閉じたスペクトラムと一家の没落
1
周作が仕事を終えて1DKのアパートに帰宅すると、聞き慣れない電子音が鳴っていた。それが、めったに鳴らない固定電話の呼び出し音であることに少し後に気づき、玄関脇の床に無造作に放置された埃のたまったそれに腕を伸ばした。前にこの音を聞いたのはいつだったろうか。この電話が鳴るのはセールスの電話か、そうでなければめったに連絡を取ることのない、身内くらいだ。
受話器を取ると、聞こえてきたのは、はたして、どうもその気質が根っこからまったくもって好きになれない、周作の母親の広子だった。67歳という年齢でありながら、未だにそのお嬢様気質が故に、万事、要領を得ず、余分な前置きばかりが続きいらいらする普段の冗長な話しぶりとはずいぶん違い、結論が唐突に口に出た。それだけ、重大なことが起きてしまったとの認識がそうさせたのかもしれない。
「あのね・・・・美紀ちゃんが飛降りちゃったの」
その瞬間、周作は頭の中をいろいろな状況が巡ったあと、一つの状況が像を結んだ。美紀ちゃんとは、周作の兄で長男である健作の妻、すなわち周作にとっての義理の姉にあたる。
「飛降りたあ??生きてるのか?死んじゃったのか??」
「うん、今朝の早朝」
おずおずと、母親が答える。猛然と腹が立ちだす。この重大な折りでの相変わらずの緊迫感のない、的を得ないその醸し出される雰囲気に。
「だから、生きているのか?死んだのか?」
周作は声を荒げた。
「死んじゃったのよ」
「いつだ?」
「ええと、今朝の五時頃らしい。確か警察がきたのが五時半みたいだったから」
義理の姉、健作の妻が飛降り自殺を図って、目的を果たしたのだ。まさかやってしまったのか・・・・。その後、万事要領の得ない広子からだいたいの話を聞き出した。
とにかく、育児ノイローゼ気味だった美紀は、その日の早朝、自宅である、分譲マンションの玄関を出て、非常階段を少し登った踊り場から身を投げて、分譲マンションの共有部分である駐車場で倒れていたのを、「どーん」という鈍い音で気づいた一階の住民に発見されて、警察に通報されたようだ。四階からの飛降り自殺だった。その中途半端な高さが、なんとも割り切れないイメージを与える。四階から飛び降りても死ねるものなのか?
すでに板橋区にかけつけているという、広子の東京からの第一報であった。受話器を置いた、周作は、さすがに考えこんでしまった。今まで身内が事件、事故で急死したことはなかった。あっても父方の兄弟である、叔母が急死したが、それは心筋梗塞による、急性心不全のためで今回とはずいぶん事情が違う。
「自殺してしまったのか・・・」
周作は声に出してもう一度つぶやいてみるが、やはりなんとも現実感がない。血縁関係がないとはいっても、兄弟関係もまた、とても良好な関係とは言い難いが、それでも実の兄の妻である。それなりに関係は近い。もちろん、ささやかではあったものの結婚式にも出ているし、名古屋と東京という距離もあって普段会うことはもちろん話すこともないが、過去にはそれでも何度も話したこともある。直近では4か月ほど前の昨年の暮れに、夫婦とその二歳になる娘、美菜の一家三人と広子で会っている。その時のことを周作は思い出していた。
浜松にあるゼクシブという、会員制の宿泊施設に母親の呼びかけにより集った際、出会った美紀の様子は明らかにおかしかった。正直言ってもともと、肉付きがよすぎて恐縮ながら、義理の弟としてももう少し健康、美容のためにも運動をした方がいいと思われる体形であったのだが、その弛緩していた頬の輪郭は、その時には思いもかけずげっそりと痩せ落ちていたのだ。もともと明朗活発とは言い難い性格ではあったし、娘の育児に関係してノイローゼ状態であったことは、そのあとなんとはなしに伝え聞いていたのだった。もっとも明朗活発でない点においては、夫婦双方であり、まさに似た者同士の夫婦ではあるのだが・・・・。
とにかく、東京には行かなければならない。自殺した義理の姉の葬式とはどんなものなんだろうか。周作には想像もつかなかった。今、夕方6時半だ。これから急いで準備して名駅に向かっても、8時過ぎの新幹線に乗ることになるだろう。板橋まではどのくらいかかるか見当がつかない。ちなみに、名古屋駅のことを名古屋の人間たちは名駅と呼ぶのだ。
結局夜行バスを使って行くことにした。夜遅くに板橋区の健作の家についても、どたばたした中かえって迷惑だろうし、そもそも、はやる気持ちがある一方、自殺した義理の姉のもとに、親戚たちが集まるという、異例極まる場所に到着するのを少しでも遅くしたい気持ちもあった。
深夜12時前に名駅バスターミナルを出る、池袋行のその私鉄の運航する夜行バスは、平日のためだろうか。6割くらいの乗車率だった。中央道を走っていると思われるバスは、岐阜県に入ったと思われるあたりから山の中を軽く蛇行を繰り変えしながら、走っていた。周作はなかなか寝付けなくて、最初のサービスエリアの休憩で降車した。自分が夕飯を食べていなかったことに気づき、はたと空腹を感じた。一つだけ売れ残った幕の内弁当を買って、動き出した車内でむさぼり食べた。ご飯粒がいやに固かった。売れ残った最後だったのだろう。食べ終わると満腹感から知らずに眠気に襲われいつの間にか寝ていた。
中央道の道はかすかに蛇行を繰り返しながら、バスは上り坂をたまにエンジン音を高めながら、ゆらりゆらと登っていった。
2
早朝、周作はバスのアナウンスで目を覚ました。カーテンを開けると4月中旬の明けたばかりの池袋の街はもやがかかっていた。閑散としたサンシャイン60近くの降車場で降ろされた周作は、寝ぼけた頭で自分が平日の早朝に、池袋に降り立っている現実を確かめていた。兄である健作の妻、美紀は4月19日早朝、とにかく自分の住むマンションの4階から飛降り自殺したのだ。それで自分は今、東京にやってきた。
健作夫婦の住んでいるマンションは、池袋を始発とする東武東上線という私鉄に乗って、普通電車で30分程いったところにある、下赤塚という駅が最寄りらしい。池袋の駅は、通勤にはまだ少し早い時間であったが、すでに東京の喧噪を感じさせるものだった。とにかく名駅とは比較にならないほど、明らかに人口密度が高いのだ。前日に喪服を押し込んだキャリーバックは、二泊三日程の旅行に使う、決して大きくはないものだったが、おのぼり風情の周作が、その私鉄の乗場を探して、よたよたと歩くと何度も人に当たりそうになった。なんとか、東武東上線のホームにたどり着くと、ちょうど普通電車がでるところだった。周作が飛び乗るのと扉が閉まるのは同時だった。
郊外に向かう電車だからであろうか、車内は空いていた。名古屋の地下鉄と同じ、横一列のシートが2列、その一方に腰を降ろすと、車窓は隙間のない住宅の屋根ばかりであった。あらためて健作の住む、大都会東京にやってきたことを感じた。
兄である健作は、大学進学と共に生まれ育った三河地方の街を離れ上京した。幼少期から中学を終えるころまでの健作は、意外と極端な内向性を感じさせる記憶は、実はそれほどないのである。
昭和50年代後半から60年代の当時、現在のようにスマホはおろか、もちろん携帯もない時代で今の子供たちのように、スマホでゲーム対戦するような遊び方は存在しなかったから、当時の子供たちは今とはずいぶん遊び方が違ったと思う。
それでも現在のテレビゲームの元祖とでもいうべき、任天堂のファミコンが発売されたのは、周作が小学校4年の時だった。それまで、ゲームセンターで100円払わないとできなかった、ドンキーコングが、家のテレビで只で何度もできてしまうのが、本当に衝撃で、周作はゲームセンターが潰れてしまわないかと本気で心配したものだ。
一方、その当時もうひとつ流行っていたのがラジコンカーであった。特に小学生の周作らに流行っていたのは1/10スケールのオフロードのラジコンカーで、田宮やら京商やらから、グラスホッパー、プログレスなる、なかなか本格的な機能をもつ車種が次から次へと発売されていた。ちなみに周作などは小学5年生ぐらいながらも、本格派を自負し、高いプライドの中で所有する車種は周囲のラジコン仲間の誰も持っていない横堀模型、通称ヨコモのドッグファイターであった。
一方、中学生のラジコン派はというと、こちらはさらに本格的なオンロードタイプ、すなわち舗装されたアスファルト上を滑るように高速で走るレーシングカーになるのだ。健作はその、三河の城下町の北に位置する中学のラジコン派閥の中では、なかなかデキる男、少なくとも三つ下の弟、周作の目からはそのように映っていた。当時は今のように娯楽の少ない時代、現在ではともすればオタクなどと呼ばれてしまうが、このころのラジコンカーブームはテレビ番組の影響もあってか、中学生男子においては王道の趣味といえる時代だった。健作はそのメカの組み方と操縦のセンスで、中学の同級生からも一目置かれる存在に思われた。
しかし健作は父親である隆司の長男として決定的に期待を裏切ったのは、その学業成績であった。これは当時小学生の高学年程度であった弟の周作の目から見ても、父親が落胆するのはやむをえないと、少々同情を禁じ得ないほどのひどさであった。
父親は健作の小学生低学年のエピソードとして、苦笑しながら夕飯時にこんな風に言っていたのを聞いたことがある。
「ケンはなあ、算数で物の数を数えるとき、何度教えても、1、2、3、4と数えていくと、必ずどこかで二度同じ物を指差して数を読むから、結局実際よりたくさんに数えてしまうんだよな」
独特の皮肉っぽい口調でそんなことを言っていた。
隆司は軍医から町医者になった祖父が4人設けた子供の中で唯一男である、2番目に産まれた長男であり、地元の伝統的な進学校から地元の国立大学医学部を卒業し、消化器外科を専攻、勤務医を経てやはり後に個人診療所の規模ながら、バリバリと手術をする開業医となる。
息子として周作が、内側からみた父親としての特異な人間性はまた別に述べるとしても、隆司にはその小さな地方都市の属する小社会においては、医者の家系の2代目であるという、それなりの家柄的な自負心を持っていたのはやむをえないと思われ、よってその長男に対する期待は当然大きかったものと想像できる。ところが健作はその期待の全てを裏切るのだ。中学に入学して、試験の順位として、自分の長男の学力のひどさを数字として明確に目にする度に隆司の絶望感は、どんどんと深くなる。ごく普通の公立中学で、そろそろ高校入試も意識される2年生頃になっても、上から3分の2あたりをうろうろとする長男を、それでもなんとかしようと無駄な努力をすること頻回であった。ずかずかと健作のいる部屋へ乗り込むがいいか、当然に勉強などはしていなかったであろう健作を、罵倒のもと机の前に無理やり座らせ、自分もすぐ隣に座り数学の計算問題などをやらせると、ものの数問もすると、またもや罵倒する父親の声が聞こえる。
健作より3つ年下である周作は、当時小学校の高学年であった頃であろうが、隣の部屋でラジコンなぞをいじりながら息を潜めてその様子を伺っていたものである。毎回、最初はなんとか正答に導こうと努力する隆司であるが、すぐにその声は怒鳴り声に変わる。
「なんでお前はこんなもんが分からんのだ」
その後には平手打ちなど体罰にかわるのに幾ばくの時間も要しなかった。
もちろん、思春期で反抗期の健作もそれに応酬。結局取っ組み合いになる結末であった。周作は、恐ろしい父親に、それでもはむかう健作に対して妙な尊敬の眼差しを向けつつ、一方中学に上がっても自分はこうはなりたくないと、密かに思うのであった。
ともかく、父親に相応の抵抗するほどに、当時の健作に関していえば、反抗期のごく普通の情動をもった中学生であったことが思い出されるのは確かなのである。
学力に関しては、とてもその家柄にふさわしくなかった健作だが、一方絵を描くことに関しては、相当幼い時期より、秀でた才能をみせていた。
周作が小学校中学年くらいのころ、年末の大掃除で押し入れの整理をしていて、見慣れぬクレヨンの絵が出てきた。それは周作が子供ながらに観てもはっと感じるところのある絵だった。それをみた広子は、
「ケンの絵ね。ケンは万事不器用、ぶきっちょなあなたと比べると、なにかと手先が器用で絵のセンスもよかったわね。ま、確かにあなたは学校の勉強はケンよりずっとできるけど」
などと言ってのけ、しげしげとその絵をみながら頷いた。周作は当時から、何かにつけてぶきっちょ、ぶきっちょと家中でなじられ、兄の健作と比較されていたから、それについては随分引け目となっていた。その当時は勉強が少々できることよりも、足が速いこととか、手先が器用でラジコンの操縦が上手いことの方が、よほど子供社会においても名誉なことであったから、母親にそのように言われることは、周作にとってはまさに、急所をつかれる思いであった。
描かれたオスのライオンは、まさにその特徴を上手にとらえており、幼いその描き方も、かえって印象派の画家を想わせる、あの風情を感じさせるもので、へたうまなフィールがなんとも絵画的センスを想わせた。
そして周作が中学に入学し、三つ上の健作が高校に入学するころになると、記憶はないが、なにかの折に大げんかをしたあと、兄弟は双方全く口を利かなくなった。
健作は予想どおり、学業においては、全くもって父親の期待に応えることはなく、中の下といわれる地元の県立某東高校の、それこそ1倍をほんのわずかに上回る倍率で選別される、その選別されるわずかの中に見事に入って、不合格。某私立高校に入学した。もちろんその高校は名前を書いたら合格できると揶揄される、どこの街にも一定のニーズのある層をターゲットにした高校であった。
それが決定した春休み、井上家の風景は非常に凄惨なものとなった。隆司は長男健作の将来性のなさに関して、決定的にトドメを刺された憤りを、全くもって遠慮なくぶちまけた。
「おい、ケン。全国の受験生が猛烈に受験勉強に取組む中で、お前だけがそれに対してきちんと取り組まなかった。その結果がこれだ」
「・・・・」
「お前、いったいどうやって今後生きていくつもりだ。所詮、お前の行く高校を卒業しても、いける先は丁稚奉公だ。まあ、たかだかどっかの板金工場で職工として、一生を送るくらいの人生だ」
このくらいに、バランス感覚の欠如する、徹底的に不当な差別意識を持つ言動に関してはさすがの健作も
「なんで板金工場ではいけないんだよ。そんな言い方は板金工場に対して失礼だ」
と至極まっとうな反論をする。それは12歳程度の周作にとっても、健作の言い分に分があると思うほどに適切であった。余波は当然周作に対しても及んだ。
「おいシュー。お前は今から中学に上がるが、このお前の兄の無様さをよく見ておけ。こうなりたくなかったら、今すぐに中学の予習をしろ。おい、ラジコンなんかいじっていても何の役にもたたん。お前、なんでそれが分からん」
小学校を卒業したばかりの無邪気な周作にこの言い分は、間違いなく滑稽である。しかし到底反論する度胸を持ち合わせていない周作は、すごすごとラジコンから離れて、そっと近くの公園で遊ぶ町内の友達を求めて、外出するのであった。広子といえば、なるべく自分の身に火の粉が及ばないように、隆司の子供たちへの説教に対してあいの手を送るだけであった。
ところが、健作が高校3年生になる頃、進路を決める三者面談があった日の夜、思いもかけない展開が待ち受けていた。
「ケンの進路のことで三者面談を受けてきたんだけどね」
広子がおずおず夕飯の食卓で切り出した。井上家の食卓は、隆司が開業医であり、診療所兼住宅である白い建物の2階から3階に彼が上がってくるのを機に、比較的決まった時間から始まる。だから、夕食は家族4人で規則正しく取ることが多かった。
「あいつの成績で入れる大学など、下の下になるだろう。そんなとこなら行かんほうがましだ」
隆司はクチャクチャと独特の音を立てながら、好物の白身の刺身、石ガレイのそれなぞを食べながら、全く興味もなさそうに一蹴した。
「それが、もしかしたらいける大学があるかもしれないの」
その話に、隆司は箸をとめた。
健作の学校の美術教師が、以前から健作が授業中に描く絵をみて、その才能を高く評価しているという話であった。美大への進学が選択肢の一つとして持ち上がったのである。
その話に隆司の目の色が変わった。
