願BOW失(作:長谷川)
「うーん……」
と、私はうなっていた。
目の前には、直前までの授業で使っていた国語のノート。そこに書き連ねられた自分の文字を見て、私は頭を抱え込む。
書かれているのは、授業中にせっせと書き写した先生の板書――ではない。
現状思いつく限りで並べられた私の〝願い事〟だ。
「願い事ねぇ……」
と一人でぼやきながら、いつものクセで前髪を掻き上げようとする。けれどもそこに濡羽色の前髪はなくて、私の手はただ額を撫でただけで終わった。
あ、そうそう。前髪は数日前に自分で切って失敗したから、今は星のヘアピンで横に留めてるんだった。おかげで学校では「ちょっとしたイメチェン」で誤魔化せているけれど、私は生来前髪がないと落ち着かないタイプの人間なので、正直さっさと伸びてほしい。……これも〝願い事〟の候補にするべきか?
「いやいや、でも一生に一度のチャンスをたかが前髪に使うなんて……」
思わずノート脇に置いたシャーペンを手に取りそうになって、思い留まる。確かに前髪を以前までのスタイルに戻すのは私にとって急務だけれど、そんなものはほっといたっていずれ叶うことだった。
そんな小さな願いのためにこのチャンスを棒に振るなんて、それはあまりにももったいない。
「どうせ願うなら、それこそ一生に一度しか叶えられないような……」
思考はふりだしに戻り、私は再び頭を抱えた。まるでかわいげがない、ただ地面へ向けてまっすぐ垂れるだけが取り柄の黒髪。その黒髪に覆われた私の頭の中は、昨日からあの謎の羊皮紙のことでいっぱいだ。
八月二十五日、火曜日。
あのしゃべる黄色い猫が私の部屋に現れてから、一晩が過ぎていた。
初めは夢でも見ているんじゃないかと疑った光景。だけど今朝目が覚めて、枕元にぷーぷー鼻を鳴らしながら眠っているあの猫の姿を認めた瞬間から、私は「これは夢なんかじゃない」という確信を抱くようになっていた。
何故なら猫は相変わらず黄色かったし、揺すると「うーん、あと二時間……」ともにょもにょしゃべったし、ベッドから首を伸ばして見やった机の上には、相変わらずあの謎の紙と不気味なペンが乗っていたから。
かと言って、昨日の猫の話を丸々信じたわけでもないんだけど。
それでもあんなオイシイ話を聞かされたら、一度くらい試してみたくなるのが人間の性というやつだ。
「でもねぇ……」
と私はため息混じりにまたぼやく。目を落とした先にあるのは、昨日から思いつく限り書き出してみたいくつかの私の願いだった。
その内容は、たとえば進学を希望する大学に勉強しないで合格したいとか、好きな芸能人と結婚したいとか、そんなものばかりだ。
だけどこの中からどれか一つ願いを叶えたとして、あの猫の話が本当なら、私は途端に願ったものへの興味を失ってしまう。
「それってつまり、受験に合格しても大学に興味がなくなったり、好きな人と結婚しても相手のことがどうでもよくなったりするってことよね……」
それじゃあいくら願いを叶えたって意味がない。大学に興味がなくなってしまったら、いくら行きたい大学へ行けたって退屈な四年間を過ごすことになるのは目に見えてるし、好きな人への興味がなくなるということはすなわち好きじゃなくなるということだった。
それは結果だけ見れば、〝行きたくもない大学に行く〟、〝好きでもない相手と結婚する〟ということに等しい。
そう考えると今目の前にあるいくつもの願いはどれも願うだけ不毛な気がして、私はますます頭を抱えることになった。
興味がなくなってもいいから叶えたい願い……?
そんなもの、私にあるのかな?
というか普通〝願い〟って、「こうなりたい!」とか「これが欲しい!」ってことじゃないの?
それから興味がなくなるってことは、〝叶えても満たされない〟という意味で。
それって結局、何も手に入らないことと同じなんじゃないのかな――?
「――うーみっ!」
「ぎゃっ!?」
と、そのとき突然背中にどんっ!と衝撃を感じて、私はカエルが潰れたような声を上げてしまった。
驚いて振り向けば、そこには自然な茶色の髪を二つに結ったセーラー服の女子がいる。胸元で結ばれたリボンの色は、私と同じ聖繍女学院高等学校――通称〝聖女〟の一年生であることを表す緑色。
彼女はそら。
私の中学時代からの友人にして、クラスメイトの花柳そらだ。
大きなくりくりの目は相変わらず小動物みたいで、今はイタズラ好きの子猫のように私を見ている。
自毛だという茶色の長い髪は、ゆるやかに波打つ天然パーマ。手入れ要らずのほどよいパーマはいつ見ても上品かつ華やかな印象で、私は昔からその髪が羨ましかった。
おまけにそらはまつげも長くて、唇はぷるぷるで、胸も――って、いけないいけない。これじゃまるでエロオヤジみたいじゃないか!
「そ、そらっ、びっくりさせないでよ!」
「キャハハ、ごめんごめん。それよりどーしたの? 珍しく難しい顔してたけど」
〝珍しく〟とは失礼な。私はわざとらしく機嫌を損ねたような顔をして前を向き、広げていたノートをぱたんと閉じた。
そういう素振りをすることで、ノートを閉じる一連の動作を自然に見せたかったのだ。
しょ……正直危なかった。あと少しで、私の心の内に眠る痛々しい秘密の数々を親友に見られてしまうところだった。
「べ、別に? ただちょっと今の授業でよく分からないところがあっただけ」
「えー、そんなにむずかしー話してたっけ? あの先生の授業って退屈だから、話聞いてても右から左へ流れていっちゃうんだよね~」
「とか何とか言って、どうせそらはまた絵を描くのに熱中してたんでしょ?」
「キャハハ、バレた~? 今ね、冬のコンテストに向けて新作の準備中なんだ!」
心底楽しそうに笑って、そらはそう言いながら私の前の席に腰を下ろした。もちろんそこはそらの席じゃないけれど、今は休み時間だから誰がどこに座っていようがクラスメイトたちは気にしない。
女子校の休み時間というのは実に賑やかで、それでいてみんな自由だ。それはかつて地元のお嬢様高校と呼ばれた我らが聖女も変わらない。
私立聖繍女学院高等学校、一年三組。
それが私とそらの所属するクラスだった。
そらと出会ったのは中学生の頃。そらは中学二年生のとき他県から越してきた転校生だったんだけど、〝うみ〟と〝そら〟という名前が何だか姉妹みたいだねと言い合ったのがきっかけで自然と仲良くなったのだ。
そのそらが、自分の席から持ってきたと思しいノートを私の目の前で広げる。それは私たちが普段勉強に使っているような、罫線入りの大学ノートとは違った。
俗に〝自由帳〟と呼ばれる、罫線もマス目もないまっさらなノートだ。私はそれを「お絵かき帳」と呼び、そらはそれを「ネタ帳」と呼ぶ。
そらが開いてみせたその「お絵かき帳」には、先頭からページを一枚ずつ埋めるように様々な絵が描かれていた。
それはかわいらしい動物たちの絵だったり、ときにリアルな人の絵だったり、色とりどりの花の絵だったり、どこか外国の田舎を思わせる町並みだったり――。
それらは、そらの頭に次々と浮かんでは消える幻想の軌跡だ。そらは小さい頃から絵本作家になるのが夢で、よくこうして絵を描いたり、子供向けの物語を考えたりしている。
その夢へ向かうそらの情熱は本物で、「お絵かき帳」に描かれたたくさんの絵はどれもプロ並みと言っていいものばかりだった。
中でもそらは色鉛筆を使った色塗りが得意で、微妙に色が違う何本もの色鉛筆を使って言葉では言い表せないような色使いを見せる。
私はその幻想的な色彩を織り成すそらの絵が、昔から大好きだった。もしもそらが本物の絵本作家になる日が来たら、絶対一番にサインをちょうだいね、と約束を交わしているくらいだ。
「次のコンテストのお話、もう決まったの?」
「んーん、話の方はまだ。でもキャラクターは決まってさ。次はこの旅人を主人公にしたいなーって思ってるの。どう?」
そう言ってそらが開いたページには、まだ色の塗られていない白黒のラフ画があった。恐らくさっきの国語の時間、そらはこの絵を描くのに熱中していたに違いない。
シャーペン独特の細い線で、しかし力強く描かれたそれは一人の青年だ。
広いつばのついたとんがり帽子に、膝のあたりまですっぽりと全身を覆うボロボロのマント。胸のあたりには大きな羽根の飾りがついていて、肩には木の棒に提げた荷物を背負っている。
おまけに口には葉っぱを咥えていて、どこか遠くを見つめる横顔は黄昏れているように見えた。
その目は何色で、どこを見つめているんだろう。
そんなことを考えさせられる、引き込まれるような絵だ。
「へー、いいね。かっこいいじゃん」
「ほんと!?」
「うん、かっこいい。でも、そらがこういうタイプのキャラを主人公にするのって珍しいね。いつもは小さい女の子とか動物が主人公じゃん?」
「そーなんだよねー。でもたまにはこーゆーのが主人公でもいーかなって思ってさ。なんてゆーか、男の哀愁? みたいな、そーゆーのが描きたくなって」
「ああ、どうりでちょっと寂しそう」
「人間ってみんなちっぽけだけどさ。でも、どんなにちっぽけだって、世界にはそんな自分を愛してくれる人や、忘れないでいてくれる人がいるんだよ、みたいな、そーゆー話にしたいんだ。まだテーマだけで、どーゆー話にするかは全然決まってないんだけど」
自分で描いた旅人をひとしきり眺めてから、顔を上げてそらは苦笑する。普通、絵本というと先に物語があって、それに合わせて絵をつけていくようなイメージがあるけれど、そらの場合はいつもそれが逆なのだ。
だから物語を創るのは苦手なんだ、と、そらはよく弱音を吐いた。描きたいキャラクターや風景、それにテーマはすぐに思いつくけれど、それを物語として文章にするのはとても難しいって。
私もこれまで何冊か、そらが作った絵本を見せてもらったことがある。だけどそらはそのいずれの物語にも「納得がいっていない」と言い、「もうちょっと頑張ればもっといい話が書けるはず」といつも自分の実力不足を嘆いていた。
けれど私は、そらの書く物語の何がどういけないのか、正直よく分からない。
どんな絵本を読ませてもらってもただただ「すごい」と思うばかりで、それ以上の感想を抱くことができないのだ。だって、どんなに頑張ったって私にはあんな物語は書けないし、絵だってちっとも真似できないから。
一時期そんなそらに憧れて〝私も絵本を描いてみようかな〟なんて思ったことがあったけど、結果は玉砕。絵も文章も、それはそれは他人には見せられないほどひどいもので、私は羞恥心のあまりまだ半分も使っていなかった自由帳をそのままゴミ箱へ放り込んだ。
その話を後日そらにしたら、「捨てる前に見せてくれたら良かったのに!」と全力で抗議されたけど。
いくらそらでも、あんなもの見せられないよ。
だって見せたら私の中のそらに対する劣等感がますます大きく膨らんで、きっととんでもなく惨めな気持ちになるのは目に見えてるから。
「まあ、締切は十二月だからまだまだ時間はあるんだけどさ。あんまりのんびりしてるとまたこないだみたく学校休んで徹夜するハメになるし、今からコツコツ頑張らないと~」
「……そうだね。次こそ入賞するといいね」
「うん。もし入賞したら、そんときは真っ先にうみに連絡するからね!」
そう言って、そらは笑った。
その笑顔があまりにも眩しくて、私はもう一度「お絵かき帳」を見るふりをしながら伏し目がちに目を逸らす。
絵本の話をするときのそらは、いつだってそうだった。
瞳も声もキラキラ輝いて、何もかもが眩しかった。
私はそんなそらが羨ましかった。
私もそらみたいに輝きたかった。
でも、私にはそらみたいな夢がない。才能もない。
何か一つでも〝やり遂げたい〟と強く思えるものがあれば、私だって同じように輝けるかもしれないのに。
私には、そこまでして叶えたい願いは何もなかった。
そう、何もないんだ。
私はそらの「お絵かき帳」の下敷きになった国語のノートを見つめて、思った。
それなら私って、何のために生きてるんだろう?
