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処刑台から始まる恋――死んだ私を忘れない宰相と、忘れてしまった私

作者: 奇譚端
掲載日:2026/01/08

 冬の朝だった。


 石畳に薄く霜が張り、踏みしめるたびに靴底が軋んだ。処刑台へと続く階段は十三段。数えるまでもなく知っている。幼い頃、父に連れられてこの広場を通ったとき、「あれは何」と問うた記憶がある。父は私の目を手で覆い、見てはいけないものだと言った。あの頃の私には、その意味が掴めなかった。今ならば、痛いほどに分かる。


 手首を縛る縄は、思っていたより柔らかかった。肌を傷つけぬよう油が塗られているのだろう。処刑人の心遣いなのか、あるいは最後の慈悲という名の制度なのか。振り返ったとき、その処刑人が僅かに目を伏せたのが見えた。老いた男だった。何人もの罪人を葬ってきたであろうその手は、それでも私の腕を乱暴には扱わなかった。指先には古い火傷の痕があり、爪の端が欠けている。その手つきにだけ、ためらいが混じっていた。


 広場を埋め尽くす群衆の顔は、個々の判別がつかない。憎悪に歪んだ目、嘲りを含んだ口元、好奇に輝く瞳。そのすべてが溶け合って、ひとつの巨大な感情の塊になっているかのようだった。最前列で、母親が幼い娘の目を手で覆っているのが見えた。父が私にしたのと同じ仕草。あの子はいつか、今日のことを思い出すのだろうか。その隣では、痩せた男の羽ペンが止まることなく動いている。乾いた擦過音が、やけに鮮明だった。私の最期は、どんな言葉で綴られるのだろう。


「公爵令嬢ミレイセラ・イェルテフェイネ」


 名を呼ばれ、私は足を止めた。処刑台の中央、膝をつく場所を示される。冷たい石の感触が、薄い裾越しに膝へ染みた。霜が溶けて、布地を湿らせていく。


「背教および王家への反逆、重婚の教唆、公金横領の共犯、並びに隣国への機密漏洩の罪により、本日をもって汝の命を絶つ」


 読み上げられる罪状を、私は黙って聞いていた。背教。反逆。重婚の教唆。公金横領。機密漏洩。どれも私がやったことではない。そう言ったところで何になるだろう。この場において私の言葉に耳を傾ける者などいない。


 処刑台の正面、貴賓席に立つ人影を、私はちらりと見た。グレイシェルト・ヴォルツァーク。この王国の宰相であり、私の婚約者であった人。彼は私を見ていなかった。鉄のような表情で、どこか虚空を睨んでいる。その目に私は映っていないのだろう。映す価値もないと、そう言われているような気がした。


 胸が、ひとつ遅れて痛んだ。


 当然のことだ。私は彼を裏切ったのだから。少なくとも、彼の目にはそう映っているはずだ。私が彼の知らないところで何をしていたのか、彼はきっと知っている。知った上で、私を見捨てた。それでいい、と思った。むしろ、彼がここにいることのほうが解せなかった。宰相ともあろう人が、わざわざ反逆者の処刑に立ち会う必要はない。来なければいいのに。来ないでほしかった。あなたの顔を見てしまったら、泣いてしまいそうだから。


「被告人、最後に言い残すことは」


 形式的な問いだった。ここで何を言おうと、判決は覆らない。弁明は許されていない。慣例として問われるだけのこと。私は首を横に振った。群衆のどよめきが広場に響く。悪女は最後まで反省もなく、謝罪もせず、死んでいく。そう囁き合っているのだろう。それでよかった。私が何かを語れば、この場にいる誰かを傷つけてしまう。傷つけたい人など、ひとりもいない。


 処刑人が背後に立った。首筋に、冷たい刃の感触。最後に、私はもう一度だけ彼を見た。グレイシェルト。あなたは相変わらず、私を見てくれないのね。よかった。見られていたら、きっと涙が出てしまう。私は最後まで、あなたの前で弱さを見せたくなかった。言葉にできなかったことが、たくさんある。あなたは私のことを、政略結婚の相手としか見ていなかったでしょう?


