【ネット小説大賞応募作】くらげが翔ぶ夜に
イツピキノ デンデンムシガ アリマシタ。
アル ヒ ソノ デンデンムシハ タイヘンナ コトニ キガ ツキマシタ。
「ワタシハ イママデ ウツカリシテ ヰタケレド、ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ」
コノ カナシミハ ドウ シタラ ヨイデセウ。
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ぴかぴかの朝日差し小鳥歌う、午前10時半。
あたしは黄色い子犬みたいなマスコットを、一生懸命フライパンで焼いていた。
「こーいうマスコットみたいなのってさ、普通に焼き殺せんのかね」
内側からバンバンと叩かれ弾け飛びそうになるガラスの蓋を、クソみたいな労働で鍛えられた全腕力を結集して抑え込みながら、あたしは隣の妹に問いかけた。
「しらない」
妹は無感情な暗い瞳をぼんやりとコンロに向けながら、かつての相棒が姉に焼き殺されつつあるところをただただ眺めている。助けに入ることも、あたしを止めることもせず。
12も年の離れた妹の湯田まりあは、魔法少女だった。「だった」というのは、今日限りであたしが辞めさせるからだ。今から確か……5年くらい前、突然世界各地に、怪物が現れ始めた。真っ黒で、カタツムリみたいな形をした奴らは、いろんな国の偉い人が持ち出したどんな兵器でも、かすり傷ひとつ付かなかった。そいつらは都市でも田舎でも人間が存在する場所ならところ構わず現れ、好き勝手に様々なものを破壊した。人。街。文化。日常。世界のあらゆるものが、奴らの爪牙に脅かされていた。そうして、数か月ほど奴らが暴れまわったあと……遅まきに現れたのが、宇宙でも貴重な知的生命体である人類を保護しにはるばる異星からやってきた使者だとかなんだとかいう、小さい子犬とか子猫みたいなマスコットたちだった。奴らは世界中の少女、正確に言えば奴らの基準に合格した、6歳から18歳までの処女に協力を求めた。「どうか自分達と契約して“魔法少女”になり、この星を救う手伝いをしてほしい」と。今思い出しても、イカれている。よくある女児アニメの第1話か、さもなくばガキかオタクの妄想だ。しかしそれは紛れもなく、どうしようもなく、現実以外の何物でもなかった。マスコット達は世界を荒らしまわる怪物が、ヒトの負の感情から湧き出すものだと言った。怒り。悲しみ。苦しみ。妬み。嫌悪。絶望。そういった激しい負の感情が、あのカタツムリみたいな怪物を生むのだ、と。そういうもので出来た怪物は、単純な物理攻撃では傷つかない。故にこそ、少女の持つ……何だっけ。なんか、「ピュアな心」?とか、「癒し」?とか「女の子の優しさ」?なんかが必要とかなんとか言っていた。細かいことはよく覚えてない。奴らの放送を聞きながらきっっっしょ、と思わず吐き捨てたことだけ覚えている。まあ、そんな気持ち悪いシステムの諸々は、今回の話に関係ないので割愛する。いまあたしたちを外から見ている神とか悪魔とかそんな感じの誰かがいるなら、とにかくそんな怪物たちと戦う“魔法少女”なるクソッタレな役目に、あたしの妹が選ばれたことだけ覚えといてくれればオーケーだ。ちなみに、あたしは選ばれなかった。当時既に21くらいだったからまあ当然っちゃ当然か。でも仮にあたしが妹と同じ年でも、なんやかんやで弾かれた気がしている。彼氏とか、皆無だったんだけどね。そういう問題でもないか。なんかもう、丁度いろいろ繊細な中学のころに、自分が母さんが高校生の時に生んだ子、両親の若い時のノリと勢いで出来たガキであること、おまけにあたしの父親は子供ができるやさっさと母さんを捨てて行方を眩ませたクズ野郎だということを気にしまくって、まともそうな再婚相手との間にできた異父妹まりあを妬み、どんどん性格がスれにスれていった訳だし。そのせいで早く男見つけろだの結婚しろだのじゃなきゃいい企業に早く就職しろだのっていう、多分どこのご家庭でもよくあるような話題で親と大喧嘩して親父を……まりあの親父をブン殴り、家を飛び出して、大学も中退でその辺の適当なバイトを掛け持ちしまくって、家賃クソ安オンボロ事故物件で暮らしてく羽目になったんだからね。我ながらなかなかにアホだと思う。存分に笑ってくれ兄弟。
「お姉ちゃん、ポポルン暴れなくなったね」
妹の声で、はっと我に返る。彼女の言う通り、フライパンはいつのまにかしんと静まり帰っていた。恐る恐る蓋を開けてみれば、そこにはすっかり何もいなくなっている。ただ不気味な蛍光グリーンのスライムみたいな液体だけが、ボロいフライパンの真ん中にこびりついていた。妹がポポルンと呼んだあのマスコットは、影も形も無くなっている。