☆ ★ ☆
黒くてひょろりとした譜面台に、小型の電子チューナーを置いた。
すうっと息を吸い、チューナーに向かってGの音を吹き鳴らす。電子メモリが左右に振れるのを見てバレルを調整し、やがて針が真ん中に合ったらチューニングは完了だ。
Gの音が合ったら、次はA。Aが合ったら、その次はB。
そうやって私たちはいつも練習前に楽器の調子を合わせていく。これは運動部でいうところの準備体操みたいなものだ。
放課後。私とそらは聖女の部室棟四階にある第二音楽室で、吹奏楽部の活動に勤しんでいた。
私たちの担当楽器はクラリネット。中学、高校の吹奏楽部では特に人気の高い楽器の一つだ。
今日は同じ楽器の奏者同士が集まって自由に練習するパート練習の日。まだ大会に出場させてもらえるほどの実力がない私たち一年生は、先輩たちが合奏練習に出払った音楽室でのびのびと自分の練習に励んでいた。
この状態は言うなれば〝自習授業〟のようなもの。まあ、要するにパート練習とは名ばかりの自由時間だ。
だから中には楽器の練習なんてそっちのけでおしゃべりに興じている部員も結構いる。顧問の先生も先輩たちもいないから、いまいち緊張感というか、張り合いが出ないんだよね。
「あ……」
と、そのとき私はようやくチューニングの終わった楽器を抱えて、ふとある場所に目を向けた。
そこには楽器などには目もくれず、窓辺でおしゃべりに花を咲かせている部員が数人。みんな私たちと同じ一年生だけど、傍らには練習スペース確保のために壁際へ寄せられた机がある。
その机の上に、部員の一人がフルートを置きっぱなしにしていた。それもケースから出した状態で、机の隅に対して斜めに放置している。
それを見た私は、
――落ちる。
そう、予感した。
いや、〝確信した〟と言ってもいい。
その瞬間、私は自分の楽器を椅子に置いて立ち上がり、窓辺で談笑している同級生へすたすたと歩み寄った。
が、それよりも一瞬早く、私の目の前を横切った別の生徒がいる。長いU字のスライド管を持つ金管楽器・トロンボーン担当の一年生だ。
刹那、そのトロンボーンのスライド管が机からはみ出していたフルートの端に当たった。トロンボーンの生徒はそれに気づかずさっさと行ってしまったけれど、軽いフルートはいともたやすく机上でくるりと回転する。
そしてその勢いのままに白い防音壁へぶち当たり、反対側へ弾き飛ばされた。
それを見た部員たちが「あっ」と声を上げたときにはもう遅い。
美しく磨き上げられた銀色の横笛は、そのまま床に叩きつけられそうになって、
「ほっ」
と、私はその寸前、身を屈めてフルートをキャッチした。
あと半瞬反応が遅れていたら、フルートは間違いなく床に当たって弾け飛んでいただろう。そうなればその衝撃で部品が壊れたり、楽器が歪んだりしていたかもしれない。
吹奏楽をよく知らない人には「だから何だ」と言われそうだけど、うちの部の楽器はほとんどが学校の備品なのだ。
だから壊せば当然弁償しなければならないし、楽器は一つ一つがとても高い。木管楽器のフルートだって、どんなに安くても四、五万はする。そんな楽器を持ち主の不注意で壊したとあっては大変だ。
でもって、やる気はなくともそのくらいの認識は持ち合わせていたのだろう。それまで雑談に熱中していた部員の一人がさっと青い顔をして、こちらへと走り寄ってくる。
「い、一条さん、ごめん! 楽器は!?」
「大丈夫、落ちてないよ。でも危なかった。楽器、吹かないならもっと安全なところに置いておいた方がいいんじゃない?」
「う、うん、そうだね……ほんとにごめん。ありがとう」
私からフルートを受け取った同級生はそう言うと、改めて自分の楽器が無傷であることを確かめ、ほっと息をついていた。
私はそんな彼女を横目に、再び自分の席へ戻る。すると一部始終を見ていたらしい隣のそらが、ニヤリとしながらこちらに顔を寄せてきた。
「うみさん、また〝予感〟ですかな?」
まるで悪代官に耳打ちする越後屋みたいな口調でそらは言う。私はそんなそらの芝居に吹き出しながら、「そんなとこ」と笑って返した。
実は私には時々、今みたいに何かが起こることを予感できる能力がある。いつどこで何がどうなる、という明確な映像が見えたりするわけじゃないんだけど、本当に何となく、あ、これはきっとこうなるな、と感じることがあるのだ。
その能力のことを知っているのは、今のところ親友のそらだけ。両親やその他の友達には〝何となく勘がいい子〟くらいには思われているだろうけど、実際にそういう予感がすることを話したことは一度もない。
何故なら、自分でもそのチカラの正体がよく分かっていないからだ。そらはこのチカラを「第六感だね」なんてキザっぽく呼んだりするけれど、私はそんなにカッコイイものじゃないと思っている。
だって予知能力と言えば聞こえはいいけれど、このチカラは私が視たいと願うものの未来を視せてくれるわけじゃないのだ。ただいつも気まぐれにやってきて、あの子は三秒後に転ぶよ、とか、今日の電車は遅れるよ、とか、そんな他愛もない未来だけを告げてくる。
それもそんなに頻繁にあることじゃないし、私自身はこれをこっそり「虫の知らせ」と呼んでいた。
これがもっとハッキリした予知夢とか透視能力だったりしたらもうちょっとカッコイイんだけどなぁ、と思う。時々何となくどうでもいい未来が分かる、なんてあやふやな能力じゃ、あんまり胸を張って自慢できないし、人から有り難がってもらうこともできない。私ってばほんと、何から何まで残念スペックだ。
それから私たちは十月にある文化祭用の曲を練習して、六時頃解散した。
先輩たちはまだ地方大会に向けた練習を続けているみたいだけれど、大会に出場しない一年生諸君は時間が来たら自由に帰宅していいということになっている。
私はそらと二人で帰り支度を済ませ、同じ部の友人たちに見送られながら音楽室を出た。
既に八月も終わりに差し掛かっているだけあって、最近は日が暮れるのが早い。部室棟の階段は踊り場の壁が全面ガラス張りになっているのだけれど、その窓の向こうでは早くも眠い目をこすった太陽が、山の向こうの寝床に沈もうとしていた。
「なんか、思ったより暗いね」
「だね。何だかんだでもう九月だもんね。早いなぁ」
「夏休みも気づけばあっとゆー間に終わっちゃったし。はー、ゆーうつ」
「うちの学校ももう少し夏休み長くてもいいのにね」
「ねー」
そんな他愛もない会話をしながら、笑い合って階段を下りる。けれど私たちの足が三階に差しかかったそのとき、突然廊下の角から別の笑い声が響き渡った。
びっくりして目をやると、ちょうどその先から三人組の女子生徒が歩いてくる。
リボンの色は黄色。二年生だ。
「あーっ、一之瀬センパイ! それに真野センパイと蓮村センパイも!」
と、その三人の先輩の姿を目に留めたそらが、階段の途中で立ち止まって声を上げた。するとその声でこちらに気づいた先輩たちが一斉に視線を投げかけてくる。
「あ、ハナちゃんじゃーん! ちょー久しぶりー!」
途端にそう言って大袈裟に手を振ってきたのは、そらと同じくらい長い髪を明るく染めた先輩だった。
チェック柄のプリーツスカートは極限まで短く、顔にはバッチリ濃い目のメイク。何もかもが明らかに校則に触れているのにまったく気にした素振りもないその人は、中学のときそらと同じ美術部にいた一之瀬舞先輩だ。
「あ、え、えーと……花柳さんと一条さんだよね。お疲れ様」
と、次いで何か確かめるように私たちの名前を呼んだのは、やや長めの前髪を赤い花のパッチンピンで留めた、ちょっと内気そうな見た目の先輩だった。この人は確か、蓮村さやか先輩だ。
そしてその隣にいるボブカットの知的そうな先輩は真野依理子先輩。この三人はみんな私とそらの中学時代からの先輩だ。と言っても私は中学では園芸部所属だったので、美術部員だったこの先輩たちと直接のつながりはないのだけれど。
「お疲れさまでーす! センパイたちも今帰りですかぁ?」
「そだよー。奇遇だねー」
「あれ? でも、今日って火曜日じゃないですか。センパイたちのいる写真部って、月曜と水曜が活動日じゃなかったでしたっけ?」
「そうだけど、昨日は始業式で部活ができなかったから。だから代わりに今日集まったの」
「あー、なるほどー!」
物腰穏やかに答えてくれたのは真野先輩で、そらは何が可笑しいのか、そんな先輩たちにケタケタと明るく笑い返した。
そらは中学時代、この先輩たちにとてもお世話になったらしくて、今でもすごく仲がいい。私はそんなそらのおまけとして彼女たちと知り合ったのだけれど、自分の直接の先輩というわけではないからお互いにただの顔見知りといった感じだ。だからこういうときどんな態度を取ればいいのかよく分からなくて、本音を言うとちょっと気まずい。
「ハナちゃんたちもこれから帰るのー? 良かったら一緒に帰んない?」
「はい、ぜひ! いーよね、うみ?」
「う、うん。先輩たちも同じ電車ですしね……」
久しぶりに先輩たちと会えて上機嫌のそらに水を浴びせるわけにはいかない。そう思った私は口元に無理矢理笑顔を貼りつけて、先輩たちに愛想を売った。
三人の先輩たちを含め、私たちはこの聖繍女学院高校がある天岡市よりやや南の青女町というところに住んでいる。海沿いにある加賀稚町より内陸の小さな町だ。
だからここで断っても、私たちの帰り道は同じ。おまけに乗る電車も一緒となれば逃げ道はないも同然だった。
そこで私は仕方なく、一之瀬先輩と楽しそうに会話を弾ませるそらの後ろに隠れて帰る。……こう言うと、何だか自分がすごく暗いキャラになったみたいでイヤだな。
でも、これはそらにも言ったことがないんだけど――実は私、この先輩たちが少し苦手なのだ。
それは先輩たちの振る舞いに問題があるとか、そういうことじゃない。ただ、この人たちと一緒にいると――ザワザワする。
何が? と言われると上手く説明できないんだけど、とにかくザワザワするんだ。胸騒ぎというか何というか……とにかく生理的でひどく不快な感覚。
それはまるで皮膚の下を何かが這いずり回っているようで気味が悪く、同時に不安を掻き立てられた。
このザワザワの原因が何なのかは、未だによく分からない。でも昔からそうなんだ。時々こんな風に合わない人がどうしてもいて、その度に私は鳥肌が立ちそうになる腕を何度も撫で摩るしかない。
「……なんかさ。今日、ちょっと冷えるよね」
「そう? まあ、確かに涼しいとは思うけど」
と、ときに一之瀬先輩の隣を歩く蓮村先輩と真野先輩が、そんな話をしているのが聞こえた。
そちらにふと目をやると、赤いパッチンピンの蓮村先輩が少しだけ青褪めた顔をしている。――体調でも悪いのだろうか?
私はぼんやりとそんなことを思いながら、空気のように駅までの道を歩いた。
そんな私の視界の端で、蓮村先輩がそわそわと腕を摩り続けている。
☆ ★ ☆
そんなこんなで、やっとこさ家に帰ってきたわけだけど。
「おかえりなさい!」
「……」
……やっぱり夢じゃないのよね。
いや、もちろん分かってはいたんだけど、自分の部屋へ戻るなり両手を広げて出迎える黄色い猫を見ていると、改めてそんな思いが湧いてくる。
「どうかしたの?」
「ううん、何でもない……」
と、思わずじーっと見入ってしまった私の視線を不思議に思ったのだろう。机の上で首を傾げた黄色い猫に、私は歯切れ悪く答えて鞄をベッドへと置いた。
ベッドの上ではピンク色のカバーにくるまった夏がけ布団が、ピシッと行儀よく横たわっている。この得体の知れない猫の存在を家族に知られるわけにはいかない私は、「私が帰ってくるまでこの部屋から出ちゃダメよ」と念を押して出かけたのだけれど、幸い部屋が荒らされた様子はなかった。
昔何故か夢中になって集めたお菓子のおまけのテディベアも、鴨居に吊るしていった洋服も、出がけにプリントの下へ隠していったあの羊皮紙も今朝のまま。それをぐるりと一息で確かめた私は、内心ほっと息をつく。
「ちゃんとお利口にしてた?」
「もちろん! 昼過ぎに一度、君のお母さんが洗濯物を片づけに来たけど、そのときだって〝みぃ〟とも鳴かなかったよ!」
「見られたの!?」
「見られたけど、大丈夫だよ。ちゃんとぬいぐるみのフリをしたから!」
「それ、大丈夫って言わない……!」
帰ってきて早々衝撃の事実を告白され、思わず眩暈を覚えた私は、テディベアが並んだ小さな棚にふらりとよろめいて手をついた。
だって、そんな……あの有名なジブリの黒猫じゃないんだから。確かに私のお母さんはどこか抜けてるところがあるけれど、本物の猫とぬいぐるみを見間違えるほどうっかりしてるかと言われれば、そこまでは――
「平気だってば~! 君のお母さんは僕に見向きもしなかったもの」
「……本当に?」
「うん。昨日言ったでしょ。君の家族には、僕は元からこの家で飼われていた猫のように見えるから大丈夫って」
ああ、うん……確かにそんなことも言っていた。
だけど私はその言葉をいまいち信じられなくて、それが心配だったからこの猫を部屋に残していったのだ。
「それと同じ原理で、君のお母さんには僕が元からこの部屋にあったぬいぐるみのように見えたんだよ。だから心配しなくても大丈夫!」
「ほんとかなぁ……」
「ウソだと思うならあとでお母さんに聞いてごらんよ。きっと何にも言われないから」
と、自信満々に猫は言う。私は未だに半信半疑ながらもひとまずその言葉を信じて、あとでお母さんにそれとなく確認してみようと思った。
「あのねあのね、それよりね……」
「うん?」
「えっと、その……うみ、またメロンパン持ってたりする?」
机の隅にちょこんと座りながら、猫は上目遣いに私を見てくる。その猫をぽかんと見返して、「メロンパン?」と私は聞き返した。
「うん。あの、あのね……」
と、それを受けた猫は何やら答えにくそうにしている。
が、次の瞬間、
ぐぎゅるるるる~……
「…………」
数瞬の沈黙が落ちた。
猫はまるで医者から余命宣告を受けた患者のようにうなだれている。
そんなに落ち込まなくてもいいのに……。
私は何だか憐れになって、何も言わずにベッドに置いた鞄をあさる。
「生憎メロンパンはないけど、キャットフードなら買ってきたよ」
「キャットフード?」
「うん。たぶんおなか空かせてるだろうなと思って。――はい」
昨日はメロンパンしか手元になくて、仕方なくそれをあげたけれど、猫と言ったらやっぱりコレだろう。
そう思いながら私が開けたのは、そらたちと別れてからコンビニで買ってきたキャットフードの缶詰だった。中にはほぐされた魚の身がぎっしり詰まっていて、私はそれを同じくコンビニで買ってきた紙皿の上にあけてやる。
が、それを机の上に置いてやると、
「――うわっ! 何これ、くさい!」
と、皿の上の匂いを嗅いだ猫が、バネのように勢い良く跳び上がった。
その拍子に足を滑らせ、猫は机の端からずり落ちる。後ろ足が宙に浮き、自分が落下していることに気づいた猫は慌てて前足で机にしがみついた。
「み、みゃぁ!? 落ちる~っ!」
「……」
……なんか、昨日もこんな場面を見たような気がするんだけど。
ていうか猫なら多少高いところから落ちても平気なんじゃ?
そんな呆れとも落胆ともつかない感想を覚えつつ、私はため息をついて後ろから猫を抱き上げる。
そうしてそのままフローリングに下ろしてやると、無事着地することができた黄色い猫は、大袈裟なくらいほっと胸を撫で下ろしていた。
「よ、良かった……今度こそもうダメかと思った……」
「いや、だからそんなに高くないと思うんだけど……ていうかくさいって何よ、くさいって」
「だってあの食べもの、魚くさいんだもの! あんなくさいもの食べられないよ!」
「はあ? あんた猫でしょ? 猫と言ったら魚でしょ?」
「よく分からないけど、あれだけはイヤだ! 食べたくない!」
頑としてそう言い張るや、猫はぎゅっと目を瞑り、必死に首を左右へ振った。
こ、この……猫のくせに贅沢な。キャットフードがくさくて食べられない? そんなバカな話がある? だったら一体何を食べるって言うのよ!
「そんなこと言っても、あとは夜食用に買ったどら焼きくらいしか……」
と、困り果てた私は鞄から安っぽいコンビニのビニール袋を取り出した。中には昨日、この猫を「あの猫型ロボットみたい」と思ったせいで急に食べたくなった大判のどら焼きが入っている。
が、その袋がガサリと鳴った瞬間、子猫の目がキラリと光った――ような気がした。
「ど、どら焼き!?」
「う、うん……食べる?」
「い、いいの!?」
「あ、あんたが食べたいなら、別にいいけど……」
「た、た、食べたいっ!」
「……。ケチャップとマスタードはいる?」
「えっ? なんで? そうするとおいしいの?」
いかにも興味津々といった様子で、猫は目をキラキラさせながら尋ねてくる。その瞬間、私は決めた。――よし。この猫のことは今日から〝キッド〟と呼ぼう。
本当はメロンパン好きの方の名前で呼んでも良かったんだけど、この子は一応オスみたいだし……それにやたらと高所を怖がるところも体の色もぴったりだ。訊けば名前は何でもいいと本人(本猫)も言うので、ずっと名無しのままよりはいいに違いない。
「しょうがないなぁ。じゃあこれは特別にあんたにあげるわ、キッド」
「キッド?」
「あんたの名前よ。今日からそう呼ぶから」
「ふーん、〝キッド〟かぁ……まあ、なんかカッコイイからいいかな?」
……え? かっこよくなかったら文句をつける気だったの?