隆司としては、長男が高卒の学歴で終わることには、例の家柄的プライドからも避けたいことであった。その一方で名前の聞いたことのないような私立大学に行かせるのもなんとしても避けねばならない。美大であれば、少なくとも健作の学業成績の悪さをオブラートに包みながら、かつ大学にいかせることができるかもしれない。健作にとっても、嫌いな勉強をせずに大学にいけることに関しては、もとより嫌がる理由はない。もちろん高校を卒業してすぐに就きたい仕事もないし、できれば社会の荒波に揉まれるのは、なるべく後に遅らせたい。
こうして隆司主導のもと、健作の消極的意志もあいまって、進路選択はごく自然に決定された。健作が担任の教師と相談しながらパンフレットをそろえて、某予備校の美大進学コースに通うようになったのは、健作が高校3年生の梅雨どきのことだった。
まさか自分の兄だけは、大学進学などできるはずがない、そうたかをくくっていた周作は、その成り行きを注視せざるをえなかった。
男兄弟とは不思議なものである。どうしても、そこにはなんらかのねじれた根性の力学。それは自分より、双方に相手が決定的に自分より秀でた者ではあって欲しくないという、いわば屈折したライバル意識、いや、そんな前向きな言葉では表しきれない何かがある、少なくとも周作は自分がそう思っていることを知っていた。
だから絶対に大学進学などできないと信じていた健作が、予想だにしない方法で、それを果たすかもしれないことについては、間違いなくハラハラと経緯を見守っていた。いや、正直に言う。明確に、全て落ちてしまえ、そして高卒で不本意な人生を歩みはじめろ、周作はそう祈っていた。そうすれば、自分は精神的プレッシャーから、幾分でも解放されるからである。まさにねじれた根性の力学である。
周作の祈りに反して、健作は日大芸術学部、油絵専攻なぞを筆頭に、なんと全ての受験校にパスした。こうして、健作は東京近郊にあるという、それなりにネームヴァリューのある、いわゆる日芸に進学してしまうのであった。
「思わぬ拾い物をした」
確かに隆司はそんな言葉を放って狂喜した。
おまけだが、そこそこの学業成績を修めていた周作もその春、父親の母校である県立某北高校進学を果たした。
広子なども
「今回はいい春を迎えられたわね」
そんなことを言って、隆司の機嫌に敏感に呼応して生活する者として、平穏な春を迎えられること、いや、それでも実の母親であるから、二人の息子がすんなりと思い描いた通りに進学することも純粋に喜んだ。しかし、こうして東京の大学に進学することをきっかけに上京した健作は、次第にその内向性を顕著に示し始めるのであった。
世はまさにバブルの絶頂を迎えるころの出来事であった。
3
「下赤塚、次は下赤塚」
車掌の独特のアナウンスで、周作は自分の降りるべき駅が次であることを知った。普通しか止まらない駅である。
周作は正直言って、健作に会うのが恐ろしかった。普通に仲の悪くない男兄弟でも、2、3年ぶりに会うときは、なにかしらお互いに、そこにはある種の有り体にいっての緊張感があるものである。この異常な状況での、しかも大人になるにつれ極端に内向性を呈していった健作に、久しぶりに会う周作は身構えていた。全く互いに口を聞かなかった関係からは少しずつ変わっていた兄弟関係ではあったのではあるが。
中古のニッサンマーチに乗って迎えに来ていた健作は、周作の姿を見つけると、思いの外反応よく車を降り、周作の方向に歩みよってきた。予想に反して周作の知っている通りの健作であった。小さな身体に、サイズが大きめで合わない、いやに真新しい喪服をまとい、首をやや前に突き出しながら歩くその姿は、紛れもない健作の姿であった。
「おぅ」
先に周作から短く声を発した。
「おう、シューか。わざわざ遠いところを・・・・悪いな」
常に強張ってみえる顔の筋肉を、しゃべるときだけは少しだけ緩めて、低いのに、なぜか妙にきんと、甲高さをも感じさせる独特の死んだ父譲りの声で、相変わらず例のごとく、しゃべりにくそうにしゃべる健作が近寄ってきた。
健作の運転するニッサンマーチの助手席に座ると、もう話すことは何もなかった。いや、ないわけはない。久しぶりに会う、男二人兄弟の、尋常ならざるこの状況下である。気まずさに負けじと、周作は、何かに集中しようとして、まずはニッサンマーチのボンネットを凝視してみる。ボンネットの塗装はところどころ、ムラがあり、傷んでいるようであった。意識を集中させると、どこかの国の形にならないかと、さらに精神統一を図る。次第に何処かの国に見えそうになったのだが・・・・そこで何をくだらないことをしているんだと自分を注意し、はたと状況分析に入った。どう考えても、経済的に豊かとは思えないことをこのボンネットは能弁に語っていた。
「美紀ちゃんはね、なかなか仕事が続かないことで悩んでいるらしいのよお。ケンも、あんな風で、やっぱり手を使って何か作業を黙々とする仕事でしょ。だから、やっぱり安月給なんでしょうね」
広子がそんな風に、電話で近所付き合いの誰かと話しているのを、滅多に帰らない実家で、たまたま耳にしたことがあった。
広子自身は、完全なる絵に描いたようなお嬢様育ちで、その当時では珍しい、東京の4年制の所詮、お嬢様が通うことで現在でも有名な学校を、卒業した瞬間に今度は自分の父親が興していた、機械商社に就職する程の社会性のない経歴であったから、そんないっぱしの物言いをすること自体に、お前なんかになにが分かる、と周作はいつものごとく猛然と腹が立ったのであった。広子は自分の力で、生涯、ただの一銭も稼いだことがないはずだ。健作夫婦に関しては、最もそんなことをわざわざ聞かなくても、もちろん想像に難くなかったのであるが・・・・。健作と美紀の夫婦は、えもいわれぬ幸薄い雰囲気を、なにもいわずとも周囲に十分に醸し出し、内向的な二人は、東京という大都会の片隅で、なんとか二人で寄り添いあうことで、かろうじて生きているのであろうことを想像させた。
「シ、シュー、お前、昨日は何時のバスで出たんだ」
健作は気まずさに負けた形で、どうでもいいことを聞いてきたので適当に答えていると、そんな健作が住んでいるにはかなりふさわしくない、真新しい分譲マンションの駐車場に着いた。周作が降りると、健作は止めにくそうな場所にある立体式駐車場の上段に、まさに器用としかいいようのない滑らかさで駐車させた。往年のラジコンカーの操縦のうまさは、こんなところに生きているのだ。
全てにおいて、名古屋のそれよりかなり手狭に造られたことが分かるものの、帳尻を合わせるように、ドア、エントランス、壁、手すりなど、目に入るパーツ、パーツは真新しく、間違いなく新品の分譲マンションであった。
先の広子の会話には続きがあった。
「今まで、あんまりにもひどいところに住んでいた二人はね、今度ばかりはちゃんとしたところに住もうと考えたみたいで。自分たちの収入も考えないまま、営業さんの口車にのって買っちゃったらしいのよね。私も行ってみたけど、確かにおしゃれな感じではあったわねえ。けれども美紀ちゃんは、月々のローンの支払いで毎月赤字だって嘆いていたわね」
そんな恐ろしい内容を、それほど大したことなく、人様に平気で話せる、広子の感覚には耳を疑いたくなる周作であった。なるほど、これがそれか・・・・。周作は全てが分かってしまった気がした。健作の無言の案内で、2階の非常階段近くにある、マンションの一室の真新しいドアの中へと入った。
その日の早朝の、靄の中をバスから降り立った時と、とても同じ日の太陽と思えない、健康的な太陽光の中で、皮肉にも住民の一人を失ったその部屋は、確かに相当狭いながらも真新しい3LDKを誇るようであった。
「やあ、周作くん久しぶりだなあ」
こんな折でも、快活な声で名前を呼んでくれるのは、美紀の父の弦作さんである。すらりと引き締まった身体に、黒い喪服がいかにも似合った。さすがに健作の妻の父親だから、歳もそれなりにいっているはずなのだが、いかんせん、男前であるし、それでいて、国の訛りで話す感じが素朴でなんとも言えず愛らしかった。スキーで有名な妙高近くの、名前は忘れてしまったが、小さな町で職人をしているらしい。
「この度はびっくりさせてしまって悪かったなあ、周作くん。名古屋から来てもらっちゃってすまんことだねえ」
日に焼けた顔を曇らせて弦作は言った。弦作と美紀は血の繋がらない父娘であることは、健作たちの結婚式の時に聞かされていた。美紀は小さな時に本当の父親を亡くしているとのことだった。
「シューちゃん、遠いところ疲れたでしょ。娘のことで、この度は本当に悪かったですねえ」
こちらは、美紀の実の母親である、登紀子であった。こんな時でも気丈に振る舞い、気づかいに満ちた態度で、周作は恐れ入ってしまった。
一方、当たり前のように健作は所在なさげであったし、広子はおろおろと立ちつくしていた。一通り、周作なりに苦渋に満ちた態度で挨拶を済ませて、さて、自分はいったいどう立ち振る舞うべきなんだろうか。とにかく自分は今まで経験したことのない場に踏み込んでしまっている。
新築のマンションのリビングは、明るい日差しの入る南向きで、その方向にはたまたま、高いビルが立っていないせいか、遠くにうっすらと雪をいだく山々が見えた。戸惑いがちな周作を見て、弦作さんは気を使って
「周作くん、こっちこないかい。ベランダからの景色は最高だよ。あそこに富士が見えるんだよね」
山々の方を指差しながら、靴下のままベランダに出て、そして周作を手招いた。重苦しい室内を出たい一心で、周作もベランダに靴下のまま続いた。洗濯物を干す時に美紀が使っていたのだろうか・・・・。ピンク色のサンダルがきちんと揃えてならんでいるのを見て、一瞬ドキッとしつつ、そこをまたいでベランダに出たら、遠く山々の方には確かに富士らしき山もうっすらと見えている。
「東京からも、富士山て意外と見えるもんなんですねえ」
周作は努めて、富士山に感嘆したように声をあげて眺めた。4月の春がすみの中、ここまで綺麗に富士が見えるのは珍しいらしいんだ、という弦作さんの説明を聞きながら、遠い富士をぼんやり眺めた。
「なあ周作くん、びっくりしたろ」
広子と登紀子がリビングで、今後の段取りを話し合い始めたのを確認しながら、弦作さんはふーっと息を吐きながら言った。
「いったい、どんな状況だったんですか」
周作は、一番気になっていることを、そのまま尋ねてみることにした。
「そこなんだよなあ」
その日、4月19日は月曜日であったが、健作はなぜか早朝に目が覚めてパソコンでゲームなぞしていたらしい。まだ陽も出ていない、午前4時半をまわったころで、ふと健作は喉が乾き、冷蔵庫に向かい、お茶を飲んでまたパソコンのあるリビングに戻るところで美紀とすれ違ったらしい。眠れないのでちょっと出てくる、などと言い残したのを聞いたのが、最後らしかった。幼い美菜がその後をついて行ったのは確かなことのようだ。それで、母親の美紀だけが外に出て、娘の美菜は、新築の分譲マンンションの、その分厚く重いドアを小さな身体で半開きの状態に保ちながら、見送ったらしい。その情景を健作が振り返って見たのが、美紀の関わる情景の最後であったようである。
その後、表がなんとなく騒がしいことは健作は感じていたらしいが、気付かぬままパソコンをいじっていると、おもむろに家の電話が鳴って、警察から一報を聞いて初めてとんでもない事態を知ったらしい。
「健作くんは、半ば半狂乱の状態でね、とだえとだえしながらも、なんとか聞き出したのがこんな内容だったんだけどね・・・・」
弦作さんは、遠くを見つめる目線のまま、ふうっと、ため息をもらしながらも、いうべきことを言ったとの感じであった。
「美菜ちゃんがまだ小さいし、本当に大変ですよね」
美菜はまだ2歳半くらいで、これからまさに、色々と母親に甘えたいことだらけの歳のはずである。
「そうそう、美菜は、最後を迎える母親の姿をずっと見ながら、だめだよ、とか言っていたような気がする、なんて半狂乱の状態の中、健作くんは言ってたなあ。でも2歳半の子がそんなこと分からないと思うから、僕には、健作くんが気が動転している中で、なんだか、夢を見たような中で付け加えて、見えたように思った情景だと思ってるんだけどね」
周作はなんとも恐ろしい気がした。幼い2歳半の娘が、もし母親が自分を置いて自ら命を絶つのを見届けたとしたら・・・・。
美菜はリビングで、小さな幼児用のマットレスの上に寝かされて、全く無邪気な様子、何も知らない様子で、それこそ、すやすやとお昼寝中の横顔の幼い輪郭が、周作には色々な思いを抱かせた。間違いないのは、この子は健作の子である。その少し上を向いた特徴的な鼻の形が、健作のそれを思い出させるのである。
ただ、ただ、不憫である。まさに不憫としか言いようのない、この状況であった。
「おとうさん、ちょっとこれからのことなんだけどねえ」
再婚相手ということになる、美紀の実の母親に呼ばれて、弦作さんはベランダから、またリビングに戻っていった。
ベランダに一人になった、周作は、この先が一体どういうことになるのか、その中身を具体的に考える事さえも憚れる気がして、続きを考える事をやめた。ベランダから眺める、山々の方には、相変わらずうっすらと富士が、他の山と区別して見られるのを期待するように、その傾き方の違う、左右の長い稜線を、先ほどよりも幾分くっきりとさせながら、姿を見せていた。
周作はリビングに入る事を敢えてしないで、しばらく山々の方を見ていようと思った。
4
一同が店屋物を取り寄せて、言葉少なに昼食を終わらせるころ、美紀の実の姉である、香織が夫婦揃って新潟から到着した。こちらは新潟市に嫁いでいて、旦那は新潟の道路公社で勤務する優秀な技術者であるとのことだ。周作が彼らに会うのは、健作たちの結婚式以来、7、8年ぶりであろうか。実の妹である、美紀に顔にはほんの少し面影があるものの、ここまで姉妹で違うものか、と言いたくなるほど美紀とは異なることの多い姉である。
日本海側で育った女性とはまさにこんな感じなんであろうと、太平洋側で生まれ育った、周作が勝手に思い抱く、日本海女の感じである。色が白く、肌のキメ細かい、全体に透き通った感じで、日本海美人とはこういう人のことを言うのであろう。立ち振る舞いもおっとりしていながら、かといって芯のしっかりした感じは、母親譲りを思わせた。
もっとも、香織は話してみると、なかなか快活な感じのスポーツウーマンで、昔は雪国のクロスカントリーで国体に出たことがあるんだ、と弦作さんも自慢げに語っているのを聞いたことがある。
「周作くん、お久しぶりだね。本当に遠いところありがとう」
実の妹が突然亡くなったショックは封印して、やはり快活な感じを隠しもせず、周作に声をかけてくれるのは、こんな折では本当に心強かった。お互い、世話の焼ける兄弟を持って大変ですね、そんな連帯感を周作は勝手に持っていた。
香織が来て、何とも固かった空気が、随分とほぐれたようであった。昼食後、広子が、美菜ちゃんの保育園と、かかりつけの小児科を見ておきたい、との要望に、香織は
「それじゃあ、みんなで行きましょう」
そんな風に重い一団に動きをもたらせてくれた。
健作と寝ている美菜をおいて黒い一団が、その狭いが、真新しい分譲マンションを出て、明るい4月の日差しの中に出ると、何とも重さが解き放たれた感じであった。口々にお久しぶりの挨拶である。弦作さんは、さも言いたかった、との感じで
「昨日、健作くんについてていって、板橋警察の安置所で、美紀の姿を見たときは、本当に、何してるんだ、バカッって言いたい気持ちだったよなあ」
日焼けした顔を曇らせて放つ言葉には、間違いない、肉親としての辛さ、やり切れなさが感じられた。
「事件の後、どんな風だったんですか?」
周作は、弦作さんに聞いてみることにした。
「僕らもさ、健作くんからの、半ば半狂乱な電話の知らせで飛び上がって起きて、関越道を突っ走って昨日の午前中には来たんだけどね」
弦作は身振り手振り、話し始めた。
5
「いやあ、関越道をぶっ飛ばしたよなあ、140キロは出して、ノンストップだもんね。とにかく、我々も健作くんの所に、1秒でも早く駆けつけないと、と思ってね。けれど、美紀のところに駆けつける実感はなかったなあ。正直いって、車の中でもずっと半信半疑で、僕ん中では半狂乱の健作くんのとこに駆けつけないとって感じだったなあ」
社会的コミュニーケーションが、著しく苦手である健作は、一体どのように、この尋常ならぬ事態を、弦作さんに伝えたのであろうか。周作は想像もつかなかった。
