娘の視点
※この章には、性的搾取・家庭内での支配を示唆する描写があります。
直接的な暴力は描かれませんが、被害者の沈黙と心理的圧力を扱っています。
ウチは普通の家庭なのだろうか。
お母さんは弟を甘やかし、全肯定する。お父さんは無言で母に教育を押し付け、私はいないものとされる。こんなこと、誰に相談できるのかな。
学校と家事でヘトヘトになった私の憩いの時間は、動画やSNSで流れてくる他所の家のペット達だけだ。
「ふふ、かわいい。でもウチじゃ飼えないしなぁ」
主人の懐に潜り込んで、頭を擦り付ける猫。耳が折れても構わずゴロゴロ言いながら甘えている。
画面をスワイプすると、「絶対逃げて。毒親の特徴ランキング!」なるものが。
音量を上げて、布団を被る。
『第五位:あなたは〇〇だからと決めつける』
『第四位:褒めない・認めない・向き合わない』
あ、これ私だ。
『第三位:親の思い通りに行動しないと、激しい言葉を使って支配する』
うーん、どうかな。私のためかもしれないし。
『第二位:子供に理想を押し付ける』
翔太には押し付けてるかも。お父さんは知らないけど。
『第一位:老後に子供が自分のそばにいると信じて疑わない』
「高校を出たら、就職して楽させてね」
お母さんの言葉を思い出す。大きく頷く父の姿も。きっと二人とも私に介護してほしいのかも。
あれ? これって……もしかして、もしかして。
でも、教育の一環で就職して自活できるように中二の頃から三年間ずっと家事の手伝いを。えっと、それで翔太のために私は進学を諦めて、それから給料の一部を仕送りして。あれ? ええ?
私って、親のためにこれから一生、生きるの? 私の人生は? 親が死んでも、将来の旦那や義両親のために尽くすの? これ以上? なんで?
スワイプをしないから繰り返されるショート動画。ずっと、私に「今すぐ逃げて」と喋っている。
「今すぐ逃げて、か。今すぐは無理だよ。あと一年ちょいは親のもとで世話にならなきゃいけないし。でも――」
進路の相談を先生にするのは、構わないよね。事情は置いといて、早く家を出たいとだけ伝えれば、大丈夫。
私は動画を消して、誰も見ていない夜に眠りについた。
午前五時。
少し冷えたフローリングをパタパタとスリッパで歩く。
シンクにつけ置いた食器。昨日、食べ終えた晩御飯に使ったものだ。私は蛇口を上げてお湯を出す。スポンジに洗剤をつけ、泡立ててカチャカチャと洗い物を開始する。
「お母さんも手伝ってくれてもいいのにな」
最初は共用スペースの掃除、家族分の洗濯。最後は料理に後片付け。食材は買ってきてくれるが、それも私のものになりそう。家計簿のつけ方はこのところ毎日、見せては愚痴を聞かされている。やれ、今月の食費に首が回らないだとか、先月は医療費がかさんで大変だとか。
洗い終わると、お父さんと弟、私の分の弁当作りだ。はじめこそ詰めるだけ、私の分だけだったが、一人も二人も一緒だろうと私が男二人分の弁当を作る羽目になった。
「お母さんの手作り弁当、たまには食べたいなぁ」
でも私好みの味付けにできるのは利点だ。二人とも味の濃いもの、塩辛いものを好む。私は薄口でやさしい味付けが好き。
「ウチの卵焼きは甘めなんだよね。旅行に行ったときに出た朝食のしょっぱい卵焼き。あれはあれで美味しかったけど、みんな微妙な顔していたな」
今日のメインは肉巻きにしようかな。翔太が野菜食べないから、私が怒られちゃった。
「成長期なんだからバランスよく食べさせなさい。これはあなたのためでもあるのよ。将来、旦那さんが偏食家だったらどうするの? 協力して食べさせるのもいい嫁のつとめよ」
私のため? 翔太に嫌われたくないから押し付けているだけじゃないの?