「ね、ね、それよりどら焼き、どら焼き!」
「はいはい、分かったから……」
「ちなみに中身は!? 栗どら!? 生どら!?」
「え? いや、ごくごく普通のつぶあんだけど……」
と、私が答えた途端、それまで目を輝かせていた猫の耳がへにゃりと垂れた。
「なぁんだ、普通のどら焼きかぁ……」
「な、何よ。何か不満なの?」
「ううん、別に……ただ、お姉ちゃんがおいしいって言ってたのは生どらなんだけどなぁ……」
答えたキッドは見るからに不満たらたらだ。それを見た私は謎の敗北感を覚えつつ、怒り出したいのをこらえてどら焼きを床に置く。
キッドは包装ビニールの上に置かれたそのどら焼きにそっと鼻を近づけると、少しの間フンフンと匂いを嗅いでから囓りついた。
「うーん、まあまあかな!」
……。
いや、落ち着け私。そもそも猫がメロンパンだのどら焼きだのを好んで食べる方がおかしいのだから。
だから、そもそも存在自体が非常識極まりないこの猫にいちいち腹を立てたところで仕方がない。私はおなかのあたりに手を当てながら、ふーっと深く息を吐いた。……着替えよう。
「ねえねえ、うみ。そう言えば願い事は決まった?」
やがて私が七分丈のシャツにデニム生地のボトムスという格好に落ち着いた頃、むしゃむしゃとどら焼きを食べていたキッドが顔を上げた。
制服をかけ終えて振り向けば、薄いビニールの上に置かれていたどら焼きはきれいになくなっている。〝まあまあ〟の食事を終えたキッドはと言えば、そのビニールの隣に行儀よく座り、早速顔の毛づくろいを始めていた。……あれって人間で言うところの、食後の歯磨きみたいなものなのだろうか。
「いや、まだ決まってないけど、期限まではまだまだ時間があるでしょ?」
「うん。この紙の有効期限までは、あと六百七十七時間六分二十一秒あるよ」
「……」
「でも、お姉ちゃんは決めるなら早い方がいいかもねって言ってた」
「お姉ちゃんって?」
「えっとね……お姉ちゃんは、お姉ちゃんだよ」
束の間毛づくろいの手を止めて、キッドは答えになっていない答えを返してくる。……まったく要領を得ないけど、要するにこの子には姉猫がいるってこと? だとしたらその猫もこの子みたいにぺらぺら人の言葉を話すのだろうか?
「けど、どうして早い方がいいの?」
「さあ? 分かんない。でもお姉ちゃんの言うことにはいつも意味があるから」
……なるほど。つまり何かしら答えを急いだ方がいい理由があるってことか。
だけどそんな風に言われたところで、いきなり願いを閃くものでもない。これでも昨夜から精一杯頭を使ってどうすればいいのか考えているのだ。あの紙のことも、この猫のことも。
場合によっては〝願い事を書かない〟という選択肢だってある。けれど、このチャンスをみすみす見送ってもいいものか……。
「――そらー、そろそろごはんよー」
そのとき、ベッドに腰かけるのも忘れて考え込んでいた私の耳に、お母さんの声が飛び込んできた。
この芳しいスパイスの香りからして、今日の晩ごはんはカレーだろう。私は部屋の中から「はあい」と大きな声で返事をして、足元の包装ビニールをさっとゴミ箱へ放り投げる。
「まあ、その件は考えておくから」
と、私は部屋を出る間際、キッドにはそう返事をしておいた。
けれどそこではたと気づく。
机の上に放置されたキャットフード。
……あれ、どうしよう?
☆ ★ ☆
行き場を失ったキャットフードは、その晩、両親が眠ったあとにこっそり外へ持っていった。
そうして紙皿ごと家の近くの空き地に置いて逃げ帰ってきたのだけれど、今朝見たら皿の上はすっかりきれいになっていて……。
たぶん近所の野良猫が平らげていってくれたのだろう。駅へ向かう道すがらそれを確かめた私はほっとして、住宅街を歩く足を早めた。
本日の天気は曇り。まだ八月だというのに朝の気温は二十度とずいぶん寒い。
残暑をどこかに置き去りにして、秋が駆け足でやってきたみたいだ。予報では一日中降水確率が高いみたいだったから、私は愛用の赤い水玉傘を手にいつもどおり家を出た。
「うみー、おはよー!」
駅へ着くと、改札の手前、いつもの場所で待ち合わせていたそらが手を振ってくる。青女駅はホームも二面しかなく、いかにも田舎の駅といった佇まいだけれど、朝のこの時間はいつも結構な数の利用客で賑わっていた。見渡せば、あたりには私たちと同じ聖女の制服に身を包んだ子たちもちらほらいる。
「今日も寒いねー」
「ね。何だかまだ八月なのが信じられないよ」
「あたし、制服のカーディガン学校に置いてきちゃってさー。もーさいあくー」
「確かにこの気温じゃ風邪ひきそう。でも、電車に乗っちゃえば大丈夫だよ」
「だね。早く行こ!」
二人でそんなやりとりをしながら改札をくぐる。聖女に通うようになってからは毎日こうしてそらと二人、一緒に通学するのが当たり前になっていた。
私たちの暮らす青女町から天岡駅までは、電車で三十分くらいの道のりだ。そこから更に聖女の最寄り駅まで十分弱。その距離を一人で通学していたのでは、さすがに暇を持て余してしまう。
だからこうしてそらと登下校できるのは幸いと言って良かった。そらはとにかくおしゃべりだし物知りだし、一緒にいると退屈しない。
「あ、そーだ! そーいえばさ、うみ、もーすぐ世界が滅亡するって知ってる?」
「へっ?」
そのそらが突然そんな話題を振ってきたのは、私たちが天岡へ向かう下り列車に乗り込んでから十分ほどが経った頃のことだった。
銀色の車体に緑と橙のラインが走った六両編成の電車は今日も満員。私とそらはいつもと同じ先頭車両の乗車口付近で吊り革に掴まって、リズミカルな電車の揺れに体を委ねている。
車内は乗り合わせた乗客の熱気と話し声で飽和状態だ。だから私は初め、あまりにも突拍子のないそらの一言を聞き間違いだろうとそう判断した。
「何? 世界が滅亡?」
「そーそー! あたしも昨日知ったんだけどね、もーすぐ地球に小惑星がぶつかって人類が滅亡するらしーよ!」
……なんてことだ。どうやら聞き間違いじゃなかったらしい。
しかもそのヘヴィな話の内容に反して、そらは終始にこにこと楽しそうに笑っている。地球に小惑星が衝突して人類滅亡って、本当なら笑い事じゃないと思うんだけど……。
まあ、そんなそらの反応を見ても分かるように、それはよくある根拠のない終末論だ。ノストラダムスの大予言とかマヤ・カレンダーとか、時折ふと思い出したように囁かれてはネットなんかで騒がれる、デタラメな人類滅亡説。
一体誰が最初にそんなことを思いつくのか分からないけれど、人間って本当にこういうしょうもない噂が好きだなーと、私は思わず苦笑してしまう。
ノストラダムスもマヤ・カレンダーもあれだけ騒がれて何ともなかったのに、世界にはそうまでして人類に滅んでほしい人たちがいるのだろうか?
「あはは、もー、またその手の話題? こないだマヤ・カレンダーが外れたばっかじゃん」
「そーなんだけどね、なんかアレは計算が間違ってたとかで、正しく計算すると今年の九月が滅亡の月になるんだって。その噂に対して|アメリカ航空宇宙局(NASA)がネット上にわざわざ否定のコメントを載せたりして、海外でも結構話題になってるみたいだよ」
と、面白半分にそらは言い、鞄のポケットから取り出したスマホを片手で操作し始める。一体何を見ているのかと思ったら、ほどなく「あった! これこれ!」と弾んだ声を上げて、オシャレな手帳型カバーに入ったスマホを差し出してきた。
私はそれを受け取って、画面に表示された文字列に目を滑らせる。どうやらそれはそらがネット上で見つけた二〇一五年人類滅亡説に関する記事のようだ。
どれどれ、一体今度はどんなデタラメが並べられているのやら?
私は画面上部に表示された太字フォントの見出しを音読する。
「今年九月二十四日に小惑星が衝突、地球滅亡!? 海外メディアで大騒……ぎ……」
と、そこまで内容を読み上げた、瞬間だった。
ぞくりと突き上げるような悪寒が背筋を走り、心臓が凍りつく。
それと同時に肺が突然呼吸の仕方を忘れたかのように引き攣り、私はとっさに制服の胸元を掴み上げた。
途端に手の中から滑り落ちたそらのスマホが床に当たって悲鳴を上げる。私はそれを見てしまったと思ったけれど、今は吊り革に掴まって立っているのが精一杯で、落ちたスマホを拾い上げる余裕もなかった。
「ちょ、ちょっとうみ、大丈夫!?」
そんな私の代わりに慌ててスマホを拾ったそらが、次いで隣からこちらを覗き込んでくる。私は何とかそれに答えようとしたけれど、体が小刻みに震えて意識が遠のき、まともに口を開くこともできなかった。
「どーしたの、顔真っ青だよ!?」
あまりにも突然の事態に、さすがのそらも動揺している。周囲の乗客たちの目が私に向いた。――ダメだ。ここで騒ぎを大きくするわけには、いかない。
「ご……ごめん、そら。なんか、急に、立ちくらみ……」
「立ちくらみって、貧血? 一旦電車下りる?」
「うん……ほんと、ごめん……」
電車を包む揺れに合わせて、私の意識もぐらぐら揺れる。おかげで私はたったそれだけの言葉を紡ぎ出すのがやっとだった。
そんな私の顔色を見かねたのか、親切なサラリーマン風の男性が目の前の席を譲ってくれる。その男性には私の代わりにそらがお礼を言って、私はふらつきながらも何とか座席に収まることができた。
電車が次の駅に停車したのはそれから六、七分後。私はそらに手を引かれ、支えられながら何とか見知らぬホームに下りる。
その駅のホームにはガラス張りの待合室が設けられていて、中には自動販売機とベンチが並んでいた。
私たちはその待合室に入り、たった今下りてきた列車が再び北へ向かって走り出していくのを見守る。反対方向へ行く列車を待っているのだろう、先に待合室を利用していた数人の男女が、電車を下りるなりやってきた私たちを少しだけ怪訝そうに見つめていた。
「大丈夫、うみ? 何か飲む?」
「ううん、平気……ありがとう……」
一緒にベンチに腰かけ、気遣わしげに声をかけてくるそらに礼を言う。本当は体が芯から冷えてたまらなかったので、何か温かいものでも飲みたい気分だったのだけど、同時に今胃の中に何か入れたらすぐに戻してしまいそうで、飲み物を買うのはためらわれた。
「ほんと、顔真っ青だよ。貧血ってゆーより風邪ひいたんじゃない?」
「うん……そうかも……」
「熱は……ないみたいだけど。最近寒いし、大事取って今日は学校休んだ方がいーかも。何ならうちまで送っていくよ?」
「ありがと、そら……でも――」
私の額に当てられていたそらの手が、割れ物を扱うようにそっと離される。ちらりと見やったその顔はとても不安げで、様子のおかしい私を本当に心配してくれているのだと分かった。
だけど、今は――一人になりたい。
頭の中が混乱していて、そらともまともに会話できない。
なんで? どうして? どういうこと?
感情と疑問と動揺が膨れ上がって、脳みそが破裂しそうだ。
何だか頭痛までしてきた。
私は軽く眩暈を覚える頭を押さえながら、振り絞るような声で言う。
「ほんと、大丈夫だから。ここからなら一人で帰れると思う」
「ほんとに?」
「うん。なんか、電車降りたら寒気も引いてきたし……私のせいでそらが遅刻するなんて悪いよ。次の電車に乗ればまだ間に合うはずだから、そらはこのまま学校行って」
「でも……」
「今日、世界史の復習テストがあるって言ってたでしょ? 氷室先生、学校休んだ生徒にも容赦ないから……」
「あー、なるほど。先にテスト受けてあとで出題内容教えて、って?」
「そういうこと」
「分かった。それじゃ、あたしが死に兵になってうみのために道を切り開いてくるよ。でも、ほんとにだいじょぶなのね?」
「うん。心配かけてごめん」
「いーよ。とにかく今日は家に帰ってゆっくり休むんだよ」
なるべくハッキリとした口調を心がけたのが良かったのだろう。そらは少し体調が良くなったという私の言葉を信じてくれたみたいで、ほっとしたように小さく笑った。
そんなそらの笑顔に心が痛むのを感じながら、私たちは別れる。先に到着したのは天岡行きの下り列車で、ギリギリまで私の傍にいてくれたそらは、何度も振り返りながらその列車に乗り込んでいった。
青女町へ帰るための上り列車がやってきたのはそれから数分後。私は未だ小刻みに震える自分の体を抱きながら、おぼつかない足取りで列車に乗り込む。冷え切った指先で触れる体は、まるで自分のものじゃないように感じた。
それからどうやって家まで帰り着いたのかは、あまりよく覚えていない。
帰宅すると、案の定と言うべきか、お母さんに驚かれた。事情を説明したら「病院に行く?」と尋ねられたので、辛うじて首を振る。
たぶん休めば良くなるから。早口にそう言って、私は逃げるように二階への階段を上った。
そうして勢いよく自室のドアを開け、中に飛び込む。そのまま一も二もなくベッドに飛び込むと、枕元で丸くなっていたキッドが悲鳴を上げた。
「みにゃあっ!?」
まさか学校へ行ったはずの私が戻ってくるとは思っていなかったのだろう。キッドは私の体重を受けて弾んだベッドに吹き飛ばされ、そのまま床に落下した。
どうやらこの黄色い猫は、猫のくせに受け身を取るのがとても苦手みたいだ。おかげで今回もしたたかに腰を打ちつけ、床の上でしばらく悶えている。
「う、うみ? どうしたの?」
やがてよろよろと立ち上がりながら、キッドが私を見上げて尋ねた。
けれど私は、すぐに答えを返せない。意味もなく枕を抱きしめてそこに顔を埋めながら沈黙し、ややあってからようやく言った。
「ねえ、キッド」
「うん?」
「あの願いが叶う紙のことなんだけど……」
キッドが再びベッドに上がってくる気配はない。ただじっと見上げてくる視線だけを感じながら、私は続ける。
「あの紙に願い事を書いたら、何でも叶うんだよね?」
「うん、叶うよ」
「本当に何でも叶うんだよね?」
「言ったでしょ? どんな願いもババーン!だよ」
「――たとえば、〝人類が滅亡するのを防ぎたい〟って願いでも?」
一瞬の沈黙が降りた。
けれども返ってきた答えは、
「叶うよ」
はっきりと、その一言だけだ。
「……」
私はようやく枕から顔を上げ、焦点が定まらない目でキッドを見た。
フローリングの上に行儀よく前足を揃えて座った子猫は、ビー玉みたいな金色の目でまっすぐに私を見つめている。そして、言った。
「だけど代わりに、君は世界への興味を失う」
「世界への……興味?」
「うん。人類を滅亡の運命から救うってことは、すなわち世界を救うってことだからね。そうすると、君の願いは〝世界を救うこと〟だ。だから君はその代償に、世界への興味を失う」
あんなに無邪気だった子猫からは考えられないほど、事務的で淡々とした声。その声に私はぞっとして、またしても小さく震え上がった。
「で、でも……世界への興味を失うって、具体的にどういうこと? もしそうなったら、私はどうなるの?」
「さあ。人間にも色々いるから、それは人それぞれなんじゃないかな? 〝世界〟っていう言葉には〝人間〟とか〝社会〟とか、色んな意味が含まれるからね」
あくまで他人事のように猫は言う。それからキッドは不意にぺろりと前足を舐めて、その足でごしごしと顔を擦った。
「君の願い事はそれで決まり?」
「……」
「決まりなら、あとはあの紙にその願いを書くだけだよ」
「………」
「でも、君には何も書かないという選択肢もある」
「…………」
「あの紙の有効期限は、あと六百六十四時間三分五十七秒ってところかな。まだ時間はあるし、悩んでるなら納得がいくまでじっくり考えるといいよ」
「……………」
「ねえ、うみ。僕、ちょっと出かけてくるね」
キッドはそう言うが早いか、いかにも猫らしい動きでひょいひょいと家具の上を飛び移ると、私が足を向けた先にある窓辺へと移動した。
そうして器用に前足を使って窓を開け、わずかに開いた隙間からするりと外へ抜け出していく。窓のすぐ下は屋根だ。確かそんなに大きな段差ではなかったはずだけど、すぐに「みっ!?」という鳴き声が聞こえ、何かが落下する音がする。……今は気にしないでおこう。
キッドが開け放していった窓からは、とても八月とは思えない冷たい風が吹き込んでくる。けれど私は起き上がってその窓を閉める気力も、制服から家着に着替える気力もなく、そのままベッドに突っ伏し続けた。
私には時々、この先起こる出来事を予感できる能力がある。
いつどこで何がどうなる、という明確な映像が見えたりするわけじゃないんだけど、本当に何となく、あ、これはきっとこうなるな、と感じることがあるのだ。
そしてその予感が今日、私に告げた。
二〇一五年九月二十四日。
人類は滅亡する、と。
☆ ★ ☆
翌日、私は学校を休んだ。
キッドはあれから一晩、どこかへ出かけたまま戻ってこなかった。
もしかしたら道に迷っているんじゃないかと少し心配だったけれど、探しに行く気になれなかったのは、このままあの子猫が戻ってこなければいいという思考がどこかにあったからだ。
そうすれば、あの紙のことは全部全部夢になる。言葉を話す黄色い猫も、謎の紙や不気味なペンも初めからこの世には存在していなくって、すべてが私の妄想だったというオチで片づく。そう思った。そう在ればいい、と思った。
だけど私の部屋の机の上には、相変わらずあの羊皮紙と赤黒いペンが乗っている。キッドはもう帰ってこないとどんなに強く念じても、その紙とペンが視界から消えることはない。
つまり今私の身に起こっていることは、どれもこれも夢なんかじゃないということだ。改めてその現実を目の当たりにすると同時に、私は一つ恐ろしいことに気がついた。
キッドがこの羊皮紙の期限だと言った、一ヶ月後の日付。
それはまさしく人類滅亡の日だ。
つまりこの話は初めから仕組まれていた?