「身元確認のために呼ばれて入った、板橋署の霊安室ではさ、健作くん、そりゃあ取り乱してさ、普段あのようにあんまり喋んない子だからさ。でも僕は薄ピンクの寝巻きを見たとき、こりゃあ本当だって思ったんだけどね。巻かれた白い包帯を取った美紀はさあ・・・・」
ここで弦作さんは言葉を切ってつらそうに顔を歪めた。
「頭の右半分が無くなっていたんだよ」
弦作さんは、顔をしかめて空を向いた。
周作は、ぞおっとした。想像できないし、想像したくもない凄惨な情景である。そこに、話を聞いていた香織が
「でも、東京というのは大変な街だよね。死んでも行列を作らないといけないなんて」
そう言ってこの時ばかりは顔を曇らせた。
警察署の安置所から出ると、そこで営業で張り込みをする業者がいて、すかさず声をかけて来たらしい。葬儀業者だった。その業者の話で、健作と、弦作は東京都の火葬が常に順番待ちになっていることを知ることになる。高齢化の進行に伴って、東京都では慢性的な火葬場不足に陥っていて、火葬場に遺体を入れるのに、何日もかかるそうだ。その業者は、
「うちなら、それまでの間のご遺体の安置を費用負担なしにお受けできますよ」
慣れた身のこなしで、失礼にならぬよう巧みな営業トークで上手に近寄られ、彼らは結局、疲れ果てた心身の中、その場でその業者に決めることになったようだ。
東京砂漠だなあ、そう周作も思った。この国の首都では、ラーメン屋と同じで死んでも順番待ちせねばならない。そしてそのことが、ビジネスになっているのは、なんとも割り切れないことであり、この国のこうした現状は、いかにしても不条理である。
美紀の遺体は、火葬場に向かうまでの時間を、業者の遺体安置場でドライアイスに冷やされながら、腐敗しないように、その時間をただ埋めるのである。人生の終わりにして、なんとも厳しい現実であることか。コミュニケーション能力が、極端に乏しい健作の心中は、周作といえども全くはかることができない。一体、美菜とともに、健作は今どんな気持ちでいるのであろうか?そう思いを馳せた時、ふと、周作はあっ、と思って一抹の最悪なケースが頭をよぎった。周作は即座に尋ねた。
「兄は、事件後、今が初めて二人きりになる状態ですか?」
「ああそうだよ」
「絶対に二人きりにせん方がいいです。それは危ない」
反射的に周作はいい切った。
そこで、言わんとしていることは香織はすぐにわかったようだ。
「そうだ。今は絶対にそれだけは避けないといけないことだわ」
登紀子も、すぐに気づいたようだ。
「あなた、すぐに健作くんのところに戻ってあげてくれるかしら?」
弦作さんも、深く頷いて
「分かった。念のため、戻ったら、すぐに電話入れるからさ」
そう言って、小走りで健作のいる、自宅に急いだ。
「周作くんたちも、兄弟でも全然違うよねえ」
香織は、周作に苦笑いの顔を向けた。
「はぁ・・・・」
と言いながらも、それをそのままそっくり、言い返したい気持ちをすんでのところでこらえて、同じように苦笑いで返すに留めた。
そうこうしているうちに、美菜のかかりつけ医であるという、小児科のクリニックにたどり着いた。隣に小さな薬局もある。
「あ、ここね。私、ここまで、自分で来れるかしら」
間の抜けた広子の発言は、もう、周作は聞こえないものと放置する。
6
一同はその後、板橋区で最も大きいという、美菜の保育園の所在を確認し、健作と美菜のいる分譲マンションに戻った。
美菜は昼寝から醒めて、起きていた。たくさんの人が来ているのに最初は人見知りしていたが、次第に慣れてくると活動性を発揮しだした。弦作さんは疲れているだろうが高い高い、をしてやっている。
きゃっ、きゃっと美菜は喜んで、何度も何度も弦作さんに
「もいっかい、もいっかいやって」
とねだるので、弦作さんも、やめられなくなってしまった。
子供は無邪気である。しかし周作は、美菜から周囲を見渡すと、弦作さん以外の誰も決して心から笑っている風ではないのを見取ってしまった。おそらく皆が同じことを考えているのだろう、周作がそんなことを思っていると、アクシデントがまさに起きた。
弦作の腕のコントロールが、狂ったのであろう。美菜の身体が今までよりも多く浮き上がり、頭が天井に当たって、ごつん、と少し鈍い音がした。
果たして、美菜は弦作に受け止められるや否や、顔を崩して、一気にその顔を泣き顔に変えると、それこそ消防車のサイレンのように泣き始めた。弦作さんはこの時ばかりは、大きくうろたえて
「ごめんよお、美菜ちゃん、大丈夫かい」
と美菜の頭を大げさにさすっているが、美菜はさらに泣き声を大きくしながら、ばね仕掛けのおもちゃのように弦作さんの懐から飛び出ると
「ママー、ママー」
と泣き叫びながら、母親を求めてさまよった。
その瞬間、住民を一人無くした、その分譲マンションの一室の空気は凍った。周作が健作の顔を盗み見ると、父親譲りのこけた頰の、その筋肉を固く強張らせているのが見えた。
「おじいちゃんが、乱暴なことをしてごめんねえ。おばあちゃんが、頭を撫ぜてあげるからねえ」
登紀子がとっさに動いて、美菜を抱きかかえて、その頭を優しく撫でてやると次第に美菜の泣き声は小さくなる。弦作さんは、その目を赤くして、立ち尽くしていた。無論、美菜を泣かしてしまったことではなく、この現状を己が手で、最もはっきりとした形で浮き出させてしまったこと、そしてそれをまざまざと目の当たりにしてしまったことによるのだ。登紀子がテレビのキャラクターのぬいぐるみで遊んでやると、美菜はさっき鳴いたなんとやらである、また、きゃっきゃっと声をあげて、遊び始めた。一同はただただ、登紀子と美菜を眺めながら、呆然と立ち尽くすしかなかった。
店屋物ばかりでは不健康と、登紀子と広子が夕飯の支度の打ち合わせを始めるころ、おもむろに健作の自宅の固定電話の電子音が鳴った。健作が受話器を取り
「あはい、はあ、は、あはい、はい」
と聞いていたが、その顔が次第に困惑していくのが分かった。
「〇〇クリニックから、で、電話入ってますけど・・・・」
あい変わらず、しりすぼみにしゃべる、健作が受話器を顔から離して、なんとかこの対応を誰かに投げようとするのが分かった。もとより、健作は、事件後に憔悴して疲れ切ってこのようになっているのではない。万事面倒なことから逃げようとするのは生来持った性質だ。この自分の妻がかかっていたクリニックからの電話の対応すらも、自分で対応することから逃れようとするのには、さすがに周作も呆れると同時に
「いい加減にしろよ」
と言いたくなるが・・・・それをぐっとこらえた。まさしく無責任極まりない健作のこのような性質は、間違いなく今回の事件が発端ではなくて、元々の無責任体質というか、自分の狭い対応能力を超える事由に関しては、本能的に放置する性質が故なのである。
登紀子が急ぎ代わりに出て、神妙な顔をして応答をした。
「わざわざご丁寧にすみません。はい、そうなんです。昨日の早朝に・・・・本当にお騒がせしまして・・・・いえ、とんでもないです。親としても、しつかり見守るべきところでしたが・・・・本当に娘が大変なことをしでかしまして・・・・」
一同は聞かぬふりをしながらも、皆、注意を向けているのが感じられる。
「いえ、いえ、本当にわざわざお電話いただきまして・・・・はい、それではごめんくださいませ」
凛とした対応で、登紀子は静かに受話器をおくと、ふっとため息をもらした。一同の関心を一手に受けたことを背中に感じたのだろうか、誰に対して答えるわけでもなく
「美紀がかかってた、精神科のクリニックにも警察から連絡があったようで。おそらく、美紀の所持品の中の診察券を見た警察が連絡したんでしょうね」
などと皆に説明した。
確かに事件性を否定する材料を揃えて、自殺であることを断定するには警察にとっては必要なことではあるが・・・・警察から連絡がいって、初めて一人の受持ち患者である美紀の自殺を知った主治医の気持ちはいかなるものであったのだろうか。外科では、手術や抗がん剤治療で手を尽くしても手遅れで患者が死ぬケースがあるように、精神科においては、精神科の病気そのものが直接的な死因になることはないものの、主治医が最も恐れるのは自殺である。
昨今、何でもかんでも医療過誤であると患者側が主張して、医療訴訟を起こされる風潮が高まっていることから、そのリスクの高い、外科系の科を医学生たちは避ける傾向があることは、周作も報道等で知っていた。
今回の美紀のケースで、主治医はもちろん自分の患者の死に純粋に心を痛めたのはもちろんであろう。しかし最も職業的に恐れたのは、医療過誤であると患者側に思われ、極端にいえば、訴訟に発展することを最も恐れたのではなかろうか。患者の家族にいち早く連絡を取ることの意味の裏側を、周作はなんとはなしに深読みしていた。
その後、登紀子は
「やるべきは先にしておきましょうか」
そういってメモを広げて、どこかに連絡を取り始めた。
「わたくし、井上美紀の実の母親ですが・・・・美紀の担当者の方いらっしゃいますか?」
しばらく間があって担当者らしきが出ると
「不妊治療で、そちらで凍結卵子を冷凍保管していただいてる、美紀の実の母親ですが・・・・」
そこで登紀子は声のトーンを少し落として
「実は、美紀が昨日の早朝、急逝いたしました。はい、そうなんです。は、はい。事故での急死でした。はい。そうなんです。ですので、もう、凍結保存の必要が無くなったのでどのような手続きを取ればよろしいか、お電話いたしました」
細々とした手続きの話を始めたのだが、まさか、そんなことを健作夫婦がしていたとは、周作は全く知らなかった。
確かに、美紀は35歳を超えるくらいになってから、子供を欲しがるようになったものの、なかなか妊娠せず、年齢も年齢であるから、なんらかの不妊治療をしているらしいことは、なんとはなしに話に聞いていたが、なんと、卵子の冷凍保存までしていることは全く知らなかった。
生命の根源である、卵子が、その生命を花開かせるため、来るべき時をただ静かに静かに、厳重などこかの医療用冷凍庫で、ただその内在させた命を大切に守っている一方で、それを花開かせる母体が、自ら死を選んだという矛盾した現実が像を結んで、周作はまたしてもやりきれない気持ちがした。
おそらく、二人目の子供の可能性を考えた上で、そのために保存の手続きを取ったのであろうが・・・・医療の進歩は生命の凍結保存を可能にしてしまった。一方それを選択する人間の命は当然生身であり、同じことはできない。科学の進化が進んだ結果、このような太古の昔には起き得なかった、いのちという最も根源的なものに関する、あまりにも大きなねじれが生じてしまったのである。
無論、美紀は自分の生命に関して、自分の意志により、それを終わらせるという、いわば選択的決断をした。一方で保存された卵子に内在された生命はどうであろうか。その意思とは関係なく保存され、そして今、それを花開く可能性を、やはり自らの意志とは無関係に永遠に奪われるのだ。
健作は、登紀子が電話で対応するのをぼんやりと見ている。広子はこれから夕飯の支度をするキッチンをただ、主婦の習性に従って整理しているだけであった。この二人はこの重大な現実をどこまで考えているのだろうか、と考えると虚しい脱力感におそわれた。
7
その日の夜は、周作は池袋のビジネスホテルで泊まることにした。弦作さんや登紀子は、健作の家で寝ればいいじゃないかと散々勧めたが、妻を自殺の形で亡くした健作や、広子と姪の4人だけで、真新しい分譲マンションで過ごすことは、周作からしたら、絶対に避けたいことであった。むしろ、弦作さんや登紀子にその役を譲った。美紀の姉夫婦は、下赤塚の隣にある、東武東上線の成増という急行の止まる駅の正面にある、ビジネスホテルを予約しているとのことだった。
下赤塚から池袋に向けて、普通列車に乗って一人になると、ようやく周作は解放された気持ちになった。早朝に池袋に降り立ってから、夕方の今に至るまでが、たった1日とはとても思えないような長さであった。途中の駅で周作の電車が停車していると、アナウンスが入り、反対側には池袋からやってきた、東京の都心からたくさんの帰宅するサラリーマンを運んできた列車が、キーっとブレーキ音を鳴らし停車するところだった。ドアが開くと列車は一斉に乗客を吐き出した。東京の郊外では、ごく普通の光景なのであろうが、周作にはなんだか、人間の一人一人の価値が、不当に小さくなっているような錯覚に陥った。
この、帰宅途中のサラリーマンは、無論、美紀がマンションから飛び降りたことなぞ、全く知る由も無いだろうし、同じ駅で、同じ列車から吐き出された他の人間たちのそれぞれについても知る由もなく、その人生に対しても、もちろんなんの関心もないのである。
池袋のビジネスホテルにチェックインして、荷物を置くと、今夜は一人、池袋の繁華街をブラブラ徹底的に飲み歩いてやろうと思った。そうでもしないとやってられない気がしたのだ。それは、肉親の配偶者が自ら命を絶ったことによるショックだけでは説明のつかない、普段はなかなか感じられない心境であった。この世の中に生きるそれぞれの人間の生なぞは、なんと小さく、はかなく、そしてそれぞれの人間たちはなんと孤独なものだろうか。東京という大都会に、はからずも非日常的な理由がきっかけで接したが、これも一種、旅情といって然るべき種類の感情なのであろうか。
名古屋では見かけない、富士屋というチェーン店で天ぷら蕎麦を注文すると、貪るように食べた。腹にしみわたるように美味い。東京のそばのだしは、ちょっと醤油の色が濃くて、なんだか普段、名古屋で食べるそれよりも、幾分醤油辛いが、今はそんなことは全く気にもならない。衣の厚い天ぷらも、車のスクラップ重機よろしくバリバリ音を鳴らして噛みくだき、つゆも一気に飲み干して完食した。それでも全く腹は満たされず、すぐさま、カツ丼を追加して、こちらもものの数分でご飯粒一つ残さずかきこんで完食した。心の空虚さを、腹で補ったといったところか。50年配と思われる、調理人のおじさんが、目を丸くして、周作の食べっぷりを見て
「よお、兄さん、しかし豪快に食べるねえ。腹こわさんようにせんといかんよ。まあでもあんたみたいな人は、鉄の塊食っても消化するわなあ」
そういって笑った。店内は夕飯には少し早い時間のためか、空いていた。おじさんは笑うと、目尻のシワがいやに愛らしく、不揃いな乱くい歯が人懐っこく見えた。すさんだ気持ちが内側から少しほころぶのを感じた。
「兄さんは、今日はどっから来たんだい?仕事かい」
「いやあ、それがなんとも込み入った事情でしてね」
何となく、この人の良さそうな調理人のおじさんには全て話してしまいたい気持ちになって、周作は事の顛末をかいつまんで話した。おじさんは、真剣な顔つきで、ふん、ふんと聞いていたが、周作が話終ると、
「なるほどなあ。東京じゃあ、これだけ人がいる訳だから毎日それこそ数えきれない人が死んでいくんだよなあ。そして、その中には当然、そんな死に方をする人がいる訳だわな。
そして、兄さんの場合はそれがたまたま、実のお兄さんの奥さんだった訳だ」
そこでおじさんは言葉をきると
「僕はさあ、山田洋次監督の映画が好きで、もちろん大のお気に入りは男はつらいよシリーズ、なんだけどね」
「あの、寅さんのやつですよね」
「そうそう、フーテンの寅だよね。その何作目だか忘れたけど、その映画のワンシーンでさ、寅さんがマドンナにさ、人は何で死んでしまうのかしら?って悲しい顔して問われる場面があるのよ。そうすると、寅さんはさ、あの味のある顔で、ぐうっと考えてこんでさ、しばらくしてこんな意味のことを言うのよ」
そこでおじさんは声色を変えると、
「もし、世の中、人が死ななくなってしまうと、どんどん人が溢れてしまうだろ。特に日本なんては、島国だからさ、そうすると次第に満員電車みたいにおしくらまんじゅうみたいになっちまう。そしたらしまいにはふちっこの人は、海に落っこちてしまうだろ。そしたら、結局死んじゃう・・・・だからじゃねえのかなあ、そんな風に細い目をさらに細めていうのさ」
おじさんの口調が、なかなか寅さんの哀愁のある言い方に似ていて、つい、周作は笑ってしまった。
「けど、俺はさ、その言葉がさ、何だから知らないけど、いつまでも心に残っていてさ。周りの知人の訃報を聞くたびに、なんか訳もなくその言葉を思い出すんだよなあ」
そこでしばらく間を置くと
