母の視点
私は、幸せだ。
誰から見ても理想の家庭を築いているから。
「滝本さんとこは旦那さんとはうまくいってる? ウチなんて旦那があれこれ家事に口出しして、手は動かさないんだから」
「あはは、ウチも似たようなもんですよー。旦那も息子も食い意地張っちゃって。肉の日なんかは特にひどくてねー」
「まぁ、そうなの? 男の人ってなんであんなに食べるのかしらねー」
パートの休憩時間の何気ない会話。
私、滝本美沙は子供の学費の足しにと、数年前からここでお世話になっている。パート仲間で、同じような境遇の人とこうして愚痴を言って、ガス抜きもさせてもらっている。
「とは言っても、たくさん食べてくれるのは、いい残飯処理にもなって助かるんだけど」
そう言って笑い、同僚は早めに休憩を切り上げてしまった。
(私もそろそろ戻ろうかしら……)
私だけ休憩していてもつまらないもの。帰ったら、晩御飯の下ごしらえでも済ませちゃお。
「ただいまー」
午後六時。台所で洗い物をする菜月がうつむいていた。
「……帰ったわよ。家族なんだから、返事くらいしなさい」
「……ごめんなさい、おかえり」
朝食用の皿と、弁当を洗っていたらしい。翔太の分もついでに洗っている。そう、躾けたからだ。
ふと、三角コーナーに目をやると、弁当に添えていたであろうレタスが捨てられていた。
「翔太、肉ばかりじゃなく、野菜も食べないと大きくなれないわよ?」
「えー、マズイんだもん。あれ、いらねー」
中学生男子は反抗期まっただ中で、口答えばかりする。――だけど。
「……しかたないわね。ちょっと、明日からレタスは弁当に入れちゃダメだからね。お姉ちゃんなんだから、一回で分かってよね」
若い頃の旦那、浩司さんにますます似てきた愛息子の頼みだ。聞かないわけにはいかない。
それにしても、高校生にもなって長女・菜月は可愛げのない。ムスッとした仏頂面、私が話しかけてもへの字口。今からでも愛嬌を覚えさせないと、いけないのかもしれない。
長女と一緒に台所に立ち、今日の晩御飯の下ごしらえの準備をする。
「今日は唐揚げだからね。翔太は塩と醤油、どっちの味付けがいい?」
「え、やった。俺、醤油。にんにく、たっぷりね!」
「はいはい。んじゃ、お姉ちゃん、調味料集めときなさい」
「…………」
ほら、返事もろくにしない。まぁ、ちゃっちゃと動くのは良いことね。
冷たい鶏もも肉をまな板に乗せて、一口大に。余分な脂肪は取り除く。ポリ袋に二キログラムを均等に分けて、長女が用意した生姜チューブ、にんにくチューブ、塩、料理酒、ごま油、黒こしょうを各袋に入れ、揉む。
「量も多いんだから、あなたも手伝いなさい」
「……わかってるって」
長女と下味をなじませて、三十分ほど寝かせておく。
翔太が観ているテレビでは、ニュースをやっていた。なんとなく、画面を見ているとタイムリーな単語が。
『最近、食い尽くし系という言葉がネットを中心に話題を呼んでいます』
『晩御飯の唐揚げを、家族の分まで全部食べるとかなんとか。聞いたことはあります』
『えー、小皿に分けたらいいじゃないですか』
『それが、妻の分まで掻っ攫うちゃうそうですよ』
『ないわー。別れたらいいじゃないですかー』
翔太は他人事のようにスマホに夢中だ。見ているのは掲示板をまとめたブログで赤色の太文字で「女って人生イージーモードだよな」と書かれていた。
本当にこの子は。
私のスマホから、通知画面が飛び込む。見ると浩司さんからメッセージが。
『今から帰る』
