忘れえぬ苦い記憶
幼い頃、母親が顔と言わず体と言わず痣だらけになっていることがあり、カルラは子供心に犯人を見つけてやるとある夜半過ぎ寝室を抜け出した。主殿の廊下をあても無く歩いていたが、そこへ細い母親の叫び声を耳にした。
「あれは母様」
声のした部屋に飛び込もうとしたカルラは十歳違いの兄バサラに軽々と抱きとめられた。
「止めろ、カルラ」
「兄様、誰か、母様に酷いことをしているに違いないよ、助けなきゃ。母様を殴る奴をぶっ殺してやる」
おのれの腕の中で暴れる弟を落ち着かせようと意識してバサラは声を落とす。
「静かに、おまえに敵う相手じゃない」
「兄様、この中に居るのが誰か知っているの?」
バサラがカルラの頭を優しく撫でながら静かに言う。
「クビラ兄様だよ」
「は……?」
力が抜けて床に座り込んだカルラの背中をバサラが優しくさする。
「アニラ、いや母様を助けたいなら強くなるしかない。このベオークでは強い者が弱い者を支配できる習いだ」
バサラが淡々と諭すように言うのにカルラは渋々頷いた。カルラにとってバサラは特別だ。
「強くなって母様を泣かす奴を皆ぶっ殺してやる。クビラもだっ」
そう言って拳を握り締めるカルラをバサラは抱きかかえたまま立ち上がった。
「手伝ってやるよ、そしておまえは私が守ってやる。部屋まで送って行ってやろう、もう、寝る時間だよカルラ」
「うん」
カルラは急に眠気を覚えてバサラにしがみついた。兄とは言っても他の兄弟たちは実際は兄では無い。皆、カルラより二百歳以上歳が上でとても兄弟の情などを持てる対象では無かった。
日常的にもまだ幼いカルラは兄たちのいる主殿から離れた宮に住んで居る為、兄たちとめったに会うことも無い。それに比べてバサラは十歳位しか離れておらず、ついこの間まで同宮に部屋をおいていたため、カルラにとって頼りがいのある大好きな兄だった。そのため、暇さえあれば後ろについて歩いていたし、バサラも何くれと自分の修業の合間に弟の面倒をみていた。
十二歳のある日、カルラは夜遅くまで術の練習をしていた。昼食時一緒に食事をしたバサラに出されていた課題に取り組んでいたのだ。
「おまえには少し難しいかな」
バサラの笑い顔にムキになって夜更かしをしてしまったが、やっと成功したのだ。
「出来た、兄さま起きていらっしゃるかなあ。すぐ見てもらいたいのだけど」
こんな遅くに主殿まで行くのはどうかと迷ったが勉強熱心な兄はまだ起きているだろうと判断した。一刻も早く見てもらいたい。
前にも雷が怖くて兄の寝所へ潜り込んだ時も寝台の中で分厚い本を読んでいた。
「仕方ないなカルラ、今日はここで寝なさい」
あのときも、そう優しく言ってくれた。その時のことを思い出し、足早に辺りを気にしながらバサラの寝所に向かう。
「兄様、今日出された忘却術の魔方陣を見て下さい」
闇の中を走って来たため、言うが早いか扉を開けて兄の顔を見ようとバサラの寝所に入って来たカルラの足が止まる。バサラの寝台にいたのはバサラだけでは無かった。
「カルラか、ああ忘却術が出来たのかい、見てあげたいけど今、ちょっと取り込み中なんだ。明日見てあげるよ、もう遅いからお休み」
固まっているカルラに寝台の中からバサラがいつものように話しかけるが、しかし何事もないように平然としているバサラの下には女がいたのだ。それは良く見知っている、カルラが母と呼ぶ女だった。そして勿論バサラの母でもある。
「……なんで?」
がくがくと震える足を叱咤しながらカルラは部屋を出る。その後は自分の部屋にどうやって帰ったのか覚えていない。
母と子が交わることに本能的な禁忌を感じて吐き気がした。それまでの温かい思いが陶器が砕け散るように無くなっていく。
ただ一つはっきりしたのは、自分には母も兄も要らないということだ。自分は一人きりで生きていくのだ。頼るものなど無くていい。その日以来、カルラは母親の宮を出て独立し、兄達を避け独学を続けた。
十五歳の時に母アニラが死んだがカルラは葬儀にも出なかった。しかし、アニラが死んだことがカルラにとって大きく関わってくることが、このときはまだ解かっていなかった。
それから二年後、気が遠くなるほどの膨大な量の書架の林の中にカルラはいた。巻物を捜していたカルラが伸ばした手の先の巻物をすらりとした手が目的の書物を背後から先に取り上げた。
「そら、これだろう欲しいのは?」
少しハスキーな聞き覚えのある声に振り返ると、自分より頭一つ大きい自分によく似た男が巻物を手に立っていた。
「――バサラ」
「兄様とはもう言ってはくれないのか、残念だな」
バサラは薄く笑って唇を片側吊り上げた。
「私には兄などいない。ここで兄弟などというのは言葉遊びだ。何の意味も無い。おまえが教えてくれたんだぞ」
憎しみを込めて睨むと、奪うように巻物を取ろうとしたが反対にカルラは腕を取られる。
「久しぶりの対面にそれはないだろう、カルラ。まあそうだな、我々にとって親兄弟なんて形だけの呼び名だ。アニラが死んでビカラ兄様は次をおまえに正式に決めたようだけど、先に渡しちゃうのは惜しくなったな」
バサラが言いながらカルラを書棚に押し付ける。
「何を言っているのか解からない、どけバサラ」
バサラがカルラの腕を掴んでいないほうの手をカルラの顔の横に突いた。
「私が守ってやるって言ったのを覚えているか、カルラ」
「覚えてなんかいるものか、離せ」
「守ってやるから私のものになれ、カルラ。他の奴なんかに渡さない」
囁くように言ってからバサラが大声で扉の方へ命を出す。
「インダラ、サンテラ、蔵書室を閉めろ。外を見張って誰も入れるな」
「畏まりました」
二人の男が異口同音に答える。
「サンテラ、早く扉を閉めろ」
黒髪の男が室から出ようとしない同僚にきつく言う。
「解かっている」
もう一人の男が振り切るように蔵書室の大扉を閉めた。
「私のものにするよ、カルラ」
酷薄な笑みをバサラは浮かべた。
三日後、長兄ビカラの寝所に召しだされたカルラは、ベオークを出奔した。