キッドは私に人類救済の願いを書かせるために現れた?
だけど、どうして?
どうして私なの?
私が人にはないチカラを持っていたから?
そのチカラできっと人類の滅亡を予知すると分かっていたから――?
「うみー、そらちゃんがお見舞いに来てくれたわよー」
何か大切なものに裏切られたような絶望感と、あってはならない未来を予知してしまった激しい恐怖。
その二つが重く体にのしかかり、私は朝からまともに起き上がることもできなかった。トイレに行く以外は部屋に引き籠もり、ろくに食事も取らずにベッドの上に転がっている。
そんな私の耳にお母さんの呼ぶ声が聞こえたのは、窓の外で日が落ちて、この部屋にも夕闇が迫ってきた頃のことだった。
私は半分眠っているような、でも起きているようなぼんやりとした頭をもたげて、枕元に置いていたスマホを取る。今日は朝からずっと音を切っていたせいで気づかなかったけど、点灯した画面にはメッセージを受信したことを告げるLINEのアラートが浮かんでいた。
試しにアプリを開いてみれば、メッセージの送り主はそら。それも一度だけでなく、朝から複数回に分けて私の体調を心配するメッセージが書き込まれている。
最後のメッセージが書き込まれたのは午後四時十七分。
『今からお見舞いに行ってもいい?』
そんなメッセージが来ていたことにも、今初めて気がついた。
画面の右上に表示された現在の時刻は午後五時二分。どうやらそらは部活を休んで私のお見舞いに来てくれたらしい。
「ごめん、そら……ずっと寝ててLINEに気づかなかった」
ほどなく部屋でそらと対面した私は、まず先にそのことを謝罪した。そらは笑って「別にいいよ」と言ってくれたけど、朝『今日も学校休むね』と送ったきりまったく何の返信もしなかったことを思うと、やっぱり申し訳ない気持ちが先に立つ。
久しぶりに私の部屋へやってきたそらは、何だか少しだけ懐かしそうにぐるりとあたりを見渡した。
ちなみにあの紙とペンは、念のため机の引き出しに隠してある。まさかそらがお見舞いに来てくれるとは思わなかったから、タイミングよくキッドが外出してくれていたのは助かった。
「昨日はごめんね。スマホ、大丈夫だった?」
「ああ、うん、だいじょぶだいじょぶ。なんか落ちたとき人の足に当たったみたいでさ。全然どこも壊れてないしへーきだよ。それよりうみこそ大丈夫なの? やっぱり顔色悪いみたいだけど」
「うん……たぶん風邪だと思うんだけどね。なんかちょっとだるくて、朝は頭も痛かったから」
「熱は?」
「今はないと思う。薬も飲んだし」
「そっか。なら良かった。最近急に寒くなったからねー。学校でも風邪流行ってるみたいだし」
私が勧めた机の椅子に腰かけながら、そらはそう言って苦笑する。私もそれに曖昧な笑みを返しつつ、内心ではそらが机の引き出しを開けたりしないかドキドキしていた。
もちろんそらが、何の断りもなくいきなり人の机をあさったりするような子じゃないことは分かっている。だけどあの紙のことを知られたらどうしようという不安が先に立ち、どうにも気持ちが落ち着かない。
いや――あるいは。
私はそらに気づいて欲しいのだろうか?
あの紙のこと。私が予知した未来のこと。
だけどキッドは、他人にあの紙の存在を知られたら紙は願いを叶える効力を失い、同時に私の記憶の中からも消滅すると言っていた。
その話もどこまで本当か分からないけれど、今ここであの紙を失うということは、人類を滅亡の危機から救う手段がなくなるかもしれないということだ。
もちろん私みたいなごくごく平凡な女子高生が、不思議な紙のチカラで世界を救う――なんて、あまりにも馬鹿げた話だというのは分かっている。
けれど。
どんなに信じたくない未来でも、私の予知が外れたことは一度もないのだ。
だとすれば人類を滅亡に至らしめる小惑星は、確かに存在しているはず――。
その存在に世界各国の宇宙開発機関が気づいていないとは思えない。
だけど昨夜から今日にかけて調べた限り、世間に広まっている二〇一五年人類滅亡説はあくまでオカルトの域を出ていなかった。
昨日そらが言っていたとおり、来月二十四日に小惑星が地球に衝突するという説はNASAが公式に否定しているし、こうしている間にも地球に接近していると思われる小惑星の情報はどこにも開示されていない。
つまり、情報が隠蔽されている……?
確証はないけれど、そんな展開を昔映画で見たことがあった。
国民が真実を知って恐慌を来さないように、政府は全力で情報を隠蔽。事実を公表しようとした者は口封じのために殺され、各国の首脳陣や要人、一握りの富裕層だけがこっそり地下シェルターなどの安全な場所へ避難し生き残る……。
そんな話が今現実に起こっているなんて、考えるだけで馬鹿馬鹿しいけれど。
でも、有り得ない話じゃない。
世界は公平になんてできていない。
そう、たとえばそらと私の間にだって、才能という生まれついての隔たりがあるように。
それを思えば、あの紙が世界を救う唯一の手段という考えもあながち否定できなくなる。
大人に話せば、きっと子供の空想だと笑われるだろう。だけど私はそんな予感を拭えない。
本当にあの映画のように政府が真実を隠蔽し、ごく一部の人間だけを生かす方針で動いていたら?
そう考えると震えが止まらなくなる。それが私の単なる妄想で済むならどんなにいいか……。
だけどどんなにそう願っても、私の中の第六感は警鐘を鳴らすのをやめてくれない。
「うみ?」
なおも地球の危機を訴え続ける本能の叫びに、私はまたも眩暈を覚えた。
本当は誰かに言って欲しい。うみ、それは考えすぎだよって。予感なんて外れることもあるよって。
でもそのためには、誰かに真実を話さなければならない。
たとえば、そら。
大親友のそらなら……私の予知能力のことを唯一知っているそらなら……あるいは私が望むとおりの言葉をかけてくれるだろうか?
「うみ、大丈夫?」
震える指先で額を押さえ、ベッドの上で身を屈める。
そんな私の異変を察したそらが、立ち上がって駆け寄ってきてくれた。まるで壊れ物を扱うように、私の肩を抱いてくれた。
その瞬間、私は思う。
――言えない。
言えるわけがない。
人類は本当に滅亡するの、なんて。
私のチカラを知っているそらなら、きっとそれを信じるだろう。そうなればそらも私のように心の均衡を失ってしまう。未来への希望を失ってしまう。
そらには絵本作家になるという夢があるのに。
そんなの駄目だ。
だけど、それなら私はどうしたら――。
「……ねえ、そら」
「ん? 何?」
うなだれたまま、掠れた声でそらを呼ぶ。そらはそんな私の背中を摩りながら、気遣わしげに答えてくれた。
その声が妙に優しくて、不覚にも私は泣きそうになる。
でもダメだ。今は泣いてる場合じゃない。
私はわななく唇にきゅっと力を込め、何とか言葉を紡ぎ出す。
「あのさ……こないだ言ってた、絵本の話」
「え?」
「そらが冬のコンテストに向けて考えてるっていう、旅人の話だよ」
「あー、あれ。あれがどーかした?」
「私ね、ちょっとお話を考えてみたんだ」
喉の奥から絞り出した声は震えている。それでも私は言葉を続けた。
「あの旅人はさ、世界を旅するうちに、一冊の不思議な本を見つけるの。その本に自分の願い事を書くと、何でも現実になる魔法の本……。だけどその本のチカラを使うには代償が要る。それは、自分が願ったことに対する興味」
「願ったことに対する興味……? それってつまり、お金持ちになりたいって願ったら、お金に対する興味がなくなるってこと?」
「うん、そういうこと。だから旅人はなかなか願いを書けなくて、本を持ったまま旅を続けるの。でもその旅の途中で恐ろしい噂を耳にする。遠い国で古の魔王が復活して、世界はもうすぐ滅びてしまうって……」
「いーね、それ。ファンタジーだ」
話を聞いていたそらの声が微かに弾む。私はそんなそらを直視できないまま、けれど少しだけ笑って、言った。
「その噂を聞いて旅人は迷うの。自分が魔法の本に〝魔王を滅ぼせ〟と書けば世界は救われる。だけどその願いはすなわち〝世界を救う〟ってことだから……」
「あ、そっか。つまり旅人は、世界に興味を失っちゃう?」
「そう。……私が考えたお話はここまで」
やっとのことで言葉をつなぎ、私はようやく顔を上げた。
ベッドの端に腰かけ、大きな目でこちらを見ているそらと視線が合う。私はそのそらの瞳に映り込んだ情けない自分の顔を見て、ヘタクソな笑みを浮かべる。
「そこから先のお話がね、どうしても思い浮かばないんだ。そらなら、そのあと旅人はどうすると思う?」
「うーん……そーだね。きっと旅人は世界を救うんじゃないかなぁ」
「でも、そしたら世界への興味を失っちゃうんだよ。それって、旅人が旅を続ける意味がなくなるってことじゃないかな」
「確かにね。でも、それでも旅人は世界を救うと思う」
「……どうして?」
「旅人はさ、それまでに色んな土地を旅して色んなものを見てるんだよ。夢みたいに綺麗な花のトンネルとか、紫の霧がかかる石の町とか……水底がキラキラ光る湖とか、岩山から見える満天の星空とか」
「……うん」
「だから旅人は、そんな美しい世界を守りたいって思うと思うの。あの旅人は自分をすごく孤独だと思ってるヤツだから、そんな自分の孤独を慰めてくれたたくさんの景色を守りたいって」
「でも、それじゃあ、願いを叶えたあと旅人はどうなるの?」
「それは分かんない」
「分かんない?」
「そ。敢えて結末を書かないの。あとは読者の想像にお任せしますって感じで。そしたらなんかイイ感じじゃない? 読み終わったあとにも余韻があってさ!」
どうやらそらは思った以上に、私の考えた物語を気に入ってくれたみたいだった。だから次の題材はそれで決まりだと言わんばかりに瞳を輝かせている。
けれど、私は。
ああ、やっぱりそうだよねと、うつむいて力なく笑った。
そらにとって、これはただの空想の物語だ。同じことが今現実に起こっているなんて、きっと夢にも思っていない。
当たり前だ。もしも立場が逆だったなら、私だってそらの身にそんなことが起きているとは想像だにしないだろう。
だけど、そう分かっていても。
私は、悲しかった。
縋った手を無視された気がした。
そう思うと、必死に抑えていた感情が溢れ出して――
「うみ?」
困惑したそらの声が聞こえた。けれど私は、零れ落ちる涙と嗚咽をこらえきれなかった。
こんなのただの逆恨みだ。頭ではそう分かっていても、心が言うことを聞いてくれない。
そらなら分かってくれると思ったのに。
そんなひとりよがりの感情が、けもののように胸裏で暴れた。
だから私は、横から差し伸べられたそらの手を思わず払いのけてしまう。
涙でぐしゃぐしゃになった視界に、驚いたそらの顔が映り込む。
「ごめん、帰って……」
それだけ告げるので精一杯だった。
傷ついたそらの顔が見えた。
そらは動揺と困惑を露わにしながら、一言だけ「ごめん」と謝ると、すぐに鞄を抱えて部屋を出て行く。
私は軋む胸を押さえ、子供みたいに泣きじゃくった。
そんな私の泣き顔を、窓の向こうに座った子猫が、じっと黙って見つめている。
☆ ★ ☆
私は、何もかもがどうでもよくなった。
学校に行くのも馬鹿らしくなって、一人で部屋に閉じこもり続けた。
両親が何か言ってきても、口もきかない。
もう何も考えたくなくて、一日中ベッドの上に転がって、無為に日々を過ごし続けた。
あの紙と不気味なペンは、今も机の引き出しにしまわれたまま。
刻々と時間だけが過ぎていく。
キッドはあれ以来私の部屋と外を出たり入ったりしていたけれど、私は彼がどこに行っているのか訊かなかったし、キッドも何も言わなかった。
ただ一度だけ、あの紙の持ち主にどうして私を選んだの、と尋ねたら、
「お姉ちゃんがそうしろって言ったんだ」
と、まったく参考にならない答えが返ってきただけだ。
人類の滅亡まで、あと半月を切った。
私は二週間あまり学校へ行っていないことになる。
あの日以来、私のスマホは沈黙していた。さすがのそらも突然あんな醜態を見せられたあげく、いわれのない八つ当たりを受けたとあっては、私への愛想も尽きたに違いない。
元々私は、時折そらにつらく当たることがあった。夢も才能もあるそらが妬ましかったからだ。
だから時々冗談めかしてイヤミを言ったり、笑ってごまかせる程度の意地悪をしたり、とにかくくだらない憂さ晴らしを仕掛けた。
そらもきっとそれに気がついていただろう。それでもあんな風に自分を心配してくれた親友を、私は手酷く裏切った。
だけどあと二週間足らずで、そんな事実も全部なかったことになる。だってすべてが無に帰すのだ。
宇宙の彼方からやってきた小惑星が大地を砕き、空は暗黒に覆われ、焼き尽くされた地上から人類は消え失せる……。
そんな地球の最期を想像すると、知らず、私の瞳からは涙が零れた。
私の手の中には、その未来を回避する鍵がある。
けれどその鍵を使えば、私はきっとこの世界に居場所を失う……。
どちらの結末も想像するだに恐ろしい。
地球諸共滅びるか、私一人が犠牲になって永遠の孤独にさまようか。
もしも私じゃない誰かがこの選択を委ねられたなら、みんな迷わず前者を選ぶのだろうか?