「うわ、逃げられたんかな……それとも何、あいつら死んだらこうなんの?」
「知らない。でもいなくなったんだったら、いいや」
妹は相変わらず死んだ魚みたいな目のまま、スウェット姿でこちらを見つめている。全部がどうでもいいって顔のまま、あたしを黙って見上げていた。
昔は、こんなんじゃなかった。
あたしが知ってる妹は元気で、キラキラで、優しくて。苺と子犬が好きなかわいい女の子だった。あたしはそんなまりあが妬ましかったけど、年もずいぶん離れていたし、何より「良い子」という概念を人型に固めたような小さな子をイジめるのは、なんだか嫌だった。それをしたら最後、自分が死ぬほど醜く汚い、どうしようもない人間になってしまう気がして。だから距離を置き、最低限の気遣いだけをして、積極的には関わらなかった。おかげで姉妹仲は親密とは言えないまでも、まあ険悪ではないんじゃないか程度に収まっていた、はずだ。
どこにでもいる普通の女の子、だけどあたしの唯一の妹。妹の方があたしより親に愛されているから、まりあなんて黙ってても幸せになれるんだからと言い訳して、6年前実家にひとり置き去りにしてしまった、かわいそうな妹。彼女の現状は、ほとんど何にも知らなかった。あたしがハタチで家を飛び出したとき、当時8歳の妹は携帯を持たされていなかったし、あたしはあたしで意地を張り家との連絡を一切絶っていた。唯一知っているのは、彼女が魔法少女になったということだけ。なぜって、魔法少女の活躍はまさにヒーローショーよろしく、毎日テレビで放映されているから。報道されるのは魔法少女の活躍、勝利、その強さに美しさばかり。アイドルみたいに、特定の魔法少女を信奉するファンまでいる始末。5年前のあたしはバイトの休憩時間にカップラーメンを啜りながら眺めたテレビに空を飛びながら怪物を退治する妹が映っているのを見て、鼻と口から思い切り麺を噴き出して、バイトリーダーにきったねえと罵声を飛ばされたんだ。嫌になるほど、よく覚えている。
妹は、魔法少女としてはかなり優秀な方だったらしい。黄色い子犬みたいなマスコットの「ポポルン」と契約して、胸に咲かせた黄色い花で変身し、オレンジと黄色の明るいガーベラみたいな衣装を身に纏う魔法少女「がーべら☆まりあ」として(いやまんますぎる、もうちょいヒネれよ)小学4年生から活躍していた。討伐数もトップクラス、とは言わないまでもかなり多い方で、本当にたくさんの人を救っていたらしい。あたしとは比べ物にならないほど強くて優しくてよくできた、あたしの妹まりあ。そんな彼女が何の変哲もない昨日の真夜中23時、あたしの住むボロアパートの扉の前にちょこんと膝小僧を抱えて座りこみ、あたしの帰りを待っているなんて誰が想像できただろう。そうして開口一番、あたしの顔をまっすぐ見ながらこう言うなんて。
「私、これから死ぬんだ。その前に、お姉ちゃんの顔を久しぶりに見とこうと思って」
妹は実家の近くにある中学校の制服に身を包み、真っ黒な目をして笑う。まだ着るには少し早い、長袖の黒いセーラー服が何かとてつもなく不吉な気配を放っていた。
あたしは慌てて、とにかくまりあを部屋の中へ引っ張り込む。当たり前だ、突然肉親に自殺を予告されれば、たぶん誰だって慌てる。それがてっきり上手くやってるもんだと思い込んでいた妹なら、なおさら。あたしは臭いスニーカーを脱ぎ捨て、玄関の電気をつけて明るくし、ついでに風呂も沸かして、それから妹の肩をしっかりと掴んで視線を合わせた。終わりかけとは言えまだ夏だというのに、彼女の肩はひどく冷えきっていた。
「……なんで?」
開口一番、喉から絞り出せたのはそれだけだった。
「少し前、この近くに怪物が出た時に、お姉ちゃんがベランダでお酒飲んでるのが見えたから。帰りにこっそり住所確認しておいたの。ごめんね」
「ああ、そういや出たねえクソ職場の近くに出たくせに潰してくれなかった奴……って違う違う違う、そっちじゃなくて」
聞きたいのはなんであたしの現住所を知ってるかじゃない。どうして、まりあが死ぬなんて言い出したのかだ。可愛くて強くて賢くて、キラキラしていたはずのまりあ。姉よりずっと優秀なはずのあたしの妹。あたしより親に愛されて、期待されて、いつか怪物がいなくなれば幸せになれるはずのまりあ。それがどうして、あたしより先に、自分から死ぬなんて言い出すんだ。あたしの必死の形相がおかしかったのか何なのか、まりあはくすりと少しだけ笑った。笑ったまま、ひどく簡潔にこう答える。
「疲れちゃったの。魔法少女にも、人生にも」
あたしはうまく二の句が継げず、ただ彼女の冷たい肩を掴んでいるしかできない。
薄っぺらい、弛緩した、生気を感じない肩。発泡スチロールでも握ってるみたい。
「と……とりあえずさ、風呂入って茶でも飲まない?」