 それでも私は。


 刃が振り下ろされた。


 痛みは、なかった。



 気づいたとき、私は処刑台の上空にいた。宙に浮かんでいる、と表現するのが正しいのだろう。眼下に見えるのは、私自身の体だった。首から先は見えない。見えなくてよかったと思った。代わりに、白い布が覆い被せられていく。侍従たちの手つきは淡々としていたが、そのうちひとりの若い女が、私の手を布の下で握りしめるようにして整えているのが見えた。唇を噛み、何かを堪えるような顔をしている。私のことを知っていたのだろうか。ただ、その唇が震えていた。


 私は死んだのだ。恐怖はなかった。悲しみもない。奇妙な空虚さがあるだけだった。自分の体が布に包まれていくのを見ても、それがかつての自分だったという実感が湧かない。声を出そうとした。出なかった。手を動かそうとした。そもそも手という輪郭が、どこにも見当たらなかった。視界だけがある。意識だけがある。それ以外の何もない。


 群衆が散り始めていた。見世物は終わった。あとは日常に戻るだけ。誰もが足早に広場を離れていく。ひとりを除いて。


 グレイシェルトは、まだそこに立っていた。貴賓席から動こうとしない。周囲の貴族たちが声をかけても、首を振るだけ。やがて人々は諦めたように去っていき、広場には彼ひとりが残された。私の体が運ばれていくのを、彼はじっと見つめていた。その表情は相変わらず硬く、何の感情も読み取れない。凍りついたように、そこに立ち尽くしている。


 私は彼のそばに近づこうとした。浮遊する視界が、ゆっくりと彼に向かって移動する。意志の力で移動できるらしい。触れることはできなかった。伸ばす手がないのだから、彼には届かない。そして、ふと気づいた。彼の頬に、一筋の光るものがあることに。


 涙、だった。


 グレイシェルト・ヴォルツァークが、泣いている。声もなく、表情も変えず、涙だけが頬を伝っている。鋼鉄の宰相と呼ばれ、感情のない機械だと恐れられた人が、人前で涙を流している。どうして。どうしてあなたが泣くの。私はあなたを裏切ったのよ。あなたは私を見捨てた。当然の報いを受けただけ。泣く必要なんて、どこにもないはずなのに。


 彼が口を開いた。


「……ミレイ」


 聞こえた。彼が私を呼ぶ声が、確かに聞こえた。幼い頃から呼ばれ続けた、愛称。彼だけが使う、その呼び方。


「すまなかった」


 謝罪の言葉が、静かに紡がれる。


「私には、これしかできなかった」


 何を言っているの。何を謝っているの。私は、やっていない。彼はそれを知っていたはずだ。私の行動のすべては、彼のためだった。彼を守るために、私は証拠を隠した。彼の政敵が仕組んだ罠から、彼を逃がすために。それなのに、彼は私を見捨てた。無実を訴えることもなく、私の処刑を認めた。


 彼はそれ以上、何も言わなかった。もう一度だけ私の体が運ばれていった方向を見つめ、それから踵を返した。広場を去っていく背中は、いつもより小さく見えた。肩が少し落ちている。歩みは揺らがない。私は彼を追いかけようとした。追いつけない。距離が縮まらない。見えない壁に阻まれているかのように、私と彼の間には越えられない隔たりがある。


 グレイシェルト。待って。待って、お願い。


 声は届かない。彼は私の声を聞くことなく、広場を出ていった。



 それから、どれほどの時間が経ったのか。私は宮殿を彷徨っていた。彼の姿を探し続けた。執務室にも、議場にも、私邸にも、彼はいなかった。まるで最初からこの世界に存在しなかったかのように、彼の気配は消えている。


 諦めかけたとき、私は自分の部屋の前にいた。イェルテフェイネ公爵家の屋敷ではない。宮殿内に与えられた私の私室。婚約者として、彼のそばで過ごすために用意された部屋。処刑された今、もう必要のないはずの場所。


 扉が開いていた。中に、人がいる。


 私は壁をすり抜けて、部屋の中に入った。物理的な障壁は、今の私には意味をなさない。そして、私は彼を見つけた。グレイシェルトが、私の寝台の傍らに座っていた。手に、何かを持っている。よく見ると、それは私の日記帳だった。古い、使い込まれた革表紙。幼い頃から使っていたもの。誰にも見せたことのない、私だけの秘密。


