妖夢ときみ
「あなたはいつも独りで決めてしまいますね」
生温い風が頬を撫でる。草の匂いと雨上がりの砂香で目が覚めた。しかし、それが現実でないことを自覚できるまでは早くて、目の前に広がる日本家屋の屋根下に佇んでいる二つの人影によって理解できた。
視界を動かそうとしても左右にしかこと振るができない。定点カメラのように周囲を見渡すと、掛け軸がかかった床の間と畳、明け透けになった扉伝いに見える長廊が見える。自分の実家ではない場所、そして時代に、夢だと覚ると逆に冷静になれた。
目の前に佇む武骨な身体と華奢な身体の間には、徳利、お猪口、ツマミ皿が置かれている。絵のように美しい月を目の前に月見酒だろうか。ぼんやりと考えつつ、彼らの話を聞いていた。
「わたしでは不足ですか?」
長廊の縁側に座る二つの影が揺れた。武骨な影が徳利を持ちながら、質した彼のお猪口へ酒を注ぎ入れる。名前も知らないその横顔の頬には、ほくろのような点があった。
「(霊紋だ。ということは、この人は陰陽師?)」
浅黄色の着物と凛々しい貌からは静謐さを感じさせる。その隣にいるのは、薄暗い室内でも容易にわかるほどの美青年で、前に見た夢の中で、山査子を摘んでいた人に妖狐がでると咎めた人に似ている。玄幽な絵のような光景を見つめながら、どこからともなく漂ってきた甘い香りに鼻をひくつかせた。
「(乳香の香り‥‥この人も陰陽師なのかな)」
美青年がお猪口を煽る。 彼にしては粗暴な素振だと言わんばかりに目を瞬かせ、下を俯き思案する彼の隣に静かにたたずみ、端正な顔の男性は見事に上がった月を眺めた。
「陰陽寮きっての麗美の貴冑と言われるきみを、老軀の隠居ごときで呼び出すのは忍びなくてね」
横顔からでもわかる程の嫌悪を向けながら、白い着物の美青年が睨む。
「あなたが別の宮の陰陽頭になるのならば、わたしは陰陽寮の高位を辞す」
きっぱりと言い切る美青年に対して、溜め息交じりに息を吐く。
「きみは妃の御心所だ。簡単にその言葉を口にしてはいけないよ」
「あなたという光がなければ、わたしはただの影に過ぎない。今のわたしに与えられた役目のすべては、あなたがいたから築かれた」
身を乗り出して説得していた。浅黄色の彼に戒めるような目で見据えられると、美青年は俯きがちにぼそぼそと話しながら訴える。
「‥‥わたしは寒門の出で、たとえ陰陽師になろうとも、宮廷で野垂れ死にとなっても文句は言えない身分だ。そんなわたしを拾上げ、修祓の道に導き、後ろ盾となって格を与えてくださった。その香茂家から賜りし恩沢すら、報いぬと申されるのか?」
悔し気に見つめる彼の瞳を見守るように見つめ返す。美少年の瞳の奥にあるもの。それは、子供のように追い縋る甘えに見えた。諭さずともわかってもらいたい。そんな声が聞こえそうな悲痛な面持ちで、浅黄色の彼は応える。
「陰陽寮はいずれ瓦解する。わたしは、春日野を連れて宮廷を出ようと思う」
美少年の目が驚きで見開かれた。
「‥‥帝の許可は?」
「帝とわたしは、妖を視る者をすべからず引き取るという起請文の誓詞を交わしている。彼女は妖視持ちだから問題はないが、アレは女人だ。これ以上、陰陽寮には置いてはおけない」
沈黙が流れる。肯定と受け取れと言わんばかりに続く静寂を切ったのは、美青年の大きなため息の音だ。
「‥‥あれは帝の夜伽も務めているという噂です。そう簡単に手放すとは思えませんが?」
「彼女は聡く、陽力も強い。帝の夜伽で生を終えるには惜しい人材だ」
「わたしが陰陽寮の大家で居る限り彼女が揶揄されることを看過するつもりはないし、香茂家の名に傷をつける輩はすべて祓う所存です。それでは不足なのですか?なぜ、わたしも連れて行ってはいただけないのですか?」
縋るような美少年の言葉に、浅黄色の彼の瞳が揺れた。ちらちらと感じる炎のような揺れは、鎮火するように静かに熱を冷ましていく。
「叡智とは、発展し、飛躍させ、初めてその意が成される。陰陽寮の筆頭大家であるきみがその旗振りをするんだ。‥・・・いいかい?わたしではない。きみなんだよ」
