が出来、それら渓谷が複雑に絡み合い、やがて模様になっていくのです。
ざり、ざりざり、ざり、ざりざり。規則的に響く削りの音が、ふいに止みました。
「嬢ちゃん、ここだ。最後の一掘り、やってみっか」
あまりの熱視線に根負けしたのでしょう。老細工師が、こめかみを掻きながらそう言いました。
「わぁ、ほんと!? わたしの一堀りで完成するなんて何て素敵なのでしょうか! それってとっても贅沢です!」
カティアは、ふんすと鼻息荒くノミを受け取ると、細い小さな腕で腕まくりをしました。
「さぁ、奇跡の一瞬です! カティア、ノミをいれましたー!」
ざ、と平板にノミを当てた瞬間、声ともいえないしわがれた、軋んだ叫び声がした気がしました。
それと共に、
「いってぇな! なにすんだ!」
という怒鳴り声が通りの向こうから聞こえてきます。
何事かとカティアが振り向くと、そこには、通りの向こうから鬼の形相でこちらに向かってくるハルが居ました。
「あ、ハルー! どこ行ってたんですかー! もうハルったら良い年して迷子になっちゃうんですから仕方が無い人ですねー こういう時、わたしがうろうろすると余計わからなくなるから、動かない事にしたんですよー どう? えらいでしょう! あ、それより見てくださいよわたしの記念すべき一刀を! きっとこの木細工が完成したら細工師のおじさんが、"あんたの熱心さに負けたよ、ほら持ってきな"とか言ってくれるはずですからちょっ」
いつものように、川の流れのようにおしゃべりをしていたカティアは、自分が板にノミを突き立てて居た事を忘れて居ました。
ざり。
手が滑ったのでしょう。ノミの刃は、板を押さえていたカティアの指先を掠めました。
「あ、痛っ」
それを見たハルの顔から、血の気がさっと引きます。通りの向こうから人を押しのけてやってくるハル。カティアが指を切るまでは、それでも人を押し退ける手に優しさがありました。
しかし、今はもうなりふり構っていませんでした。押し退けるというよりかは、突き飛ばす。万難を排して、ハルはカティアに駆け寄ります。
駆け寄るや否や、ハルは、カティアの血がにじんだ傷口の部分を、物凄い力で押さえ始めました。それは、小さく細いその指が折れてしまうのでは無いかと言うほどに強く。老細工師は、その光景を目を丸くして、見ているしかありませんでした。
息を切らして、汗を垂らしながら必死の形相で止血をするハル。その指には、しっかりとした手袋がされていました。
「……ハルってば、心配性ですね。 このくらいじゃ出ませんよ」
そう苦笑したカティアは、どこか、生きるのにくたびれた憂える老女のような雰囲気を纏っていました。
「────っ」
バカやろうと言いたげな荒い動作で、ハルはカティアの頭を抱き寄せました。カティアは、伏し目がちにおでこをハルの胸に当てました。
ハルは、泣いていました。ふと安心が込み上げて来たのか、あるいは、どうにもならない現実に泣いていたのか。
片時もカティアの傍を離れないハルが、何故今日に限って離れ離れでいたのか。そもそもの始まりはと言えば、ちょっとした不幸からでした。
関所の審査が終わってデルトラムの街に入ったは良いものの、今度は、入ってからの色々な手続きで長々と待たされる事になったのです。
ハルは、カティアと一緒にそれを待っていました。しかし、カティアがトイレに行きたいと言いだし、席を立った瞬間、二人は、人混みの濁流に流されてしまったのです。
それからというもの、ハルは、カティアを探し回っていたのでした。
カティアはと言えば、ご存知の通り、人混みから放り出されてからこっち、ずっと細工師の所で遊んでいたのです。
ハルは、随分心配したのでしょう。それだから、姿を見た瞬間ほっとした。しかし、刃物なんてものを持っているではないですか。保護者なら誰しも、幼い子供がそんな危険なものを手にしていたら震え上がってしまいます。
え? それにしたって、反応が過敏すぎやしないかって?
……それには、理由があるんです。
「……そんなに心配なら、今度は意地でも手を離さないことよ、ハル」
……ああ。しわがれた秋風の様な声が、そう呟いた気がしました。
"無垢なる姫よ、世界の果てについたらおまえは。"
旅は、まだしばらく続きます──。