 彼が、それを読んでいる。


 やめて。見ないで。そこには私の本心が綴られている。彼のそばにいられるだけで幸せだということ。彼の役に立ちたいと願っていること。馬鹿げた、乙女じみた感情のすべてが、そこには書かれている。


「……知らなかった」


 彼の声が、静かに響いた。


「こんなにも、君が」


 言葉が途切れる。私は彼の顔を見た。泣いてはいなかった。その目は虚ろで、どこか壊れかけているように見えた。日記帳を閉じ、彼は膝の上に両手を置いた。長い沈黙が部屋を満たす。


「私は愚かだった」


 独り言のように、彼は呟いた。


「君の気持ちに、気づいていながら。気づかないふりをしていた」


 違う。あなたが愚かなんじゃない。私が伝えなかっただけ。私が臆病だっただけ。あなたのせいじゃない。


「この部屋は、このままにしておく」


 彼は立ち上がった。


「誰も入れない。何も動かさない」


 彼は日記帳を、元あった場所——枕の下に戻した。その手が、僅かに震えているのが見えた。


「……馬鹿げている、と思うだろう」


 彼は振り返ることなく、部屋を出ていった。扉が閉まり、私はひとり取り残される。いや、ひとりではない。私はもう、「ひとり」という概念すら持てない存在になっている。意識だけ。視界だけ。誰にも見えず、誰にも聞こえず、誰にも触れられない、何か。


 私の頬を、涙が伝った。いや、頬などないはずだ。涙を流す体など、もうないはずだ。確かに、私は泣いていた。



 数日が経った、と思う。日が昇り、沈み、また昇る。その繰り返しを何度か見たような気がするが、正確には定かでない。


 私は宮殿を彷徨い続けた。彼の姿を探して。彼の声を聴いて。触れることはできなくても、せめてそばにいたかった。そうして、私は彼の執務室にいた。深夜。蝋燭の灯りだけが揺れる薄暗い部屋で、彼は机に向かっていた。書類の山。羽ペンを走らせる音。時折、深いため息。


 彼の前に、一通の書状があった。封蝋はすでに破られ、中身が広げられている。私は彼の肩越しに、その文面を読もうとした。彼はすぐにそれを裏返し、別の書類の下に隠した。見られたくないものなのだろう。一瞬だけ見えた文字がある。


『……貴殿の冷徹な判断に敬意を表する』


 その一行だけが、私の視界に焼きついた。


 彼はしばらく何かを考え込むように手を止め、それから新しい羊皮紙を取り出した。ペンを走らせる。私はその手元を見た。


『ミレイセラ・イェルテフェイネの名誉回復に関する件。本件については、当面の間、凍結とする』


 私の名誉を、回復しない。彼はそう書いている。私の無実を証明しない。私を悪女のまま、歴史に残す。


 彼の手は止まらなかった。


『ただし、私個人としては』


 ペンが震えている。


『彼女の無実を確信している』


 一行書くごとに、彼の肩がほんの少しだけ上下した。


『彼女は最後まで、私を守ろうとした。その献身を、私は生涯忘れない』


 私のために。私のためだけに、そう書いている。誰にも見せない、自分だけの記録として。書き終えた彼は、その紙を丁寧に折りたたみ、机の引き出しの奥深くにしまった。そして、先ほど隠した書状を取り出し、蝋燭の炎にかざした。紙が燃え上がり、灰になって崩れ落ちていく。


「……すまない」


 彼が呟いた。


「私は、君を」


 言葉は続かなかった。燃え尽きた灰を見つめる彼の横顔を、揺れる炎が照らしている。


 グレイシェルト。あなたは本当に、不器用な人ね。


 私は泣いていた。また、涙が流れていた。存在しないはずの涙が。



 それから、私は彼の日常を見守り続けた。


 朝は早くに起き、夜は遅くまで働く。食事は執務をしながら、味も分からないまま口に運ぶ。眠るのは深夜、起きるのは夜明け前。体を壊すのではないかと心配になるほど、彼は自分を追い込んでいた。執務室に茶を運んでくる年配の侍従が、彼の席を外した隙に冷めた茶を温かいものに取り替え、書類の隅に小さな菓子を置いていくのを何度か見た。侍従は去り際、閉じた扉に向かって小さく頭を下げた。立ち去る足が、ほんの一拍だけ遅れた。