「結局、人間なんて誰に頼んだ訳でもないのに、勝手に、この世界におぎゃと泣いて産み落とされる訳だろ。そして、基本的には、意思とは関係なく、ある者は癌にかかって死ぬし、ある者は交通事故に突然巻き込まれて死ぬ。結局、そのタイミングなんて、自分とは関係ないところで勝手に決まる。なっ、そうだろ。兄さんだって、いま、自分で心臓止めようと、それこそ、おならを我慢するような感覚で、おけつの穴に力を込めたって、心臓止められないもんな、ガッハッハ」
二人はそこで大笑いをした。おじさんは、つと厨房の奥の方にむかって湯呑みを二つ持ってくると、一つを周作に持たせ
「これは、その亡くなった方への供養だ。兄さんはいけるクチだろ。俺は、仕事中はやらない主義だが、今日は供養だから、一杯だけやろう。これは冷やでやると、なかなかうまいんだぜ」
そういって一升瓶を傾けて、日本酒を注いでくれた。
「話は続きだが、結局よお、人間の生なんてのはテメエで決めれない部分が確かに結構大きく存在するんだよ。だってそうだろ。生まれるも、死ぬも自分でそのタイミングは決められないくらいなんだからよ。こういうのをなんて言うんだっけな。俺は中学出て、すぐ丁稚奉公だから学がないんだ。だからこういう時は不便で仕方ねえや」
「生は受動的ってことですかね」
周作は助け舟を出した。
「そう、それよ。兄さんはなかなか学があるな」
そこでおじさんは、また湯呑みを口に運んで
「結局、人間ってのは生かされている、って考えるのも大事なんじゃねえのかな。そうすりゃあ、生きざまも、謙虚で粋なものになると、俺は常々思ってるんだけどね」
おじさんは、日本酒を舐め出してからは少し饒舌になっていたが、それは何だかすっぽり包まれていたいような、語り口であった。 確かに、人間は生かされていると説く、仏教思想の中には、そういうものがあることを周作も聞いたことがある。
「生かされているくらいだから、もちろん、人間、自分の生の終わりなんか自分でコントロールなんてしては絶対いけねえ。それは、誰によってもたらされたか分からねーが、生をもたらしてくれた、何か大きな存在、それが俺には何かがもちろん分からないんだが、それに対する最も大きな冒涜だ」
おじさんは声のトーンを大きくして誰に言うともなく言った。周作はそれに対してゆっくり頷いた。今はおじさんの言葉に身を任せておくのが何をするよりも、落ち着いていられる気がした。
他の客が来たのを契機に、周作はおじさんに日本酒の礼を言って、勘定を済ませた。お釣りを渡す時おじさんは
「まあ、兄さんも、あんまり考えないことよ。これからいくらでも考えないといけないことがあるだろうが、まあ考えないことよ。考えてもしょうがないさ。その・・・・なんていったかな。うん。受動的なんだからよお」
そんな風に言って、周作を見送ってくれた。周作も深々とお辞儀をした。東京に来てから、何か気分がぎすぎすしていただけに、おじさんの話は心に染み入るようで、気持が温かくなっていた。今回のように、近親者の突然の死、しかも自死というものに遭遇することで、皮肉にも初めてその対極にある自分自身の生というものを、図らずも意識することになって、結果戸惑いを覚えてしまったのか。周作はそんな風に理解することで、何となく自分の気持ちの説明がついたような気がした。
その後、街の客引きの言われるがままに、キャバクラに行き、二十歳に届いていないようなキャバ嬢相手に、ただただ、ひたすらウィスキーをしこたま飲んで、ふらふらになって、ビジネスホテルの一室で泥のように寝た。
そのキャバクラでの明細のない会計は4万を軽く超えていた。
8
翌日は、夕方の4時には豊島区内の通夜会場に来るように葬儀屋には言われていた。最も、それは正確には葬儀コーディネーターという職種の人だそうで、家族に最も身近なところで色々と世話をする役割の、葬儀屋本体とはまた違う人であることは、後で知った。
東京のように、人口が多くて死ぬ人の多いところでは、徹底的に業界内でも役割が細分化、システム化されているものと思われた。
葬儀会場の自動ドアをくぐると、皆がすでに揃っていた。昨日の顔ぶれに、さらに弦作さんの息子兄弟が増えていた。次男君は、横浜で行われた健作夫婦のごく身内だけで質素に行われた結婚式で会って以来であった。相当陽気なキャラクターを発揮して、横浜の繁華街、関内で、徹底的に照れるというか固まる二人を、人力車に無理やり乗せて、さらにクラッカーをブチ鳴らすほどの、素晴らしく豪快な活躍ぶりであったが、今回はさすがに神妙な面持ちである。少し額が広くなっていることが、時間の経過を感じさせた。長男君は、こちらは都合、結婚式には参加していなく、初対面であったが、父親譲りのいい男で、若い頃はさぞモテたことであろう。
すでに美紀の祭壇は完成していた。中央に、ふっくらとした頰をした、美紀の遺影が飾られている。昨日、健作がパソコンに入っていた中から選んだものを引き伸ばしたそれは、まだ、元気で丸まるとしていた頃のものであった。年末に、最後にみたげっそりとした頰の美紀との違いに、周作はいたたまれない気持ちになった。
祭壇は至極、質素なものであったし、健作の懐具合、その他、美紀の亡くなった状況からしても、そのサイズは全くもって妥当なものだと思われた。そもそも、参列者が本当に少ない。夫婦共々、友人の類は一人も来ていないことは、自殺という形で亡くなった特殊性を差し引いても、二人の東京での生活ぶり、その社会の隅で、その関係性を可能な限り最小限で済ませ、ただひっそりと生きてきたことを、まさにそのまま投影するようで、それがあまりにも見えてしまう周作には、なんともいえない感情が入り乱れ、ふと健作の方を見た。
死んだ父親譲りの、こけた頰を緊張させながら、遺影を見入っている健作の、そのサイズの大きい黒い喪服の着こなし、首を前に出した独特の姿のやり切れなさに耐えきれず、周作はすぐに目をそらせた。
健作と周作の父親、隆司が64歳でこの世を去ったのは、その時から10年ほど前の年の、確か秋頃のことだった。拡張型心筋症という、心臓の難病であった。根本的治療法は現在でも心臓移植しかないという難病である。
滅多に病室には足を踏み入れなかった周作ではあったが、それでも何かの折に広子について病室に入った時、隆司が自分の病気を説明するのを周作は聞いた。
「心臓がそれこそ風船のように膨らんで、結果、心臓の壁がペラペラの弾力のないゴムのようになる。結果、心臓がポンプの役割を果たさなくなる病気だ」
自分の患者に診察の時にするような、分かり易く例えた説明をして、ふっと力なく笑った後、軽い咳を、かっかっかっとした。広子がここぞとばかりに、甲斐甲斐しくその背中をさすった。今でもその光景を周作は鮮明に覚えている。これは長くはないな。周作はそれを全くもって乾燥した事務的な気持ちで見守っていたのではあるが。
広子の話では、本人は亡くなる前、それこそ3、4年前には、その職業による専門性からであろう、なんらかの不治の病に侵されていることを感じていたようだ。
「お父さんはね、オーストラリアへの旅行で、アボリジニの山に登るツアーで、たった百メートルくらい登っただけで、はーはーと息をして動けなくなっちゃったの。それでツアーのガイドの人からも、ヒーイズタイヤード、なんて言われてね。その時に、お父さんは、これは何か絶対、おかしいなあと呟いていたわね。その時にはもう、なんらかの形で悟っていたのかもしれないわね」
広子が話すのを周作は聞いたことがあった。
亡くなる1年くらいまでは、入退院を繰り返しながらも、なんとか自分の診療所での診察は続けていた。出身校から、代診の医師を頼んでまでも、隆司が診療所を閉めなかったのは周作は意外な気がした。
「続けることが大事」
そう言って隆司はギリギリまで診療所を開け、全ての患者を、最も適切と思われる同業に完璧に引継いだ後、静かに自分の診療所、井上胃腸科を閉院させて、自らも最期のときを迎えるために、ひっそりとその街の市民病院に入院したのだ。循環器内科であった。
父親の通夜葬式は、周作からしてもびっくりするようにたくさんの人々が訪れた。隆司の生前の頑な意思があって、喪主は長男である健作が勤めた。その役には間違いなく不的確であることは、誰の目にも明らかであったが、隆司は自分の長男である健作にそれをさせるよう、強く言い残していた。その隆司の気持ちは、周作には正確には測りかねる。しかしそこには、恐らく隆司なりの意地があったのではなかろうか。
無論、隆司から見ても、著しく社会不適応体質の健作が、その役には不適格であることは、実の父親であるから十分過ぎるほど分かっていたはずで、人間性、その他諸能力。元軍医であった、祖父の趣味が水彩画であったことだけでは、その由来が説明のつかない、あまりにも秀でた美術的能力以外のその他全て、残念ながら健作は何一つ父親の期待に応えなかった。しかし医系の家系である、井上家の長男であることの、何か家柄的自負、プライド、そういったものを隆司はやはりもっていたに違いない。そして、同じく自分の長男である、健作に対して、何かそんな思いを引き継がせたかったのではなかろうか。喪主を健作に務めさせたい思い、そこには、周作が分析するも、どうしてもそんな気持ちが関連していると断定せざるを得ない。
たくさんの人が集まる、葬式の喪主に健作を抜擢することは、まさしく大型ショベルを用いて、金魚すくいをさせる、式のあまりにも著しい目的外利用である。そのしわ寄せは、当然、全て周作が負ったのだが、その中でも健作の社会的能力の著しい欠如ぶりを見せつけられたのは、喪主として、最後のスピーチの原稿作成である。
「おい、喪主、さすがに読む原稿ぐらい自分で作れや」
ほとんど全ての雑事を一手に引き受けて、てんてこ舞いであった周作は、いい加減に完全に腹が立って、健作にノートと鉛筆を投げつけた。もちろん、妻の美紀がいないところではあったが。
しかし、実家の自分の部屋にこもって、それこそ、皮肉なことにも昔、その部屋でまさに計算問題を間違えて父親から平手打ちを食らった机の前で、じっと座って、正確に2時間経っても、今度はその父親を送るための原稿が、ただの1行も書けなかったことは、隆司にとっては、人生をかけて長男への期待を裏切られ続けた、その総決算と言うべきであろう。
「おい、喪主、2時間経って、ただの1行もかけないとは一体どうなってるんだ。何していた」
弟である周作が、兄に詰め寄ると
「な、何を書けばいいのか、全く分からない。お、思い浮かばねえ」
さすがに、何ら喪主としての一般的な役割を果たしていない後ろめたさから、弟である周作に対してさえも、しょぼくれて答える有様に、さらに逆上した周作は
「おい、喪主、そこに一緒においてやった、葬儀屋のマニュアルの中で、ご丁寧にも最も一般的な文例を載せているのに、それでも書けないとは一体どういうことだ」
と締め上げると、どこをどう変えていいか分からないとの趣旨。その文例が、サラリーマンを務め上げて、隠居した老人が亡くなった設定であることは、確かにその通りなのだが・・・・応用して書くということできないのか、お前は、というのをギリギリでこらえて、これはもう諦めて自分がやった方が余程早い、そう判断した周作は、リビングで通夜に参加した人のリストを、パソコンで淡々と入力していた美紀に
「美紀さん、すいませんが、この文例、全く同じように写して打ち込んでもらえますか」
マニュアルの該当ページの文例を指差して、特に「全く同じように」の部分を強調して言ったにも関わらず
「私、文章書くのは苦手だから・・・・どうしようかしら」
などとまた見当違いなことを言うのを絶望的な気分で聞きながら
「いえいえ、名前を打ち込むのと一緒で、ただ全く同じように写せばいいんですよ」
努めて、ゆっくり丁寧にいうと、理解したものとみえて、なんとか打込み作業を始めた。その後ろ姿は、テキパキと働く事務職員、のイメージからは全く対極にあるスタイルであった。
それは六本木にあるという、なにがしという名のビルに住んでいたらしい、有名実業家のいうところの、「想定内」という表現がまさに当てはまる、残念ながら予想された人材力であった。なにぶんにも健作という男を夫に選んだという、その判断力からして、それは致し方ないというべきであるな、周作は大変にも恐縮ながらもそんなことを思ったのである。
結局、美紀の打ち込んだサラリーマンの人生を、5分で地域医療に少しは役に立ったかもしれない、町医者の人生に周作は書き換え、これで体裁は整うであろうとプリントアウトして
「おい、喪主、あんたはただこれを正確に読めばいい、分かったか」
そう言って、A4の紙を乱暴に健作に差し出した。
すると健作は、大変な重責を担ったかのようなうろたえ方で
「こ、これを、大勢の人の前で、よ、読むのか・・・・相当やばいな」
とのたまうのを、もう完全にスルーして
「日本語で書いてあるから、なんら問題ないはずだ。喪主、ただそれを読めばいいから。もし自信がないなら、とにかく何度も声を出して、練習すればきっと大丈夫だ」
と、諦め気分でかえって親切に、その重責を全うしてもらえるように激励した。
たまたま、近くにいた、広子の実の姉である、周作らにとっての叔母が失笑して
「シューちゃんも大変ね、いっそシューちゃんが読んだらいいじゃない」
と無責任なことを言うのは、まあ無視しながらも、それが出来れば一番いいんだが、その制約付きなところをなんとかしないといけないことが、ここの局面の一番の醍醐味なんだろうに、と胸の中でしゃべりながら、元の任務である、総合監督、かつ営業担当兼、その他雑用担当の、なかなかやりがいのある、任務に戻ったのである。
こと、この手の葬祭事というのは、普段は絶対に会社組織的ではない、普通の家族というユニットが、突然、にわかに会社組織的に、それぞれが役割を持ちながら、普段経験しないことを、かなりタイトに期限を区切って処理する急ごしらえの「にわか会社」になること、と表現してもいいはずである。ただ、普通の会社と本質的に違うのは、利益を生むために動くわけではないという点であろう。
営業部門の全てを一手に引き受けた周作は、やれ、どこどこ医師会事務局長の誰それ、とか隆司の大学時代の同門のなにがし、とか、おそらく二度と会うことのない人々に、まともな会社運営をしている様をアピールすることになるのだ。特に、周作が同業の医者にでもなっていれば、まだそこには職業上の活用性はあるのだろうが、別段、医者になったわけでもない、いや、工学部を卒業した後、とあるまあまあ有名な電気メーカーに就職してサラリーマン生活を送った後、突然、医学部を目指して、田舎県の国立医大を2年連続して受験して、見事に二度とも落第した周作からしたら、実に煙たい存在の人達である。
「おー、隆司くんもこんな跡継ぎいれば、安心して天国から見ていられるわな」
この手の勘違いに対しての、応対には実に苦慮したものである。
喪主の行う、葬式での最後のスピーチは、まさしくこの事業のクライマックス、というべきであろう。
健作は、もちろん暗記などできるはずもなく、周作がプリントアウトした紙、それはかなり使用感のある感じになっており、手垢まみれになっているのが分かったが、それを大事そうにもって、クライマックスに望んだ。全く前を見ることなく、ひたすら原稿を直視し、文字通りの原稿読みであった。周作がそれなりに感動を狙ってひねった部分が、まるで原作者の意図通りにならず、実に忸怩たる思いであった。大変大げさないいかたをすれば、映画化された作品の原作者の気持ちが、周作には分かった気がした。
「・・・・・ご近所の皆さんの、ご健康に、ほんの少しはお役に立てたかもしりり・・・・えー、立てたかもしり○△□・・・・・しれりところは、今となりましては、残された家族としては胸張りたい部分ではあります・・・・・」
健作は、極度に緊張しているのが丸見えで、震える手の振動が、持っている紙に伝達してその振動の振幅が、さらに増幅して大きな振動になって視覚化され、見ている周作の方が、緊張してしまうほどの有様、無事乗り切れという気持ちと、なんかおかしなことをしでかせばいいのに、との意地悪な気持ちが混じってしまい、その不謹慎さを、少し自分でも内省した。
周囲を見ると、親戚の者たちも、ヒヤヒヤとしているのが手に取るように分かり、こういったことも含めて、この事業は実に面白い部分もあるな、と思うのであった。一方、どうして、実の父親の葬式に際して、こうも事務的冷静に対応してしまうのか、周作は自分でも少々、申し訳ない気がするほどであった。
