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気が付くと俺は大混雑の中でもみくちゃにされていた。
目を上げても四方八方人の頭ばかりで他には何にも見えやしない。地面も空も真っ白なところを見ると、どうやらスクランブル交差点ではないらしい。
しかし……ここは何処だ? 俺はどうしてこんなところにいるんだ?
何も思い出せない。
まさか、拉致されたのか。
必死になって頭を叩いていると誰かに腕を掴まれる。
「おやめなさい」
振り向くと桃源郷の仙人のような爺が俺の腕をはっしと掴んでいた。爺はその風貌に反して力が強く、俺はすごすごと腕の力を抜く。
「そんなことをしても何も始まりませんよ」
爺はその姿に違わず優しげな目で俺を見た。理想の保健室の女医みたいな。俺は思わず心苦しくなって離された腕を摩りながら言い訳をする。
「どうしてこんなところにいるのか思い出せないんですよ。叩いてたのは頭の血の巡りを良くするためで」
「それはそれは」
爺は哀しそうな顔をした。
「まだお若いのに」
どういう意味だ。まさか俺は……
「大丈夫です。貴方はこちらだったのですから」
仙人は俺の肩を軽く叩くと、そのまま雑踏の向こうへと消えて行った。
*
病院に患者が運ばれてきたのは深夜だった。運悪く宿直であった私は急いで患者の元へと向かう。
患者は昏睡状態に陥っていた。聞くと、頭を打って内出血を起こしているらしい。患者はそのまま緊急治療室へと搬送されていく。
私は舌打ちして手を洗った。
……どうして私が。
治療室の前のソファには本が置きっぱなしにされていた。
「患者の本です。死ぬ直前まで読んでいたそうで、握ったまま搬送されてきたのでやむなくここに」
看護婦は申し訳無さそうな顔で説明する。好奇心で何の本かと尋ねると、
「神道の本です」
看護婦は「どうしてそんなことを聞くのか」という顔をして答えた。
*
「まだお若いのに」だと。俺はどうして死んだんだ。死因は何だ。いやいや待てよ、俺は何処で死んだんだ。最後にいたのは刑務所の筈だ。まさか死刑になった訳でもないだろう。そんな判決は頂戴した覚えが無い。じゃあ刑務所の中で死んだのか。そんな、刑務所の中で、死ぬなんてことは……
『――そこ、滑りやすくなってますんで気を付けてください』
ふいに誰かの台詞が脳裏に蘇る。
まさか、……俺は滑って転んで死んだのか……?
思わず雑踏の中でへたれこむ。「相模原和夫、27歳。刑務所の床で滑って死亡」……なんて決まらない終わりなんだ。他の奴等をあんなにカッコよく終わらせてやったってのに。俺ばっかり滑って死亡なんざ、……一昔前のコントかよ。つまんねえ。
「神様のくそったれ野郎が!」
思わず呟くと隣のスーツを着た男がぐるりとこちらを向いた。
「あなた、ここでそんなこと言っちゃいけません」
「何でだよ」
ふいに静かになったのを感じて回りを見回すと、周りの群集は皆無言で俺を見つめていた。
な、何なんだよ。俺が何かしたってのか。
不気味すぎて逆に笑えてくる。引き攣った笑いを零す俺に目の前の女が喋りかける。
「ここでは皆が神様なんです」
「……何だよ。新興宗教かよ」
「いいえ、違います。神道です」
「神道……?」
「死んだら皆神様になるのです。八百万の神様、って知りませんか」
知っている。それもついさっき、何処かで知ったばかりだ。しかし何処で知ったのだったか……
なるほど、俺の実家は神道だったのか。そういやババアがそういうことも言ってたような……いや、待てよ。
皆が神様ってことは、つまり俺も神様ってことだよな。ということは地獄絵図なんかでよく見る何だっけか、釜茹で地獄とか針山地獄とかそういうものは無いということか。ビバ神道! やるじゃねえか実家!
俺は初めてババアに感謝した。
*
嗚呼神様、ありがとうございます。
貴方のお陰で私は奴に復讐する事が出来ます。可愛い可愛い姪を殺したあいつに復讐することが!
初めから名前を聞いておけばよかったのだ。そうすれば不平不満を言うことは無かった。嬉々としてメスを振り上げたというのに。ただ残念ながら私が手を下そうが下すまいがどうせこいつは助からぬ。幸せそうな顔で痛みも泣く死んで行くのだ。それだけが悔しい。可愛い姪っ子の娘の恨み、……どうしてこいつはこんなに幸せそうな顔をしているんだ? ………そうか、神道だから地獄は存在しないのか……
ふと、妙案を思いついた。
こいつに地獄を与えてやればいいのだ。
どうせ直前まで神道の本を読んでいたから神道の夢を見ているだけだろう。
それならば私が彼の夢を変えてやればいい。
どうすればいいか? 簡単だ。
私は彼の耳元でこう囁いた。
「お前の実家は仏教だぞ」
「俺」の顔が苦痛に歪んだ。