 そして、彼は時折、私の部屋を訪れた。誰もいない部屋で、彼は椅子に座り、黙って過ごす。窓の外を見たり、私の遺品を手に取ったり、あるいは何もせずに座っているだけだったり。


「今日、議会で反対派を説き伏せた」


 独り言のように、彼は語りかける。


「君がいれば、もっと上手くやれたのだろうな」


 返せないまま、その声だけを受け取った。


「来月、隣国との国境会談がある。戦争は、避けられそうだ」


 ――聞こえている。


「……君に、報告したかった」


 彼の声が、僅かに揺れる。


「君がいてくれたら、と。何度も、思う」


 私もよ。私もあなたのそばにいたい。あなたの支えになりたい。あなたが疲れたとき、そっと寄り添いたい。それは、もう叶わない。


 季節が巡った。冬が終わり、春が来て、夏を越え、秋が訪れ、また冬が近づいてきた。一年という時間が流れたらしい。私には、あまり実感がない。その間、彼は変わらなかった。冷徹な宰相として国を動かし、誰にも感情を見せず、黙々と働き続ける。誰も彼の内面を知らない。誰も彼が私を想っていることを知らない。私だけが、知っている。彼が夜ごと私の部屋を訪れることを。私の日記を読み返すことを。時折、窓辺に置かれた花を見つめて、小さく微笑むことを。


「今年も咲いたな」


 彼が呟く。私が好きだった花。名前は忘れてしまったが、薄紫の可憐な花弁。窓辺の小さな鉢に、ひとつだけ咲いている。


「来年も、咲くといい」


 来年も。再来年も。彼はきっと、こうして私を想い続けるのだろう。死ぬまで。いや、もしかしたら死んでからも。それは幸せなことなのだろうか。彼がこんなにも苦しんでいるのを見ると、息が詰まる。私のせいで、彼は一生、影を背負って生きていく。


 私は、彼の幸せを、奪ってしまったのだろうか。



 ある夜のことだった。


 私は宮殿の庭園を漂っていた。特に目的もなく、存在しているだけ。彼は執務室で書類と格闘しているはずだ。そばにいても、何もしてあげられない。夜風が木々を揺らし、どこかで夜鳥が鳴いている。私にはもう、風も、匂いも、感じられないはずなのに。


 そのとき、声が聞こえた。


『聞こえますか』


 私は振り返った。誰もいない。庭園には私の意識だけ。


『聞こえているのですね』


 また、声。どこから届いているのか分からない。耳で聞いているわけではない。頭の中に直接響いてくるような、奇妙な感覚。


『私が誰かは重要ではありません。あなたにとって意味があるのは、私が何を伝えに来たか、ということだけ』


 何を。


『あなたは、選択を与えられます。一度だけ、現世に戻る機会が。条件があります』


 条件。


『あなたの記憶は、完全に失われます。今のあなたとしてではなく、まったく別の誰かとして生まれ変わる。過去の記憶も、感情も、すべてなくなる。彼を想っていたことも、忘れてしまう』


 忘れる。グレイシェルトを想っていたことを、忘れる。


『それでも、現世に戻りますか』


 私は答えられなかった。


 彼を想っている。今も、ずっと想っている。その気持ちを失いたくない。忘れたくない。たとえ触れることができなくても、声を届けることができなくても、せめてこの気持ちだけは。


 彼は苦しんでいる。私がいないことで。私を失ったことで。このまま私が見守り続けても、彼の苦しみは癒えない。私は彼に何もしてあげられない。もし私が現世に戻れたなら。記憶がなくても。別の人間として生まれ変わっても。もう一度、彼に会えるなら。


『考える時間をあげましょう。次に私が訪れたとき、答えを聞かせてください』


 声は消えた。私は庭園に佇んでいた。何も変わらない夜。私の中で、何かが大きく揺れていた。



 庭園の闇は深く、木々の影が地面に黒い模様を描いている。


 現世に戻る。記憶を失う。彼を想っていたことを忘れる。彼に会える。私が私でなくなるなら、それは別の誰かが彼に会うだけではないか。ミレイセラ・イェルテフェイネという人間は、もう存在しなくなる。彼を想った記憶も、彼に想われた記憶も、すべて消える。