ひきつった笑みを浮かべて、あたしはとりあえずの提案をする。こんな薄暗くて小汚い玄関でする話に、奇跡も魔法もありゃしない。彼女を引き留めておくには、ちょっと力不足だ。あたしはまりあの背を押して、無理矢理にバスルームへ連れ込んだ。 まりあがしぶしぶシャワーを浴びている間に、あたしはせっせか晩飯を用意する。レンチンした廃棄寸前コンビニ弁当を、紙皿に盛りつけるだけだけどね。悪いことに、今冷蔵庫の中にはなんとストロングゼロしか入ってないときた。食材と呼べそうなものなんてもやしの一袋すら存在しない。……我ながら悲しい冷蔵庫だな。少し前は豆腐と納豆と卵が辛うじてあったんだけど。とはいえまだ14歳の妹にストゼロを飲ます訳にもいかないしと、脱ぎ捨てた服の下敷きになった貰い物の紅茶のティーバッグを引っ張り出してガラスポットへ放り込み、電気ケトルに水を入れて沸かす。待つこと数分、まりあがバスルームからあたしのスウェットを着て現れるタイミングで、あたしは久々に温かいお茶を淹れていた。
「……うん、じゃあとりあえず、その“疲れちゃった”の内容だけ聞かせてもらっていい?」
まりあのほとんどびちょびちょのままだった髪をドライヤーで乾かしながら、あたしはまりあに問いかけてみる。親から貰った命を粗末にするな、なんてそんな偉そうで薄っぺらな説教を垂れるつもりもないけど、理由くらい知りたいというのが人情だろう。それに、普通の疲れなら休めば取れる。周りが休ませないってんなら、あたしがそいつらぶん殴ってでもまりあを休ませればいい。
「……なんかね、嫌になっちゃったの。怪物を倒すのも、普通に学校生活を送るのも、すっごく疲れるのに。皆それを当たり前みたいに言って、あたしにもっと頑張らなきゃダメだよって言い続けるの」
まりあはぼんやりとした目をしながら、あたしが出したコンビニ弁当のハンバーグを箸でふたつに割った。
「魔法少女はね、いい子でいなくちゃいけないんだって。学校でイジメてくる子も、ヘンな目で見てくるおじさんも、魔法少女の衣装がやらしいって文句言ってくるおばさんも、ありがとうって言ってくれない人たちも、みんな助けないといけないんだって」
なんだそりゃクソだな。あたしだったらそんなヤツ、秒で頭ひっつかんで怪物の口に叩き込んでいる。なるほど、あたしに魔法少女の素質はない。
「魔法少女は勇敢で、優しくて、みんなを助けるヒーローなの。そのうえで、お勉強もきちんとしなくちゃいけないの。みんな平等に救って、そのうえでちゃんと学生もやるのが“あたりまえ”なの。“ふつう”なの。みんなやってることだよって、ポポルンは言ってた。それが、“大人の対応”ってやつなんだって」
まりあはハンバーグを口に運び、噛み砕く。まずいともうまいとも言わない。
「ふしぎだよね。魔法“少女”なんて呼んで、純粋無垢な女の子でいることを求めるくせに、“大人の対応”なんてものもしなくちゃいけない。でも、みんな当たり前みたいに、何でもない事みたいに、それをやってる。まるで、それができない私が悪いみたいに……ううん、私が悪いの。私がちゃんと、できなかったから。だからね、お姉ちゃん」
あたしはドライヤーのスイッチを切る。あたしと妹しかいない1LDKに、妹の沈んだ声は厳かに、そしてどうしようもなく空虚に響いた。
「私は私のわがままで、死ぬの。わがままで、全てから逃げるの。私はふつうをちゃんとできない出来損ないの醜い自分が辛いから、死にます」
それだけ言って、妹は平然と食事を再開する。納得いかないあたしを置いてけぼりにして。
いや、そりゃ納得できないでしょうよ。誰もがハイそれは仕方ないですね死んで良いですよ、なんて言う理由なんてあるのか分かんないけど、少なくともまりあが語った理由がそれに当たらないことは確かだった。まりあが出来損ないなら、あたしは一体何だ? 家を飛び出したはいいものの、親を見返すほどの成功にアテがある訳でもなく、東京まで出ていく金も無く、ノープランのまま車が無きゃ微妙に不便、みたいなギリ郊外に腰を据え、とりあえず貯金はたいて何とか中古車と運転免許を揃え、バイトを掛け持ちしまくって細々とみじめに暮らしているあたしは何だって言うんだ? あたしはなんとか説き伏せようとして、口を開く。けれど、いい感じの言葉なんて全く出てこない。どんなに納得できない理由でも、6年も妹をほっといたくせして「そんなことで死ぬなんて」とか偉そうに言えるわけなかった。妹はその、“そんなこと”でまさに死ぬほど苦しんでいるわけだし。いろはのいの字も分かってない、当事者でもないあたしが、外から簡単に決めつけて良いわけない。こうすればいいとかああすればいいとか、賢いまりあはあたしが思いつくくらいのこと、とっくに検討しきったはずなのだ。