それを選べない私は卑怯な臆病者なのだろうか?
私だって救われたい。人並みに幸せに生きたい。
人間としてそう願うことは、罪なのだろうか?
『ピロン♪』
九月十二日、土曜日。
私が今日も今日とてベッドの上に身を横たえていると、不意にご機嫌な電子音が響いた。
それに気づいた私はハッとして寝返りを打ち、枕元に置いていたスマホを取る。画面を点灯させると、案の定LINEのメッセージ受信通知だった。
送り主は、そら。
『うみ、こないだはごめんね。
あたし、うみのことめっちゃ傷つけたみたいだね。
なのにちゃんと謝りもせずに逃げちゃった。。。
ほんとにごめんね』
ドクンと心臓が震えて、息が詰まった。
違う。傷つけたのは私の方だ。そらが謝ることなんて何もない。
そう返したかったけど、今の私にはそんな権利すらないような気がして、指先がためらった。
私の足元、ベッドの隅で丸くなったキッドが、眠ったまま黄色い耳をぴくぴくとさせている。
『もしうみが学校来れなくなった理由があたしなら、責任取るよ。
もうあたしの顔も見たくないっていうなら学校で話しかけないし、
部活も変えるから・・・うみはどうしたいのか、良かったら教えて』
返信すべきか否か。ベッドの上で固まり、数分悩んでいるうちに、そらから新しいメッセージが来た。
その内容を見て、私は思わず呼吸を止める。
違う。
違う、違う。そうじゃない。
『そらは悪くないよ』
震える手からスマホが零れ落ちないよう懸命に握り締めながら、私はやっとのことでその一文だけを送信した。
本当に、たったそれだけのこと。なのに何故か瞳からは涙が溢れてくる。人類滅亡の未来を予知して以来、私の涙腺はガタガタだ。ほんの些細な、ちょっとした感情の揺れを感じるだけで、世界は洪水の中に沈む。
『ならどうして学校来ないの?
何かあった?』
再びそらからのトーク。私は何も返せない。
『何か悩みがあるなら、いつだって相談乗るよ?』
ぽろり、と、涙が零れる。
私は依然スマホを握り締めたまま、何度かしゃくり上げたあとに返信した。
『言えない。
誰にも言えないの』
本当は、言いたい。
そらには全部本当のことを話したい。
そして慰めて欲しい。私はちっとも間違ってなんかないよって。
だけど本当のことを口にした瞬間、すべてが終わる。私の中からあの紙の記憶は失われ、世界を救う唯一の鍵かもしれないチカラは失われる。
その鍵を後生大事に抱えて、私はどうすればいいのだろうか?
私が選ぶべき未来は――
『分かった』
そらからの返信は、すぐに来た。
『今からうみの家に行く』
その内容に私は面食らい、そして戸惑った。
そらが来る? 今からうちに?
何のために?
『うみ、天岡に行く準備して待ってて』
そらからの返事は短かった。
『連れて行きたい場所があるの』
☆ ★ ☆
土曜日の天岡駅は、いつも以上の人で賑わっていた。
改札を出た先にある吹き抜けの巨大なホールは、これから街へ繰り出すのであろう軽装の若者や、キャリーバッグをガラガラと鳴らしながら歩く旅行者、果ては休日だというのにビシッとスーツで決めたサラリーマンなどでごったがえしている。
元々私たちの地元である青女町の、五十倍もの人口を抱える街だ。人が多いのは当たり前だし、よくこの駅を利用する私には見慣れた光景でもあるのだけれど、何故だか今日はその人の流れに圧倒された。ちょっとでも気を抜いたら、痩せこけた枝切れみたいにふらふらと流されてしまいそうだ。
「――花柳さん!」
タイル敷きの床を叩く無数の足音と、潮騒のように膨れ上がった人々の喧騒。
その中に、私はそらを呼ぶ一段高い声を見つけた。
驚いて振り向くと、改札のそばに立つ大きな四角い柱の横で見知った顔が手を振っている。
「あ、いた。蓮村センパイ!」
と、その見知った顔に、隣でそらが手を振り返した。
そう。改札前で私たちを見つけて声をかけてきたのは、そらの中学時代の先輩である蓮村さやか先輩だ。
先輩は今日も今日とて艶のある黒髪を赤いパッチンピンで留め、カジュアルな柄のワンピースに七分袖のパーカー、その下には黒タイツを履いていた。
学校の外で先輩と会うのはこれが初めてだから、私にはその姿がやけに新鮮に感じられる。と同時に、ちょっとくたびれた前開きシャツと踝丈のスキニーという、かなりいい加減な格好をしている自分が急に恥ずかしくなった。
だって、ここまでそらとはほとんど会話もなく、蓮村先輩が来るなんて聞いていなかったのだ。
「センパイ、お疲れ様です! スミマセン、休みの日に……」
「いいよ、気にしてないから。それより昨日の雨、大丈夫だった?」
「あーっ、それ、チョーヤバかったですよ! うちの近くって田んぼだらけじゃないですかぁ。だからその水が道路まで溢れちゃって……」
驚きと戸惑い、その両者に脇を挟まれてどうしたものかとうろたえていると、そんな私などお構いなしに、そらは合流した蓮村先輩と話し始めた。
そう言えば昨日は外で大雨が降っていたんだっけ。あまりにもすごい雨音が長時間屋根を叩いていたので、さすがの私も「うるさいなぁ」くらいには思っていたけど、田んぼの水が溢れるほどの雨だったなんて知らなかった。
だけど今は昨日の雨の話なんてどうでもいい。そらはそんな世間話をするために蓮村先輩と待ち合わせていたわけではないはずだ。
いつまでも世間話をやめない二人の様子に私は少しヤキモキし、やがて我慢できなくなって、言った。
「ねえ、そら。私を連れて行きたいところって?」
本当はこんな居心地の悪い空間からは一刻も早く逃げ出したい。そんな本心が滲み出た、うんざりしたような声だった。
口を開いてからそれを自覚した私は、しまったと思って口を押さえる。けれどこちらを振り向いたそらは機嫌を損ねた様子もなく、ほんの少しだけ表情にぎこちなさを残しつつも、笑った。
「あー、ごめん、うみ。ちょっとこれから蓮村センパイのうちに行こーと思うの」
「え? は、蓮村先輩の?」
「そう。センパイ、去年従姉さんの家に引っ越したらしくてさ。今は聖女の近くに住んでるんだ。ですよね、センパイ?」
そらが確認のために振り向くと、その先で先輩が頷く。そう言えばこの間先輩方と一緒に帰ったとき、確かに蓮村先輩だけが途中で別れて、駅とは別の方向へ歩き去っていったことを思い出した。
「で、でも、なんで急に蓮村先輩のうちに……?」
「あたしからお願いしたの。実はあたしも前にセンパイのうちでお世話になったことがあってさ」
「お、〝お世話〟って?」
「まー、それは行ってからのお楽しみ! ね、センパイ!」
「うん……最初は色々驚くとは思うけど、悪いようにはしないから」
更にそらから同意を求められた先輩は、そう言って何故か苦笑を浮かべた。
――先輩のうちでお世話になる? 色々驚く?
一体全体どういうこと??
「じゃ、早速行きましょーか!」
そんな私の困惑を知ってか知らずか、そらは俄然張り切り出すと、先頭を切って再び改札へと引き返した。
どうやら天岡駅へは蓮村先輩と合流するためだけに寄ったようだ。先輩のうちは聖女のそば、というそらの言葉が本当なら、確かにまた電車に乗らなければならない。聖女へ通学するときも、私たちはいつもこの駅で一度電車を乗り換えるのだ。
それから私たちは三人連なって改札をくぐり、いつものホームに下りて電車を待った。
特に時刻表を意識したわけではないのだけれど、目的の電車はわりとすぐに到着し、私たちはそれに乗り込んで三つ先の駅を目指す。乗車時間は十分ほど。駅に着いて電車を降りると、そこから先は蓮村先輩が先に立って案内してくれた。
先輩に連れられて向かった先は、細い路地が張り巡らされた住宅密集地だ。それもかなり古くからある団地のようで、年季を感じさせる家々や、明らかに潰れて久しいと思われる小商店などが並んでいる。
途中で通り過ぎた金物屋の入り口では、ガラス戸に向こう側から貼りつけられた古いポスターが日焼けして真っ白になっていた。
元は何のポスターだったのか、それすらも分からないほどだ。更にその二軒先にある小さな床屋もドアの向こうにはカーテンが引かれ、白、赤、青のサインポールも沈黙してしまっている。
「――ここだよ」
やがて先輩がそう言って足を止めたのは、そんな寂れた住宅街の一角にある、やけに新しい建物の前だった。
既に人が住んでいるのかどうかも怪しい、お化け屋敷のような二つの民家。先輩が示した建物はその二軒の民家に左右を挟まれ、ちょっと肩身が狭そうにしている。
外壁は砂漠の砂や岩石を思わせる色合いの煉瓦風。正面から見ると、その建物は幅三メートルくらいの隙間にすっぽり収まった箱のように見え、正面に設けられたドアの両脇には縦長のステンドグラスが伸びていた。
この廃れきった景観には何とも似つかわしくない、実に小洒落た建物だ。
色褪せた景色の中に佇む砂漠色の大きな箱は明らかに存在が浮いていて、何故こんなところにこんなものが建っているのだろうとわずかに眉をひそめたくなる。
が、私はその建物の前に立てられたとある看板を目に留めて、途端に「ああ」と納得してしまった。
『アヤコの店』
黒い背景に紫の流れるような字体でそう書かれたその看板は、見るからに――そう、アレだ。
「蓮村先輩のおうちって、飲み屋さんだったんですか……」
私は何となく残念な気持ちになって、思わずそう呟いた。
だってこの看板は、どこからどう見ても場末のスナックのそれだ。夜になると中の電灯で光るやつ。
建物自体はとてもオシャレで、「ちょっと入ってみたいな」と思わせる外観なだけに、入り口前に置かれたその看板とのギャップが何だかとてもガッカリだった。
ところがそうして肩を落としたのも束の間、突然隣のそらが笑い出し、私はぎょっとして顔を上げる。
「キャハハハハ! うみ、初めて来たときのあたしと同じこと言ってる!」
「え? え?」
「センパイ、やっぱりこの看板がダメなんですよ。お店があんまり流行んないのも、きっとこの看板のせいですって!」
「うん、だよね……私も何度もそう言ってるんだけどね……」
「あ、あの……すみません、もしかしてここ、飲み屋さんじゃないんですか?」
そらと先輩の会話から何となく自分の推測が外れたことを理解した私は、慌ててこの建物の正体を問い質した。
すると蓮村先輩は天岡駅で見せたのと同じ苦笑を浮かべて、ちょっと決まりが悪そうに言う。
「ごめんね。ここ、こう見えて実は占い屋なんだ」
「占い屋ぁ!?」
あまりにも意外な答えだったので、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
そんな私の驚きぶりを見て、更にそらが笑っている。
「これでも結構よく当たるって評判の占い屋なんだけどね。何分店主が気まぐれなのと、どこからどう見ても飲み屋にしか見えないせいで、あんまり知名度が上がらなくって……」
「そ、そうだったんですか……でも、それじゃあそらが前にここに来たのって?」
「うん。あたしも中学の頃、一人で悩み事抱えて行き詰まったときがあってさ。それで塞ぎ込んでたら、センパイがこのお店を紹介してくれたの。何か吐き出したいことがあるなら絢子さんに聞いてもらうといーよって」
「絢子さん?」
「そう。ここの店主で占い師の月宮絢子さん。あたし、そのとき絢子さんにすんごいお世話になってさ。あの人ならうみの悩みも解決してくれるんじゃないかと思って、ここに連れてくることにしたの。話はセンパイに通してもらってるから」
ようやく笑いを収めたそらがそう言えば、隣で先輩も頷いた。
けれどその瞬間、私の心臓はぞっと這い上がってきた恐怖のツタに絡め取られる。
だって、それってつまり――私の抱えている事情を、その絢子さんという人に話せということじゃないか。
「そ、そら……」
「ん?」
「気持ちは、すごく有り難いんだけど……私、この悩みは、誰にも言えないことだって言ったよね?」
私の身を案じてくれた、そらの気持ちを裏切る言葉。頭ではそう分かっていても、今の私にはそんな風に言うことしかできなかった。
これでまたそらを傷つける――。そう思うと胸が軋む。
けれど、
「――大丈夫だよ」
「……え?」
「何も言わなくて大丈夫」
言ったのは、微笑を浮かべた蓮村先輩だった。
「絢子さんには私から、何も訊かないであげて下さいってお願いしておいたから。一条さんは何も言わずに座っててくれるだけで大丈夫」
「えっ……で、でも、それって……」
「ここはそーゆーお店なんだよ、うみ。あとのことは全部絢子さんに任せれば大丈夫だから。さ、入った入った!」
「わっ!? ちょ、ちょっと、そら!」
とっさに上げた制止の声も虚しく、そらに背中を押された私は『アヤコの店』の入り口にそのままぶつかりそうになった。
けれどその寸前、まるで示し合わせたようなタイミングで先輩がドアを開けてくれる。チリンチリン、という涼しげな鈴の音が頭上で鳴って、その音色を聞いたときには、私は既に店内へと踏み込んでいた。
「うわあ……」
と、思わずそこでそんな声を上げてしまったのは、思った以上に店内の内装がエスニックだったからだ。
入り口を入ってすぐのところにある待合席や並べられた小物、唐草模様の壁紙、奥にかかった大きな鏡まで、すべてが異国情緒満点の品ばかり。
店の奥からは肺の中をスッと浄化するようなお香の匂いが漂っていて、更にそれっぽい雰囲気を醸し出している。
日本ではあまり嗅ぎ慣れない匂いだ。店の中は無人で、細長い通路のような待合室の向こうに、紫黒色のカーテンが下りたもう一つの入り口がある。
「絢子さん、連れてきましたよ」
と、ときに背後で上がった先輩の声に、私はびくりと飛び跳ねた。
店内に漂う匂いと空気に呑まれて、自分でも知らぬ間にかなり緊張していたみたいだ。まるでいきなり知らない国の知らない場所に迷い込んでしまったような感覚――。
そんな錯覚を覚えるくらい、この店の内装は非日常を感じさせるのだ。
「――どうぞ、奥へ」
そのとき、紫黒色のカーテンの向こうから女の人の声が聞こえた。
凛としていて、それでいてどこかしなやかさを感じさせる、大人の女性の声。
今の声の主が噂の〝絢子さん〟なのだろうか?
