忘却術
ユリウスの小宮の地下室に竜門を開けた途端、嗅ぎなれた香の匂いにクロードはほっとする。
部屋に置きっぱなしにしている魔術関係の本や巻物を、ここに戻そうとクロードは主城の正面ではなく裏手の使用人が使う裏口を目指した。
そこで何人もの使用人とすれ違ったが、誰も自分の雇い主の息子に気が付かない。そのまま二階の自分の部屋に飛び込んだ。すばやく隠し場所から本と巻物を取り出して、同じように下へ降りようと部屋を出たところで覇気とした声がかかった。
「クロード、何だってお前がここに居るのだ」
今一番会いたくない人間に会ってしまったとクロードは焦る。もっと注意深くしていれば……と井戸の底まで後悔しきりだったがもう遅い。
「えっと……それはその事情が……」
「どういう事情だ?」
語尾を上げてダリウスが返す。
「えっ……とあったりなかったり……」
うだうだと言い逃れようとするクロードにダリウスの厳しい声が廊下に響いた。
「はっきりしなさい」
「あの、これについては父上の部屋でお話します。あと一ザンの後に父上のお部屋で会いましょう、兄様」
難しい顔のダリウスを残したまま、大荷物を抱えてクロードはユリウスの城に向けて走り去った。一ザン後、クロードはハーコート公の部屋に父親と長兄と共にテーブルについていた。
「で、話してくれるんだろうな」
ダリウスが横に座るクロードに視線を外すことなく言う。
「……えっと」
クロードは向かいに座るハーコートに顔を向けて、ユリウスから託された書状を手渡す。
「ユリウス、いやモンド州付き魔道師イーヴァルアイからモンド州、州公バルザクト・ロイス・ハーコート様への書状です」
「イーヴァルアイから?」
眉根を寄せながらハーコートは書状の封印を切って広げ、その他人行儀な弟の口上にダリウスが驚く。
「クロード、どうした?」
しかしクロードはダリウスに顔を向けることも答えることも無くハーコートを見ていた。
「これは、本当に私宛なのか、意味が解からん」
書状を広げたままハーコートがクロードに尋ねた。広げられた羊皮紙に書かれているのは現世の文字ではない。
あるのは複雑な形の魔方陣だ。そこには細かく古代の文字が書いてある。テーブルに置かれた書状を見ながらクローは立ち上がると、おもむろに左回りに文字を読んでいく。
そして次々と印を組んでいく。
「一体何をやっているのだクロード。それじゃあまるで魔道師のようじゃないか」
顔色を変えて言うダリウスの声を聞きながらもクロードの呪文は止む事が無い。
「どうしたんだ、一体?」
ダリウスはふっと空気が震えた気がして辺りを見回す。空気の乱れは書状のなかの魔方陣が紙の上から浮き上がった所為だった。それはそのまま大きく広がり、部屋を抜け尚も広がりながら高く上って行く。
やがて州城の敷地を見下ろすほどになるとぴたりと止まった。
書状自体が忘却術の術式だった。ハーコートが封印を取ったことによりすでに術式は始まっていたのだ。
延々と続いたクロードの呪文を唱える声が止み、最後の印を組が組まれた。
『我の命により忘却すべし』クロードが言い終わった途端、空一杯広がっていた魔方陣は霧散し、テーブル上の無地の羊皮紙も跡形なく消えた。目晦ましの術をかけてクロードも竜門に消えた。
暫く茫然としていたハーコートとダリウスはふっと我に返ってお互いの顔を見合わせる。
「父上、私は何の用でここに?」
引かれたままになっている自分の横の椅子をダリウスは不審そうに見る。
――誰か来ていたのか。
「さて……何だったか」
ハーコートは何も無いテーブルをしばし見つめたが何も思い出せない。二人は途方にくれたように今一度お互いの顔を見た。
「行ってきたよ」
「ああ、少し休めクロード」
うんと言ってクロードはユリウスを見ると指に綿布が巻かれていた。
では、あれはユリウスの血で書かれたものだったのか。血を使ったということは禁術なのだ。クロードは重い気持ちを引きずりながら部屋に戻った。
何でこんなに気分が沈むのかと思う。
いろいろユリウスがお膳立てしてくれたとはいえ、間違えずに一人であんな大きな術式を行ったのに少しも嬉しくない。モンドの城の自分の部屋から何か記念に持ってくればよかったのかなと思う。
しかし、考えてみても取り立てて思いいれのある品などクロードには無かった。借り物の生活に見合うように何もかも自分の物では初めから無かった。
クロードが不死となったら忘却術なんてかけなくてもあっという間に人は寿命を迎えて、知っている者などいなくなる。
――だから俺が覚えておく。
思わずモンドに居た頃の思い出に浸ってしまいそうになって、クロードは両頬をぺしっと手ではたき気合をいれた。
クロードは今迄の十四年間よりこれからの方がずっと長い人生だ。いくらでも思い出は作れる、しかし。
「取りあえず飯、飯。放っておくと一日中飯抜きでこき使われてしまう。あっちは五百年以上生きている年寄りだからあんまり食えないだろうけど俺はまだまだ育ち盛りなんだから」
さっきから鳴りっぱなしの腹を押さえてクロードはユリウスの部屋の扉を叩いた。