上から白鹿
美食家王子が去った後、わたしもお会計を済ませ最終ミッションである神社へ向かった。
海を見下げながら石畳の階段を登っていると、視界に広がるのはナンキンハゼの木が茂り、苔玉が生え、椿が咲く様は絶景だ。――――だが、先ほどからガサゴソと草木のざわめく音と共に木々の合間からのぞく視線の数々に、おもわずごくりとつばを飲み込んだ。夜は妖と関わりを持つにはご法度の時間で、妖が視えるわたしなどが来て良い場所ではない。それは幼い頃からの経験則で十分理解はしているにも関わらず、夜に神社に来てしまった。後悔する気持ちを押し殺し、境内の階段を登りだしたわたしに話しかけてくる声が聞こえてくる。
(まぁ‥‥いつも通りっちゃいつも通りだけど)
「ねぇねぇ。オネエサンお菓子アゲルヨ」
「ぼくたちのこと視えるんでしょ?」
「こっち向いてよオネエサン!」
足元でじゃれながらナンパしてくる子狐たちの口調は明らかに人間から学んだソレで、そのかわいらしさに思わず返事をしたくなる衝動をぐっとこらえていると、彼らはつまらなそうに去っていったが、溶ける様な闇の先には無数の目がわたしを睨んでいるのを横目に見ながら、階段を登り切ったわたしの視線の先に現れた社、柊天神社が今日の執着地点だ。
荘厳な雰囲気は夜の闇に在ってもその佇まいは赫然と輝いているように見えた。
「おや、いらっしゃい」
一礼し終わり顔を上げたわたしに注がれたのは柔らかで静謐な声だった。聞き慣れた声の主に向き直ったわたしが笑顔で返すと、応えるように笑みを浮かべる。
「こんばんは。桔梗さん」
「こんばんは、三弦ちゃん。夜に来るなんて珍しいね?」
藍色帯びた目が柔らかく弧を描き見守るようにわたしを見つめた。桔梗さんはおじいさんの代からこの神社に仕えている神主さんで、男前な風貌から彼目当てに来る参拝客もいるほどの人気者だ。独り暮らしをするようになってから神社マニアが嵩じてよく訪れるようになり、顔見知りになるにつれてこうしてお互いの名前を呼び合う仲になった。
「宵参拝させてもらっていいでしょうか?」
「構いませんよ。どうぞどうぞ~」
促されるまま境内に入った途端、気配もなく現れた指がわたしの肩を叩き驚いたわたしの肩が跳ねる。
「‥‥?!か‥‥鹿乃前様かぁ‥‥」
「妖視、夜分の社に行くなとあれほど言い聞かせたであろう。何故来た?」
真後ろからゆるりと現れ耳元で戒める。真っ白な着物に鹿の子柄の帯の姿にたなびく金髪と晒された雪のように白い肌は絵のように美しくて、いつものことながら思わず見とれてしまう風貌だ。
独特な赤い斑点のある頬と彫刻のような横顔から機嫌を窺うと、いつもより濃く漂う威厳に思わず肩が竦んだ。
「‥‥酒臭い。こんな時間まで女が飲み歩くなど、百年前の下女でも憚られるぞ」
「今日はいいんです~よだ」
「酔っているのか?それとも、わたしをおちょくっているのか?」
「鹿乃前様をおちょくるなんてと~んでもない」
お道化たわたしを傍視しつつ綺麗な顔を顰める。彼の名前は鹿乃前様と言ってこの神社に住む鹿の妖?だが、駄々洩れるオーラはそうだと言っていない。高貴な佇まいから察するに神様なのだとわたしの勘が言っているが、彼に確認したことはない。
鹿乃前様に初めて出会ったのはこの神社に初めて参拝に訪れた日、わたしは社務所の裏に在る茶屋でお茶をしていた。お目当てはこの神社の名物である白玉小豆と飲み物は抹茶。至福の組み合わせに舌鼓を打ちつつ和やかな時間を過ごすわたしの肩にすりすりと寄せられた、鼻。背後を見ると、そこには白鹿がいた。光る毛並みにつぶらな瞳。可愛らしい風貌につい出来心から頭をなでると・・・・・。