私が戸惑いながら振り向くと、背後に控えたそらと先輩が個々に頷く。
「大丈夫だから」
ぱっちりとしたそらの目がそう言っていた。
……ここまで来たら、もう腹を括るしかない。出口も何気にそらと先輩に塞がれているし、もはや退路はないようだ。
私は先程の先輩の言葉を信じ、あの紫黒色のカーテンの向こうへ行ってみることにした。
ゴクリと生唾を飲み、一歩踏み出す。木目のくっきりした木製タイルの床が小気味良い音を立て、私は棚の上に置かれた象や猫の置物を後目に覚悟を決めて奥へ進んだ。
そうして手をかけた紫黒色のカーテンは思ったよりも分厚く、高級そうな手触りに体が強張る。微かに艶めいて見えるそれはビロード生地だ。本当に、どこまでも本格的。
「し……失礼します」
自分でも苦笑したくなるほど上擦った声で言い、私は意を決してカーテンを開けた。その向こうには四畳半ほどの、薄暗い空間が広がっている。
天蓋のように天井から垂れ、四方の壁を覆っているのは暗幕……というやつだろうか。その天蓋の真ん中から垂直にぶら下がったペンダントライトには、数珠のようにつながれた水晶がぶら下がっていて、キラキラと光を反射している。
更に部屋の四隅には、これまたエスニックなデザインのオシャレなランプ。白い革張りランプの内側で輝いているのは、電灯ではなくキャンドルだろうか?
目の前には紫の薄い布がかけられた小さな円卓。その卓の上にはアラジンのランプを模した香炉が置かれ、ゆるやかに天井を向いたその口からは、願いを叶える魔神の代わりにゆらゆらと煙が上っている。
「いらっしゃい。あなたが一条うみさんね」
そしてその人は、細く立ち上る白煙の向こうに座っていた。
ぞっとするほど美しく整った顔立ちの、黒衣の女性。
年齢は二十六、七歳くらいだろうか。
はっきりとした目鼻立ちに、腰まで届く長い黒髪。
深めの襟刳りから覗く白い肌。
そして何より無機質めいていて、じっと見つめられると魂を吸い取られてしまいそうなほど黒い瞳――。
この人が、月宮絢子、さん。
その瞬間、私はぶわっと鳥肌が立ち、思わず自らの腕を抱く。
「あ……え、えっと、あの……」
「はじめまして。私が店主の月宮よ。花柳さんもいらっしゃい。久しぶりね」
「はい、お久しぶりです! その節はどーもお世話になりました!」
青褪めながら立ち尽くす私とは裏腹に、元気いっぱいの挨拶を交わすそら。そんなそらを見た絢子さんはほんの微かに、しかしふ、と口元を緩めて首を傾げた。
途端に彼女の肩を髪が流れ、どこか作り物めいた顔つきがにわかに人間味を帯びる。……何となく浮世離れした人だけど、どうやら悪い人ではなさそうだ。
だけどこのザワザワは何? 実は天岡駅で蓮村先輩と合流したときから異変は感じていたのだけれど、ここに来てからのザワザワはそれとは比べものにならない。
私はどうにも落ち着かなくて、さりげなく腕を摩り続けた。
そのときチリンと、どこからともなく音がする。
「にゃおん」
次いで聞こえた猫の鳴き声に、私は思わずドキリとした。
反射的にキッドの姿が脳裏をよぎり、まさかあの子猫が私を見張りに来たのでは? と、そう思ってしまったのだ。
けれど幸いにも、そんな私の予想は外れた。
トン、と軽い音がして、突然死角から現れた猫が卓の上に着地する。
尻尾の先に鈴つきのリボンを結んだ灰色の猫――確かこれは、ロシアンブルーとかいう品種の猫だ。
「わーっ! 猫ちゃんだー!」
途端に動物好きのそらが歓声を上げた。見るからに上品な毛並みをしたロシアンブルーは、ピンク色のリボンがついた尾をはたりと揺らす。それに合わせて鈴が鳴った。……この店の猫なのだろうか?
「あら、珍しいわね。サリーが自分からお客さんの前に顔を出すなんて」
「この子、サリーちゃんってゆーんですか?」
「ええ、そうよ。だけど人見知りが激しくて、普段は店に出たがらないのだけど」
くすり、と意味深な笑みを浮かべながら絢子さんが言う。サリーと呼ばれたロシアンブルーはガラス細工のような緑色の瞳を私へ向けると、そのまますとんと腰を下ろした。
「もしかしたら、余所の猫の匂いに反応したのかもしれないわね」
と、ときに私の心臓がギクリと不穏な音を立てる。よ、余所の猫の匂いって……もしかしてキッドのこと?
だけどうちで猫を飼っている――というか猫に居候されている――ことは家族はおろか、そらにさえ伝えていないことだった。
なのにどうして絢子さんはそんな風に思ったのだろう?
「まあ、いつまでもお客様を立たせているわけにもいかないわ。どうぞ座って」
少しずつ早鐘になる自分の鼓動を聞きながら、私は勧められた席へ腰を下ろす。背もたれの部分に蝶がデザインされたアンティーク調の黒い椅子。その椅子は卓の正面に置かれ、私は図らずも絢子さんと向き合う形になった。
「それじゃあ、早速始めさせてもらうけど……一条さんは、こういうお店に来るのは初めて?」
「は、はい……デパートの片隅とかにあるのは、よく見かけるんですけど……」
「そうね。こうやって堂々と店を構えて営業している占い屋は、今じゃ珍しいかもしれないわね。だけど緊張することはないわ。――うちの占いは法外に高いけど」
「えっ」
「だけど今回は花柳さんの紹介ってことでタダにしておいてあげるわ。だからそんなに怖がらなくても平気よ」
「は、はあ……」
「絢子さんが言うと冗談でも笑えないんだよなぁ……」
と、ときに後ろで別の椅子に腰を下ろした蓮村先輩が、ぼそりと何か呟いた気がする。けれど私は目の前の整いすぎた笑顔に気圧されて、先輩が何と言ったのか聞き漏らしてしまった。
「だけど相談を始める前に、まずはこちらのことを知ってもらう必要があるわね」
「と言うと……?」
「占い屋には三つあるの。一つは統計学や心理学といった学術的観点から顧客に人生のヒントを与えるお店。もう一つは口達者なペテン師による詐欺のお店。そしてもう一つは――」
そこで不自然に言葉を切って、絢子さんはうっすらと微笑んだ。
本当に、見とれるくらいよく整った笑顔だ。ミステリアスで、どこか人形めいていて、だけどただならぬ気配を帯びた――
「――来月はあなたの誕生日ね」
「……え?」
「十月十五日生まれ。そうでしょう?」
「な、」
「ご両親との三人家族で、生まれは関東。だけどあなたが生まれたのを機に、父方の実家がある青女町へ越してきた」
「なんで、」
「お父様は最近課長に昇格したわね。天岡市内の機械修理会社の。まだお若いのに、とても優秀なお父様だわ。お母様の旧姓は園田。お父様は一人っ子だけど、お母様にはご姉弟がいるわね。それからあなたがまだ小学生の頃にはハムスターを飼っていた。品種はジャンガリアンで、名前は〝サクラ〟。名前の由来は、ちょうど桜の咲く季節にお父様のご友人から譲り受けたから。だけど実はオスだったのよね」
私は、戦慄した。頭の中が一気にパニックになって、思わずそらを振り返る。
だけどそらは、私の視線の意味に気づいて首を振った。
つまり、そらが事前に私の身の上を話していたわけではない――。
というかお父さんが先月昇進したことも、お母さんの旧姓も、ましてや昔飼っていたハムスターの名前の由来なんて、私は一度もそらに話したことはない。
「ど、どうして……どうしてそんなこと知ってるんですか?」
事態に思考が追いつかない焦りと、初対面の相手に自分の素性を知り尽くされているという恐怖。その二つの感情の間で絞り出した声は不安定に揺れていた。
けれど当の絢子さんは、燻る香炉の煙の向こうで超然と微笑んでいるだけ。
――この人、本当に何者なの?
「一条さん。今のあなたには何か、人に言えない悩みがあるそうね?」
「は……はい……」
「だからあなたは何も言わなくていい。さやかちゃんからそう言われなかった?」
「い……言われました」
「なら、もう分かってもらえたでしょう。ここはそういう占い屋。信じるも信じないもあなた次第。だけどあなたならきっと私のチカラを理解できるはず」
――〝チカラ〟。
ああ、そうか。〝チカラ〟だ。
今、私の目の前にいる月宮絢子という人は、私と同じ人にはないチカラを持っている。
それは間違いのないことだと思った。止まないザワザワがそれを証明していた。
そしてここは占い屋。
ということは、この人は――
「あ……絢子さんには、もしかして未来が視えるんですか?」
一世一代の大博打を打つような気持ちで、そう尋ねた。
灰色の猫の鈴が鳴る。
紅がひかれた絢子さんの微笑みが、ほんの少し深くなる。
「ええ、視えるわ。未来と言わず過去までも」
――やっぱり。
やっぱりこの人はそういう人だ。
私と同じ。
いや、私なんかより遥かに強いチカラを持った人――。
「あっ、あのっ」
その予想が確信へと変わった刹那、私はそう声を上げずにはいられなかった。
思わず席から身を乗り出し、黒ずくめの占い師を凝視する。もう彼女の姿以外、今の私の視界には入らなかった。昂揚で頬が紅潮する。
「そ、それじゃあ今ここで、私の未来を視てもらうことってできますか?」
「ええ。もちろんできるわ」
「本当に!?」
「あなたがそれを望むなら」
「ぜ、ぜひお願いします! 私、自分が今どうすべきなのか、本当に分からなくて……!」
「それは構わないけれど――いいの?」
「え?」
「本当に未来を視てしまってもいいの?」
「ど……どういう意味ですか?」
「未来は、一度知ってしまったら変えることはできないの。――それでも?」
じっとこちらを見据えた絢子さんの口から零れた、予想外の言葉。
それは私の耳から体の中へ滑り込み、ドッと心臓を蹴飛ばした。
未来は、一度知ってしまったら変えることはできない……?
ということは、ここで絢子さんの口から自分の未来を聞いたら、私はそのとおりの選択をしなければならないということ――?
「で、でも……」
「何?」
「でも、私は、変えられます……」
「と言うと?」
「わ……私にも、絢子さんと似たようなチカラがあるんです。何て言うか、上手く言えないんですけど……予感がする、ときがあって。はっきり未来の映像が見えたりとか、そういうのじゃないんですけど、何か予感がしたときは必ずそれが当たるっていうか……」
「大丈夫。分かるわ」
自分のチカラのことを上手く伝えられずに困っていると、絢子さんはそう言って頷いてくれた。
その言葉に、私は少しだけほっとする。そもそも絢子さんはさっきの過去視のチカラで、私のチカラのこともある程度は知っているのだろう。
だから特に驚いた様子もなく、すんなりと受け入れてもらえたことが少しだけ嬉しかった。今までこのチカラのことを話せたのは、親友のそらだけだったから。
「あの、だけど、たとえばそこにあるランプが落ちて壊れるなって予感がしたら、私はそれを止められるんです。落ちる前に手で押さえて、自分が読み取った未来が起こるのを防ぐことができる。それってつまり、〝未来を変えている〟ってことにはなりませんか?」
「そうね。捉えようによってはそうとも言えるわ」
「そ、それじゃあ――」
「――だけどあなたのそのチカラは、私の持つチカラと似ているようで違う。本質的なものがまったく異なっているのよ」
「え……」
またしても投げ返された予想外の返答に、私は頭が真っ白になった。
私のチカラは、絢子さんのチカラとは本質的に違う……?
同じ〝未来〟を知るチカラなのに?
「あなたが今〝未来〟と呼んだものは、正確には〝未来〟ではない。あなたのそのチカラで知ることができるのは〝可能性〟よ」
「可能性……?」
「そう。たとえば三秒後にこのランプは落ちるかもしれない。だけど手を伸ばすのが間に合えば落ちないかもしれない。つまりあなたが視ているものは、〝確定していない未来〟。今、この時点より先に存在している複数の可能性のうちの一つに過ぎないの」
絢子さんの説明は続く。
「それに対して、私がここで視るものは〝確定した未来〟。あなたが複数のうちから選び取った可能性の先。そしてそれは、一度知ってしまったら容易に変えることはできない――人はそれを〝運命〟と呼ぶわ」
「うんめい……」
まるで覚えたての言葉のようにぎこちなく、私はその単語を復唱した。
そこには人の力では到底動かし得ないような、絶対的な響きがある。運命は変えられないとか、人の運命は生まれたときから決まっているとか、よく聞く言葉ではあるけれど。
だけど私は今まで、そんなことはないって思ってた。ほんの些細な変化を加えるだけで、運命は変えられるって思ってた。
私はこれまでにも何回か、自らの手で未来を変えてきたから。
だけどそれは〝未来を変えていた〟わけではなく、〝数ある可能性のうちの一つを選んでいた〟だけ――。
きっぱりとそう言い切った絢子さんの言葉は、鳥肌が立つくらいすとんと腑に落ちて、途端に内臓から全身の体温を奪っていく。
「このランプが落ちると知って、あなたは手を伸ばすか伸ばさないか。その選択の答えは、実はあなたが選ぶ前から決まっているの。〝あなたはきっと手を伸ばす〟と、運命の定めによって」
「……」
「本来人にその答えを知る術はない。だからあたかも自らの手で運命を紡いでいるような気分になる。だけど世界は、私たちが思っている以上に残酷だわ。――どう? それでもあなたは自分の未来を知りたいと思う?」
私は、即答できなかった。頭の中が白い絵の具でぐちゃぐちゃに塗り潰されたみたいになって、何も考えられなかった。
二〇一五年九月二十四日、人類は滅亡する。
その未来を阻止できるか、否か。
目の前の占い師は、私を押し潰そうとするその悩みの答えが、今この時点で既に決まっていると言った。
だとしたら、私はどっちを選ぶ?
