迷わせる季節(上)
桜の蕾が膨らみ始めてきた頃。俺、秋築タクトは無事に進学を果たし、この春から晴れて中学生となった。
入学式を終えた学校にも、今は誰も残っておらず、俺ひとりだけが教室に居た。
まだ上着なしでは肌寒いこの季節だが、俺は案外嫌いじゃない。窓を開けてその空気を教室中に取り込んでいた。
眼下にある巨大な桜の木は、少し色付いた蕾があるだけで、それ以外は何とも乏しい色をしていた。春はまだ遠いのかもしれない。きっと満開になるのはゴールデンウィークあたりになるのだろう。その頃には過ごしやすい気候になっていると嬉しい。
窓際で頬杖を吐いて空を見上げていると、色々と考えが浮かんでくる。俺は今だけ哲学者にでもなったかのような気分で、流れる雲を数えながら思考していた。
どうして春ってのはこんなもやもやした気分になるのだろう、と。
それはきっと、めまぐるしいからだろう。卒業という別れを経て、入学という出会いに至るまでの時間が、あまりにもあっと言う間のような気がしたからだろう。
そんな結論が一瞬で脳裏に浮かぶ。
入学準備に追われて春休みとして与えられた俺の長期休暇は、あまりゆっくりとはできなかった。制服の採寸や、教科書を揃える為に多くの書店を回ったり、それからバスの定期券を買う為に遠出したり、と、本当に休む間もなく動き回っていた。教科書は重いし、制服は嵩張るし、定期を買える場所までは徒歩で一時間以上歩かされた。
両親は仕事で忙しいから、俺は自分の買い物は自分でしなくてはならなかった。辛うじて入学説明会に出席してくれたことには礼を言うべきレベルで、俺の両親は仕事に必死だった。
ふぅ、と、春休みの出来事を思い出して憂鬱になっていると、急に強い風が吹いた。
反射的に目を閉じてしまい、息を止めた。しかしその風は俺の上着のフードを揺らして廊下へと走り抜けていっただけで、これと言って何も問題を残さなかった。
目を開けると、先ほどまでと同じ光景が――
『――やっと見つけたよ、御主人』
――広がってはいなかった。
視界に飛び込んできたのは、蒼い髪の毛を高い所で二本に結った、俺と同じくらいの歳の少女だった。
俺は人間とは思えない髪の毛の色と、吸い込まれそうな程に深い朱色の瞳に、俺は言葉も忘れて見入った。人間離れしている――そう思った。恐怖や不安は感じない。未知の存在に出会ったと言うのに、何故だか懐かしいという感情が俺の中に生まれていた。可怪しいけれど、それが今の俺を取り巻く現実だった。
少女との不可思議な出会いを経験した俺は、どれくらいの時間、そこに硬直していただろう。通りがかった教師に声をかけられるまで、呆然としていた。
「秋築。いつまで学校に残っているんだ? 入学式は終わったし、明日は新入生の学力試験があるだろう。帰って勉強したらどうだ?」
「――え……? ――あ……ハイ……。そうですね、すみません、帰ります……」
俺は現状を理解できないまま、帰路についた。
先ほどまで俺を包んでいた感情。懐かしいという違和感について、俺はずっと考えていた。バスに揺られ、アスファルトの上を歩き、俺は考えた。
大抵のことならば、一瞬で脳裏に浮かぶ回答も、今回は全く持って何も浮かばなかった。偶にはこういうこともある。人間なのだから。
俺は思考するのをやめた。考えていても答えなんて浮かばない。ならばその行動に使うエネルギーは無駄になるだろう。
改めて周りを見渡す。時間が時間なだけに、通りを歩く人は少ない。街頭が今か今かと出番を待ち望んでいる様だった。
もう少し、待ってろよ。今にお前らが必要になるんだから。
心の中で街灯に話しかけても、何も変わらない。そう、それが現実だ。無機物からは返答なんてない。
不意に俺は振り向いた。そして驚いた。
先ほど出会った少女が背後には居たのだ。それも、地面から少しだけ、宙に浮いて。
「お前……」
『やっとこっち見てくれたの。遅いよ、御主人』
「どうして……」
『だってウチ、行く所ないもん。だから御主人、ウチを御主人の所に置いて?』
突然の提案だった。
あまりに唐突すぎて、俺は言葉を失った。思考が追いつかない。どうも俺はこの少女の事にかけて頭が働かないらしい。少女に対する拒絶反応なのか、それとも徹夜明けという俺の自己管理の甘さによるものかは分からなかった。
何度か視線を泳がせて、俺は今一度少女に焦点を合わせる。
少女の真っ赤な瞳は、まっすぐに俺を捉えていた。
赤い瞳、青い髪の毛、地面から浮いている少女――俺を取り巻く状況は、異常だった。何故今までこの状況を異常と認識できなかったのか、俺は自分を責めた。何故か感じた懐かしさの正体を探ることに躍起になって、現状を把握するのを忘れていた。
学校から今に至るまでの道のり、何人の人間とすれ違った? 何人に目撃された?