今日は早めのご帰宅らしい。このところ残業続きだったから、晩御飯で元気を出してもらえたらいいな。
「今日はお父さん、早めに帰れるって。今から揚げちゃいましょう」
「マジで? やったー! 姉ちゃん、早くしろよなー」
「…………」
冷凍庫から凍らせたご飯をレンチンする。その間に、職場のスーパーで買っておいた惣菜を小鉢に盛り付けた。
「お姉ちゃん、早く揚げちゃって。あら、揚げたてがあるじゃない。どれ」
ひとつ、口の中に入れると舌がやけどしそうなくらいジューシーで、肉汁が溢れてきた。
「あ、ずりぃ。俺も俺も」
翔太も揚げたての唐揚げをつまみ食い。もう一個手を伸ばそうとしたので、手を叩いて阻止した。こうでもしないとメインのおかずがなくなってしまう。
翔太と私は笑いあい、ダイニングに着席した。
解凍したご飯を箸でほぐして、浩司さんの帰宅を待った。その間、長女は均等に分けた唐揚げを、机に並べていく。
「あなた、十個もいらないでしょ。お姉ちゃんなんだから、翔太に何個か分けるわよ」
「……なんで?」
急な口答え。こうして人を操ろうとするのが、この子の悪い癖だ。
「女の子はたくさん食べちゃダメなの。それにそうやってフキハラするのは、やめなさい」
聞きかじった言葉で、子供に歩み寄るのも子育てのコツ。子供の立場に立って、窘めるのもいい母親ってものね。
「……もう、いい」
長女は乱暴に唐揚げを三つ、翔太の皿に投げつけ、ドカッと椅子に腰掛ける。
私がなにか言おうとしたところで、浩司さんが帰って来た。
「……ただいまー。ん? 今日は唐揚げか」
いい匂いを嗅ぎつけ、ソファーにジャケットとカバンを放ってダイニングに着席した。
「いただきまーす!」
男二人がご飯を頬張り、唐揚げをもりもり食べる。口の中にご飯が見えたまま、唐揚げを運ぶもんだから、少し行儀が悪いが、いい食べっぷり。
それを見ながら、私も唐揚げに箸をつける。幸せって、食べることにあるのね。
「足りんなー。おい、母さんのちょっともらうな」
浩司さんがそう言って私の皿から二個さらっていく。まったく、うちの男どもは食い意地が張っているんだから。これが「食い尽くし系」ってやつなのかしら。
いつか、動画で見た内容と照らし合わせる。確か、腹に据えかねた妻が離婚して、ハッピーになっていたわね。でも、ウチじゃ現実的ではないわ。子供二人、学費がかかる年頃。離婚すれば学費、養育費、ここの住宅ローン、かかるお金が多すぎる。
我慢、我慢。二人の子供が独り立ちしてからの話ね。
「ごちそーさまでした」
結局、唐揚げは三つしか食べられなかった。残った惣菜でお腹を満たして、終わった。
「あ、今日は皿洗いはお母さんがするから。洗濯もの、畳んでおいてちょうだい」
長女にそう言うと、やはり仏頂面でコクリと頷くだけ。楽な家事を頼んだのに、この態度はまだまだ反抗期なのかしら。
蛇口を開けて、食器洗いスポンジを泡立てたところで、浩司さんがこちらを見ずに声を掛ける。
「ビール」
「先にお風呂に入っちゃってよ」
「せっかく早く帰ったんだ、先にビール。それに俺の金で買ったものだろうが」
まったく、仕方のない人ね。今日はプレミアムビールでもあげて、ご機嫌をとろう。
「お、発泡酒じゃないやつじゃん。母さん、機嫌がいいのか?」
その逆よ。あなたの機嫌をとっているの。
プシュッと缶を開け、プレミアムビールを喉に流して、唸る私の愛する旦那。手元にはスマホ。
リビングで翔太が携帯ゲームで遊んでいる。
長女は浩司さんのシャツにアイロンを当てている。
私は、幸せだ。




