サイトスの半身
「少し、休もうか、クライブ」
「あ、はい父上」
クライブは手に持っていた羽ペンをインク壷に入れて父親を仰ぎ見た。
――最近、少しお疲れのご様子だけれど……。
二十代半ばの赤っぽい茶髪とスカイブルーの瞳の我父親をクライブは心配そうに見やった。物心ついたときには自分の目に映る父親はいつもこの姿だ。
今年四十一歳になる筈だが王は即位した時から死ぬまで歳を取らない。つまり、二十七歳で即位した現王コーラルは死ぬまで二十七歳の姿なのだ。
自分が大きくなってもいつまでも若い父が不思議といえばそうなのだろうが、王が歳を取らないことを小さい時から教えられているクライブにとってはそれも自然なことだった。
そのことがより、王を神格化させている大きな要因でもあると聞く。王は王であるがゆえに歳を取らない。なぜなら王は人ではないのだから。
今では母親とすっかり歳が離れているように見えて、クライブにはそれが少し切ない気がしていた。前々から政務についての勉強はしてはいたクライブだったが、ここ最近、急に王の執務室で王の隣に座らされるようになった。しかも横にはぴったりと宰相のガリオールがついて政務上の書類への裁可を代行するようになったのだ。
とは、いっても何が何だかクライブに判断出来る筈も無く、いちいち横のガリオールに意見を聞いたり父親に説明してもらったりしている。
ガリオールも午後からは魔道師庁に戻る。そのため、父親が忙しい時には父親の影であるクロードに見てもらっているのだが、自分がいることで政務が二倍も三倍も時間がかかっていることは否めない。急にこんな生活になって肩に力が入っている所為か、クライブは少しの時間でもとても疲れていた。
それを父は解かっていてくれる。その事がクライブは、嬉しかった。
「少し部屋に下がっても宜しいですか」
「ああ」
「では、ライル、ドレーンお付きして……」
「少し、一人になりたいだけだから」
クライブは慌ててガリオールが指示した供を断って席を立った。
「では主城からお出になりませんように、殿下」
「解かっている」
ガリオールに返事を返すと、急いで執務室を出て行く。息が詰まる……今は一人になりたいと思う。足早に廊下を歩いて行きながら途中、魔道師庁に続く西側の廊下を何気なく見る。
薄暗いしんと静まり返った長い廊下が続いている。大昔、レイモンドール国の創世期の頃、あの西側でたくさんの血が流される出来事があったらしい。
その後はどう掃除しようとも血の跡が消える事が無かったという大広間があったと聞くが、主城自体はその後建て直されたのでその大広間はすでに無い。今はその西側一帯が魔道師庁として使われている。
サイトスの城の中にはたくさんの魔道師が官吏に混じって働いているが、魔道師以外の者がこの西側一帯に近づくことは無い。別段禁止されているわけでも無いようで、父はガリオールについてよく行っているようだが、クライブは魔道師庁へ立ち入ったことが無かった。
今は違う出入り口が表側となっている為、この廊下は人通りも無く、まるで廃墟のような風情を漂わせていた。
その薄暗い廊下の壁に突然闇が口を開けた。
竜門? ガリオールや他の魔道師たちも竜門は魔道師庁内で使う為、クライブは名前は知っていても竜門が開くのを見たのは今が初めてだった。
固唾をのんでクライブが見守る中、出てきたのは被ったフードでよく見えないがまだ歳若い魔道師のようだった。
「あー気分が悪い。魔道師庁内からちょっと外れただけなのにやっぱりだめだ。吐きそう」
目の前の魔道師は今までクライブが見たり、会ったりした魔道師からも聞いた事の無い口調でげぇーっと、口だけで吐くまねをして……こちらを見た。
声を聞いたときから既視感を覚えていたクライブは、顔を上げた魔道師の顔を見て声を失う。
「どうやって捜そうかと思っていたけど俺って運がいいや」
もう一人の自分が声を上げて笑った。目をまるくしているクライブの手を取ると内緒話をするように声をひそめた。