「気安く触るでない」
怒気の含んだ声なのに周囲にいる人たちは気が付く素振りはない。そこで理解した。この白鹿は妖なのだと。
「わたしが視えるのか?」
「‥‥は‥‥はい一応」
「お主の名は?」
「‥‥桜月三弦と言います」
「わたしは鹿を統べる妖の長 鹿乃前と言う。良きに謀らえ」
「は‥‥はぁ」
そんな出会いから一年。彼が人間の姿で現れたときはびっくりしたけれど、難なく人間に溶け込んでいるのはその風貌の美しさにある。
「‥‥今日もイケメンですね」
「知ってる」
「‥‥左様ですか‥‥」
その返しが然程の嫌味にも聞こえないのは彼が本当にイケメンだからだ。女子供にも優しく同性にも好かれる人当たりの良さも相まってこの辺りでは有名人となりつつある。
「今日は人間の姿なんですね」
「雪霧の社を見るには人間の方が都合が良い」
「そんなにイケメンだと人間の女性が寄ってきて大変じゃないですか?」
「彼氏に内緒でとか、旦那には秘密で、とか言う女人には評判がいい」
「それってどうなんですかね‥‥」
「人間は生涯の番を愛さない生き物なのか?」
「んー‥‥人に寄るっていうか‥‥鹿は番だけなんですか?」
「‥‥時と場合による」
「‥‥へー‥‥」
こんなやり取りができるほど仲良くなるまで時間はかかったが、人間のわたしを邪険にすることなく、鹿乃前様はこの神社の事をいろいろ教えてくれた。祀られるものの話、参拝しに来る人たちの話、そして、この神社の周囲にいる妖の話もしてくれる。
「さっき子狐の妖に話しかけられました」
「そうか」
「鹿乃前様の一族は人間の姿にはなれないんですか?」
「あぁ。ただの妖には具式はできぬ」
「具式?」
「人間の姿になることだ」
「へぇー」
「おまえは心が強くはないのだから、心を寄せるのは辞めろ。身を亡ぼす」
子供を叱るようにわたしを戒めた後、近づいてきた桔梗さんの笑顔に鹿乃前様の顔が繕ったように笑みを浮かべた。
「今夜は冷えるな。神主殿」
「こんばんは、若旦那さん。こんなに冷える日は熱燗でぐいっとやりたくなりますね」
「おぉ。
このように普通に話している桔梗さんは彼を妖と気がつくこともなく、近くの料亭の若旦那という設定を鵜吞みにしている。鹿乃前様はうまいこと化けている、否、隠しているのだ。
「さて‥‥ところで、お前はどこの馬の骨にその印付けをされた?」
怪訝な顔でわたしの服を隈なく見やる。一周した視線が一点にたどり着くと長い指をわたしの服に這わせ、コートのポケットに手を入れた。 取り出したのは、さっき貰ったお守りだ。
「っ‥‥それは・・・・」
取らないで。と声なき抵抗したわたしに、睨みを利かしつつ制された大きな手の中にすっぽりと収まるお守りを、今にも燃やしてしまいそうな勢いを孕んだ険しい視線で見つめている。その鋭い眼差しに燃やされてしまわないかという不安がわたしの胸に募っていた。
「護符など授けられよって‥‥。ご丁寧に隠匿術まで施し暴けぬようにしてある」
「誕生日プレゼントにもらったんです」
「見知らぬ者から護袋など受け取るな。おまえは妖が見えるのだから、要らぬ縁を繋ぐでない」
もっともな言い分にぐうの音も出ない。でも、さっきの夢の時間が醒めてほしくなくて、お守りを返してほしいと目で訴えていると、観念したように肩をすくませた鹿乃前様がわたしの手にお守りを握らせた。
「悪食するようなモノは入っていない。だが、安易に赦すな。嵐が来る。だが、じきに止む」
そう言葉を零した桔梗さんが後ろを振り向いた瞬間。鹿乃前様はいなくなっていた。