ただ、毛嫌いしていた父親ではあるが、一方で、実家近所で、ほとんど四半世紀ぶりに顔を見るような、どこそこのご婦人が
「お父様には、主人の胃がんを、本当に早期で発見してもらい、そして手術してとうとうもう5年経ちました。それなのにご本人は先に逝かれるなんて・・・・・」
などといってハンカチで目元を拭うさまをみると、なんともじーんとくるような経験もあり、なるほど確かに、それぞれに家庭とは違う一面を、やはりどこの父親も社会の中ではもっているものなんだ、と思うのであった。
葬儀終了後、ある親戚が周作に近づいてきて
「あの文面、作ったのシューちゃんだろ?なかなかいい内容でよかったって親父が褒めてたぜ」
などと言われると、ちょっと嬉しくて、周作は得意な気持ちになってしまった。
このようにして、何とか無事事業を終了して、この「にわか会社」は解散するに至った。
世間では、もじゃもじゃ頭の一風変わった政治家が、ワンフレーズ政治と揶揄されながらも、長期政権を維持していた頃の話であった。
9
豊島区での葬儀会場では、葬祭コーディネーターが柔和な物腰ながらも、少し緊張感を持って
「住職さんが、後5分ほどで到着されますので、皆さん、お席にお座りになってお待ちください」
と祭壇の方へと招いた。
学校の体育館で、卒業式の時には必ず置いてあるような、あのパイプ椅子が並んでいる、その数は、たった2列で10個余り、それでも全部埋まることはなかろう。結局、譲り合いながらも、前列の真ん中に健作とその膝の上に美菜、そして広子、さらに弦作さんたち夫婦、後列に周作他、兄弟たちが座った。
その際、美紀の眠るお棺の顔の部分を開けて、登紀子や、実の姉である香織は手を合わせていたが、状況が状況だけに、周作はとてもその勇気は無かった。
住職が到着して、何とも事務的な通夜が始まった。全く無宗教の井上家といえども、隆司らの葬儀には、周作の祖父、祖母ら代々の葬儀や法事の際にはいつも世話になった、いわば、顧問住職、恐らくこういうのを、その住職からいったら檀家と呼ぶのだろうが、実家の近くのどこそこ寺のよくみる住職が、必ず来てはお経を上げ、それ程ありがたくもない、いや、間違いなく少々はた迷惑な説法を長々と説いて、無論、それに対しては忍耐力と御仏のこころに欠ける周作は、説法早く終わらんかなこの坊主、などと胸の内で悪態をつくのではあったが、その後、身内らが膳を囲むいわば食事会にも、住職は最初の少しだけ参加しては、最近の社会情勢などをごちゃごちゃと喋っては、一人先に帰っていくのがパターンであった。周作はその寺への車での送りも随分させられたから、顧問住職の関わる感じについては、体得しているものではあった。
しかし豊島区では、有能なコーディネーターさまが、この日、この時間に、この近代的な葬儀場に来ることのできる、住職さまをそつなく確保してブッキングしていたものとみえて、恐らく、二度と会うことのない、この住職さまは、時間通りにしっかり任務を果たしにやって来たものである。一式、お経などの例の一連のオペレートを実に着実に済ませていった。
お焼香は、型通りに行われ、席順通りに行われた。所詮、「にわか会社」を結成することも何ら不要な事業規模であり、さらに、今回は外部から有能な執行役員が参入していたから、少なくとも、周作は完全に参列者に徹することができた。焼香も少人数であるが故に、申し訳ないほどすぐに終わってしまい、お経がその後しばらく続いた。隆司の時にはお経が終わっても、なお参列者の焼香が続いていたのであるが。
こういった、自殺した人の通夜葬式については、坊さんはどういった対応を取るのだろうか、この点が、周作にとってはその時の最大の関心事だったが、やはり一切そのあたりには触れることなく、無難でかつ、手短にいわゆる説法なるものを、それこそ実家近くの住職と比較すれば、時間にして恐らく5分の1程度に簡潔にまとめると、忙しそうに葬儀場を後になさるのであった。
お経の際、美菜ちゃんが耐えられるのだろうか、これも関心事ではあった。周作がまだ幼い頃、何かの法事の時に初めて聞いたお経が何かひどくおかしな歌に聞こえ、子供ながらにバカ笑いをしてしまい、父親に、後でこっぴどく叱られた記憶があったから、美菜がどう振る舞うかを周作は興味深く見ていたが、美菜は至極おりこうさんに、健作の膝の上にちょこんと座って、静かにそのお経を聞いているようだった。この点では、周作よりもずっと優秀な美菜であった。美菜は一体、数日前まで一緒にいた母親が、今や祭壇の真ん中を飾る青い背景の写真になってしまった事実をどう捉えているのだろうか。それは誰にも分からない。しかし、父親である健作にまとわりつくことはあっても、少なくとも例の高い高い事件の後のように、母親を求めて泣きわめくようなことは一切なく、いつもより多い人々に囲まれているのにも、今はすっかり慣れたようで、いろいろなものに興味を示し、ちょろちょろと動き回っている。
健作は、さすがに自殺した妻の亭主であるから、例の無責任体質は相変わらずではあるが、今回はその責任や、その起きてしまった事件への取り返しのつかない重大さを、さすがに全身で受け止めているようで、住職への対応、そして葬儀コーディネーターとのやり取りに必死に取り組んでいる。しかし妻に突然自殺されたそのショックはといかなるものなのか。もはや周作には異次元の心情世界である。周作は今回は
「おい、喪主・・・・」
などと、絶対に関わったりせずに、ごく客観的にその取組み方をみる姿勢に徹すること、これは硬く決めていたのだ。健作は、無論頼りなさではいい勝負というか、その生みの親である広子と、何やらやりとりしながら、少ないながらも参列者たちの対応、香典のこと、葬儀業者とのやりとりや、引き出物の選定、など細々したことを決めながら、何とか進行役を務めているようだ。
そして、この小規模な事業で、しかも通夜ではあるが、一旦のクライマックスが訪れた。喪主のスピーチである。しかも、今回は無理な人選というべきではなく、ごく自然に務めるべき立場の喪主である。どこで、いつ用意したか、周作は無論知らぬが、かえって滑稽ながらも律儀に原稿を手に持っており、それは例のごとく手垢にまみれた、使用感いっぱいの紙であり、その揺れも前回事業と全く一緒であった。
「こ、この度は、このような形でつ、妻をなくしてしまい・・・・本当に申し訳ない気持ちです。ほ、ほんとにこ、後悔ば、ばかりです・・・・」
即座に「全く、その通りだよ。一体、どうして自殺するまでほっといたんだ」周作は怒りにも似た気持ちを少なからず持っていたから、胸の中で叫んだ。
ごく、身近な者しかいない、この通夜でさえ、原稿まで用意するのも変だし、それを用意するにはあまりにも短いスピーチなのであるが、それでも前回事業に比べれば、随分、感情のこもったスピーチになっているのは、その責任の重さの痛感さ故であろう。その短さでも、あー、やら、うーやらが混じってしょっちゅう言葉に詰まるのは、それはこういう場合によくある、高まる感情によってそうなるのではなくて、人前で話すことの、極度の苦手さが主原因である。首をちょっと前に出して、しゃべりにくそうにしゃべる、予想通りのスピーチを、一方で醒めた気分で聞きながらも一体、自殺するまでに、どうして至ったのか、ここは絶対にその原因究明だけはせねばならない。周作はこれだけは固く胸に誓ったのである。
弦作さんは、一体いかなる気持ちなのだろうか、このような状況を生んだ健作への心情なども考えながら、弦作さんをみると、彼は職人のそれらしい拳をぎゅっと握りながら、美紀の遺影を見ているようだった。隣の実の母親である登紀子は、たまにハンカチを目元に当てながらも、取り乱すことはなく、感情を抑えている様子。コーディネーター殿の実に慣れた、ナレーションで通夜は締めくくられ、その後は通夜の膳を囲む場となった。
葬儀場の2階は、そのような場のために、畳のそれなりに広い部屋が用意されていて、既に膳が並べられていた。広い部屋に、あまりにも少ない膳が並べられていて、そのアンバランスさが、この通夜や、健作夫婦の特殊性を象徴しているようだ。
「喪主さま、お飲み物はいかがなさいますか」
中居さんに聞かれて困っていた健作に代わり
「美紀は少しはたしなむやつだったから、健作君、ちょっとだけ頼もうか」
弦作さんに言われて、健作は、それではとおずおずとビールを4、5本注文した。
また、健作のしょぼくれた言葉の後、通夜の席は始まった。
皆、ビールを、コップに一杯飲んだら随分、気持ちがリラックスしたとみえて、顔を既に赤くしている者もいる。ここ数日のドタバタから、みんな、どっと疲れが出た模様。その反動から、コップ一杯で随分陽気になってしまった。また、悲劇的な亡くなり方をした美紀を、それでも明るく見送ってやりたい、各自のそんな想いもあったのであろう。
自然と話は美紀の子供時代の話になった。登紀子は、昔を思い出すような顔つきで
「あの子は、お姉ちゃんとの成績の違いとかで、随分と悩んでたみたいです。学校の成績でも、いつもお姉ちゃんより下で、クロスカントリーやっても、まあお姉ちゃんのように活躍するような選手にはなれなかったりで。私は、そんなこと気にしないでいいと、常に言いましてね、あなたは、あなたらしく生きてくれれば、それが一番嬉しい、そう言って随分言い聞かせていたんですけどね」
などと言うと姉の香織は、苦笑しながら
「美紀ってそんなに私を気にしてたの。私なんて、全然大した選手じゃなかったのに。まあ確かに、あの子は何でも悲観的な思考パターンだったけどさ」
そういって、ビールで赤くした顔を冷やすように軽く顔を横に振った。
「まあ確かに、意外と兄弟って、全然違う性格だったりするもんなあ」
弦作さんはそう言って
「うちのせがれたちも、女の子にモテるのは常に兄が上、下は、女の子に興味があっても、すぐ意地悪して、俺なんか、しょっちゅう小学校に呼び出されたもんなあ」
「おいおい、親父、そういうことをこういう席で言うなって。あれは、俺が根っからの早熟でマセていたからだよ。こうみえても、俺の三枚目キャラも、高校くらいから急激に受けて、いっときは大変だったんだぜ」
結構、熱く抗議する次男くんが面白くて、皆どっと笑ってしまった。
新潟の人々はやはり、皆いけるくちとみえて、すぐに空のビール瓶が並んでいた。美菜は畳に置かれた空の瓶に興味を持って、中をのぞいたり、横にして、畳の上で転がしたりして楽しそうに遊んでいる。健作は、美菜だけはどうであれ、可愛くて仕方ない様子、それこそ、目に入れても痛くないとは、こういうことをいうのであろう。娘と接する時の笑顔だけは、頰のこわばりを完全に解除して、好相を崩してあやしてやっている。
「パパ、これびんだよ。びんだよ、みなちゃん、パパにわたすね。わたすね」
「美菜ちゃん、うん、頂戴、頂戴、パパに頂戴」
健作は、大人とのコミュニケーションは取れなくても、自分の子供となると、全く別次元であるようで、意外にも、ごく自然な態度で、これくらいの歳の娘の父親として、公園なんかでよく見かける、溺愛感をいっぱいにして、優しくあやすあの感じができており、ごく標準的な睦じい父親にみえるのは意外であった。美菜は、自分の体の3分の2はあるようにもみえる、空のビール瓶を、それこそ、新幹線を持ち上げる、ゴジラを思わせる比率感で持ち上げ、得意げに健作のところにヨタヨタしながら、運んでいっている。
「はい、パパびんだよ。みなちゃん、びんもってきたよ」
「おー美菜ちゃん、偉いねえ。じゃあパパ、瓶もらっておくね。ありがとう」
さらにバイトと思われる、大学生くらいの女の子たちにも美菜はどんどんと積極的に愛嬌を振りまいて、すっかり美菜は彼女たちの心まで奪ってしまっている。健作と女の子達の間を、何の意味があるのか不明だが、何往復も、なかなかのスピードで駆けっこして得意げで、それこそ小さなクノイチ忍者のようなすばしっこさを見せて、至極得意げな顔をしてケタケタ笑って嬉しそうにしている。ここだけ見たら、とても通夜の会場とは思えない雰囲気である。
子供とは偉大である。美菜は再度、女の子達に近づくと
「おねーちゃん、おねーちゃん、だっこ、だっこ、だっこちて」
とねだる。
これには女の子たちも、嬉しそうで
「お父様、だっこしてもいいですか」
なんて聞くもんだから
「ど、どうぞ、も、もちろん、だ、だっこ、ぜひ、してあげてください」
酒を飲むと、すぐに顔が赤くなるのだが、その顔を崩して、照れながらも嬉しそうに答えている。美菜はすっかり、女の子たちの心にも取り入ったようで、きゃっ、きゃっと言いながら、嬉しそうに女の子たちに遊んでもらっている。
女の子の一人が瓶を片付けようと、両手にそれらを一本づつ持って来るのを見るとすぐさま美菜も駆け寄り
「みなちゃんもてつだうよ。てつだうよ」
と必死で主張するので
「向こうのちょっと遠いところまでだけど、美菜ちゃん持っていけるかなあ、大きいし、重たいよ」
女の子が心配するが
「みなちゃん、だいじょうぶだよ。できるよ。できるよ」
そう言って、残っているうちの一本をよいしょと一生懸命な顔で持ち上げると、瓶が歩いているのか、ともいえる、またもや笑いを誘う、へんてこりんなスケール感のもと、ヨタヨタとバイト嬢を追いかけて瓶の回収を手伝うのだ。バイト嬢も美菜を引き離さないように、十分注意しながら、笑顔で
「美菜ちゃんこっちだよ。すごいね。えらいね」
などと、いうものだから、すっかり美菜は得意満面の笑みで、とうとう流しのある奥の方まで持っていってしまった。
全く明るい様子の美菜を少なくとも、周作はなんとも複雑な心境で見つめた。他の大人たちは一体、どのような気持ちでこんな情景を見ていたことだろうか。
広子が手洗いにでも行くのか、席を離れたのを認めると、ずっとそのチャンスを狙っていた周作は少しタイミングをずらして、自分もそれを追った。
捜査は開始されねばならない。それができるのは自分だけである。周作は、政官にまたがる重大事件に着手する、地検特捜部長並みの気合いでそれを自負していて、静かな廊下の椅子で広子を待った。しばらくすると、花柄の品のよさそうな風合いのハンカチをハンドバックに戻しながら、広子が出てきた。
広子は周作の姿を認めると、なに、という顔の表情をするが、周作は無言で椅子を指差して、座れ、と顔を横に振った。
「一体どうしてここまでなるまでほっといたんだ。それなりに兆候もあって、東京にもかなり頻繁に行っていたと聞いている。健作ともども、全く策を打たずに、ここまで放置した結果がこれだ。おい、あんた、聞いてんのか」
広子は、しばらく無言でいたが
「あんたのそういう言い方は、死んだお父さんにそっくりね」
ひんやりとした言い方でそんな言葉を発してくる。最も指摘されたくない事実である。
遺伝とはとんでもなく、恐ろしく精巧にできている。周作自身も、結果的にびっくりせざるを得ないのだが、母親を攻め出すと、その言い回しが、どういう塩梅か自分でも不思議で仕方ないのだが、死んだ父親が、健作の不良な学業成績や、もっと踏み込んでその計算問題の解き方の手際の悪さを細かくしつこく指摘する時の、独特の言い回しに異常に似てくるのだ。
毛嫌いして、遠ざけまくっていた、実の父親と似ていることだけは、気持ちの上では激しく全否定するくせに、こういう時の言動のパターンが、全く意識しないのに勝手に似てくるという現実、この恐ろしい現実に、また周作自身も薄々気づいているという、この喜劇的事実には、周作は遺伝、というものの精巧さ、精緻さというものをもって仕方なく認めるしかないのである。
ただ、思うのは、顔とか体格とか、そういういわば原始的、形骸的な部分が似てくるのは、生物学的にも納得がいくのだが、一方、ある状況においての、その言い回しとか、そういったかなり脳の高次機能に関わる、相当抽象的な事象についてまでも相似的である時、この事実には驚きが隠せない。因果関係が生物学的にもかなり間接的である部分においても、訳も分からず本人も意識せずに似てしまうということは驚異的である。23世紀の分子生物学でも、このことは解明できないだろう。
「年が明けてね、1月も中旬くらいになったところでね、ケンから電話でSOSがあってね。美紀ちゃんが、家事が全くできなくなっちゃったって。それでとにかく東京のあの家に行くと、それこそ散らかっててね」