「……とりあえずさ。もう遅いし、いったん寝てから考えよ。起きてまだ死にたかったら、あたしもなんか考えっからさ」
だからとりあえず保留にする。翌朝には、気が変わってくれることを祈りながら。
まりあはどこか失望したような目であたしを見て、それから黙って頷いた。
……というのが、昨夜の出来事。いつも通り朝5時に起きたあたしは各バイト先にカゼ引いたので休むという連絡をし(その内のほとんどで店長やバイトリーダーからの罵倒が返ってきたが無視した)まりあがまだ眠っている間に「まりあちゃん、迎えに来たポポ~☆」とかふざけたことを言いながらのこのこやってきたポポルンをがっしと捕まえて、とりあえずフライパンで焼いてみたというのはまあ、どうでもいいから省略しよう。見りゃ分かるだろうし。ポポルンをたぶん焼き殺したフライパンは気分悪いし緑のベタベタが取れないので捨てることにして、あたし達はコンビニに向かった。何も食べたくないと言うまりあをなだめすかして肉まんと菓子パンを買い、車の中でそいつを食いつつ、助手席で肉まんをちみちみと食むまりあに声をかけた。
「それでどう、まだ死にたい?」
「うん、死にたい」
10時間ほどたっぷり寝たはずのまりあは、迷いもなく即答した。
そう、という返事の声が掠れる。呻き声に近いものがあたしの口からこぼれ出て、そのままチョコクリームの付いた手で頭をがしがしやる。昨夜もそうだったように、あたしは自殺志願者を引き留められるような言葉を困ったことに一切持っちゃいない。あたしは他人にも自分にもクソ甘で、お説教なんぞできる身分でもないのだ。そのくせじゃあ死ぬしかないねバイバイなんて突き放す冷酷さもない。中途半端。宙ぶらりん。どうしていいか、わかんない。
「……じゃあ、その前に、ちょっとお姉ちゃんとデートしない?」
だからあたしが絞り出せたのは、こんなどうしようもない妥協案だけだった。
「デートって、どこ行くの?」
「水族館と海。はは、我ながらすんげえベタだな~……」
音質の悪いラジオが流す「地獄でなぜ悪い」を右から左に聞き流しながら、ボロッボロの中古の軽自動車をあたしは走らせていた。助手席にはもちろん、シートベルトをちゃんと締めてシートに腰かけるまりあ。カーナビには近くの水族館。夢の国とか連れてってあげられればよかったんだけどね。流石にそこまでの金はなかった。デートと言うにはきまずい沈黙が流れる車内に、一昔前の流行曲を流すラジオの音声だけが淡々と流れていた。
あたしが選んだのは、情けなくも「引き伸ばし」だった。今日一日なんとか楽しい思いをしてもらって、あわよくば死にたい気持ちを忘れてくれないものかという消極的な作戦。あたし程度では、どうしたってこんな姑息な手段しか思いつかない。諸葛孔明とかお呼びしたい気分だよもう。どうしろってんだ。助けてくれ。
そんな感じで……しばらく会話は無かったわけだけれど、ラジオが歌番組からなんか文学を紹介する番組みたいなのに切り替わり、そいつがよりにもよって『でんでんむしのかなしみ』なんて朗読しはじめやがったので、あたしは舌打ちして即チャンネルを切り替えた。ラジオからは坊さんみたいな声のねむたい朗読ではなく、よく知らん芸人のあんまり面白くないネタが流れる。
「なんで変えちゃうの?」
むっつりと黙り込んでいた妹が、そこで初めてやっと口を開いた。
「あたし、この話嫌いだから」
彼女が反応したことに少なからず驚きながら、あたしは返事をする。
「どうして」
問い詰める彼女の声には、ほんのわずかに非難の響きが籠っていて、あたしは意外に思いつつ応戦する。
「だってなんか、キモイじゃん。なんでみんな悲しいからって、自分の悲しみを抱えて生きなきゃいけないことになんだよ」
率直な感想を口にする。中学の頃国語の授業でこれをやった時、あたしはこの話に一切納得できなかった。これがさも人間のお手本です、みたいな顔の教師にもムカついたし。
「でも、こうやって生きなきゃだめなんだよ、人間って」
もごもごと口の中で呟いたまま、まりあはそれきりうつむいて、黙り込んでしまった。
いや何だったんだよ。あたしは呆れた態度を隠す気も無く、黙って車を走らせる。
そんな小さな喧嘩が後を引いて、結局水族館は微妙な雰囲気で過ごすことになってしまった。適当に順路に沿って展示生物を見て回り、適当に昼食を取り、お土産コーナーでは何も買わず、無意味にもう一巡して、無感動に外に出る。そこそこ大きめの水族館だったから出る時にはすっかり夕方になっていたけれど、特にまりあを喜ばせられた気はしなかった。グッバイあたしの4000円。約半月分の食費。ストゼロ18本分。
