ボルチモアへの誘い
「兄上、人の家にいきなり入ってこられるなんて困りますよ」
動転するわけでもなく、結構強気で非難するユリウスにダリウスが声を抑えて言う。
「何をやっているか聞いたのだが?」
「私が自分の部屋で何をしようと勝手でしょう? 何をって兄上、今ご覧になってらしたじゃないですか」
「ユリウス」
とうとうダリウスが大声を出してテーブルを叩いた。
「あまり大声を出すと外で待つ者がビックリしますよ、兄上」
そう言って、ユリウスが入り口に視線を向けるのにつられ、ダリウスがそちらを向いた隙にクロードはその場を離れた。服を抱えて走るなんて間男みたいとは思うが仕方ない。そこへラドビアスが現れた。
「ダリウス様、いらっしゃったとは気付かず、失礼いたしました。ユリウス様、クロード様、お召し替えの途中では? ダリウス様、申し訳ありませんが少しお待ち願います」
ラドビアスはダリウスが口を挟む間も無いくらい、とうとうとしゃべり、あれよあれよと言う間にダリウスを椅子に座らせ、ユリウスとクロードは寝室へ押し込まれて扉をぱたりと閉められた。
「お茶でよろしいですか」
「え? ああ」
ダリウスが毒気を抜かれ、大人しくお茶を飲んでいるところにユリウスとクロードも着替えを済ませて部屋に戻ってきた。
「私とクロードにもお茶を」
「畏まりました」
「お待たせして申し訳ありませんでしたね、兄上」
さっきのことなど無かったかのように、ユリウスはにっこりと笑ってダリウスの正面に座り、自分の横の椅子を引いた。
「クロード、座りなさい」
なるべくダリウスを見ないように、お茶が茶器に注がれるのをひたすら見つめるクロードの胃がわずかにきりきりと痛む。
「で? 何の御用ですか、兄上」
沈黙を破ってユリウスがダリウスに問いかける。
「昨晩、父上にボルチモア州のトラシュからおまえとクロードを招きたいとお話があって父上はお受けになった。来月早々行くことになる」
なるだけ事務的に話そうと一本調子に言っているが、内心穏やかでないのが見え見えなのでクロードは俯いて噴出すのを必死で堪えた。――兄様、隣の候子を呼び捨ててるよ……。
「承知しました。私はあまり城から出た事が無いので楽しみです」
ユリウスがにっこりと笑ってお茶を飲む。
「うそつけ、竜門使ってそこら中出かけてるくせに」
クロードのつぶやきは、ユリウスの尖った靴による左足への攻撃を招いた。
「ぐへっ」
「お茶飲んでいる時に下品な声を上げるんじゃない、クロード」
「済みません、兄様」
くっそーとクロードが顔を上げると、ダリウスと目が合ってしまい、慌てて目を逸らした。
「……話はそれだけだ、帰る」
ダリウスはそそくさと立ち上がる。それを止めもせず、ユリウスが片手に茶器を持ったままダリウスに声をかけた。
「さようなら兄上、それとクロードも今日はもうお帰り」
えー? 何でだよと思いながらクロードがユリウスを見た。すると、ユリウスはにんまり口の端をあげている。この状況を楽しんでるとしか思えない。はあと溜息をついてクロードは仕方なくダリウスと従者の後を歩いていく。
つと、前を歩いていたダリウスの足が止まった。
「お前は一体何者なんだ?」
体は前を向いたまま放たれた言葉に、クロードはぐっと詰まる。だが、ダリウスは返事を期待していなかったのか再び歩き始め、クロードは気詰まりなままその後に続いた。
「これは?」
「えーっとフェイユー」
「これは?」
「ウルズ」
「ふーん、じゃあ意味は?」
「ええと……変化」
開いた本の字を指差し、読みと意味を尋ねるユリウスにクロードが答える。
描くのはなかなか難しくて、魔方陣にしても基本形がやっとだが、読む方はかなりすらすらと読むことが出来るようになってきていた。自分には魔術が合っているのか……それともやる気の問題なのか。印を結ぶのも結構早くなった――筈。
巻物に描いてある範字の下に印がついている印を結ぶ略字を見ても、すぐに解かるようになってきて、そうなると練習も楽しくなった。この所、人目が無いのが解かるとクロードは魔術の練習に余念が無い。しかもユリウスの教え方は驚くほど早く、予習、復習が必須なのだ。
