閑話
「……あっさりと行ってしまわれましたね」
「祝福の冒険者である旦那様らしいではないか。残された私たちは、この家を恙なく守っていかなくては」
「忙しくなり……そうにはありませんね。人数は増えましたが、やることはほとんどかわりませんから」
「おや、そうですか?少し甘やかしすぎましたかね」
「元々余暇の時間を多くとっていましたから。新人教育も、生産も、商売だって交代でこなしてみせます」
「……旦那様がいつお戻りになっても大丈夫なように、素材の確保と更新を忘れてはいけませんよ」
「もちろんです。
生産ギルドの皆様にもご協力いただいて、技術の向上もして見せます」
「そうですね。旦那様がお戻りになった暁には、当家がかかわる素材が一新されることは自明。その時に我らが扱えないようではご迷惑をかけてしまいますから。
その解消のためには、ある程度利益度外視で作業することを許可します。販売利益の……五分ですね。五分を積み立て、皆の成長のために使用しなさい。その分、皆への分配は少なくなってしまいますが」
「それでも、十分すぎるほどの好待遇ですよ。私達は嬉しいですが、時には心配になりますね」
「慣れなさい。旦那様のご意向です」
幼き頃から一緒に成長した大旦那様。歩き方からお教えした若。どちらも、己が人生における半身とも言える存在だった。そのはずだった。しかし、今ではおぼろげになってしまった。まるで、他人から聞いた物語のごとく、自らの体験なのにぼやけている。
それだけ、こちらに来てからの人生が濃かったということかもしれない。孫を含めた娘夫婦と共に、心機一転、新天地へと足を運び、運よく今の旦那様に一家で仕えることになった。それからは、激動の連続。
そもそも、大旦那様の家に使える執事の息子として生まれた私には、大屋敷を滞りなく運営することも、別宅を恙なく回すことも、小さき頃から学んだ延長線上でしかなかった。必要な物、人、流れを整えること。問題になりそうなことを早期に発見し、対処すること。双肩にかかる負担は大きくとも、慣れれば常でしかなかった。信頼できる上司たる執事長と優秀な同僚や後輩に囲まれていればそれも当然。
こう振り返ってみると、様々な経験を積めはしたものの、波乱も万丈でなく、いつも穏やかに過ごしていた気がする。
一から一家を立ち上げる――それも、年を取ってから――という経験は、私の心のありようを若くしてくれた。いや、柔軟にならなければ務まらなかったと言っても過言ではない。何せ、今の旦那様は祝福の冒険者。従来の常識にとらわれない方々の一人。昔話には聞いていたものの、最初は実感がわかなかったものだ。
慣習や常識を軽々と飛び越え、新しいことを簡単に試すその心根。大旦那様と共に出た最初の商旅、前日の高揚感が思い出された。老いの見える己が身をどれだけ恨めしく思ったことか。
アークに来るまでと比べると、なんともせわしないが成長が感じられる。旦那様が居ないことが多いため、私が指示を出さなければいけないことがあり、疲れることも多かったが。
少し抜けているところがあった娘もメイド長として成長し、孫娘もメイドとしてだけでなく看板娘としても働いており、見る見るうちに大きくなった。そろそろ婿を迎える準備も必要かもしれない。
準備と言えば、私もそろそろ後任を育成しなくては。いつ旦那様が戻られるかわからないため顔合わせも承認もいつになるかわからないが、遅くなって迷惑をかけることを考えれば、早めにしておいて間違いはない。そうそう。準備で思い出したが、いつ旦那様が戻られても大丈夫なように手配しなくては。
とは言っても、今までもいつ旦那様が戻られても問題がないようにしてきたので、ある意味何も変わりがない。ただ、今までよりも保存がきく物を多く、それでいて旦那様が戻られた際の急な発注に対応できるように売り手とのパイプも維持しなくては。そう考えると商売を行っていたのは僥倖。質が落ちたものはそちらでの生産素材に回せる。武官の方も問題ない。屋敷の警護や店舗兼寮の見回りは今までと変わらず、旦那様への緊急対応のために設けていた余裕の部分も今まで通り訓練に当てるだけだ。牧場も順調であれば無理のない範囲で広げていくだけだ。
それよりも大変なのは、料理についてだな。これは料理長と相談しなくてはならない。技術、腕は磨けば上がるが、振るわなければさび付いていく。旦那様が居なくては彼も手を凝らした料理はしづらいだろう。しかし、外で様々な経験をされた旦那様を迎え入れる際に成長の跡が見えない料理を出させるわけにはいかない。彼のためにも、旦那様のためにもだ。
……ふむ。皆の士気を高めるためにも、時々優秀者への褒賞として晩餐を提供してみるのも良いかもしれん。時に主賓として晩餐に参加してみれば、配膳や控える際にどのようなことを気にすべきかを実感できよう。そのための経費は今までの予算で充分に賄えよう。料理の研究費用については別途となるが、材料に拘り過ぎなければ目の飛び出るような金額にはなるまい。
ああ、偉大なる旦那様。貴方にお仕えできたおかげで、暇などない充実した人生を送れております。貴方の旅路に、神の微笑みがありますように。