……ああ、でも。クラゲの展示は、ものすごく綺麗だった。それだけは、よく覚えてる。水族館の順路の丁度半分くらいの所に、クラゲ専用の展示コーナーがあった。クラゲと光のアートの融合がうんちゃらとか言うお題目と共に、大小さまざまなクラゲが展示されていた。中でも目を惹いたのは、「銀河トンネル」と名付けられた巨大水槽。いろんなクラゲがしこたま入れられたそのバカデカい水槽にアーチ状の通路が設けてあって、そこを通る客はまるでクラゲの群れの中を通ってるような気分になれる、という訳だ。全体的に暗い水族館の中で、月のようなぼんやりした白色にライトアップされた水槽でふわふわと漂う大小様々なクラゲたちは、なるほど満点の星空、あるいは海の中に降る雪、それから結婚式とかで祝福と共に振りまかれる花びらや紙吹雪のよう。青と白と黒だけが作り出すシンプルなコントラストは、見る人間たちの視界に説明不要の美を直接降り注がせてくる。他の水槽の前でぺちゃくちゃとお喋りしていた他の客も、「銀河トンネル」を見上げた途端わぁっと歓声を上げたきり、その美に圧倒されて黙りこくる。アーチの下で聞こえるのは、ただカシャッカシャッというスマホのシャッター音だけ。だらだらと展示を見て回っていたあたしたちもそこでは足を止めて、邪魔にならなさそうな端っこで二人揃って圧巻の光景を眺めていた。そのただただ美しい生物は、あたしのようながさつな人間でも幻想的な世界に引っ張り込んでくるような力があった。まりあも一心にクラゲの空に見とれて、暗い虚ろな瞳をこの時ばかりはほんのわずかに輝かせていた。……と、思う。クラゲ水槽の美しさに目を奪われながら、感想様々に自分たちを見上げるアホ面の人間たちに一切関心を払わず、何考えてんのか一切分からない、脳みそがあるのかも分からない体で、気ままにふわふわ漂い続けるクラゲたちはひどく気楽で幸福そうな生物に見えて、人間もこんな風に生きられれば楽だったのになあ、とぼんやり思ったりもした。中でもベニクラゲというかわいいやつは、何でもテロメア?ってやつを繰り返し再生して若返り続け、人類の夢である不老不死を叶えているらしい。……親切な説明パネル先生曰く。しかしこのクラゲはそんなに生きて、何の楽しみもないであろう水槽の中や暗い深海で一体何がしたいってんだ。それとも、生きる意味とか人生の価値なんてアホなこと考えて悩んで病んでるのは人間だけなのか。生き物なんて皆なんとなくで生きていて、ただ生きるためだけにいろいろ苦労をして生きて、なんで生きなきゃいけないのかなんて疑問を持ちもしないのか正解なんじゃないか。そんなことを取り留めもなく、ただ浮き沈みを繰り返すクラゲを目で追いながら考えたのを、よく覚えている。残念ながらここで印象に残ったのは、それだけだった。「また来てくださいね」と笑顔であたしたちを見送る飼育員らしきお姉さんに、多分もう当分来ないよと心の中で返しながら、あたしたちは水族館を後にした。
予定通り、海へ車を走らせる。やっぱりあたしたちの間に会話は無く、アニメのオープニングらしい曲が「幸せになりたい、楽して生きていたい」と歌うのを、何の感情もなく聞いていた。窓の外では橙色が空の端に失せ、代わりに夜闇が天を支配してゆく。こういうゲーム、テレビでやってたなあ。ゲームなんてもう随分やってないけど。
特に波乱もドラマも無く、数十分車を走らせればつつがなく目的の海に到着する。海ってやつは、何かと死に結びつきやすい。映画でも漫画でも海に行きたがる奴は大体死ぬし、死に近い奴も海に行きたがる。もちろん、あたしたちもご多分に漏れず。でも入水心中なんてしたかないので、コンビニに寄ってトイレ休憩するついでにジュースと煙草と、バックルームに片づけられる寸前の線香花火を買った。溺れて苦しみながら死ぬのはまりあだって嫌だろう。自殺志願者だって死に方くらい選ぶ権利はある。
8月の末も末という時季外れで日も落ちてきた海には、ありがたいことに誰もいなかった。これなら心置きなく周りも気にせず花火で遊び倒すことができる。線香花火ごときで、そこまでハシャぐつもりはないけれど。100円ライターで、無駄にカラフルなくせにひょろりとして頼りない紐の先っぽに火をつける。やさしい橙色の玉からジリジリと音がして、枝みたいな形の火花が飛び散る。たったそれだけ。何が楽しいのと聞かれると返答に困る。でも、やっぱりそれは綺麗だった。火の花、と書くだけあって、それは小さくても目を惹く輝きをもって薄暗がりの中に咲いていた。ああ、そういえば。小さい頃は夏に手持ち花火をやるのが大好きで、よく母さんに花火の詰め合わせをねだってたっけ。暗くなるのをそわそわと待って、それから母さんと二人で玄関先に水の入ったバケツと仏壇用のチャッカマンを引っ張り出し、きゃあきゃあとはしゃぎながら夢中になって花火をやっていた。そうして、そんな楽しい時間の締めくくりは、必ず線香花火と決まっていた。ぱちぱちと散る小さな光を、いつ消えるかいつ終わるかいつまで持つかとはらはらして見守り、落ちてしまえばああ~っと声を上げて残念がる。どっちが長持ちするかの競争もしたっけな。それも、中学に入ってからすっかり忘れてしまっていたけれど。……変な感傷が、あたしの胸にこみあげてくる。それが気持ち悪くて、今更幸せだったころの古い思い出を懐かしむのが嫌で、あたしはレジ袋から弓矢が描かれた白い煙草の箱を取り出し、一本咥えて火をつけた。苦くて重い、いつもの安煙草。曇り続きの日常の香り。大人になってからの記憶としか結びつかない臭いがして、ひどく落ち着く。
