始まる、勉強
「ガキ、ガキ」
「うるせーじじい」
ラドビアスが二人の間に入ってクロードの襟を掴むユリウスの指を外し、ユリウスの髪を掴むクロードからユリウスの髪を開放する。
「出過ぎた事をして申し訳ありません。さあ、お勉強の途中だったのでは?」
「そう……だったな」
ほどけた髪を半ば強引にラドビアスに結い直され、ユリウスは机に広げた巻物を指した。そこには普通、レイモンドールや大陸の西側で使われているインクとは違う黒い液体で書かれていた。
装飾的な文字が縦書きしてあり、クロードにはまったく解からない。
「これが範字というもので古代バラナシで使われていた文字だ。この一つ一つに呪が封じ込まれている。例えばこの文字は「カ」と読むがこの右中指と左の薬指をこう組ませて呪を発動させる」
『爆』言葉が終わった途端、目の前で激しい爆風が起こる。
クロードは椅子から吹っ飛ばされて反対の書棚にぶつかり背中を打ちつけた。その上にバタバタと書棚から巻物が雨のように降り注ぐ。
「痛いっ」
腰をさするクロードにユリウスがにやりと笑う。
「少し威力が過ぎたか……悪かった」
全然悪かったと思ってない口調でユリウスが言う。きっと、さっきの意向返しのつもりに違いない。
「くっそう」
ユリウスとの勉強には反射神経と体力も必要らしい。
「では次の字だが……」
字と言われれば字にも見えるが、クロードには模様の一つにしか見えない。これは読むのも書くのも相当難しそうだ。おまけに、これを使いこなすところまでいくのは、かなり苦労するだろう。
「基本はこれだが私の呪法は古代レーン文字を組合わせている」
ユリウスが今度は鹿皮に燻し銀の飾りを施した立派な表装の分厚い本を取り出して開いた。その中の一つを指差す。
「フェイユーと読む。力を現す言葉だ」
尖ったもので引っかいたようにも見える、横書きに書かれている文字を説明しながら巻物の方を今度は指差す。
「これは『ラ』火を現わす」
言いながら印を結ぶ。
「左人差し指を立てて他は握り、その立てた左人差し指を右手で握る。智挙印という――意味は風勢だな」
その直ぐ後、『焼尽せよ』と呪文を唱えた。ユリウスの言葉が終わる前にクロードが一足先に脇へ飛び退くと恐ろしいほどの火柱がまさにクロードが座っていた椅子を直撃し、椅子は一瞬で燃え尽きた。
「解かっちゃったか」
「笑い事じゃあないだろう。殺す気かよ、まったく」
楽しそうに笑うユリウスと真っ黒な椅子の残骸を横目にクロードは大きく息を吐いた。
レーン文字『力』と範字の火を組合わせ、後は風の印とくれば予想がつくが、早い所これらを覚えないと逃げるばかりではいつか大怪我、いや殺されるとクロードは額の汗をぬぐった。
まったく物騒な師についてしまったとクロードは冷や汗をかいてユリウスを見る。こっちは、まだ心臓が悲鳴を上げているというのに当のユリウスは至極楽しそうでクロードは再度大きく溜息をついた。
「この本、借りていい?」
「うーん、本当はここから出したくないがおまえがやる気になっているようだからいいよ。しかし、他の者に見つかるなよ」
ユリウスは軽く本に触って『解』と小さく言った。
「何?」
「ここにある物には持ち出せないように呪を施しているからそれを解いたんだ……そうだ」
ユリウスは書棚へ向かうと次々と巻物と本を取り出して、クロードの差し出された手にのせていく。新たに二冊のごつい本がのせられるに至って、クロードは慌てて書棚から離れる。
「もう、勘弁してよ、こんなに覚えられるわけないだろ」
「明日までに印をここまで覚えるように」
クロードの手の上から一つ巻物をさらりと広げると机に置いて、ユリウスはクロードの目の前で鮮やかに流れるように印を組んで見せた。
「書物を机の上に置け」
言うとおりに書物を机に置いたクロードの背後に回り、手を添えて一通りクロードに印を組ませる。
「じゃ、一人でやってみろ」
「えっと……」とつぶやきながら、クロードがぎこちなく印を組む形を所々手を取って直し、何度か組ませた。
「それじゃあ呪の発動は無理だな、明日までにしっかりやっておくように」
ユリウスは、あっさりとクロードを開放してラドビアスを呼ぶ。
「もう、外が暗い、送ってやれ」
「はい」
ラドビアスについて階段を上りながら一人で帰れるよとクロードは訴えてみるが「主の命ですから」と、ラドビアスに却下された。服を着替えて薄暗くなった空の下、クロードは、ユリウスの小宮を後にする。