広子はおずおずと説明を始めた。
「例えば、敷布団なんかもね、裏を見たらカビが生えてたり、美紀ちゃん、食事の用意もできないみたいでね、コンビニの弁当の容器がキッチンに積み上がっていたり。美菜ちゃんがお腹を空かせても、それこそ出来合いのものばかり食べさせててね。それでとにかく、私、すぐにきれいに掃除をしたんだけどね」
周作は、年末に、会員制宿泊施設、ゼクシブで最後にあった時の美紀の姿を思い浮かべていた。元々丸々としていて、どう考えても、少し運動した方がいいと思われる体型だったが、その頰はびっくりする程げっそりとしていたし、目にも力が無く、それでいて子供に関することばかり、必死で広子に話していた。その全ての言動が、色濃く負のオーラに包まれた内容ばかりであることに周作はびっくりしたのではあるが。夕飯時には、美菜にご飯を食べさせていた美紀だが
「板橋区の児童センターなんかに行くと、美菜なんかより1年くらい小さい子が、もう箸なんか完璧に使えるようになっていたんですね。他にも美菜が出来ないことで、できるようなことがその子にはたくさんあったり」
広子はそれでも育児においては、確かに二児を育てた大先輩ではあるから
「2歳で箸なんか使える必要なんか、全然ないのよ」
などと、かばう。それに関しては、我関せずという態度で、膳の上に載せられた、中居さんが火をつけてくれて、丁度いい頃合いに燃料が切れて食べ頃になる、あのよくある方式の一人鍋の、白子の旨さに夢中であった周作でさえも、そんなもん、成長過程での差に過ぎないだろうに、2歳で箸なんか使ったら、かえって可愛さにかけるだろうが。そもそも、俺なんか、小学2年になっても、正式な箸の持ち方が出来ずに、父親から散々怒鳴られて平手打ちを食ったが、今ではこんな優秀な男に成長しているぜ、などとツッコミを入れながら、耳だけは興味深く美紀のその手の話に傾けながらも、和食のコースを好き勝手に堪能して、どうせ支払いは母親持ちだぜと、いも焼酎で外で飲んだら高価そうな銘柄も積極的に手を出して、一人ロックで堪能して顔を赤くしていた。
周作は、芋はがぜん、ロック派であった。
「そもそも、私、児童センターみたいなところに行っても、お母さんグループとかにどうしても入れなくて。みんな、子供を介して、すぐ仲良くなったりするのに、私にはどうしてもそれが出来なくて・・・・。思えば、会社とか行っても、なかなか人間関係に悩むこと多かったんですけど・・・・だから中々続かなくて」
「子供がらみの集まりなんて、みな億劫なものよ。でも仕方ないから繋がっているだけで」
広子はひたすらかばう役に徹するが、美紀の負のオーラは、規模をどんどん拡大して、負のオーロラぐらいにはなりそうであった。
一方で、周作は、そのげっそり痩せた美紀の変化や、その言動、さらに過度に子供のことばかりに向く志向に、明らかな異常さをすでに薄々感じていて、これは精神衛生上、美紀の限界を超えているに違いない、いわゆる育児ノイローゼ的であろうな、と分析、早めに街の精神科のクリニックにでも受診した方がいいだろうに、と判断していた。しかしそれを母親に強くいうほどには、その時の周作はやる気をもってなかったし、そもそも、美紀の気質からくるものであるから、まあ仕方なかろうに、などとも考えていた。広子の話を、葬儀屋の2階の廊下で聞きながら、その時のことを回想して、やはり、あの時の自分の分析は正しかったのだ、と思った。
「このまま帰るわけにはいかないと思ってね、私はその後、しばらく板橋に泊まり込んでね」
広子は、それでも二児を育て上げた、専業主婦としては大先輩としてのプライドもあったのだろう。しばらく家事を手伝うために、板橋に滞在して、美紀をサポートしたのは確かなようである。そして、これは確かに夫婦子供の3人で暮らすことは難しそうだ、との珍しく適切な判断をした広子は、新潟の美紀の母親、登紀子と相談し、1月の下旬から、一週間交代のシフトで、広子は東海道新幹線で、新潟の登紀子はその頃には延伸していた長野・北陸新幹線で、板橋区のその分譲マンションに来ては交代で詰めるという、相当に重大かつ大掛かりな作戦が決断されたのであった。
「その頃には、美紀ちゃん、夜、寝られないとこぼしたり、あと、ご飯も全然食べられなくてね、元々はよく食べる子だったのに。そして次第には朝起きてこられないようになっていてね。話す内容も本当にマイナス志向のことばかりで。美菜ちゃんが自分に全然懐かないとかいったりね」
ここまで来れば、さすがに当然、何とかしなければ、と判断するのは普通であろう。いや、周作からいえばもっと早く手を打つべきであった、と評論家的には思うのであったが、嫌がる美紀をかなり無理に連れて、精神科のクリニックを受診させたのは、登紀子が詰めていた週、2月の初旬のことであった。診断は、育児負担によるうつ病。なるべく育児負担を減らすように、との主治医の指示のもと、抗うつ薬の投薬が始まった。
しかし、美紀は薬を飲むことをなぜか嫌がったらしい。
「あちらのお母さんは、相当、厳しい口調で薬を飲むように美紀ちゃんには言ってたのだけどね、それでも美紀ちゃんはきちんと飲むようにはできなくて。そんな状態でね、お医者さんに行くと、お医者さんは、神経伝達物質がどうの・・・・とか専門的なことを説明してね、薬をきちんと飲むことが大事、とおっしゃったのだけどね」
広子が回想して言うのだった。
うつ病は、現在では脳の神経伝達物質に関わって起こる、脳という臓器の機能不全であると、医学的には考えられている。脳の神経細胞同士は、ネットワークを作って情報のやりとりをしているが、そのやりとりをしているのが、シナプスと呼ばれる場所だ。このシナプスという部分を経由して、情報を伝える側をシナプス前細胞、情報を受ける側をシナプス後細胞と呼ぶ。そして厳密にいうと、シナプスには僅かながらの隙間があって、これをシナプス間隙というのだが、この隙間には、いろんな種類の神経伝達物質で満たされており、それらの物質を通じて神経が情報のやりとりをすることで、脳は活動しているのだ。
結局、人間の行動、会話、高次の思考、そういったものは、すべて脳の活動から生まれるわけだから、その極めて高次で複雑な動きが、煎じづめれば実は神経伝達物質という、化学物質の動きで制御され、生まれているという事実は本当に興味深い。いわば深い人間らしい感情とか、情動、情緒、そういった形のない高度に人間らしさを与えている、心というものの本態が、実は文字通り物質的である、まさに化学物質に由来するという事実は本当に興味深いと思うのである。これこそが、周作が医学に興味を持った原点である。
昔、高校の物理の教科書の扉に、エックス線の現実的応用の例としてCTの断層写真が載っていたのだが、これが脳の輪切りのそれであった。周作はそれを授業中にしばしばうっとりと眺めては、その得体の知れない脳の神秘に思いを馳せるのであった。
そんな風だから、脳の仕組みについては、広子が昔うつ病と診断されて以来、随分ウィキペディアで色々調べてしまった周作なのだった。
それにしても広子の話を聞いても、肝心の健作の話は全く出てこない。根っからの無責任体質の健作は一体、何をしていたのか。
「おい、健作のやつはさっさとSOSだけは出した上で一体何をしてやがったんだ」
その気持ちは「おい、喪主」とイライラしていた時のあの感情を周作にそのまま思い出させた。
「あの子はそれでも、昼間は働いていたでしょ。そもそも、あの子は家事とか、その他家のことや、家計のことなど、全く我関せずで一切美紀ちゃん任せきりだったみたいでね。でも美菜ちゃんのことは本当に可愛がってたわね。仕事が終わって帰る頃になると、玄関がうっすらと見える、リビング内で磨りガラスになっているところがあるんだけど、そこに美菜ちゃんはね、それこそ鼻をこすりつけるように見ててね、ケンが帰ってくるのを楽しみに待っていたから。ケンが帰ってくると、それはそれは喜んでね、ケンの胸に飛び込んでいってたのよ」
「・・・・」
「美菜ちゃんをあやすのも、美紀ちゃんよりはケンの方が上手だったわね。ある日ケンが仕事帰りに買ってきた、子供用のゴルフセットがね、美菜ちゃん、すごく気に入ったみたいでね、ケンがね美菜選手、ここはアイアンを使ったらどうでしょうか、なんてこといって、美菜ちゃんに打たせて、それが勢いよく廊下を飛び出していったりすると、ナイスショット!なんてケンが言うもんだから、美菜ちゃんはきゃっきゃっと喜んで喜んで」
この時ばかりは、広子も顔を緩めて話した。
「でもね、うつ状態である美紀ちゃんからしたら、その情景を目にすると、私には美菜、なんでなついてくれないんだろう。なんて捉え方になってしまうのね。だから、美菜は私には全然なついてくれなくて・・・・なんて、ケンが仕事に出て私と二人きりの時、しょっちゅうぼやいていたんだけどね」
結局、健作は育児のうわべの最も楽しいところだけに関わって、あとは全て美紀に押し付けて、なんら問題の解決をせずに例のごとく、放置したものと思われる。そして、妻に家事がしてもらえなくなったところで、困って広子にSOSを出して対応したのであろう。
あと、もうひとつ懸念していたことを周作は広子にぶつけた。
「そもそも、あんな分譲マンション、健作は買って大丈夫だったのか。健作の稼ぎがいいとはとても思えないが」
「実はね、美紀ちゃん、育児のこともそうだけど、経済的なことも随分悩んでいたみたいで。毎月赤字だって。でもケンが今度ばかりはちゃんとしたところに住みたいなんて推し進めてしまったみたいで。私も随分、購入の際の頭金、手伝ってあげたんだけどね」
「一体、どのくらいの収入に対して、ローンを毎月どれくらい払っているんだ」
それを聞くと、広子はしょぼくれた目を左右に揺らした上で、誰もいる訳ない廊下に、それでも、誰もいないことを確かめるそぶりをした上で、声のトーンを落として
「それがね、ケンの手取り、実は月にして20万くらいらしいんだけど、ローンや住宅関係の固定費で月10万はかかるみたいでね・・・・」
それを聞いて、周作は愕然とした。生活費が3人で10万で足りるはずがないではないか。
「は、はあー、なんだよそのローンは、一体何を考えているんだ。そんなもん、ありえんだろうに。おい、健作は正気なのか。」
「・・・・」
「だいたい、あんたも一体何考えているんだ。もちろん知った上で、頭金、一部工面してやったんだろ。おい、あんたら一体何考えているんだよ、おい、お前ら正気なのか」
周作はほとんど怒鳴りつけていた。
広子は、周作の剣幕に対して、それでもどのくらいこたえているのか、よく分からない顔つきで、とはいってもやはりしょぼくれた目を小刻みにゆらしながら
「ケンはね、いずれ美紀ちゃんも働くようになるから大丈夫だろうとかね、そんな風に言ってたし、私としても、子供もできるし、今までのようなところではいけないから、なんて思ってね」
「があ・・・・」
周作は絶望的な気分になりながら、もう唸るしかなかった。死んだ美紀が、なかなか仕事が続かないことくらい二人ともよく知っていただろうに。それなのに、どうしてそれを当てにしようとするのか。生活がままならなくなることなど、目に見えているのに、なぜ、その当たり前の、いや、当たり前過ぎる現実に目を向けずに無茶苦茶な買物をしてしまうのか。
お嬢様然とした、67歳の広子を目の前に、ここにおいてはもはや、例えるなら軽い殺意に似た気分を抱くようで、頭はクラクラして、広子の存在をまるで完全に無視したように周作は、つと椅子を立って畳の部屋に戻った。
部屋では、美菜がきゃっきゃっと声をあげてバイトの女の子たちに遊んでもらってご満悦な様子。皆も顔をほんのりと赤くして、少しくつろいだ雰囲気である。ビールの空き瓶の数もまた少し増えているようである。そんな中、周作は一人、考え込んでしまった。
美紀はうつ状態の中、全てを悲観的に捉えてしまう状態の中、健作が稼いでくる僅か20万ほどの手取りの給与から、毎月住宅関連の固定費だけで10万ほどが無くなっていく現実をどう捉えていたのだろうか。毎月赤字で、どのくらいあるのか知らぬが、預金をどんどん取り崩していく生活、それに直面しながらも、一方で、なんらそのあたりに思いを馳せることなく、単純に美菜に溺愛し、可愛がるだけの夫の姿をどのような気持ちで見ていたのか。そんなことを考えながら、青い背景をバックに丸々とした美紀の遺影をみると、周作はどうしようもない気分になってしまった。
広子は、おずおずとまた、いわゆる上座からすると、最も反対側の端、下座に戻り、澄ました顔で座っている。こういう時に身内の者は、下座に座るのが習わしであることは周作もすでに知っていた。
美菜に求められて、弦作さんは今度は失敗しないようにと、少し赤くなった顔を引き締めて慎重に高い高いを始めた。今度は天井もかなり高いし、はたから見ても安全に思われ、美菜はきゃっきゃっと嬉しくてしょうがない様子ですっかりご満悦である。
周作は、とにかく気分を落ち着けようと、余っているビールを立て続けに2杯一気飲みし、それでもやはり聞いておかねばならぬと、広子の隣に移動し、努めて冷静にそのあとの経緯を広子から聴取した。取調べは粘り強くされねばならない。刑事の気概をもった周作が持っていたのは使命感と、こんな折でもどうしても隠しきれぬ少しの好奇心である。
2月の下旬になっても、美紀の病状はまるで良くなることもなく、むしろ悪化していった。二人の母親たちもさすがに焦り出していた。自分たちも今のシフトをずっと続ける訳にはいかぬが、かといって今の美紀には育児なぞ到底難しかろう。広子は、登紀子に新潟の実家に美紀と美菜を一時戻してはどうかと、さすがに当然の提案をしたようではある。
ところが登紀子は
「この時期の新潟は、雪深くて、空はどんよりと重くて毎日ひたすらしんしんと雪が降るんです。そんな中で長い冬の後半は、普通の人でも次第に参ってきたりするのですね。今の美紀には新潟の環境はよくないと思うんです」
そんな考えだったようだ。そもそも、娘に溺愛していた健作が離れるのを嫌がって反対していたようでもあるのだが、論外である。
もっとも登紀子からすると、嫁に出した娘を簡単に甘やかし、受け入れるようなことに対する迷い、そして何としても自分が東京に出向いてアシストしながら、自分たちの力で乗り越えさせたいという気持ちがあったのかもしれない。しかし、周作は恐縮ながら、判断ミスであろうな、評論家目線ではそう思っていた。この場合、とにかく必要なのは天気がどうのではなく、実家で、実の母親の近くでとにかく安心感をもって育児をサポートしてもらいながら、身体を休めるのが最優先マターであったはずである。
結局、広子と登紀子は二人で行政にも相談に訪れながら、診断書を区役所に出して、共稼ぎでないと原則預けられないという区の保育園に、4月から特例で美菜を受け入れてもらうことで、美紀の育児の負担を減らしていくとの方針を打ち出したのだ。
3月を迎える頃のことだった。
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広子への大体の聴取を終えた後の、今の周作としては、もう健作共々、二人とも早く帰っていなくなると動きやすいのだがと勝手なことを思っていた。
そもそも周作としては、ここは強く言いたいのであるが、これは周作なりの井上家としての責任を一手に感じての、名付けてみれば、愛家精神の発露とも言えるのである。それは隆司が、喪主はどうしても健作にさせる、という強い意志を示した気持ちの根幹となった精神と何か共通する、井上家としてのギリギリのプライド心。健作も広子も、この件に関して、美紀の死に対してその家族にきちんと対峙する、いわば、こういう結果を起こしてしまったことについての新潟へのきちんと責任を示すスポークスマン、そういった役割を果たせるはずがない。自分がそれら全てを担う井上家代表としてしっかりしなければならない、そんな強い使命感、自負心を感じていることだけは紛れもない事実なのである。
幸いにも、最近の葬儀場は、親族用の簡易の宿泊施設も備えており、新潟からの一同は通夜の夜は、そこの宿泊施設を利用していくとのことで、膳を下げられた後も久々に皆が集まった場として、ゆっくりと昔話や美紀との思い出などを語っている。
健作は、突然、妻に自殺された夫としてまだ数日たらずを迎えただけの極限状態で、寝不足、疲労で目を充血させていたし、広子も当然、疲労も限界にきた様子である。周作はぼんやりとしている、広子に近づき