 夜風が木々を揺らす。私には感じられないはずの風。


 私は彼のそばにいたい。記憶がなくても。私が私でなくなっても。もう一度、彼と出会いたい。彼の声を聴きたい。彼の顔を見たい。触れたい。あの冷たい指先の温度を、今度は確かめたい。


 彼は今も、私を想い続けている。死んだ私に囚われて、前に進めずにいる。もし私が現世に戻れたなら、新しい誰かとして彼の前に現れたなら、彼は。


 いや、それは嘘だ。私は彼に忘れてほしいなんて思っていない。私を想い続けてほしい。それは傲慢な願いだと分かっている。想われたいと思ってしまう。死んでもなお、彼の心の中に居場所がほしいと願ってしまう。


 月が雲間から顔を出し、庭園を青白く照らした。花壇の花々が、淡い光を受けて揺れている。


 どちらを選んでも、何かを失う。



『答えは決まりましたか』


 声が戻ってきた。どれほどの時間が経ったのか。数日か、数週間か。あるいは数か月か。


 私は、まだ答えを出せずにいた。


『迷っているのですね』


 ええ。


『あなたは、彼を想っている』


 想っている。


『記憶を失えば、その想いも消える。それが怖い』


 怖い。


『本当にそうでしょうか。想いは、記憶だけに宿るものでしょうか。頭で覚えていなければ、消えてしまうものでしょうか』


 私は答えられなかった。


『あなたは彼を想った。彼もあなたを想った。その想いは、記憶より深いところに刻まれている。たとえ忘れても、消えない』


 消えない。


『信じられませんか』


 信じたい。


『信じてください』


 声が、優しく響いた。


『あなたの想いは、本物だった。だから、記憶がなくなっても、心が覚えている。彼を見たとき、あなたは惹かれる。名前も知らない、初めて会う人のはずなのに。それは、魂が、覚えているから』


 魂が、覚えている。


『選んでください。あなたの、望む道を』


 私は目を閉じた。いや、目などないのだが。そうして、自分の心に問いかけた。私は、何を望んでいる。彼の幸せを。彼が苦しまないことを。彼がもう一度、誰かを想えるようになることを。


 その「誰か」が、私であってほしい。


 ああ。やっぱり私は、欲張りだ。


『欲張りで、いいのですよ』


 声が笑った気がした。


『それこそが、人の心というものです』


 私は決めた。現世に戻る。記憶がなくなっても。私が私でなくなっても。もう一度、彼に会いにいく。


『……よい選択です』


 声が、祝福するように響いた。


『では、行きなさい。あなたの、新しい命へ』


 視界が白く染まっていく。グレイシェルト。また、会えるわね。あなたは私を忘れないでしょう。私は、あなたを忘れてしまう。私の心は、きっとあなたを見つける。名前も、顔も、思い出も知らない。あなたを見た瞬間、私は惹かれるはずだ。理由のつかない、強い引力で。


 それが、想うということだから。


 私は目を閉じた。白い光に、包まれていく。



 春だった。


 トゥルヴェナの大通りを、私は歩いていた。籠に入った花を抱えて、市場へ向かう途中。薄紫の花弁が風に揺れる。石畳を踏む足取りは軽く、朝の空気はどこか甘い匂いがした。


「あら、リネット。今日も精が出るわね」


 声をかけてきたのは、隣の店で焼き菓子を売っている女だった。もう何年もこの市場で顔を合わせている。早朝から生地を捏ねる匂いが、いつも私の店まで届いてくる。粉で白くなった手で、彼女は小さな包みを差し出した。


「おはようございます。今日は入荷が多くて」


「よく売れるといいわねえ。うちの饅頭も持っていきなさいな、朝ごはん食べてないでしょう」


 私はリネット・フロリエル。トゥルヴェナの外れに住む、小さな花屋の娘。特別なところなど何もない、ごく普通の平民の少女。なぜか、この花だけは手放せなかった。薄紫の花。名前を聞いても、いつも忘れてしまう。この花を見ると、胸の奥が温かくなる。誰かに贈りたくなる。誰に、とは分からないのだが。