少女の姿を見られてはまずい。現代では、人間が何もなく宙に浮いているという状況は、受け入れられない。見つかればどこかの研究施設に送られ、恐らくだが、死への道を辿ることになる。
少女だけならばまだいい。俺はどうなる? 俺は、少女につきまとわれていただけだ。関わってなどいない。――そう言って何人が納得してくれるだろう。きっと誰も納得しないし、良い実験対象を見つけた意地汚い研究者は俺の言葉に耳を傾けようともしないだろう。
これだから大人は嫌いなのだ。
俺は思考の末に出てきた雑念を心中で復唱した。俺の強い本音であり、大人になりたくないという意志の現れ。汚いくらいなら、幼いままでいい。
とにかく、俺の身まで危険に晒されるかも知れないとなると、この少女と行動を共にするというのは危険極まりない行動だ。とにかくコイツを振り切らなければ。
歩みは自然と速まった。距離を取る為に足を動かす事に神経を集中させる。
後ろも振り向かず、ただ一心に足を動かす。痛いだとか、普段ならば言いそうなことも堪え、一心不乱にコンクリートの上を歩く。遠回りであろうと何であろうと俺はこの少女を振り切って家に帰りたかった。
――けれどもそれは、叶わぬ願いとなった。
『御主人って結構歩くの早いんだね』
宙に浮いているこいつにとって、歩く早さと言うのはあまり関係が無いらしい。移動速度なんてどうにでもなると、そんな現実を突きつけられた。
家に着くと、俺はぐったりと疲れていた。こんなに気を遣って道を歩いたことなんて無かった。慣れない体験は人を疲労させるんだな、なんて中学生らしからぬことを考えていた。
『御主人大丈夫? 物凄く疲れてるみたいだけど……』
「お前の所為だ――」
『ふぅん? ――ここが御主人の住んでる家なんだ……綺麗なところだね』
普通の町にある普通の家の何処が綺麗なんだか、俺には理解できなかったが、そんな事指摘する余裕も無いから何も言わない。とにかく部屋に帰ろう……。
「おい、質問するから答えろよ」
『御主人の部屋って、片付いてるんだね。意外』
コイツは俺を何だと思ってるんだ。
『ねえ、エッチな本とか無いの?』
身を乗り出して聞いてきた事を、俺は一瞬理解出来ずに固まる。一瞬遅れて付いて来た思考は、否定を主張する。
「そ、そんなのあるわけねえだろ!! この国の法律でそういうの買えるのは二十歳過ぎてからなんだよ!!」
意味の解らない事を言い訳にする。実際? 誰が教えるかよ。
『ふぅん? じゃあ、コレ、何?』
コイツは俺の本棚から一冊の本を取り出して、尋ねる。
それは確かに内容にエロ要素があるが、俺は作者が好きで買っただけであって、内容重視ではない。そもそもこの作者、今までエロなんて書かなかったのにいきなり何を血迷ったんだよ。
俺は怒りをぶつける方向を間違えた。
『エッチな女の子の挿絵があるね~』
「か……返せッ!!」
俺は少女からその本を奪い取る。
『男の子ってやっぱりこういうの好きだよね~……』
白い目で見られているが、俺にそんな感情なんて無い。だから作者が好きで買ったんだってば。
「人の部屋漁るのも大概にしろよ。俺はお前に訊きたい事が山程あるんだよ。答えろ」
『しょうがないなぁ。もう……』
少女は俺の本棚漁りをやめて、素直に俺に向き直った。
「お前は、何だ?」
『嫌だなぁ、御主人、そんな事気にしてたらモテないよ♪』
テヘッ、なんて仕草をしているのが俺のストレスを右肩上がりに増加させた。
モテないのはお前に関係ないだろッ!! 余計なお世話だ!! これでも案外気にしてるんだぞ!!