「もう、いいから健作らを連れて3人で今日は家に帰れ。あんたたちがここにいても、できることは何もない。今すぐ帰れ」
冷たく言い放つが
「でも、いろいろ片付けもあるでしょ。あちらに対しても帰ってしまっては失礼じゃないかしら」
案の定そんなことをしゃあしゃあと言う広子に対して
「結論だけを、もう一回繰り返して言う。帰れ。分かったか。とにかく全てを俺に任して帰れ。いてもらってもかえって迷惑だ。おい、分かったのか分からんのか、どっちだ」
強い口調で言って、睨みつけた。
「そうかしら。じゃあ、帰っても大丈夫かしらね」
と言うのに対して、追い打ちをかけるべく冷たく目で促し、最後の駄目押しに新潟の一同に向けては、大変申し訳ないですが、との雰囲気を最大限醸し出しながら
「うちの者たちが、どうにも疲労をためておりまして、明日、結果的にかえってご迷惑おかけするといけないので、今日は家に帰らせます。最後にお焼香だけさせてやってください」
そう、新潟の一同の方に向けて言うと弦作さんは
「お疲れでしょう。明日もありますから健作くんたちは今日は休んでください」
優しくそう言ってくれた。
健作、広子は焼香を済ませると、眠そうな美菜を連れて3人は帰って行った。それを見届けると周作は
「ふう、ようやく帰ったかあ。あの二人組は」
大きくそういって、もう一度ふうっと息を吐くと
新潟の一同が集まる場所へと自分も座った。
「はあ、すいません、うちの愚か者たちが何かと迷惑ばかりおかけしまして」
しおらしげに周作が言うと、ほろ酔いの新潟たちは、苦笑しながらも、この時は普段は礼儀正しい登紀子までも、含み笑いを隠さずに
「シューちゃんも、大変ね。私たちのことは気にしないでいいのよ」
などと、本来は修羅場であるはずの周作に対して、聖母マリアのごとく優しい言葉をかけてくれるのには、周作は全く、100年分、恐縮しても足りない気分であった。
「まー周作くんも、そう儀礼的にならんと、まあ肩の力を抜いてさ」
弦作さんはそんな事を言った。
弦作さんの次男殿が、気を利かせて、近くのローソンで買ってきてくれたおかげで、柿ピー、その他、のしいか先生などの、即席宴会の必須アイテムは全て揃っており、周囲には、大小の未開封のビール、チューハイなどの他に、種々の酒類、日本酒の瓶などが、マンハッタンのビル群を思わせる立体感を作って、ミニチュアの街を形成していた。
「よう周作くん。美紀ちゃんは、あれで意外といける口だったからね、今日はしっかりと弔ってもらわんと、こちらとしても困るんだよね」
次男くんは、これだけは避けては通れぬ道、との緊迫感を演出しながら、体育会運動部の先輩、後輩であるかのような、有無を言わせぬ感じを一杯に演出しながら、何だかよく分からぬコンビニで仕入れた日本酒を、紙コップに並々ついで無言のプレッシャーを周作にかけてくる。実は同い年である次男殿に対しても、こうとなっては一つも逆らえぬ、新入部員の立場をしっかりセルフプロデュースしながら、連日深酒になることは覚悟の上、その紙コップ酒を一気飲みして、なんとか免罪符を得ようとした。
皆、悲劇的な形で亡くなった美紀を、それでも最大限明るい雰囲気の中で見送ってやろう、それだけが自分たちができる、唯一の供養の方法だ、との強い覚悟を感じさせるスタイルであった。今日ばかりは、貯水タンク一杯分の日本酒を飲んでも、周作は酔わない気がした。周作はあらためて新潟一同に
「この度は、不届き者の兄他、我々の取り返しのつかない配慮不足づくしから、美紀さんには本当に耐えられない心労を与えてしまい。結果このような事件に至ってしまったことにはまさに痛恨の極みです」
ここはどんなに芝居じみても仕方ないと思いながらも、有能なスポークスマンの役割を真剣に果たす周作であった。新潟一同は、周作の顔が、それでも真剣であったためか、そこは一応、真剣な顔をして首をいやいやと振って
「周作くんがどうかできることじゃあ、なかったでしょ」
次男殿などは、そこは周作を思いやって、優しい言葉をかけてくれる。
「しかし、健作、そしてうちの母親もどうしてここまでになるまでほっておいたのか。そこだけが、僕としてもどうしても許せないところでね。健作のことは、もう皆さん、どうしようもないこと、残念ながら分かって貰っていると思うのですが、とにかく、面倒と自分が思うことは全て放置、ほっておくです。それでも自分が困り出し、どうにもならないとなると、今回、母親に助けを求めたのでしょうが、40前の男のすることでは全くありません。」
弦作さんたちは、健作の件はかばいようもないことは、さすがに分かっているようで、苦笑との表情を浮かべている。
「それで、母親が板橋に通うようになっても、結局改善されないのに、健作は実効性のある次の策を講じることなく、唯一保育園に美菜ちゃんを入れる手続きだけはして、それであとは、単に育児を手伝うくらいで抜本的な問題解決をせずに、済んだものとしてしまう。実は僕は、保育園に美菜ちゃんを入れるようになった4月からは、今度は、それ自体が美紀さんにとって、不幸ながらも新たな不安やストレスとなってしまったのじゃないかなあ、なんて思っていまして」
ここで、周作は日本酒をちょっとだけ飲んだ。コンビニのワンカップの安い日本酒の味がした。
「保育園に入ってからの、美紀さんはどんな風だったんでしょうか」
周作は、広子からも聞いていない、その部分を知りたいと思った。
「そのあたりはですね、美紀の性格的なことが、これは間違いなくあるんですがね」
登紀子がしっかりとした口調で説明を始めた。
健作が、娘と離れて暮らすことを嫌がったり、新潟のその頃の冬場の気候のことを登紀子が病状に適さないと考えたり、そして精神科主治医による育児負担を減らす方針、などの条件を全て満たすために、何も具体的に動こうとしない、いや、動く能力、考える能力のない大臣長男、健作の代わりに登紀子と広子が板橋区役所を訪れるなどした結果、うつ病の診断書を板橋区に提出して、特例として美菜は4月1日より、板橋区立の保育園に入園することが認められた。待機児童をも飛び越しての異例の入園であった。
家事、育児のうちの育児負担だけでも免除させて、なんとか病状を回復させようという必死の策であった。しかし、児童センターに行っても、ママ仲間のグループのことで悩んでしまうような美紀にとっては、もしかしたら、それは会社に通勤するのと同じくらいに、ハードルの高いことであったかも知れぬ。周作はそんな風に回想してしまう。もちろん、保育園は働く母たちが子供を預ける場である。そんな濃厚な母親同士のやりとりなど、あるはずもないのだが。
それぞれの母親に、いろいろな世話を受けながら、美紀はとにかく、3月に入ってから入園後の美菜の送り迎えをきちんとしながら、自宅を守る専業主婦をできる程度に、病状を安定させるべく、治療、社会復帰を目指した。
「あちらのお母さんはね、時にはかなり強い口調でね、美紀ちゃんの生活の面とか、薬をきちんと飲むこととかを、ちゃんとさせるように言ってたわよね」
広子からはそんな風に聞いている。
登紀子は、4月から美菜を保育園に預けることで、美紀に通常の母親の役目を次第に慣れさせながら、いずれは自分たちのサポートなしに、3人で生活、自立して暮らしていくよう目論んでいたのだろう。自分の娘のことで、広子にサポートをさせているひけ目も、そこには当然あったはずで、とにかく、美紀に早く自立した生活を送らせるよう、焦っていた面もあったに違いない。
「4月1日の入園式に着ていく服とか、美紀はすごく気にしてましてね。娘が保育園に通うようになるという、娘の成長を祝うという意味での喜びもそれはあったと思いますが、他のお母さん達とのことをすごく心配して。自分もそんなお母さんの一人として、ちゃんと見えるようにしなければ、なんてあの子らしい思いもあったんでしょう。病状のこともあって、なかなか普段は出たがらない美紀が、珍しく電車で池袋まで行って色々、必要なものの準備をしたいなんて言ったもんですから、池袋の東武デパートまで二人で買いに行きましてね。それで、かなり迷った上で、春らしいお気に入りのブレザーを探し当てて、嬉しそうにはしてたんですけどね」
そのブレザーは、初日に健作の分譲マンションに行った際に、ハンガーでひっそりと壁に掛けられているのを、周作は見たことがあった。薄いピンクで、いかにも晴れやかな、子供の保育園の入園式に着て歩くのにはちょうど合うと思われるもので、なにがしという、ブランドの名前が入っていた。これを着て、美菜と手を繋いで桜の季節に、保育園の門をくぐったら、それは確かにとても晴れやかで、睦まじい情景であっただろう。
「これは、美紀が、美菜ちゃんとの入園式の時に気に入って着て行ったブレザーなんですよ」
登紀子が娘を急に亡くした中でも、気丈に、一同に生前直前の娘のことを知らせる役目をきちっと果たそうと、例の分譲マンションで説明してくれたのを周作は思い出した。持ち主をなくしたブレザーは、何とも言えない悲しい風情を、肩パットがしっかり入っていながら、しかし垂れ下がったそのスタイル全体で放出していたのである。
一方登紀子の思惑と裏腹に、美紀の病状は、美菜を保育園に入園させてからは、明らかに悪化していたようである。数回、美菜の送り迎えをしただけで、美紀はもうすでに疲れ切って
「保育園には、もうすでにママ友グループが存在してて、私はやっぱりどこにも入れなかったの」
そんな風に言って、保育園の送り迎えすらも負担に感じ、行きたくないような様子であったようだ。確かにそれは、うつ病の診断書を医師から出された、美紀のその時の精神状態からしたら、止むを得ないと、周作も回想できるのである。
おそらく、美紀以外の母親たちは、子供を保育園に送った時には、いかにも有能なオーエル然として、女性用のスーツをチャキっと身にまとい、そして笑顔で保育士たちと一言、二言、余裕の対応で言葉を交わしてあとは、かわいい息子、娘を預けると今度はぱちっとスイッチを入れ替えるように、これ見よがしに、もちろんそれはその時の美紀にだけ見えるような精神世界であったのであろうが、決してそんな嫌味ったらしいキャリアウーマンを誇張するような風ではなかったはずだが、急ぎ自分を必要とする、それぞれの属する昼間の社会のユニットに、意気揚々と向かう母親たちの、眩しすぎる姿を見た上で、自分のその現状を重ね合わせて、病状の影響もあって徹底的にさげすんで顧りみていたであろう美紀のことは容易に想像がつく。「私は仕事にも行ってないのに、それでも特別に保育園に子供を預けさせてもらっている。なのに今は、家事すらも満足にできない。それでいて娘は私には全然なついてくれないし。それなのに他のママたちは、家事も育児も、そしてもちろんバリバリと仕事もこなしているんだわ。一体私にはどんな価値があるの」健作すらも、会社に出勤したあとの、光り輝く分譲マンションの自室にて、登紀子や、広子に家事のサポートを受けながら、徹底的に負のスパイラルが、とぐろを巻く、ぐるぐる思考に頭を一杯にしていたであろう、美紀を想像すると、この結末は致し方なかったかもしれない、そんな風に諦めがつくほどの、絶望的美紀の心情が予想されてしまう周作である。
事件当日、4月19日月曜日からは、広子が担当する週であったようだから、その前の週、すなわち、自殺の事件の直前週は登紀子が1週間、板橋に詰めるシフトであったようである。次第に、保育園の送迎すらも、行きたくなくなる心情であった美紀に
「ゴールデンウィーク明けぐらいからは、もう、あなた、自立してやっていくのよ。昼間だけは美菜ちゃんをしっかりと保育園でお世話になれるんだから、昼間にしっかりと休養取りながら、ちょっとずつ、家事を元のようにできるようにリハビリしていくのよ」
母、娘、そこには自分も同じように育児の苦労を同様に通過してきたのだから、あなたにもできるのよ。同じようにやらなければダメよ。そんな心情で、美紀の病状にとっては禁忌であるそう言った言葉をどうしてもかけてしまうのだ。
それは、昔、隆司が、健作は医学部に進める程度に勉強が出来て当然、との思考の上、計算問題を目前で間違える健作にブチ切れて、平手打ちするのにも少し似た、肉親であることに起因する、一種の状況を選ばぬ厳しさ、そんなものがどうしても介在してしまったのであろう。
無論、うつ状態の人間に叱咤激励の類は厳禁であること、これは最近ではすっかり市民権を得ており、登紀子ももちろん知っていたはずであるけれども、そうは言っても、実の母、娘の間柄である。肺炎を起こして、高熱を出して寝込んでいる娘に対するのとはどうしても違う態度で接してしまうこと、これを誰が責められようか。
母親から、期限をゴールデンウィークまでよ、そう明確に定められてしまったかのように誤解した、美紀のその時の気分ははかり知れない。あと、1月も経たぬうちに、一切のサポートを受けられなくなりながらも、一児の母親として、専業主婦の役割を完全にきちんとこなさなければならないという、とんでもない重たい現実。薬がなかなか効かない心因性、もしくは最近よく言われている、出産後の女性特有の心身のバランスの不安定性にも起因するという、強いうつ状態である美紀には、それはもはや、死を意識せねばならない、通常の心理状態からは想像を超える、絶対的危機的状態であったに違いない。
健作の会社が休みである、土日については両母親のサポートはいらないであろうと、家事のサポートは月曜日から金曜日までのシフトであって、金曜日の夜に二人は、新幹線に乗って、新潟なり、愛知なりに帰っていたようだ。もっとも、健作の勤務する程度の会社であるから、毎週完全に土日休みではなかったようではあるが。
「私は美紀ちゃんが心配で、土日の分の食事もタッパーに分けてね、電子レンジに入れればいいようにね、しっかりやったりしてたのだけどね」
広子は、自分のサポートぶりを自慢げに言うのに対して、それには訳も分からず異常に例のごとく腹が立った周作は
「はあ、そもそも根本的解決から外れたところで、どうでもいいところでしっかりやったというその主張、今後二度と、俺の前ですんな。結果は一体、どうなった。それをあんたは、おい、分かっているのか、それとも分かってないのか」
周作は、遺伝レベルの精巧さで、隆司的フレーズでがなり立てるのである。
そして、慎ましい一家3人は、最後の3人一緒の土曜、日曜を迎える。
「美紀ちゃんはね、最期の土日はとても元気そうで、2日とも天気もよかったこともあってね、特に土曜日はね、あの子たちが独身の時によく一緒に行ってたという、豊島園に3人で初めていったらしいのよ。美紀ちゃんね、その日に限って朝からすごく行きたいって言ったらしく、美菜ちゃんも大喜びで、3人でいろんな乗り物乗ったりしてね。日曜日も天気がいいからって、電車で池袋まで3人で出てね、美紀ちゃんが、美菜ちゃんのおもちゃとか服をたくさん買いたがってね。普段は、美紀ちゃん、お金の心配ばかりしてなかなか買い物行っても、物を買ったりしなかったらしいから、ケンもすごく嬉しくて、二人で持ち切れ無いような買い物をして、電車で帰ってきたみたいでね。そして、これも美紀ちゃんの提案で、下赤塚駅近くのちょっと人気のある中華屋さんに寄って、3人で美味しく大皿の料理をとりあって食べたみたいよ。最近全然食欲なかった美紀ちゃん、その時はすごくたくさん食べて、白いご飯なんて、おかわりするくらいでね、ケンもこれで回復に向かうのでは、なんて思って帰ってきたみたいなんだけど」
こうして、健作は翌日の早朝に起こることを予想だにせず、疲れて日曜日は8時半には寝てしまったらしい。そして月曜日の早朝4時くらいに目が覚め、寝付けぬからとパソコンでゲームなぞ、始めたのであった。
そして、事件は発生してしまったのだ。
新潟一同は、とにかく陽気に色々な話をして、美紀との最後の夜を少しでも賑やかにしようとしているのが分かる。ミニチュアのマンハッタンは、かなりその整列感を乱しており、皆、顔を赤くしている。
「いやあ、しかし美紀の奴、一体どの時点で決心していたんだろうなあ」
弦作さんは、酔いを冷ますためか、ウーロン茶を紙コップについでそれを飲みながら、少し、しんみりとした口調で言った。そこで、登紀子がおもむろに会話に入った。
「それがね、実は私、美紀の遺品の整理をマンションの部屋でしてたんだけどね」