森の中のように木々は茂り、人通りは全くない。風除けの付いた蝋燭台を持ったラドビアスが先導し、その直ぐ後から心持よたよたとクロードが歩いている。
「あのさあ」
「はい、何でしょう?」
分厚い本三冊と巻物まで持たされて重くてそこら辺に投げ捨ててしまいたい衝動と戦いながら、クロードは目の前のラドビアスに話しかける。
「重いですか? お貸しくださればよろしいのに」
言って振り向いたラドビアスが片手を差し出す。
「いや、いいよ。自分のだし」
手を動かせないのでクロードは首を振る。
「この本に書き込みとかやっちゃだめかなあ。さっき一応説明されたけどもうさっぱり忘れちゃってるから」
「それはだめですね、貴重な本ですから」
きっぱりと言われてしょげるクロードにラドビアスが優しく言う。
「お部屋に戻られたら少し私が説明させていただくというのはいかがです?」
「えーいいの? ラドビアスさえ良ければお願いするよ! あいつさあ、説明するの速すぎだし他の奴にもあんな教え方してんのかな? 命がいくつあっても足りやしないよ」
クロードの不満顔にラドビアスが笑む。
「あの方が自ら術をお教えになるのはクロード様だけですよ。そうですね……教師としてはいくらか問題ありとは私も同意いたします」
うんうんとクロードは一人頷く。あんな乱暴な教え方を皆にしていた日には、そこらじゅう死体の山と瓦礫の山で、ただでさえ少ない竜印を持つ者は全員死滅しているはずだ。
なんだって俺に直々に教えようと思ったのか勘弁してもらいたいものだとクロードは強く思う。部屋に戻ると、半刻ほどラドビアスに今日のおさらいに付き合ってもらい、結果、クロードは心底先生はラドビアスがやって欲しいと思った。
ラドビアスが帰るとテーブルの上に用意されていた、冷え切ったラム肉を一口切って口に入れるがやはり美味しくない。
散々つついた後、横に添えてあるマッシュポテトを丁寧にラム肉に塗りたくって遊び、そのまま皿を押しやって夜着に着替えると寝台に潜り込んだ。
誰にも干渉されない代わりに放ったらかしの生活。俺今日風呂入ってないよな……まあ、いいかとクロードは目を閉じた。
明るい光が顔に当たり、ああ俺カーテン閉め忘れたんだなと薄目を開けた。酷い夢だった。夢の中でクロードはユリウスに散々追いかけられて、呪文やら印やらでそこら中爆発の炎が上がり、ほうほうの体で逃げ続けて……朝を迎えてしまったのだ。
当然、寝た気のしないクロードは枕を頭の上に乗せてもう一眠りと思ったが。
「兄様、起きてる?」
クロードのささやかな願いは、妹姫の乱入によって叩き起こされてしまった。
「うーん、今日は勘弁して」
「朝しか一緒に居られないのに寝ちゃだめー」
クロードの懇願も一蹴される。
「ねえ、兄様朝ごはんご一緒していいでしょ?」
言葉の内容は疑問形だがはなからクロードの返事なんて気にはしてない。そしてテーブルに目をやってその惨状を見たエスペラントは眉を顰めた。
「何これ、兄様汚すぎる」
寝台の下に脱ぎ散らかしている服にももれなくきゃーきゃー言い、エスペラントは外にいる女官たちに声をかける。
「早く部屋を片付けて。テーブルの上もよ、綺麗にしたら朝食を二人分用意しなさい」
エスペラントの命に三人の女官が入って来て片付け始める。クロードは仕方なく寝台から降りて衣装部屋に向かった。
洗面と着替えを済ました頃、丁度朝食の支度も整って二人は向かい合わせにテーブルに着いた。
「ねえねえ、あの意地悪ユリウスの所に何しに行ってるの?」
ベーコンを頬張りながらエスペラントがクロードの皿からラディッシュを突き刺して自分の皿に入れる。
「うーん……」
意地悪ユリウスには思いっきり賛同するが、何をしているか話すわけにもいかず、パンを齧りながら言い訳を考えていると「意地悪って誰のこと?」当の本人の声がして思わずクロードは、むせてゲホゲホと口からパンや水を吐き出してしまった。
「汚ない、兄様」
エスペラントがうえっと顔を歪めるが、扉に寄りかかっていたユリウスがテーブルに近づくとフォークを振り回して牽制する。
「今、朝ご飯の途中よ、ユリウス兄様」
「だから何だよ、もうご馳走様したほうがいいよ、エスペラント。そんなに食べるとチビにデブがくっついてチビデブ姫になるよ」
「もう、ユリウス兄様なんて大嫌いっ」
エスペラントが大声を出す。
「なんか久しぶりに意見が合うな、私もおまえなんて大嫌いだ」
冷たくユリウスが言い返してエスペラントが大声で泣き出した。
そんな修羅場に「いい加減にしないか、二人とも」凛とした声がして長兄のダリウスが立っていた。