そんなイライラを抑えて次の質問に移る。
「お前の名前は?」
『ウチの名前――メア。メアって言うの』
何だその間は。……まあいい。
『ウチからも一個だけ質問しても良い? 御主人ばっかり質問しててずるいの』
「何だよ」
『御主人の名前って?』
プツリ――――と、何かが切れる音がした。
「御主人御主人言って俺に付き纏った癖に何も知らないのかよ!! 大体どうして俺に付き纏うッ!? 訊いた事に真面目に答えないし、俺はもう何が何だか解らないんだよ!! 不気味なんだよ、さっさと消えろよ!!」
怒りに任せて言いたい事を言い切ると、俺の肺は酸素を求めて呼吸を早める。
睨み付けた視線の先に居るメアと言う少女は、俺のリアクションが予想外だったのか、鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目を開いて驚いていた。しかしそんな表情をしていたのも一瞬で、すぐに目を伏せて申し訳ない、とでも言うような態度に変わった。
『――ゴメン……。ウチがここに居る理由はまだ話せないの。でも――でも、ウチにとって御主人はご主人だから……。だから、これからもここに居させてください』
素直に謝り、頭を下げる様子を見ると、まるで俺が虐めていたみたいに見える。俺は何だか気分が悪くなり、あっさりと引いたのだった。
「……寝る」
『え?』
「寝るって言ったんだ。聞こえなかったのか? 徹夜したから眠いんだよ。話の続きは俺が起きてからだ。静かにしてろよ」
俺は学ランを脱ぎ捨てるとベッドに横になった。
目を閉じても、なかなかすぐには眠れず、自分が怒りに任せて放った言葉の意味を考えていた。
――少し――本音が混ざってしまった――。俺の事を知ってる人が居て欲しいという、本音。誰にも告げることの出来ない。俺だけの秘密の感情。それを出会って数時間も経っていない相手に、こうも簡単に打ち明けてしまったと言うのは、不覚だ。
でも――少しだけ、楽になった。アイツを信用は出来ないが、何も知らない奴だから、恐らく一瞬の付き合いになるだろう存在だからこそ言えた、本音だ。忘れていてくれると、残念だが助かる。
俺はそうして眠りの中に落ちていった。
*
目を覚ましたのは、午後九時を回ったあたりだった。メアは言われた通り、静かにしていてくれたらしい。お陰でよく眠れた。
真っ暗な部屋の中で状態を起こすと、毛布がずり落ちる感覚が腹の上を這った。どうやら眠っている間に掛けてくれたらしい。よく気が回るもんだ。
窓から差し込む街灯の灯りだけが部屋を照らす。そんな中を見回しても、メアの姿は見受けられなかった。一体何処に行ったというのだろう。まあ、いい。そんな事気にしても仕方無い。
俺はシャワーを浴びるべく、タンスの引き出しを開けた。中から下着と部屋着であるジャージを取り出して、階段を下りた。
一階も暗く、両親の帰宅がまだである事が解った。また残業だ。ご苦労さん。そう内心で毒づいて風呂場へ向かう。
俺は手の掛からない子供だから、と、両親は好きな事を仕事にし、家を空けることが多くなった。朝早くに出勤して、夜遅くに帰宅する。
会えない時間は積もりに積もって、俺の心の中には寂しさが溢れそうになる事がある。両親は俺の理解者にはなれない。会えないのだから、心を通わせることなんて出来ない。だからあんな気持ちが生まれる。
溢れそうな寂しさは、言葉になって零れそうになる。しかし俺は、両親の期待を裏切りたくなんて無かったから、それらを全て飲み込んで、自分だけの秘密として心の中に仕舞い込んだ。誰にも知られてはいけない。いつか理解してくれる人の前でそれを曝け出そうと決意した。理解者が居る奴というのは、孤独とは無縁なのだろう。それが羨ましかった。
今日もそんな日だった。気持ちを口にしてはいけないと、やり場の無い感情を必死で抑えるのは、苦しくてたまらない。けれどもそれをしなくてはならないのだ。
風呂場の電気を点けて脱衣所でパーカーを脱ぐ。その時ふと、鏡に映る自分と目が合ってしまった。
「な……な……何だこりゃ~~~~~~!!!!」
目が、メアと同じ様に真っ赤に染まっていたのだ。充血なんかじゃない、瞳の――光彩が、まるでアルビノという病気にでもかかったかの様に、真っ赤だったのだ。しかし俺は病気では無い。原因なんて自分では解らないから、知っているであろう人物――メアに、直接聞きに行くことにする。
その思考に至るまでの時間は、とても短かった。俺は反射的に脱衣所を飛び出し、自室に向かった。さっきまでメアが居なかったことなど忘れて、とにかく階段を駆け上がった。