「ね、君の部屋に行こう。見つかるとやばい」
何がやばいのか解からないままクライブはその魔道師を自分の部屋に連れ帰った。
「俺はクロード、君の弟なんだそうだ。よろしく」
差し出された手を握り返して、そうかと納得する。
「私はクライブ・アスター・ヴァン・レイモンドールだ」
手を強く握るこの少年が自分の半身なのか。クライブは父親に付き添うローブ姿の男を思い、少年を見た。
それにしてもこの少年も名をクロードと言いはしなかったかとクライブは不思議に思う。きっちりと前髪を揃えて丁寧にブラシをかけたシルバーブロンドを肩上で切り揃えた自分の髪型。派手な飾りは抑えているが上質で上品な装いのクライブに対して、目の前のクロードときたら寝癖なのかあっちこっちに跳ねているいささか伸びすぎの前髪に、いい加減に後ろで髪をくくっている魔道師姿で鏡を見ているようでもあるが、顔立ちや髪の色以外まるで別人だと思ったのも事実だ。
「会いに来てくれてありがとう、クロード」
「俺も会いに来て良かったよ」
胸を撫で下ろすしぐさをして少年はクライブに笑いかける。
「おまえ、いい奴そうだから、ほっとしたよ。変な奴に仕えさせられるんじゃあ死んでも死にきれ……じゃなくて死ぬことも出来なくなる身の上なんだから」
クライブは生まれてから初めて聞く汚い言葉づかいに絶句したが、この自分の半身にすでに好意を覚えているのを感じた。
王になるのは当然だと思っていたし、疑いはない。でも、自分がその重責を果たせるのか……。この所、王の職務の一端に触れるようになって心に錘がのっかっていくような気持ちになっていた。
しかし、父にクロードがいるように私にも彼がいる。そう思うとほっこりと胸が温かくなって、今までに溜めていた澱を吐き出すようにクライブは長く息を吐いた。
「また、来るよ、今度は直接ここに竜門を開けるし」
さっさと立ち上がるクロードにまだ挨拶しかしていないと引き止めるが、クロードは掴んだ手を空いている手で包むように持ってから外した。
「俺さあ、本当はまだこんな事やっちゃあだめなんだよ。見つかったらユリウスに何されるか」
「ユリウス?」
「いや、こっちの話。気にしなくていいから」
唖然とするクライブを残し、バタバタとクロードは竜門を廊下に開けっ放しにしていたのを思い出して走り去っていった。
その直ぐ後に入ってきたガリオールが長椅子にぼんやりと座り込んでいるクライブに声をかける。
「クライブ様、どうかなさいましたか」
「いや、何も」
はっと我に返って見上げるクライブにガリオールは何を感じたのか辺りを見回した。
「何かございましたか」
やはり一人にするのでは無かったかとちらと思いながら目を細める。
「いや、なにも無い、執務室へ帰る」
クライブの一歩後ろを歩きながらガリオールは魔道師庁へ続く廊下に目を向けた。クライブの部屋でも感じた魔術の痕跡……やはり魔道師庁の外で術を使った者がいるのだ。
普通の魔道師なら見すごすか、初めから解からない程の魔術の痕跡。その光の残像のようなものをガリオールは見ることができる。
規律を作ることもそれにのっとって行動するのが好きなガリオールは、この魔道師長になって以来四百年あまり数々の規律や規則を作ってきたが、その中にサイトスの王城内での魔術の使用は魔道師庁の中に限っているという条項がある。
それは魔道師以外の者に竜門から出て来る魔道師を見られてむやみに怖がらせたり、異質だと思われたりしたくないからだ。
レイモンドールの国教であるからにはあまり変なイメージを持たれるのは困る。国教に定められている割には在家の魔道師はいない。
魔道師以外が呪文を日常的に唱えるなんてこともない、一般の人々と隔絶されているのが魔道師だ。かなりそれだけで異質な集団であることは充分承知している。
彼としては、なるべく魔術の実態は伏せておきたい。もし、禁を破った者がいるなら厳しく罰せねばならない。
ガリオールは眉根に皺を寄せて執務室に向かった。