豚ロースに人参、いんげん。醤油、みりん、上白糖を混ぜ合わせておく。豚肉に野菜を巻き付け、熱したフライパンに閉じ目を下にして置いて焼く。料理酒を入れて蓋をして蒸し焼きに。混ぜておいた調味料を入れて絡めたら、完成。
昨日、予約タイマーしておいた炊飯器からご飯を詰めて、冷ましておく。今の時期も、食中毒に注意が必要だとなにかで聞いた。
さて、朝食の準備だ。
「滝本さんから進路相談なんて、意外だわ」
高校二年生というのは普通の家庭ならめったに進路相談なんてないらしい。
「えっと、ここを卒業したら就職したくて。できるだけ遠くの県外のとこを探してて、そのために必要な資格とかってありますか?」
担任の佐藤先生は美人で若くて男子からも人気の先生だ。
佐藤先生は私のあかぎれまみれの手を見つめた後、しっかりとこちらを見据える。
「ご家庭でなにかあったのかな? よかったらお話、聞かせてくれる?」
真剣な声色に、私は堰を切ったかのように涙が流れた。
途切れ途切れに母や父の態度、弟の話を紡いでいく。
「下着を、私の下着を――っ。弟が部屋に勝手に入って、盗んでいてっ。でも、お母さんは普通のことって庇ってて。お父さんも黙ってて――っ」
嗚咽は堪えられなかった。聞き取りづらいだろうところも、噛み砕いて真摯に聞いてくれた。
「滝本菜月さん。よく話してくれたね。先生、滝本さんの手を見て、『ああ、苦労しているんだな』って思っていたの。今すぐってわけじゃないけど、高校を出てから、親から逃げれる手段はいくらでもあるからね。今はその準備期間だよ」
涙はとめどなくあふれる。
ああ、やっとあの家から出られるんだ。佐藤先生のお化粧の香りだけが、救いの印だったんだ。
「友達にもこんなこと、言えなくて。でも、家で引きこもっても居場所はないし、きっとお母さんの小言の的にされちゃうし……」
「滝本さんはこの数年でしなくていい色んな社会勉強を、してきたんだね。三者面談のときは先生がうまくやるから。信頼してくれていいからね」
私は夕焼けの中、崩れ落ち、保健室で休ませてもらうことにした。
『菜月:体調不良で、今、保健室。しばらく休んでから帰ります』
家族のグループチャットにメッセージを飛ばす。既読は一。きっと、翔太だろう。お母さんはパートだし、お父さんは仕事。義務とはいえ、弟に遅くなる旨を悟られるのは嫌だ。また下着を盗んでいくんだろうな。
既読、二。
『母:そう。なんで体調悪いって言わないの。言ってくれたらいいのに』
言って学校休んだら一切の家事は私がしなくちゃいけないのが目に見えている。
こないだ、先月の三十七度の熱の時もそうだったもんね。病院から帰ると、メモで「洗濯と掃除、よろしく。お母さんは友達とランチに行ってきます」って言ったきりパートに行ったから。主婦のガス抜き出来たわーなんて喜んでいたっけ。
既読、三。
父からの返事はなかった。私には興味がないんだろう。それとも仕事中なのか。
代わりに弟から「ドンマイ」のスタンプが。ああ、下着の管理もしなくちゃなぁ。
午後六時。
フラフラの体を引きずって、なんとか家までたどり着けた。
学校では少し希望を見たのに、外に出れば現実は変わらない。そんな矢先だった――。
途中、公園のベンチで休んでいたら二十代くらいの男性が声をかけてきた。
「君、朝日高校の子だよね。俺、そこの出身。よかったらお話しない? 今の子って何が流行ってんの?」
背筋が凍った。佐藤先生の「お話」ならこんな嫌悪感を抱かない。この人は「男の人」で、私に下心を持って話かけていた。先程から胸元や、太ももを見ている。次に顔を見て、知らない人は顔をしかめた。
「あー、やっぱいいや。ごめんね、急に。んじゃ」
この人的には私の顔面は「ナシ」だったんだろう。かわいい女子高生でなくてごめんなさい。毎日、ヘトヘトで目の下にクマがあって、頬も痩けている。手鏡でよく顔を観察すると、華の女子高生ならぬ風貌の子が映っていた。
「初のナンパなんて聞こえは良いけど、女側にメリットなんてないんだろうな……」
そんな出来事もあり、私は相当顔色が悪かったみたい。翔太は私の顔を見るなり、嫌悪感を隠さず言い放った。
「うげっ。姉ちゃん、いつにもましてブスだなぁ。それより、晩飯まだなの?」
「あら、ほんと。女は愛嬌って言うでしょ。そんな顔じゃ嫁の貰い手もないわよ」
もう、いい加減にしてくれ。
いつもの日課。いつもの軽口。今日は私の顔をイジる日だったみたい。
お父さんに翔太はこう言った。
「帰ってきた時、姉ちゃん超ブスでさぁ。やべーわ。同じ血筋なんて認めたくないよな」
お母さんが同調する。
「ほんと、翔太はお父さん似だからイケメンで良かったわぁ。体調が悪くてもあんな顔にはならないもの。ほんと、誰に似たのかしら」
お父さんは無言のままだ。
「あ、親戚の沙知子さんにそっくりかも! やっぱり、さちこって名前の人って幸薄い感じよねー」
「お母さん、あんまり人の悪口なんて言わないほうがいいよ。そういうのって自分に返ってくるって――」
私が言い切る前に翔太が遮る。
「地味ブスが何いってんの? 寸胴体型でブスなんだから結婚してくれる人も見つかんないかもな」
「…………」
歯ぎしりをし、目を閉じて我慢の時間を作る。
「大丈夫よ。お母さんがいい人連れて来るから。近所の三十代の人に目星は付けてあるから、心配しないくていいからね。ね、お姉ちゃん」
私は家族に「搾取」されている。佐藤先生もそう言っていた。
涙は、見せるな。弱さを見せてはならない。この人たちを見返してやるんだ。何もかも放り出して、私の人生を生きて良いんだ。
私はこの会話で見切りをつけた。
将来、ここを出て徐々に縁を断ち切る。
そう心に決めた、ターニングポイントだった。
あの家の明かりが灯る夜に、私はもう戻らない。