「……ね~え、どうしても死ななきゃだめ?」
煙草の煙を存分に肺に満たしながら、あたしは妹に聞いた。
「だめ。私はもう、疲れたの」
妹はぱちぱち音を立てる線香花火を無感動に見つめながら、やはり即答する。だめかー、となるべく軽い調子で言って、あたしはうつむいた。
「お姉ちゃんは馬鹿だからさ、なんかためになること、何も言えないし……死にたくなくなるようなことだって、何にもできなかったけど……あんたが、あたしより先に死んだら悲しいよ。それじゃだめなの、生きてくれる理由になんない?」
ああ、妹にこんなベタな駄々をこねるなんて、なんというダメな姉。けれど、あたしはもうこう言うしかなかった。これで折れてくれなければ詰みだった。だって……。
「お姉ちゃんはさ、優しいね。私を傷つけたくないし、高圧的なことも言いたくないんだ。
それとも、怖いのかな。自分が、思ってもないことを言う偽善者になるのが」
吐き捨てられたその言葉に、ため息をつく。やっぱり、まりあは頭がいい。出来損ないなんてとんでもない。あたしの考えてることを、ほとんどぴたりと言い当てやがった。
だってあたしは絶対に、「生きていればいいことあるよ」なんて言えなかった。あたし自身26年生きてきて、勇気を出して親に逆らって、ひとりで生きていくために自分なりにいろいろ頑張ってみたその結果が、毎日バイトを掛け持ちして夜中にクタクタで帰ってきて子供のころ好きだったゲームもアニメも遠ざかり趣味もなく何の楽しみもなくただ酒を飲んで寝るだけの、クソつまんない人生に辿り着いてしまった女なのだから。あたしはただ、死んでないだけ。自分から死ぬ気力も無かっただけ。幸せなんか、酒飲んでるときにしか感じてない。なのに生きてるだけで丸儲けとか、過去のなんか偉い人のご高説をおうむ返しする気にはなれなかった。なんか、気持ち悪いじゃん。そういうの。全く信じてない宗教の聖典をありがたがるみたいでさ。
「私はね、お姉ちゃんみたいに優しくも、強くもないよ。本当は学校でイジメてくる子も、ヘンな目で見てくるおじさんも、魔法少女の衣装にやらしいって文句言ってくるおばさんも、ありがとうって言ってくれない人たちも、みんな怪物に食べられて死んじゃえばいいと思ってる。遅れて付いていけない勉強は辛いし、何にも知らないくせに全部わかったような顔で立派な大人になることを期待してくるお父さんもお母さんも先生たちも嫌い。6年も私をひとりで放っておいた、お姉ちゃんも」
まりあの線香花火が、ぽとりと落ちる。彼女は新しいやつに火をつけることもせず、ただの先が焼け焦げたカラフルな紐を手に持ったままだった。
「でも、私はそれを全部隠したの。嘘をついて、皆に愛されるいい子であろうとしたの。それが正しいことだと思うし、正しくなくなることで皆に嫌な顔をされるのが、怖かったから」
あたしは彼女の話を、黙って聞いていた。最後まで聞くべきだと思った。少しでも遮ってしまえば、彼女はもう二度と本心を教えてくれない気がしたから。
「……でもそうするほどに、真っ黒な本当の気持ちは膨れ上がっていくの。そんなことを考える私自身も、嫌なの。魔法少女として戦うたび、将来のために学校に通うたび、こんなことに何の価値があるんだろうって考えて……そのうち、私は魔法が、使えなくなった」
そう言ってまりあは突然立ち上がり、セーラー服の上を脱ぎ捨てた。砂浜に黒いセーラー服が転がり、彼女の青白い背が幽霊のように薄闇の中にぼうっと浮かぶ。揺れる細い腕に、わずかに赤い線が見えた気がした。
「ちょ、ちょっと急に何してんの。人きたらどうすんの」
ぽろっと口から煙草が滑り落ちた。慌てて線香花火を放り捨て、まりあのセーラー服を拾いあげるあたしに、まりあは振り向いてただひとことこう言った。
「見て、お姉ちゃん」
逆らえない声だった。首根っこを掴まれるような、重く硬い声。うずくまってセーラー服の砂を払っていたあたしは否応なく彼女を見上げ、そして思わず口を噤んでしまう。上半身下着だけになった彼女の、左胸に咲いているそれが、あまりにとんでもない色をしていたから。