「おい!! メア!」
『なぁに~?』
のんびりとした声で俺の漫画を読み漁りながらメアはこちらを見た。
「い、一体俺の目、どうなってるんだよ!?」
俺は動揺のあまり上擦った声を出しながらメアに訊ねる。
『ああ、それ? それは御主人が選ばれた証なの。ウチと一緒♪』
心底嬉しそうに笑うメアに構う暇など無く、俺は更に捲くし立てる。
「いきなり目が真っ赤になるってどういうことだよ!? 怖えよ!!」
『大丈夫なの。それは同じく選ばれた者にしか視えないから、安心するの』
「じゃあ――つまり――普通の奴らには――視えないって――事、なのか?」
『そうなのっ。だから安心するの』
メアは俺が何を心配しているのか解ったらしく、ニコニコとしている。その目は嘘を言っているようには思えなかった。
俺は再び一階の脱衣所に戻った。それから二十分ほど冷たいシャワーを浴びて、よく解らない現状を整理した。しかし結局何も解らずに終わり、俺は髪の毛に付いた水気を乱暴にタオルで拭いながら戸棚の中の非常食を手に取った。結構遅いが今日の夕飯だ。
手にしたのは、鯖の味噌煮の缶詰。俺はこれが大好きだ。甘辛い味噌で煮込まれた魚の中で、これほどこの味に馴染む奴を俺は他に知らない。保存食ではあるが、よくこうして買ってきては食べている。ついでに残っていたご飯も茶碗に盛り付け、お盆に乗せて慎重に階段を登る。
部屋の扉を開けると、片付いていた筈の床は漫画で埋め尽くされており、逆に本棚は空に近い状態になっていた。
『あ、御主人おかえり~』
犯人は十中八九この呑気な声の主だった。
「……片付けろ」
『もう少しで全部読み終わるから、そしたら――』
「か・た・づ・け・ろ」
威圧するとメアは渋々全部の漫画を棚に戻す。シリーズ毎に積み上げていたらしく、片付けは物の十分で終わった。
『御主人何食べてるの~?』
「見りゃ解るだろ、鯖味噌だよ」
無視すると更にうっとおしくなると思い、すぐに答える。するとメアは首を傾げて訊ねてきた。
『鯖味噌? そういうお料理なの?』
「お前、もしかして鯖味噌知らないの?」
『初めて見るの』
そんな事があるのかと今度は俺が首を傾げてみる。メアは珍しそうにジロジロと缶を見ている。成分表示や缶のデザイン、そして匂い等を確かめている。その姿は幼い子供そのものだった。
「――食ってみるか?」
『良いの!?』
メアは嬉しそうに目を輝かせた。本当に何も知らないんだと思った。
「全部食っても良いぞ」
――ダメだ、何も聞いちゃいねえ……。
メアは俺の箸を使って残っていた少ない鯖を食べていた。恐らく放っておけば完食するだろう。どうせ少ないから問題はないが、せめて汁だけは残しておいて欲しい。ご飯だけと言うのは味気ない。その汁をかけさせてくれ。
「そろそろ本題に入るか」
遅めの夕食を終えて、ゴミを捨てると俺はベッドに腰掛けた。メアも床の上に正座して話をする容易は出来ている。
「もう一度同じ質問になるが、お前は何者だ?」
『繰り返すようだけど、ウチの名前はメア。選ばれた子供で、実体のない電脳少女だよ』
「電脳少女?」
『電波とか電磁波とか、そういうので出来てると思って』
中学生になったばかりの俺には理解しがたい話だったのであまり言及しないでおく。
「そうか――じゃあ、二つ目の質問だ。お前は選ばれた子供や選ばれた人なんて言ってたけど、選ばれる条件ってのはあるのか?」
『それは答えられないの。でも、いずれ話すの』
今は話せない――その理由は俺には見当もつかなかった。俺なんかには想像もできない何かがあるのだろう。
「ふうん――。じゃあお前、いつまでここに居るの」
『来るべき時までなの。その時までここに置いてもらえると助かるの』
「それは一体いつなんだ……」
メアは飽きてきたのか、座り方を買え、くつろぎ始めた。俺もそんなメアを見て、段々と質問する気が失せてきた。そんな中で一つだけ浮かんだ質問があったから、それだけ聞いておくことにした。
「最後の質問だ。俺以外にも選ばれた奴ってのは居るのか?」
『居るの。まだ御主人以外誰も目覚めてないから誰が選ばれているのかは解らないけれど、御主人以外にも選ばれた子供は居るよ』
「つーか、そもそも選ばれると何があるんだよ」
『さあ? ウチは選んだ側じゃないから知らないの』
「あっそ。ならもういいや。俺明日テストあるし寝るわ」
メアはこれ以上答えるつもりがないと判断して、俺は質問を切り上げた。
『えぇ~御主人また寝るの~? 退屈だよ~。もっとお話しようよ~』
「知るか」
俺は部屋の明かりを消して、毛布を被った。メアはすぐに大人しくなった。