あの紙に願いを書くか、それとも自分を庇って書くことをためらうか。
もし前者を選ぶのなら、きっと人類は救われる。けれど私は世界に対する興味を失い、居場所をなくし、未来への希望を失って――そうなったとき、自分がこの世で生き続ける選択をするとは思えない。
だけど後者を選べば人類は滅亡する。私があの紙に願いを書かなかったせいで。
そうなればどちらにしろ私はおしまいだ。もしかしたら奇跡的な確率で日本の一部だけは無事だったりするかもしれないけど、もしそんなことになったら私はどうなる? 滅び去った世界を見て、自分のせいだと一生罪の意識に苛まれ続けるのでは?
たとえどちらの未来であったとしても、そこに私の救いはない。
けれど私はあと数日でそのうちのどちらかを選ばなければならない。
その先にある絶望を今ここで知りたいか?
やがて必ず訪れる、決して避けようのない絶望を――。
「ご……ごめんなさい……」
絢子さんの最後の言葉から、一体どれだけの時間が経っただろう。
私は膝の上に置いた自分の手に目を落としたまま、完全に強張った顔の筋肉を何とか動かして、言った。
「や……やっぱり……未来は、占ってもらわなくて、いいです……」
「そう」
絢子さんの答えは短かった。驚いた風でも、落胆した風でもない。
代わりに「えっ?」と声を上げたのは後ろのそらだ。けれど私は振り向くことができず、彼女がただ困惑したように私と絢子さんとを見比べている気配だけを感じる。
「ねえ、一条さん。一つ訊いてもいいかしら」
そのとき、うつむいたまま石になったように動かない私に、絢子さんが言った。
「将来の夢は?」
「……え?」
「将来の夢よ。たとえばケーキ屋さんになりたいとか、お花屋さんになりたいとか」
……なんでたとえが全部小学生みたいなんだろう?
私は絢子さんからの突然の問いに驚くと同時に、眉をひそめた。
そりゃ、小学生の頃はハムスターを飼っていた影響で、将来はペットショップの店員になりたいな、なんて思ってたこともあったけど……。
今はそんな職業に就きたいとはまったく思ってないし、他にこれといって目指しているものや憧れているものがあるわけでもない。ただ何となくぼんやりと大学に行って、就職して、そのうち結婚してごくごく平凡な家庭を築くことになるんだろう……という、何の面白味も魅力も感じない未来予想図があるだけだ。
「夢……とかは、あんまり、ないです。私、自分の将来のこととか、真剣に考えたことなくて……」
「本当に?」
「は、はい……特別得意なこととか、好きなこととかも、そんなになくて……」
「だけど、望みはあるでしょう?」
「え?」
「私には視えるわ。あなたの中にある強い望みが」
そう言って、絢子さんは笑った。まるで何か、眩しいものを見るように目を細めながら。
――私の望み?
強い、望み……?
そんなものが本当にあっただろうか。もしそんなものがあったなら、とうの昔に私はそれをあの紙に書いていたと思うけど。
「考えなさい。時間はもうあまり残されてはいないけれど、あなたの中にあるその望みが、きっとあなたを導いてくれる。私から言えることはそれだけよ。――あなたの未来にも、きっと運命の祝福がありますように」
『アヤコの店』での私の人生相談は、それで終わった。
灰色猫の尾が揺れて、チリンと小さな音を立てる。
茫然と座り込んだままの私は、それを聞いて思った。
まるで何かの合図みたいだ、と。
☆ ★ ☆
それから一週間。
私は悶々と考え続けた。
私の望み。強い望み。
そんなものがどこにあるのだろう?
私はかつて何を願ったのだろう?
その答えを探している間に、人類滅亡の日はあと五日後に迫ってしまった。
そろそろ決断をしないとまずい。キッドは何も言ってこないけど、時折私の心の中を量るような視線を感じる。最近はひとりで外へ出て行くこともなくなった。確実に、あの子は私の決断を待っている。
この一週間、学校へは相変わらず行かなかった。そんな暇があるなら答えを探していたかったからだ。
両親はもう諦めたのか、余計なことは言ってこない。そのことにいささかの罪悪感を抱きながらも、今はそれが有り難かった。
とにかく焦る気持ちばかりが空回って、うまく思考が回らないのだ。仕方がないので気休めに漫画を読んでみたり、スマホでゲームをしてみたりもしたけれど、その度に頭の片隅で「そんなことをしてる場合か!」と怒鳴るもう一人の私が顔を出す。
でもって、世界は至って平穏。五日後にあの空の彼方から小惑星が降ってきて、この地上のすべてをメチャクチャにするなんてとても思えない。
もしかしてあの予感はハズレだったんじゃ?
そんな風に思えるくらいだ。
それが余計に私の心を惑わせる。
だって絢子さんが言ってたじゃないか。私が視ているものはいくつかある未来の可能性の一つにすぎないんだって……。
それなら私の予感したあの小惑星が、突然軌道を変えて地球を逸れてくれるんじゃないか。そんな期待を抱いてしまう。
だけど私の予知はこれまで外れたことがないというのもまた事実で……。
「ああ、もうっ! どうしたらいいの!」
堂々巡りを繰り返す自分の思考が腹立たしくなり、思わずそんな声を上げる。すると机の上で今日もどら焼きを頬張っていたキッドが、驚いたようにびくりと跳ねた。
その黄色い毛皮はハリネズミのように逆立ち、尻尾もピンと張り詰めている。……少し大声を出しすぎたかしら。お母さんに買ってきてもらった念願の生どらを咥えて固まっているキッドを見やり、私はちょっと反省する。
けれど、そのときだ。
『ピロン♪』
馴染みのある電子音。私はその音にハッとしてとっさにスマホを手に取った。
LINEに新着メッセージが届いている。送り主はもちろんそらだ。先週以来、私とそらはまたLINEでまめに連絡を取り合うようになっていたのだけれど、今日のトークの内容はそれまでとは少し赴きが違っていた。
『うみ!!今からうみのうち行ってもいい!?』
何だか緊急を要するような書き込み。私はそらに何かあったのかと思って、慌ててメッセージを返した。
『いいけど、何かあったの?』
その問いに返ってきたのは、意外な答え。
『実はこないだうみが言ってた物語、描いてみた!
まだ途中までだけど、うみに見てもらいたいと思って。
今から支度してすぐ行くから!』
私はちょっとだけ驚いた。まさかあの話をうみが本当に採用してくれるとは思っていなかったからだ。
ひとまず『分かった、待ってるね』と返信すると、そらからはパンダが万歳しているスタンプだけが送られてきて、私はそれをちょっとだけカワイイと思った。
そらが絵本の原画を抱えてやってきたのは、それからおよそ三十分後のことだ。
「うわあ……すごい……」
そらが持ってきてくれた絵本の原画を見て、私が口にできた言葉はそれだけだった。
こういうとき、自分のボキャブラリーの乏しさが本当にイヤになる。もっと他に表現の仕方があるだろう、と自分でも思うのに、いくら考えてもその感動に見合う言葉が出てこない。
それくらい、今回のそらの原画はすごかった。
いや、そらの絵に関してはいつだってすごいと感じてきたけれど、今回のそれは今までそらが夢に向かって積み重ねてきたものの集大成のように見える。
森の中でどこまでも続く花のトンネル。
薄紫の霧がかかった、斜面の上の石の町。
水底に宝石を散りばめたみたいにキラキラ光る碧い湖。
尖った岩山の天辺から旅人が見上げた満天の星――。
どれもこれも言葉にならないくらい幻想的で、美しい。文章はまだ載っていないけど、旅人が巡る世界のイラストだけで十分物語の世界に引き込まれる。
ド素人の私には数え切れないくらいたくさんの色を使って表現された、夢のような世界。
こんな世界がもし本当に存在したら、旅人が最後に魔法の本のチカラを使ってしまうのも頷ける。と同時に、そらの頭の中にはいつもこんな世界が存在しているのだと思うと、焦がれるような羨望が私の中で燃え上がる。
「そら、これ全部一週間で描いたの?」
「んー、全部ではないよ。これとかこれとか、この辺はうみから話を聞く前にもう描いてた。こーゆー世界を旅する話にしたいってのだけは決まってたから」
私が手にした数枚の原画を示して、そらは言う。まるで昨日の夕飯の献立を答えるみたいな、何でもない口調で。
こんなプロ顔負けの絵を何枚も描いておきながら、どうしてそんな風に平然としていられるのだろう。そらはもう少し自分の才能を誇ってもいいと思う。それを手に入れたくたって、手に入れられない人が世の中にはいるのだから。
そう思いながら私が眺め終えて床に置いた絵を、ベッドの下に隠れたキッドが首を伸ばして覗き込んだ気配がある。――こらっ、出てきちゃダメだってば!
「これ、このあとパソコンに取り込んで文字入れするんだよね?」
「そーそー。そっちの作業が全然まだでさ。文章はこれから考えるの。でもその前にやっぱり絵の方を先に仕上げたくて」
私はそらの絵に興味津々なキッドを隠しながら、さりげなく話を振った。そらはそっちに気を取られて、キッドの存在には気づかなかったようだ。よ、良かった……。
「だ、だけどまさか、そらがあの話を本当に絵本にしてくれるとは思わなかったよ」
「そーお? でもさ、最初にうみの話聞いたとき、〝それ、いーな!〟って思ったの。物語もあたしが書きたかったテーマにピッタリだし、これならイケるかも! って気がして」
他にも家から持ってきたイラストボードを眺めながら、そらは嬉しそうに笑みを零す。その瞳がキラキラ輝いているのを見て、ああ、そらは本当に絵本を描くのが好きなんだなと、改めてそう思った。
そんなそらを妬ましく思うこともあったけど、やっぱり私は、そらにはプロの絵本作家になってほしいと思う。私には何の才能もない分、そらには絶対に夢を叶えてほしいと思ったから。
だけどそらのその夢も、五日後には世界諸共灰になる――。
「マジでさ、うみにはちょー感謝だよ! 願いを叶える魔法の本なんて、あたしのヒンソーなノーミソじゃ絶対思いつかなかったし。うみ、実は小説家の才能とかあるんじゃない?」
「あ、あはは……そんなまさか……今回はたまたまだよ」
「そっかなー。やってみたら結構イケると思うけどなー、うみなら。何なら『原作:一条うみ 絵・文:花柳そら』とかどーお? 印税出るよ~」
「うーん、それは魅力的だけどねー」
返答に困りつつも私が言えば、そらは「でしょー!?」と言ってキャハハと笑う。
だけど私は、そらみたいに上手く笑うことができなかった。
だって、五日後に世界は滅ぶんだ。
そらの夢も、私たちの三年間の思い出も、これからの未来も全部なくなる……。
それを分かっていてキラキラした希望を語れるほど、私は器用にできていない。
だからこれ以上その話題をするのはつらくて、けれどそれをそらに覚られるわけにもいかず、私はどうにか話題を逸らすことにする。
「……と、ところでさ。これ、今はどのあたりまで描けてるの?」
「んー? えっとねー、確か旅人が魔法の本を見つけて、魔王復活の噂を聞いたあたりまで、かな。そっちの旅の絵をどこに挟むか迷っててさ。物語の冒頭に持ってくるか、それとも旅人が本を見つけたあとの旅のシーンに持ってくるか、魔王の話を聞いてから決断するまでのシーンに持ってくるか……」
言いながら、そらはちょっと考え込むような顔で私の隣に手を伸ばす。私が一度そこに置いた数枚の絵を取るためだ。
それに気づいたベッド下のキッドが、慌てて首を引っ込めるのが視界の端に見えた。どうやらすっかりそらの絵に見とれていたらしい。
「全部バラバラに散りばめてもいーんだけど、それじゃ枚数が足りないんだよね。だからもう少し旅の絵を増やさないと……」
と、そらは手に取った絵を次々と眺めながら言う。けれどそのとき、私はそらが膝に置いた数枚のイラストボードに目をやった。それは先程までそらが自分で眺めていたもので、私がまだ見ていない物語中盤の絵だ。
「ねえ、そら。そっちの絵も見てもいい?」
「え? あー、うん、いーよ。こっちはまだ塗りが足りなくてカスカスだけど」
ちょっと苦笑しながらそう言って、そらは未完成の原画をこちらへ差し出す。私はそれにお礼を言って、受け取った絵を眺め始めた。
そちらの絵は、なるほど、まだ色と色の間に空間が目立つ。今の状態でもかなり綺麗な状態であることには違いないけど、普段のそらの絵と比べると白い隙間が多いように感じるのだ。
だからと言ってまったく見れないというほどじゃない。むしろその絵は先の旅の絵と同じくらい私の目を楽しませてくれた。
原画は物語の進行に合わせて並べられている。なので私も先日そらに語った物語の内容を頭に思い浮かべながら紙を送る。
緑のマントにとんがり帽子を被った旅人は、森の奥の洞窟で宝箱から魔法の本を見つけた。本のチカラを知った旅人は首を拈ってちょっと怪訝な顔をしている。きっと本に願いを書けば、叶ったあとに興味を失ってしまうと知ったからだ。
旅人はその本を片手に携えて旅を続ける。平坦な草原の道を歩く旅人の図。このあとに何枚か、今そらが手に持っている旅の絵が挿入されるのだろうか。
次に絵を送ると、場面は急に町の中に切り替わっている。道端には怯えた表情で集まった人々。旅人がその傍らに立っている。きっと遠い国で復活した魔王の話を聞いているのだ。
案の定、次の絵は紫の闇に魔王の影が映り込んだ恐ろしげなカット。魔王の姿はハッキリとは描写されていないけど、小さな子供ならこの絵だけで十分恐怖を感じるかもしれない。
そして更に絵を次へと送ったところで、私の手はぴたりと止まった。
そこに描かれていたのは、満天の星空に包まれて瞳を輝かせている旅人の姿。
それは彼の茶色の瞳に星々が映り込んでいるだけかもしれない。
けれど私にはその姿が、溢れるような希望に満たされているのを見て取った。
それまでどこかつまらなそうに――そして寂しそうに旅をしていた旅人の姿からは、想像もできないような歓喜の姿だ。
「――そら……」
「ん?」
「この絵は、どこのシーン?」
「んー? あー、それね! それは旅人が魔王を倒そうって決めるシーンだよ。この岩山のシーンが思ったよりよく描けたからさ、旅人が打倒魔王を決意するシーンにはコレを使おうって、それだけ決まってて」
そらは笑いながらそう言うと、自分の手の中にあった数枚のイラストボードの中から先程の星空の絵を抜き取って私に見せた。
鋭く尖った岩山の天辺。その頂上付近の岩に腰を下ろした旅人が、一人孤独に夜空を眺めているシーン。
だけどその旅人の目には、こんなにも歓びと希望が溢れている。
――どうして?
だってこのあと、彼は世界に居場所を失ってしまう。
世界を守る代償に、自分がこの世界で得たものを何もかも失ってしまうのに。
「……旅人は……」
「え?」
「旅人は……怖くないの? もし本に願いを書いたら、世界が救われる代わりに自分には何もなくなっちゃうんだよ? なのに――」
――なのにどうして、こんなに満ち足りた顔をしているの?
