意思表明Ⅳ
「ふぅ⋯⋯」と吐息を吐き、フルートをテーブルへと戻した。呪いが解かれた訳ではない。それでも、良い方向へと進んでいる気がする。ほんわりと胸が温かくなり、思わず笑みが溢れた。
それからはのんびりと過ごした。日記を書いて今の気持ちをぶつけたり、部屋にあったオルゴールを流したり。そんなことをしていたからか、段々と眠くなってしまった。
「昼寝、しちゃおうかなぁ」
“明日からは魔法の特訓でしょ? 休める時に休んどいた方が良いよ”
「うん」
カノンの後押しを受け、ベッドへと向かう。その時、背後から視線を感じたのだ。
振り返ってみても、誰もいない。ただの勘違いだろうか。それにしても、ゾッとするような気配だった。
もしかして、これが皆が揃って言っていた『異変』なのだろうか。時間は思う程無いのかもしれない。眠気なんて吹き飛んでしまった。誰かと一緒にいたい。でも、一体誰と――。
クラウとフレアは、今はそっとしておいた方が良いだろう。となると、アレクしかいない。手に嫌な汗をかきながら、ドアノブを回す。向かった先は、やはりアレクの部屋だ。ノックをし、様子を伺う。
数秒も経たずにドアは開かれた。
「オマエか。どーした?」
「私、怖くて……」
「何があった?」
「嫌な視線を感じたの。きっと、影……」
「入れ」
返事をする間もなく背中を押され、部屋へ招き入れられた。アレクは急いでドアを閉めると、部屋の中を見回す。
「大丈夫だ。今はまだ、アイツは襲って来ねぇ。ただの挑発だろ」
そうであって欲しい。何度か頷くと、胸の前で両手を握り締めた。
「でも、どうして今は襲って来ないって?」
「襲うなら、オマエが覚醒する前の方が手っ取り早いからな。あの時に襲って来ねぇんなら、まだ猶予はある」
あくまでも予想の範疇だろう。確定は出来ない。しゃがみ込み、震える身体を抱いた。
「なんか温かいもの持ってきてやるから、そこの椅子に座ってろ」
「うん……」
正直言って、アレクには部屋から出ていって欲しくはない。しかし、引き留める口実が思い浮かばず、もたもたしている間にアレクは部屋から出ていってしまった。
お願いだから、早く戻ってきて。その場から動く事が出来ず、瞼をぎゅっと瞑る。
恐らく、アレクは二、三分で戻ってきたのだろう。私の体感では十分以上あったように思われる。
「大丈夫か?」
ふるふると首を横に振ると、アレクはそっと肩を抱いてくれた。そのままの状態で椅子へと向かう。
「殺されるかもしれねぇって時に、落ち着いてらんねぇよな。とりあえず、これでも飲んでくれ」
ティーカップからは湯気が立ち上っている。この香りはラベンダーだろうか。液体の色は紅茶と変わらない。
アレクが用意してくれたものだから、大丈夫だ。震える手でカップを持つと、ゆっくりと口に運んだ。ちょっぴり苦い。
カップの横に置いてあった角砂糖をひと粒入れ、スプーンで掻き混ぜる。砂糖はほろほろと解れ、消えていった。
「ヤツの目的は、オレらの恐怖と混乱、だろーな。このままじゃ、ヤツに呑まれるぞ」
「そんなこと、言われても……」
「呑まれたら最後だ。オレらは終わる」
だから、気をしっかり持て、と言いたいのだろう。私だって、この恐怖心が消え去るならどんなに良いだろう。足手まといにはなりたくない。
「世界とかでっかい話されてもピンと来ねーだろ? 影を倒したところで、オレらは普通に外には出れねーし、オマエだって元の世界には戻れねーかもしれねぇ。でもな、大事なヤツと一緒に、のんびり過ごせるんだ。幸せじゃねーか」
今まで、呪いにばかり囚われていて、影を倒した先の未来なんて考えたことがなかった。のんびり、変わらず平穏に――寄り添う私とクラウの姿を想像し、顔が熱くなる。
それを見たのか、アレクはハハハと笑った。
「世界のためとかじゃねぇ。オレらは、自分自身の未来を守るために戦うんだ」
「私たちの未来……」
「そーだ」
アレクは腕を組み、うんうんと頷く。
「だから、そんなに気負う必要はねぇんだ。『生きたい』を実現すれば、オレらの勝ちだからな」
なんだか、少しだけ肩の荷が降りた気がする。呪いが解けた訳ではないのに、勝った気になってしまった。
「顔色も元に戻ったな」
「ありがとう」
「なんてことねぇよ」
アレクは時計を見遣ると、「あっ」と声を上げた。
「五時半か。そろそろ夕食の準備しなきゃな」
「私も手伝う?」
と言うか、手伝わせて欲しい。一人になる時間を極力減らしたいのだ。
「オマエなんか作れんのか?」
「う〜ん、レシピ見ながらなら作れるんだけど……ないなら、パスタ茹でたり、果物の皮剥いたりくらい、なら」
「頼りねぇな」
「む〜」
膨れると、アレクは面白そうに笑う。
「冗談だ。ついてこい」
「うん」
アレクの後を追い、キッチンへと向かう。私が想像するレストランの厨房のように立派なキッチンだ。
今日のメニューはリゾットと温野菜らしく、私は野菜と林檎の皮剥きしか出来なかった。それなのに、アレクは私を邪魔にする訳でもなく、傍に置いてくれた。
夕食の時にクラウと話せるかもしれない。そんな思いはことごとく崩れ去った。クラウは今日も一人で食事を摂りたいらしく、姿を現さなかったのだ。
大して賑やかになる訳でもなく、淡々と食事は終わった。アレクとフレアが恋人同士だと分かった今、二人きりになれる時間を邪魔したくはない。と言うよりも、三人でいるのは気まずい、と言った方が正しいだろうか。
「私、部屋に戻るね」
「大丈夫か?」
「うん。二人のお陰で、だいぶ気が紛れたから。おやすみなさい」
「おやすみ」
食器を下げ、会議室を後にする。何もないことを祈ろう。
部屋へ戻ると、指を鳴らす。それを合図にして部屋の明かりが灯った。これも魔法の一つだ。
昼寝も出来なかったことだし、今日は早めに寝てしまおう。ナイトドレスに着替えてから、ベッドへと潜り込む。すると、疲れがどっと押し寄せてきた。瞼が重くなる前に、さっと明かりを消した。
ふと瞼を開ける。まだ部屋は闇の中だ。何故、目が覚めてしまったのだろう。それにしても、喉が渇いた。
明かりはつけよう。次に洗面所へ向かうべくベッドから起き、スリッパを探す。
のそのそと部屋の中央まで行くと、欠伸をひとつした。
テーブルの上のグラスを掴み、何とか足を動かす。その時だ。
目の前に、あの赤黒い目が二つ。顔は黒いし、こんなものは影しか――。
完全に油断していた。こんな夜中に襲われるなんて思わなかった。
ショックで気絶するように、その場に倒れ込んだ。
この出来事は夢か現実か、判断はつかない。