「これはね。私の心を具現化した花だって、魔法少女になるときに言われた。咲いた時は……もっと綺麗な、黄色いガーベラだったよ。でも、今はこんなになっちゃった。ポポルンが言うにはね、次に魔法を使ったら……私は、あの怪物と一緒になっちゃうんだって」
彼女の指が、胸に咲いた花に触れる。どす黒い、闇そのものみたいな色をした花に。
まりあ曰く、魔法少女は負の感情を抱いても怪物を生むことはない。なぜなら魔法の源である心を具現化した不思議な花が魔法少女になると同時に心臓に根を張って咲き、戦いや日常生活で生まれる負の感情を、自然に吸収・分解してくれるから。けれど、花が分解するスピードを上回る速度で魔法少女が負の感情を抱いた場合、花は少しずつ濁り……最終的には、その濁りを魔法少女自身の肉体に跳ね返してしまうのだという。なんだその雑草。駆除しろ駆除。焼き払っちまえ。
「ポポルンもパパもママも、私を早く魔法少女として復帰させたがってた。病院でお薬も貰ったし、カウンセリングも受けさせてくれた。でも、花は全然戻らない。それなのに、怪物はどんどん出てくる。他の子たちが頑張って退治して私が抜けた穴を埋めてるけど、全然追いついてなくて、すっごく大変みたいで、やられちゃった子もいるって……でも、もし今、私の目の前に、怪物が現れたら……私はきっと、とっさに自分の身を護るために魔法を使ってしまう。そうして、怪物になってしまう。皆の負担を、余計に増やしてしまう。私は、それが怖いの」
まりあは立ち上がり、浜辺の方へと歩いていく。ちょうど、陽が水平線の向こうへと完全に沈みきるところだった。
「それに……魔法を使わなくたって、花がずっと濁りを抑えておいてくれる保証もないんだって、ポポルンとその仲間が話してるの、聞いちゃったの。だから……その前に、私は自分から死ぬ。いつか怪物になって、みんなに迷惑かけないために死ぬ。私は負の感情を、私の悲しみを堪えられなかった。何でこんな世界を守ってるのか、分かんなくなっちゃった。これ以上悲しみを堪えて、生きていたくない。生きるのは怖くて、無意味で、辛くて、苦しいよ。だから、死ぬの」
まりあの声は落ち着いていた。いや、落ち着いているというよりも、死んでいた。凪いでいた。どうしようもなく、虚無だった。
「ねえ。どうして魔法少女が死んだニュースって出ないか、知ってる……」
ふと、まりあは脈絡なくそう言った。あたしは黙って首を振る。そういえば、アイドルばりに担ぎ上げられているくせして、そんな暗いニュースを一回も見たことがない気がする。今まで負けたことが無いんだと思っていたけれど、「やられちゃった子」という言葉を聞く限り、どうもそうではないらしい。
「魔法少女は死んだらみんなの記憶から……ううん、世界から全ての痕跡ごと消えるんだって、ポポルンが言ってた。いつ怪物との戦いで死ぬか分からないから、遺された家族や友人が、傷つかないように……だからお姉ちゃんは、今日のこと全部、忘れるよ」
だから気にしないで、と彼女は眉を下げて微笑む。それが無性に、腹が立った。じゃあどうして、わざわざ最期に会いに来たんだ。6年も妹を放っておいた、薄情な姉に。
「……なんなんだよ。何が“私のわがまま”だよ。迷惑かけないために死んであげく記憶から消える、なんて遠慮の塊すぎるじゃん」
あたしは砂の上でまだ燻っていた煙草と線香花火を足で踏み消し、砂浜をずんずん歩いて妹の隣に立ち、彼女の冷たい肩を抱く。
「どうせ死ぬなら、最期にとびきりの迷惑かけて死んでやろうぜ、あんたはいっぱい救ったしいっぱい我慢してきたんだから、それくらいやったってバチ当たんないよ……」
自分でも何を言っているか、分からなかった。ただ脳を介さず、脊髄だけで喋っていた。有り体に言えば、混乱している。それでも、嘘をついている感じはしなかった。誰にでも悲しみがあるのだと言うのなら、魔法少女にだって悲しみはある。それを圧し潰してまで生きないといけない世界なら、いっそ滅んでしまえばいい。
「闇堕ち、上等じゃん。もう全部、めちゃくちゃにしちゃおうよ。あんたが死にたがるような、クソみたいな世界なんてさ」
拡大自殺に独りで死ねよと罵倒を投げるのも人間なら、痛快な復讐劇を好むのも人間だ。
あたしは一体、妹にどっちをそそのかしているんだろう? 何にしろ、もはやあたしは妹を生かすことを諦めていた。思い返せば、最初から諦めていたのかもしれない。あたし自身、世界なんて人生なんて人間なんてクソだと思っているから。あたしは最初から、妹を生かすことなどできなかった。ネギが大嫌いな奴が、おいしいネギ料理のプレゼンなんてできないように。
「あたしも一緒に、逝くからさ」