ここで登紀子は声のトーンを落として、一同を見渡すようにすると、顔をしかめながら秘密を打ち明けるようにして
「引き出しに、紙の写真が重ねて置いてあったんだけど・・・・。その紙の写真の全部に切り込みが入っていて。それのどれもが、なんと美紀の姿があったらしい箇所が切り落とされていたんです」
その場が一瞬凍った。
「そ、それ、本当なんですか」
周作がびっくりして聞き返した。登紀子は、こくっとうなづくと
「私も目を疑ったんですけどね。今時、写真も画面で見ること多いから、そんなに紙の写真ってないでしょ。でもそれほど多いわけではないけど、紙の写真があったんですけどね、多分ケンちゃんがプリントアウトしたんでしょうか、枚数にして10数枚位だったんですけど。その全てにそんなことがされていたんです」
「え、あの子、本当にそんなことを」
香織が、顔を曇らせて、小さくため息をついた。
「そういう気分の波っていうのは確かにあるみたいだからなあ。気分が落ち込んでるときに少しづつ、そんなことをしていたのかもしれないなあ」
弦作さんは手で実際に波を表しながら、ウンウンと頷いた。
「そして、あの日、どんと決意をしてやってしまったんだろうかなあ」
そこで香織が思い出したように
「そうそう、これは美紀の友達から聞いたんだけどさ。今時、私らなんかはみんなラインでグループ作ってるでしょ。美紀も細々ながら、地元の同級生なんかとは、いまだに少しは交流があるみたいで、ラインのグループを作ってたらしいんだけどね。あの子、最後に何も文章は書かないで、ニコって笑うラインのキャラクターをただポンと置いてね。それが、ただ最後に残ったままであの日の早朝を迎えているみたい」
「なんだ、そのラインとかグループだとかいうのは」
ここで弦作さんが、怪訝な顔をして聞き返すのを見ると、次男くんは慌てて、弦作さんを手で制して
「親父、その辺は親父ではかなり難しい、かなり最先端技術に関わることだから、説明してたら美紀ちゃん、退屈してしまうからよ、まあちょっと今日はやめとこうや」
機転を利かせて言うが、それでも美紀が残した、最後のそのキャラクターの意味ばかりは、はかり知れないものであり、首を傾げながら次男くんも考え込んでいる。
少しの間の静寂を破るように、弦作さんは
「ま、そんなことをどれだけ想像しても、美紀のやつは帰ってはこんわな」
弦作さんは、最後に全員をまとめるようにしていうと
「明日は大事な日だから、そろそろ片付けて休もうかね、みんな」
そんな風にして、美紀との最後のお別れの夜は更けていくのであった。
その日も周作は池袋のビジネスホテルに帰った。終電は終わっており、大通りまで出て流しのタクシーを拾った。夜の明治通りは空いていた。周作は車内ですぐに泥のように眠り込んだ。
11
翌日、やはり型通りの葬式は、11時ちょうどに住職がスクーターでやってきたことで始まった。昨夜の繰り返しである。どうして日本の葬儀は通夜と葬式の二部制なんであろうか。まとめて夕方くらいから始めると、合理的だと思うのだが。
しかし、出棺の時だけは、気分が引き締まった。黒い一団は、さすがに皆、沈痛な面持ちである。
「皆さま、たくさんのお花でお送りいたしましょう」
コーディネーターさまの、絶妙なナレーションで、開けられた棺に、それほどたくさんはない花を敷き詰めて行く。棺の中には、あの入園式のブレザーも入れられていた。周作は初めて美紀の顔を見てしまった。かなり、上手に直されていると聞いていたが、描かれた右眼は明らかに不自然であらぬ方向を向いていた。周作は急いで目をそらせた。
黒い、霊柩車に乗せられた美紀の遺体は、区内の火葬場に向かった。広子と健作、美菜は霊柩車に乗り、それ以外の者はそれぞれの車で車列を作り、それを追った。
火葬場はまさに戦場であった。入ってくる遺体、焼かれて出て行く骨。それにまつわって動く大小のグループ。それらを時間通りにきちんと動かすアナウンス。これはもはや、霊柩車を飛行機にした巨大空港である。せかせかしたアナウンスで
「○○家の皆さん、13番にてお集まりください」
そんな風で、東京という日本の首都で亡くなる人の人生の終末の、無味乾燥さには周作はやりきれない気持ちであった。
父親、隆司の時のそれは、地方都市の街はずれの山の中にある、趣のある火葬場で、しっとりとした雰囲気で執り行われ、ある種の風情のあるものであったのだが。
美紀の遺体を荼毘にふす間、それでもパテーションに区切られた畳のスペースで一同、焼かれ終わる美紀を待った。ところが、その待つだけで特に何もすることのない時間、珍しく、健作と美紀の母、登紀子が膝を付き合わせて、何やら真剣な顔で、大事そうなことを話しているのを見た。弦作さんも一緒である。何かの手続きのことであろう。健作は神妙な顔をして、ただ恐縮して、頭を何回も下げている。
周作は直感的に感じた。これは絶対に何か美紀が亡くなったことによる、経済的な何かであろうと。周作は、ここは重大な捜査対象であろうと、一人緊張が走った。今回、健作、広子からは、その恐るべき経済観念のなさを決定的に見せつけられた。月額20万円の収入に対して、住宅関連だけでも10万の固定費のかかるようなローンを組むこと、これを平然とやってのける二人に対して、それは過干渉、おせっかいとは到底いえないだろう。
一方で、さすがに弦作さんたちから直接聞くのは、憚れる。周作は、所詮健作の兄弟に過ぎず、美紀の両親についていえば、その立ち位置は決してそれほど近いとは言えない。経済的なことについて関わるには遠すぎる関係である。
しかし健作のそのスケールを超えた、社会通念感不足、とも言える感覚を放置することには直感的に危険を感じた。これは直接、自分に関わる、そうでないということを超えて、身内として放置するわけにはいかない、そういった、これを認めるのは抵抗があるのだが、それでも家族愛にわずかに類するもの、そう表現するのが一番近いのであろうか。
あまりにも非常識なことを健作がしでかすのを、事前に防げるのであれば、それはせねばならない。例の分譲マンションの購入を聞いた時の怒りだけは、どうしても忘れられるものではない。タイミングを見て、健作のところに近づくと、なるべく当たり前のことを聞くように、さらっと軽いタッチで
「さっき、あちらのお母さんとなんか話してたけど、これからのことか。例えば来年の法事のこととか、あ、あの家のことか。二人だけで住むには色々と無駄多すぎるもんな」
適当にさらっと経済的なことに近く、かといっても聞いても差し支えなさそうなことを、それでも絶対にきちんと答えろ、それこそ隆司の葬儀の時のスピーチ作成に際しての、完全に上位的立場に立ったあの俗に言う、ドS感を十分に出しながら健作に聞いた。
そもそも、今回は自分の家の事で、取り返しのつかないことを起こし、十分に身内に対して劣勢感を、相当感じていることもあるのであろう。正直に答える健作。
「あ、あのことか、じ、実は、今回、美紀ちゃんが死んだことで、なんだか保険金が入ることになっているらしい」
自分の妻のことを、美紀ちゃん、と弟に対して言うのも変なのだが、もちろん放置。
「ほ、保険金、なんだそれは。一体どういう保険で、一体誰に入るんだ」
「なんだか、美紀ちゃん、20歳の頃から、ずっとゆうちょの簡保にお金かけてたらしいんだけど」
「ほう、そうか」
きちんと質問に答え切らないことを、すぐに察知した上で、これはさっき、申し訳なさそうにひたすら登紀子に頭を下げていたことと、間違いなくなんらかの関係があるに違いない、そう周作は瞬時に関連づけて
「ほう、そうか。20歳からなんて意外ときちんとしてるな」
ここで一度言葉を区切って
「それで一体、その金、誰に入るんだ」
つとめて平静に聞いてやると
「う、うん。それがな・・・・オレらしいんだ」
やはりか、ともうすでに周作の描いた筋書き、いやもっといえば検察の作る検面調書のようによくできたストーリーに、恥ずかしながらも少々ワクワクしながら
「一体、いくら入るんだ」
「・・・・」
「なんだ、どうしたんだ。別に興味ないが、しかし、あんたも分譲マンションでかなり厳しいローン抱えるようなことやっちゃったんだろ。そのことで美紀ちゃんも随分心配かけたらしいじゃないか。一応聞いておこうと思っただけなんだが、嫌なら別にいいがな」
そういって、身をひるがえそうとするふりをすると
「それがな、じ、実は、その、いっ、一千万らしい」
周作は思ったのと比べて、あまりにもその額の多いことに衝撃を受けて、立ち止まった。その時、周作の頭の中で論理図式が簡潔明瞭に浮かんだ。
育児ノイローゼ+経済的危機 → つらい→ 死にたい→簡保→私が死ねば保険金
相当単純化すると、この図式である。周作からすると客観的には容易に推測できるこの図式は、その真偽に関わらず、この状況ではほぼ100人いたら99人とまでは言わぬが、95人はやはり書いてしまう筋書きに違いない。これ以上、健作から何を言わせても、捜査には影響しない、もう十分だと周作は判断し、尻切れトンボに捜査を終了して健作から離れた。
事前に、写真を加工したり、ラインにその気持ちはよく分からぬがスタンプを残したり、最後の土日に、最高の最後のレクレーションを、まだこの世に残る二人にプレゼントしたり、ここまでできた調書に、簡保の保険金の件について、因果関係を否定したらあまりにも不自然だろう。
周作は、綺麗に結びついた、原因と結果、動機と犯行(もちろん自死は、現行の刑法では犯罪ではない)問題と解決、に頭をクラクラさせながら、その畳のスペースの小さなパーテーションにはとても留まる気にもなれずに、フラフラと廊下に出た。大した尿意も感じてはいなかったが、トイレのサインが目に止まったので、とにかくそれに向かって放心状態で歩いてしまった。それは整理できていない頭を整理するために、同僚とニューヨークのセントラルパークを散歩をしたという、超有名世界企業のカリスマ創設者の行動とは全く反対に、整理出来すぎてしまった自分の頭を、なんとか紛らさせたいという、あまりにも非生産的な気持ちの発露であった。
ほとんど出てこない自分の尿とは無関係に、混んだ男性便所で不自然にならぬようにその格好を作りながら、周作は絶望的な気持ちでその姿勢を維持するだけであった。
それでも調書は清書せねばならない。美紀は、自分も働きに出て、そつなく給料を稼いで、現代の都会では一般的である育児をしながらも、共稼ぎの経済を営む家庭、それをつくれない自分の能力を徹底的に責めながらも、かつ、経済観念を全く持たないまま、家計の危機については全部自分に放り投げてなんら屁とも思わず、それでも表面上の娘の育児を堪能、いや、それは育児というよりかは、同レベルで戯れることのできる、可愛いい自分の血を引いた幼な子を得てのご満悦に過ぎず、そしてそれに対しての母親としての嫉妬、もしくはそんな夫に対しての深い絶望、ただ減っていく貯金残高、それに自分自身の、全て何でもパシミスチックに捉える性質も総合考慮の上で、解決策として最終的な自分の身の振り方を決定したのであろう。その完璧な周作の脳内調書を完成させた上で、畳のパーテーションに戻った。
自分の借金を返すことができずに、保険金を当てにして、死をもってそれの返済に充てる経営者がいるのはよく聞く。この場合も、それと全く同じ構図ではないか。しかし、かけがえのない自分の命を、あえていうが高々一千万で売り飛ばすのか。
広子は例のごとく、しょぼくれた目の何も考えていない人形、健作もほぼ同様だが少々目が充血させている同種の置物、おそらく身内においてはただ自分だけが、この因果関係を明確にした完成調書を持っているのだという責任感、自負心、そんなもので周作は訳の分からない大混乱した心境であった。周作は新潟一同が、一体どんな気持ちでいるのだろうと考えると、正直怖かった。
「井上家の皆さん、11番、11番にお集まりください」
そんなアナウンスが流れ、一同、火葬された美紀のいる場所へと集まるのである。
たったわずか90分という時間で、美紀の魂と肉体は、その生前の深い苦悩、絶望、諦め、そういったものともども焼き尽くされ、熱をもった骨の集合体へと変わっていた。気丈な、登紀子が涙ぐんで、目元を押さえるのが見えた。先立たれた娘、しかもそれを自らの意思で選択した娘の、この変わり果てた姿。いかに辛かろうことか。例のごとく、みんなの手で、美紀の熱をもった骨は骨壷に収められていく。
しかし、東京の火葬事情は、余韻を感じることを許してはくれない。早々に集められた後、美紀は、立方体の箱にすっぽりと収まり、喪主である健作がそれを抱えると、美紀の死に対しての、全ての儀式は終了した。一同は、広大な駐車場の、車のある方向に無言で、しかし一定の塊をなして移動していった。前を歩く広子に、歩みを早めて周作は近づき
「あんたら、明日から一体どうするつもりだ。健作と美菜ちゃん二人にしておくわけにもいかんだろう。健作もしばらくは忌引きがあるだろうが、会社始まったらどうするんだ」
そう、極めて現実的な、かといってどうしても考えねばならない事実を問い詰めると
「私が残るわ。あの子だけにするわけにはいかないでしょ」
そう広子は力を込めていうものの、それは周作からしたら到底頼もしいと思えるものではない。かといって美紀が死んでしまった以上、新潟の両親もこれまでのようには立場上関わることはできない。そうはいっても周作にできることも、やはり一旦ないだろう。
健作は、弦作さんと四十九日のことで、何か話していたが、それが終わると、新潟一同は荷物を車にまとめて、新潟に帰る用意を始めた。皆、一様に疲れていた。疲れ切っていた。これから、何時間もかけて、関越道を走って新潟まで帰らねばならない一同を思うと、周作は気の毒でならなかった。とにかく、最後に周作は自分の役割として、新潟からの全員、一人一人に頭を下げて回ろうと思った。弦作さん夫婦、香織夫婦、長男くん、次男くん。みんなを回りながら
「このたびは本当に美紀さんには、辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい」
これだけは、健作、広子に代わってどうしても言葉で伝えておきたかった。
周作の顔が真剣であったこともあるのだろう。皆、いやいや、と首をふってくれる。次男くんなどは、こんな時は優しく
「シューちゃんも辛いよね。同じ次男なのにさ。もう十分だよ」
そういって、周作の肩をぽんぽんと叩いてくれた。何か、それで周作なりの全ての肩の荷が降りたような気がした。新潟の一同の車を、全て見送った周作は、ずっしりと疲労感でいっぱいであった。今後の四十九日など、ごく事務的な話を健作、広子と手短に済ませると、健作の、下赤塚まで送るというのを固辞して、タクシーで駅まで向かった。
東武東上線で池袋に出て、そこから山の手線に乗り換える。東京は、どこに行っても人だらけであり、今日すれ違った人とは、互いにもう二度とすれ違うことなどないのであろう。それでも、皆、自分の領分を一生懸命に生きている。その中で関係性持って、繋がりながら生きていく人数の一生分でも、今、この溢れかえった人の数の一体、何千、何万分の一なのだろうか。
早朝に降り立ったバスから、池袋駅の構内を彷徨い歩いたのが、遠い昔の出来事のように思われる。夕方のラッシュ前の山の手線は、座れる程度に空いていた。周作は倒れこむようにその一つに座ると、ただぼんやりと反対側の窓から車窓を眺めた。次々といろんなビルディングが現れては消えていく。
やはり、東京駅はごく普通の平日の夕方のラッシュタイムであった。美紀の死のことなど、誰も知るよしもなく、皆、自身の何らかの目的のために、今この一瞬、そこにおいて最も合理的に生きようとしているのであろう。
一方、確かに人は必ず死ぬのである。新幹線に乗り込むと、車掌のアナウンスは、停車駅の到着時間を読み上げていた。
「名古屋、名古屋は○時▲分・・・・」
そんな時、なぜか一瞬、富士屋の蕎麦の調理人のおじさんの笑顔がそのタイミングでふと頭をよぎった。その時、おじさんと別れた後に、説明のついたかのような自分のあの時の気持ちを改めて思い出した。がそれもただほんの一瞬のことであった。考えてもしょうがないのか・・・・。
東京駅発ののぞみがモーター音を次第に高めながら、ビルの間をすり抜けるように加速を始めた頃、周作は泥の様に深い、深い眠りに入るのであった。