 市場に着き、私は店を広げた。客足はまあまあ。春は花の季節だから、そこそこ売れる。常連の老婦人が孫娘への贈り物を選び、若い職人が恋人に渡すのだろう小さな花束を照れくさそうに買っていった。「もっときれいに見える束ね方はないか」と尋ねる職人に、私は笑って、少しだけ葉を足してやった。


 昼を過ぎた頃、人だかりができた。何事かと思って見上げると、騎馬の列が通りを進んでいく。貴族の行列だ。先頭には紋章を掲げた旗。どこかの高貴な方が、宮殿へ向かうのだろう。


 私には関係のない世界。そう思って、視線を戻そうとした。


 そのとき。目が合った。


 行列の中央、黒い馬に跨った男性。銀灰色の髪、冷たい瞳、鋼のような表情。宰相閣下だ、と誰かが囁いている。鋼鉄の宰相グレイシェルト・ヴォルツァーク。感情のない機械のような人だと、噂で聞いたことがある。


 その目が、私を見ていた。


 通り過ぎていく馬上から、彼は私を見ていた。表情は変わらない。その瞳の奥に、何かが揺れている気がした。心臓が、跳ねた。なぜ。どうして。名前も知らない人。初めて見る顔。なのに、涙が出そうになる。懐かしいような、悲しいような、でも嬉しいような、名もつけられない感情が、胸の奥から込み上げてくる。


 行列が過ぎていく。彼の姿が遠ざかる。私は花籠を抱えたまま、立ち尽くしていた。


「ねえ、リネット。大丈夫?」


「……え、ええ。大丈夫」


 大丈夫じゃなかった。心臓がまだ、激しく脈打っている。あの人は、誰。私に、何の関係があるの。会いたいと、思ってしまう。


 翌日も、私は市場に出た。そして、その翌日も。さらにその翌日も。あの人がもう一度通らないかと、心のどこかで期待していた。馬鹿げている。宰相閣下のような高貴な方が、こんな市場に来るはずがない。


 三日後。店の前に、人が立った。


 見上げると、彼がいた。平服に身を包んだ、銀灰色の髪の男性。あの日と同じ瞳が、私を見下ろしている。


「……薄紫の、花を」


 低い声だった。


「ひと束、もらえるだろうか」


「は、はい。少々お待ちください」


 私は震える手で、花を束ねた。何をしているんだろう。宰相閣下だ。なぜこんな場所に、なぜ私の店に。


「きれいな花だ」


 彼が、ぽつりと言った。


「……この花を、好きだった人がいた」


 私は顔を上げた。


「昔の、話だ」


 彼の表情は、相変わらず硬い。どこか寂しそうに見えた。


「その人は、もういない」


「……そうですか」


 私は花束を差し出した。


「お気持ち、お察しします」


 彼の手が、花束を受け取る。そのとき、指先が、触れた。ほんの一瞬。電流が走ったような感覚があった。彼の指は冷たかった。どこか懐かしい温度だった。


「……名前を、聞いてもいいか」


「リネット。リネット・フロリエルと申します」


「そうか」


 彼は花束を見つめた。


「リネット」


 私の名前を、噛みしめるように呟く。


「……また、来ても」


 そこで、彼の言葉が途切れた。喉に何かが詰まったように、彼は一度口を閉じ、視線を落とし、それからもう一度、私を見た。


「いや。また、来てもいいか。この店に。花を、買いに」


 言い直した彼の声は、僅かに掠れていた。鋼鉄の宰相と呼ばれる人が、こんなにも不器用に言葉を紡いでいる。それが、なぜかひどく胸に響いた。


 私は、戸惑いながら、頷いた。


「もちろんです。いつでも」


 彼の唇が、僅かに緩んだ。笑った、のだろうか。よく見えなかった。鋼鉄のような表情が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。


「感謝する」


 彼は踵を返した。去っていく背中を、私は見送った。心臓が早鳴りを止めない。頬が熱い。また来る、と。彼はそう言った。また、会える。


 なぜだろう。名前も知らない人なのに。初めて会ったはずなのに。


 でも、きっと、これでいいのだ。理由なんて、要らない。


 彼の姿が角を曲がって見えなくなる直前、風に乗って声が聞こえた。


「……また、君を選んでしまったな」


 私には、その意味が分からなかった。


 薄紫の花が揺れて、ほのかに、甘く、香った。

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