「じゃあ、忘却の印は?」
「わかんない」
クロードのおでこをすかさずユリウスが中指で弾く。
「いてっ、だってさっき一回きゃ読んでないじゃないか」
「一回読めば頭に入るだろう」
クロードの不平はばっさり斬られる。一回しか読んでないのに完璧に頭に入る奴いるのかよ。そう思いながら絶対部屋に戻ったら今日中に物にすることをクロードは心に誓った。
「今日はこれで終わりにする」
ぱたんと本を閉じてユリウスが言った。
「まだ、一刻も経ってないのに……?」
何か気に障る事をしたかなと、クロードは考えたが今日はまだ何にもしてない筈……だ。
「明日ボルチモアに行くからね、持って行く物を用意しとけよ」
自分はそんな事、ラドビアスに任せきりのくせして……と思ったがクロードには決まった従者がいないので、女官たちに指図するのも面倒だし自分でやるしかないのも事実だった。
「解かったよ、じゃあね」
立ち上がるクロードにラドビアスが声をかける。
「ユリウス様の荷はほとんど出来ておりますから後でお手伝いに伺いますよ」
「本当? ありがとう、ラドビアス」
クロードが、がばりとラドビアスに抱きつくのをユリウスが冷ややかに見た。
「ラドビアス、あんまり甘やかすなよ」
何にもしないあんたがそれを言うのかよ。そう、思わず口に出しそうになったがラドビアスを貸してやらないとか言いだしかねないのでぐっと堪えた。
ボルチモア州の州都ケスラーへは片道三日の行程で四頭立ての大型の馬車と荷馬車一台で行く。随行の従者が、御者、下男を入れて八人という極めて少ない人数だった。当のユリウスには従者がラドビアスしかいないし、クロードには初めから決まった従者がいないのでダリウスから三人貸してもらって、あと二人が御者で残りが下男だ。
「大げさに州公に関わりある者としていくより、こじんまり行く方がよほど危険がありませんよ」
ユリウスはそう言ってダリウスを黙らせ、ハーコート公はそれについて何も言わなかった為あっさりと決まってしまったのだ。だけど、今結構国内は物騒になっているみたいなのに……ユリウスは知ってる筈だけど……まるで襲ってくれといわんばかりの軽装備にクロードは頭を捻る。
夕暮れ近くなってクロードの部屋にラドビアスが訪れた。
「遅くなりまして申し訳ありません」
「ううん、ありがとうラドビアス」
ラドビアスは衣裳部屋に入るとてきぱきと服やら下着を手に取っていく。
「ねえ、何でユリウスの従者ってラドビアスだけなの? ラドビアスだってたまには休みたいだろうに」
クロードがラドビアスに任せて寝台に寝転がって尋ねる。
「お休み……ですか? そうですね。私は立ち働いているのが好きなんですよ。休みをもらっても結局主のお世話をしていると思いますよ。それに私の主のお世話が勤まる者が他にいるとは思えませんし」
ラドビアスの返事に、そりゃあそうだとクロードも思う。何しろユリウスは好き嫌いが食べ物以外においてもべらぼうに多い。
しかも説明がすっぽり抜けていたりするユリウスの意を汲むのは本当に大変だろう。五百年あまりの実績に裏打ちされているラドビアスには、そこらの従者では太刀打ちできないだろうということか。
「それにユリウス様は魔術以外はほんっとに何もお出来になりませんから」
ラドビアスが旅行用の衣装箱に服を入れながらぼそりと言ったのが聞こえて、ここへ来る前にユリウスが山ほど我侭を言ったらしいと知れた。
いつも一見大人しそうなこの男が実はよくしゃべり、表情も豊かなのがユリウスの小宮に行くようになって解かってきた。何しろ主城にはほとんどユリウスが一人で来ていたので、ダリウスはともかく、クロードはユリウスに従者がいることも知らなかったのだ。背がクロードの知っている中では一番高く、痩せてはいるがひょろっとしているのとは違う。動きにも俊敏さが見えて、たぶん体を鍛えているんだと思った。