6年も放置した妹と心中してもいいかと思えるほど、あたしはこの世界を愛しちゃいなかった。積極的に死にたいとも思っていなかったけど、何としてでも生きたいと思えるほどの熱もなかった。それだけだ。あーハイハイ分かってる分かってる。もっと生きてみればとか、小娘が何を人生分かったようなことをとか、止まない雨は無いとか言うんだろ。ああ、それはもう、聞き飽きたよ。でもあたしは傘もろくに手に入らないこの世界で、今振ってる雨がまさに死ぬほどイヤだって、はっきりと自覚してしまった。世界が醜いばかりじゃないことも、美しい景色も優しい人もいるって、知っている。クラゲの星空も線香花火も、泥の中に咲く蓮のように美しかった。けれど、泥は泥。世界はどこまで行っても汚い泥で、優しいものや美しいものはその慰めとしてあるに過ぎないと気付いてしまった。まりあも、きっとそうなんだろう。まりあにも、魔法少女になって守りたいものはあったのかもしれない。でも今はもう、守るために戦い続けるよりも死んで楽になる方を選んだ。私たちはもう、無視できなくなったんだ。心の奥底に封じ込めていた、この絶望に。
「お姉ちゃんは、自分を嫌いな妹と一緒に死ねるの……」
「死ねるよ。あたしの人生に、生きるほどの価値はないから」
あたしの人生がクソなのは誰のせいでもない。全部あたしが悪い。だからこそ、チリ紙ほどの価値もない。ポイと放っても、何の心も痛まない。
「……お姉ちゃんは、やっぱり優しいなあ」
妹は少し泣きそうな顔で、あたしを見上げた。こんなクソみたいな事しか言えない姉を優しいなんて、今までろくな大人に会ってこなかったんだろうな。可哀想に。
ああ、一緒に家を出れば、まりあをひとりにしなければ、あたしたちはきっとこんなろくでもないデートをすることも無かったのかもしれない。あるいは世界がもっと、優しくシンプルで柔らかいものだったなら。
「ありがとう、お姉ちゃん。皆の為になんて、ならなくていいんだね」
まりあは笑う。ガーベラの名にふさわしい、明るく眩しい笑顔を浮かべる。
そうして彼女は胸に咲いた花を力強く握り、ごく短い世界を呪う魔法を唱えた。
とびきり我儘な、最期の魔法を。
「みんなみんな、死んじゃえばいい。私の為だけに、みんな、死んでよ」
不吉な風が唸り、まりあを取り巻く。さあさあ、目かっぴらいてよおく見ておけ人間どもよ。これが、お前らが無視し続けた悲しみの爆発。お前らが押し付け続けた理想の崩壊。最悪の物語の、ほんの序章。世界の破滅が、産声を上げただけの話。妹は羽ばたく。黒く染まった禍々しい衣装に身を包み、カタツムリの殻と、堕ちた天使の翼を背に備え。ふわりと広がった濃い紫のスカートとリボンのような触手は、あの水族館のクラゲみたいで、ひどくきれいだった。まりあは歌う、世界を壊す絶望を。彼女の放った呪いの魔法が、真っ先に一番近くにいたあたしを捕らえ、粉々に粉砕する。痛みや苦しみを感じる間もなく、あたしのくたびれた肉体は蒸発する。そうして残ったあたしの魂を、怪物になったまりあは抱きしめてくれた。……ああ、誰かに抱きしめてもらうなんて何年振りだろう。あたしも、まりあを抱きしめる。魂だけのあたしは、呪いそのものになった彼女の肉体にただ飲み込まれていくだけだったけれど。それでも、まりあは嬉しそうに笑ってくれた。彼女は笑いながら……自らの悲しみを世界へとぶちまけるために、何よりも自由な翼を広げ、白い砂浜から力強く飛び立った。
その日、堕ちた魔法少女まりあはたくさんの街を焼いた。たくさんの命を焼いた。世界を、人間を、命を呪う歌で、彼女に立ち向かった他の魔法少女たちすら、同じように闇に堕とした。彼女たちもまた、無視され続けた深いかなしみを、その身の内に溜め込んでいたから。黒い少女たちによるかなしみの歌は、世界に未曽有の大災害をもたらした。彼女たちの行進によって消えた命は、かつて彼女たちが救った命と、果たしてどちらが多かったのだろう。まりあの中でそれを眺めることしかできないあたしには、もうどうしようもない話だけれど。
ただ、あたしは姉として祈ることしかできない。
苦しみ続けたあの子の心が、どうか少しでも晴れますように、と。
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トウトウ ハジメノ デンデンムシハ キガ ツキマシタ。
「カナシミハ ダレデモ モツテ ヰルノダ。ワタシバカリデハ ナイノダ。
ワタシハ ワタシノ カナシミヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」
ソシテ、コノ デンデンムシハ モウ、ナゲクノヲ ヤメタノデ アリマス。
新見南吉『デンデンムシノ カナシミ』
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