彼の言葉に美少年が鼻を鳴らして拗ねるようにそっぽを向いた。まだ怒っているのかと、溜め息すら聞こえそうな顔で、浅黄色の彼が霞み笑う彼の顔を象る様に月が輝き、ススキが揺らめく音と、時折訪れる鈴虫の声が、二人の沈黙を取り持つように埋める音を聞きながら、微かに聞こえる誰かの声に気が付く。
「・・・・・・げん・・・・さん・・・・げん? 」
閉じた瞼を貫く様な光の眩しさと、聞き覚えのある優しい声音を感じながらおずずと目を開くと、ぼんやりと浮かび上がってくる。栗色の髪が光に透けてキラキラしていた。こげ茶色の大きな瞳がぱちぱちと瞬きながらこちらを見ている。
「あ‥‥葵さん?」
「おはよう。よく眠っていたみたいだね」
白いワイシャツに白いパンツという出で立ちはさながら少女漫画に出てくる王子様のようだ。優しい笑みをわたしに注いだ後、額に手を当てた。
「熱は下がったみたいだね」
「ね‥‥熱?」
「38度5分もあったんだよ」
そう言われて思いだす。
「(そうだ。血の契約書とやらを書いた後、急に襲った眠気に耐え切れず気を失ったんだ)」
だけどそれは自分の実家での話。いまのわたしはというと、つるつるとした生地のパジャマを着せられ、おろしていた髪の毛がなぜか綺麗に結われていた。
慣れてきた目に映るのは、白いカーテンのようなもので覆われた天蓋ベッド、開け放たれた大きな窓から見えるテラスの向こうに見えるのは、夜の闇の中でほのかに光を放つ苔玉だ。石畳の隙間に生え、蛍のような光がちらちらと舞っている。
その光景は、まるでなにかのラボに紛れ込んだような幻想的な美しさを感じさせ、見たこともない場所への驚きと興味で周囲をくるくると見渡す。そんなわたしを見た葵さんが、くすくすと笑った。
「ここは、香茂の邸だよ」
「‥‥かもの‥‥やしき‥‥?」
葵さんの背中を目で追いながら体を起こす。テラスに出ると、東京の夜景が一面に広がっていた。
「ここって、都会のど真ん中‥‥ですか?」
「うん。そうだよ。ここからだと銀座が一番近いかな」
「ぎ‥‥ギンザ‥‥」
そよぐ風に身を任せた様に目を瞑っている。それすら絵になるイケメン師匠を見ながら、眼下で聳えるよう立っている切妻造りの木製の門と、剪定された見事な松や桜の木の間を流れる庭池を眺める。
「(大富豪か‥‥もしくわ財閥なのか‥‥どっちにしてもお金持ちには変わらない)」
雇い主、もとい、師匠の身元が確かなことがわかりほっとする。古風な邸建て構えがどこか懐かしく、周囲を漂う木の香りが心地よくて思わず深呼吸すると、同時に背後の扉が開く音がした。
「おはようございます」
上品な声で挨拶する。艶やかな黒髪を結い上げ、きりっとした瞳の顔立ちは日本人形のように美しい。よもぎ色の着物に紅色の帯を着た佇まいも相まって、着物美人そのものだった。
「彼女は梅さん。この家を取り仕切ってもらっている」
「梅と申します」
深々と頭を下げる彼女にわたしも頭を下げた。
「彼女は母の式神なんだ」
「‥‥式神ってことは‥‥お母さまも陰陽師とか‥‥?」
「うん。本業は全員社長業をしているが、香茂家は全員陰陽師を正業としている」
本業は全員社長と言うパワーワードに打ちのめされながら、梅さんから手渡された書類に目を走らせ、文机から筆を執った葵さんは、何かを書きこみながら話しかけた。
「神樂と霜雅は戻ったのか?」
「先ほど戻られました」
「変わりはない?」
「はい。今回は」
「夕餉は食べたのか?」
「先ほど食され、広間にいらっしゃいます」
阿吽の呼吸のような二人の会話を眺める。葵さんは話しながらも、数十枚はある書類に書き込みし続けていた。
「蛍ヒの締めは?」
「雀音さまが済ませております。」
「そうか。二人に伝えてくれ。彼女が陰陽宮から預かった桜月三弦さん。今日からここで暮らすことになった」
チラリとわたしを見る葵さんの視線を辿る様に、梅さんがわたしを見据えた。
「宮の使者から聞き及んでおります。陽の高いうちにお部屋の準備は済ませております」
「……え?あの‥‥え?」
「何か問題がある?」
わたしは、書類から目を離さないまま言う葵さんに詰め寄った。
「暮らす‥‥って?」
「今日からきみはこの邸に住んでもらう」
「エ‥‥あの、家、あるんですけど」
「そちらはぼくが解約した」
「‥・・・は?」