私は震えた声でそう尋ねた。
するとそらは、それはね、と、優しく微笑みながら言う。
「それまでその旅人には、なんにもなかったからだよ」
「……なんにも?」
「そう。これは物語の最初の方で書くつもりなんだけど、旅人には家族も故郷もなんにもないの。自分がどうして生まれてきたのか、何がしたいのか、それを知りたくて旅に出て、だけど何年も何年もその答えを見つけられないまま放浪を続ける。そのうち旅人は疲れていじけちゃうんだけど、そんなときに魔法の本を見つけるんだ。そして魔王が復活したって噂を聞いて、やっと長かった旅の答えを見つけるの。〝そうだ。自分は今、この世界を救うために生まれ、生きてきたんだ!〟って」
そのとき何かが、形も色もない何かが、それでもはっきりと、私の鼓動を震わせるほどはっきりと燃え上がった。
途端に世界が色を変える。自分の絵本について語るときのそらは相変わらずキラキラしていて、けれどそのキラキラが一気にあたりに広がって、私を包み込んでくる。
ああ、そうか。
そうだったんだ。
思い出した。私の望み。
それは――
何か一つ、自分にしかできないことを見つけて、そらみたいに輝きたい。
私が生まれてきた意味を、みんなに、世界に――
そして何より、自分自身に証明するために。
「でね、旅人は本に願いを書いて、麓の町に下りるんだ。その町には旅人に想いを寄せる女の子がいて……」
と、ときにそらが声を弾ませながら顔を上げ、そこでハッと言葉を切った。
その表情にはみるみる驚きが広がり、次いで困惑に変わっていく。そらはひどく戸惑った様子で、私の方へと身を乗り出してくる。
「うみ、どーしたの? 大丈夫?」
動揺の言葉と共に伸ばされた手が、そっと私の頬に触れた。
その頬を、とめどなく涙が伝っていく。
けれど私は、ちっとも悲しくなんてなかった。
ただ、嬉しかったんだ。
だから目の前にあるそらの瞳を見つめて、そこに映り込んだ自分の瞳の輝きを見て、生まれて初めて感じた歓びと共に、言う。
「そら。ありがとう」
「え?」
「私、決めた。やっと見つけた。私の望み」
「うみの望み?」
短くそう復唱して、そらはちょっと首を傾げた。あまりにも突然のことで、サッパリ意味が分からないといった顔だ。
私はそんなそらを見つめて、笑った。
「そら。私、世界を救う勇者になるよ」
☆ ★ ☆
――これは、遠い遠い、だれも知らない世界のおはなし。
その世界にはひとりの旅人がいました。
旅人はもうずっと長いあいだ、世界のいろんな場所を旅していました。
たとえば、妖精の森が生み出した花のトンネル。
たとえば、むらさきの霧におおわれた石の町。
たとえば、キラキラ輝く宝石のみずうみ。
どれもこれも、ため息が出るほど美しい場所ばかり。
旅人はそんな美しいものをめぐる旅をつづけていました。
けれど、どんなに美しい景色をながめても、旅人の心は満たされません。
なぜなら旅人には帰るべき場所がないのです。
長いあいだ、たったひとりで旅をつづけてきた旅人には、
だいすきな家族も、なつかしいふるさともありませんでした。
旅人はとても孤独でした。
「ぼくはどうしてこの世界に生まれてきたのだろう?」
その答えを見つけるために、旅人の旅はつづきます。
しかし行けども行けども、旅人の求める答えはありません。
こんなにいっしょうけんめい探しているのに、ちっとも見つからないのです。
旅人はだんだん答えをさがすことに疲れてしまって、
とっても悲しい気持ちになりました。
「ああ、ぼくにはなにもない。
愛すべき家族も、帰るべきふるさとも、
希望に満ちた未来も……なにもないんだ」
すっかり落ち込んでしまった旅人は、
まるで引き寄せられるように暗い森へと迷い込みました。
森の中はとってもぶきみで、どんなに歩いても出口が見当たりません。
すっかり迷子になってしまった旅人は大弱り。
「ああ、もしかしたらぼくはここで死ぬ運命なのかもしれないな」
と、ついには出口をさがすことをあきらめてしまいました。
けれどもその晩、雨がふり、
ぬれるのがいやだった旅人はとあるどうくつに逃げ込みました。
すると、どうしたことでしょう。
なんとそのどうくつの奥には、
見たこともないほどりっぱな宝箱が隠されていたのです。
「これはすごいぞ。きっと中には金銀財宝が入っているにちがいない」
そう思った旅人は、ウキウキしながら宝箱を開けてみました。
ところが大きな宝箱の中に入っていたのは、小さな本がひとつだけ。
それも表紙がところどころすりきれて、ボロボロになった古い本です。
けれども旅人がその本を開いてみると、中にはこう書かれていました。
《これは願いが叶う魔法の本》
《この本に願いを書けば、どんな願いもたちまち叶う》
《ウソだと思うならためしてごらん》
《そのかわり、願いが叶えば興味をなくす》
旅人はおどろきました。
どんな願いもたちまち叶うだなんて、ほんとうならまるで夢のようです。
旅人はさっそくその本のちからをためしてみることにしました。
ちょうど旅のあいだに日記をつけるための羽ペンを持っていたので、
それを使って本に願いを書き込みます。
《この雨がはやく止みますように》
すると、おどろくべきことが起こりました。
旅人が本に願いを書いてすぐ、ほんとうに雨が止んだのです!
「これはすごい! この本に願いを書けば、ほんとうになんでも叶うんだ!」
旅人は大喜びでどうくつの外へ出ました。
魔法の本を手に入れたことで、森を出ようという希望がわいてきたのです。
けれどさっきの雨のせいで、地面はドロドロ、葉っぱはびしょぬれ。
旅人はそれをちっとも気にせず、ドロだらけになりながら森の中を進みました。
そう。
旅人は本のちからを使ったせいで、体がぬれることにもよごれることにも、
まったく興味がなくなってしまったのです。
旅人がそのことに気がついたのは、
ようやく暗い森を抜けて、次の町にたどりついたときでした。
町の人たちがドロだらけになった旅人のすがたを見てクスクス笑い、
ヒソヒソとうわさをしているのを聞いてやっと気がついたのです。
「そうか、たしかにぼくは今、とてもきたない格好をしているな。
でも、体を洗うのもめんどくさいし、このままでもいいかな」
体をきれいに保つことにすっかり興味がなくなっていた旅人は、
そのまま町で数日をすごしました。
ところがきたないすがたの旅人には、バイ菌が喜んで寄ってきます。
おかげで旅人は熱を出し、すっかり寝込んでしまいました。
とっても具合が悪くて、ベッドの上で体を起こすこともできません。
「ああ、こんなことになるのなら、うかつに願いを書くのではなかった」
そこでようやくあの本のちからを理解した旅人は、
なにも考えずに願いを書いてしまったことを後悔しました。
しかしそんな旅人をあわれに思ったひとりの少女が、
旅人の看病のためにやってきます。
「旅人さん。
とっても苦しそうだから、病気がなおる花のみつを持ってきましたよ。
体もきれいにしなくっちゃ、はやく病気がなおりませんよ。
わたしがおてつだいしましょう」
やさしい少女の看病のおかげで、旅人の病気はすっかりよくなりました。
元気になった旅人は少女になんどもお礼を言って、ふたたび旅をつづけます。
その手には願いの叶う魔法の本。
けれども旅人は、その本に願いを書くことをためらうようになっていました。
だってこの本で願いを叶えたら、お金持ちになってもお金に興味がなくなり、
おいしいものを食べてもちっともおいしいと感じなくなってしまうのです。
「これじゃあ、なんにも願いが書けないなぁ」
と、旅人は困り果てました。
そんなある日、とある町に立ち寄った旅人は、
おそろしいうわさを聞いてしまいます。
なんと、遠くはなれた国で悪しき魔王が復活し、
世界をほろぼそうと人々の暮らす町を次々におそっているというのです。
旅人はそのうわさを聞いておどろき、そして怖くなりました。
その魔王がやってくれば、じきにこの町もほろぼされてしまいます。
それだけではありません。
これまで旅人が見てきた花のトンネルも、霧の町も、宝石のみずうみも、
あんなに美しかった景色がみんな魔王によってほろぼされてしまうのです。
「これは困ったぞ」
旅人はなやみました。
旅人が魔法の本に《魔王をたおせ》と願いを書けば、きっと世界は救われます。
けれどかわりに旅人は世界に対する興味を失ってしまうのです。
それはすなわち、旅人が愛した美しい景色にも、これまで出会った人々にも、
旅することにも興味がなくなってしまうということでした。
もしそんなことになってしまったら、
旅人は今度こそほんとうに生きる意味をなくしてしまいます。
それはとてもおそろしいことでした。
どうして生きているのか分からなくなってしまったら、
自分がどうなってしまうのか、旅人には分からなかったからです。
「ああ、どうしてぼくはこんな本を拾ってしまったのだろう。
願いを書けば、この世界は救われる。けれどぼくは救われない。
願いを書かなければ、この世界は滅びてしまう。そうしたらぼくも助からない」
どちらを選んでも、旅人を待っているのは救いのない未来だけでした。
旅人はなやみになやみながら、どうしたものかと旅をつづけます。
答えを見つけられない旅人は、もときた道を引き返し、
これまで自分が見てきた美しい場所をもう一度めぐってみることにしました。
キラキラ輝く宝石のみずうみ。
むらさきの霧におおわれた石の町。
妖精の森が生み出した花のトンネル……。
ふたたびおとずれたその場所は、どれもこれも美しいままでした。
旅人はその美しさに胸を打たれながら思います。
「ああ、ぼくがこれまでさみしくても生きてこられたのは、
この美しい景色があったからだ。
この景色がぼくをはげましてくれたからだ。
なのに、この美しい景色まで魔王にほろぼされてしまうなんて、
そんなことはゆるされない……」
旅人は最後の迷いをふりきるために、ある岩山にのぼりました。
そこは旅人がこれまで旅をしてきた中で、一番美しいものが見られる場所です。
夜になり、岩山の頂上までのぼった旅人は、そこでひとり空を見上げました。
そこには、数えきれないほどの満天の星。
暗い夜空の中で、それでも光を失わず輝きつづける星々に、
旅人は勇気をもらいます。
「そうだ。ぼくはきっと、今このとき、世界を救うために生まれてきたのだ!
ぼくだってあの星々のように、このいのちを燃やして輝くことができるのだ!」
旅人は、もうなにもおそろしくありませんでした。
魔法の本を出して羽ペンをすべらせ、そこに願いを記します。
《魔王がほろび、世界が救われますように!》
それから長い月日が流れました。
世界には今日も平和がつづいています。
遠い国で復活した魔王は、
天からふりそそいだ神の槍につらぬかれ、ほろびさったのです。
そんな平和な世界のとある町で、ひとりの少女が今日も花を売っています。
色とりどりの花がいっぱいに入ったカゴの中には、ボロボロの一冊の本。
それは少女がかつて病気の看病をした旅人から、
あのときのお礼としてゆずられたものでした。
少女はその本に書かれた願いを読んで知っています。
悪しき魔王をたおし、世界を救ってくれたのはあの旅人だということを。
だから少女は書きました。
《旅人さんがどうか幸せでありますように!》
世界を救った旅人のゆくえは、だれも知りません。
しかし少女は信じているのです。
旅人は今日もどこかで、笑顔で旅をつづけているのだと――。
第二十回絵本コンクール最優秀賞受賞作品
『だれも知らない勇者の去る日』より
☆ ★ ☆
遠い街並みに、夕日が沈もうとしていた。
今日も人々が平和に暮らす、何の変哲もない街並み。道路には絶えず車が行き交い、人々が歩き、時折子供たちの笑い声が聞こえてくる。
そんないつもと変わらぬ街の景色を照らしながら、今日も一日世界を見守り続けた太陽は、自らの命を赤く燃やしてゆっくりと眠りに就こうとしていた。
そうして静かに沈んでゆく太陽を、とある民家の屋根から一匹の猫が見つめている。その猫は、全身を海で染めたような――青い猫。
「お姉ちゃん」
じっと動かず、民家の棟に前足を揃えて座っていた猫は、不意に聞こえた幼い声にぴくりと耳を動かした。
ゆっくりと振り向けば、その先にはちょこんと座った黄色い毛皮の子猫がいる。子猫はまだとても小さく、青い猫の半分くらいの大きさしかなかったものの、その瞳はどこか誇らしげに輝いていた。
「おかえりなさい。無事に務めを果たせたようね」
「うん! 僕、全部きちんとひとりでやれたよ! これでもう一人前だよね?」
「そうね。あなたはとてもよくやったわ。……あの紙はちゃんと回収してきた?」
「もちろん!」
子猫はそう言うと、すっと前足を前に出して、その下にある羊皮紙のような厚めの紙を差し出した。それは子猫がそうするまでその場に存在していなかったように思えるのだが、青い猫は少しも驚いた様子はない。
ただその紙が風に飛ばされないように子猫がしっかりと押さえているのを見て、青い猫は少しだけ紙面へと目を落とした。
そこにはこの世界を救った勇者の願いが記されている。
猫は目を細めながらそれを眺めると、再び視線を夕日へ戻した。
「上出来ね。これであとは高いところからもひとりで下りられるようになったら、あなたはようやく一人前よ」
「みぅっ」
痛いところを突かれた、というように、子猫がその場で首を竦める。
子猫の目はどこか恨めしげに青い猫を見つめていたが、悲しいかな、反論はできない様子だった。
「手厳しいのね」
と、そのとき子猫の反対側から声がする。
同時にチリンと鈴が鳴った。二匹が揃って目をやると、そこにはいつの間に現れたのか、灰色の毛並みをした美しいメス猫がいる。
尻尾の先に鈴つきのリボンを結んだ、ロシアンブルーだ。
「あら。来ていたの」
「ええ。もう答えが出た頃だろうと思って」
「答えなんて、あなたたちにはもう分かっていたのでしょう?」
「さあ、どうかしら。人間には、ときにあたしたちの予想を遥かに超えた可能性を選び取る力があるから」
そう言って腰を下ろし、ロシアンブルーは瞳を細めた。それが少し笑っているように見えて、青い猫も微かにヒゲをもたげる。
「ねえ。だけどどうしてあの子を選んだの?」
「特にどうしてということもないわ。ただ少し、確かめてみたかったの。これまで私が選んできた勇者たちの答えは正しかったのだということを」
そう言って夕日を見つめた青い猫の足元には、いつの間にか一冊の本があった。
表紙には黒い革が張られ、厳重に鍵までかかった大きな本だ。更にその本の表紙には懐中時計のようなものが埋め込まれ、この世の時の流れとは違った時間を刻んでいる。
ロシアンブルーはその本に少しだけ目を落とすと、あとは青い猫と同じく、遠く沈む夕日へと目をやった。
二匹のメス猫にとてとてと歩み寄った黄色い子猫もそこに座る。
そうして三匹は、しばらくの間夕日を眺めた。
「綺麗ね」
「ええ、美しいわ」
三匹の猫の影が、長く伸びて屋根に落ちる。
「まだまだ、人間は滅びそうにないね」
黄色い子猫がそう言って、メス猫たちは微笑んだ。
ついに日が沈みきり、世界に夜が訪れる。
三匹は揃って空を見上げた。
月のない夜空に、満天の星が輝いていた。
了